15


「……はい」
 開いた携帯を耳にあて、俺は目を閉じる。後ろにいる水木を意識しようとしたが、そんな芸当は俺には無理だった。
『大和…?』
「ああ、うん…」
 通話口から流れてきた母の声に、昨日の出来事が頭の中でもたげる。水木との遣り取りで忘れようとしたが、そうして逃げるだけではやはり何も変わりはしないようだ。
「…何?」
 零れた声は低く、重い。
「何か用?」
 素っ気ないなと自分で思いながらも、冷たいよりはマシだろうとも思う。両親に対する反省は多少あれど、こうして繋がればやはり憤りを押さえ切れはしない。昨夜の攻防は、過去にするにはまだ新しく、けれども今また食すには、早くも傷み腐ってしまった古くもあるものだ。口には出来ない、したくはない。
 そんな俺の内情を知ってか知らずか、母は飽きもせずに昨晩と同じ言葉を紡いだ。病院を継ぐのは、俺でなければならないのだと。一体、あれから何をどんな風に、この人は考えたのだろうか。同じ事を言うのは、息子の話を全く聞いていなかったから――だとは思いたくはないが、これではそう思えてしまう。
 父親を投げてまで部屋を飛び出す息子の背中を、この人はどんな風に見ていたのだろう。
「…母さん、もう止めてくれよ」
 腹立たしさよりも鬱陶しい程の虚しさに、俺は泣き言を口にするような声を出した。本気で嫌だとしか、感じない。通話口から溢れる声も、その雰囲気も。全てが腐っているようだ。
 このまま聞き続ければその毒が自分の身体にもまわるのではないかと、己が侵され腐り溶ける妄想に慄き、それを払うように勢いづいて繰り返した言葉は必要以上に強いものだった。
「止めろッ!」
『大和!』
 いつもならば大きな声を出せば言葉を詰まらせる母は、けれども俺に感化されたのか、最初から気が高ぶっていたのか、俺に負けないくらいの鋭い声で応える。これでは、正しく俺は「怒られている」だ。意見の交換では、話し合いでは、ない。
『止めるのは貴方よ、大和ッ!いい加減、お父さんの言う事を聞きなさい』
「母さん」
『まさか、本当にこのまま、教師なんかになるつもりじゃないでしょうね!?』
「母さんッ!」
 なんか、とは何だ。偏った評価を下していずに俺の話をちゃんと聞けよと声を上げかけ、ハッと自分が何処にいるのか思いだし俺は後ろを振り返ったが、キッチンに水木の姿はなかった。いつの間にか、出て行ったらしい。
 気を使われたのかどうなのか。それはわかりはしないが、何はともあれ、有り難い。親との喧嘩など、他人には見られたくはないものだ。だが…。
「……」
 クソッと、俺は胸の中で悪態をひとつ落とす。確かに、居ないのにこした事はないが、出て行った事実が妙に腹立たしい。水木とて、他人の親子喧嘩など、耳にしたくはないだろう。それはわかる。けれど、それとは別の、俺自身の中で。退出を促すような事を自分がしてしまった状況に、その己の不手際に苛立つ。
 このタイミングで電話を掛けてきた母親が、ただただムカついた。それに加え、これだ。自分の願望ばかり言って、それに俺が従うとまだ思っているところが鬱陶しい。その母の考えは、耳にタコが出来る程に聞かされてきたのだ。何を望まれているのか、わかっている。わかっているが、それを叶えない選択を俺がしたのを、この人は何故理解しないのか。
 これなら、頭ごなしに俺を批判した父との方が、マシな会話が出来るのかもしれない。
『大和、貴方も本当はもうわかっているのでしょう?』
「…何がだよ」
『何じゃないでしょう。ねえ、このままで良い訳はないわよね? 千草さんに迷惑をかけて、家族と揉めて、それでいいと思っているわけじゃないわよね?』
 情に訴えるのに必要な条件が全て揃っているとは到底思えないが、それでも母親にそう言われれば、言葉に詰まらないわけにはいかなかった。突ける隙があっても、突けなければ意味がないと言う事だ。
「……それは、わかっているよ。でも、」
『だったら、言う通りにしなさい』
「……」
 反論ではなく、もっと弱い言い訳だろうが。それでも意見しかけた俺の意思を汲む事無く遮った母の声は、硬さを通り越した冷たさを持っていた。
 しかし。
『お父さんが許してくれている間に、帰って来なさい』
「…………」
 甘い、と思わず俺は母親を評価する。詰めが甘すぎると。
 ここで、父ではなく。自分が許さないのだ念を押したのならば、俺は返す言葉を無くしたのだろう。だが、母が口にしたのは、いつも通りの「お父さん」だった。お父さん、お父さんと。二言目には、父を出すのが母の十八番だ。お父さんに聞かないと、お父さんが怒るでしょう、お父さんが駄目だって、お父さんはどう言うかしら。いつでも、何でも、父がメインだ。お母さんはお父さんと一緒よ、お父さんの言う事に従うわ。お父さん、お父さん――母はそれでいいのだろう、自ら進んでそうしてきたのだから。だが、俺は違う。息子が自分と同じ思考を持つと、本気でこの人は思っているのだろうか。
 こんな時でも、父に従えとしか言わないとは。筋金入りだなと、頭が洗脳されているのじゃないかと、自分の母親ながらその異常さに溜息が出る。俺の痛いところを突き、情に訴えようとしても、そこに父親が出て来ては息子は冷めるのだというのを、この人は本気で気付かないのだろうか。何て、楽天的な人なのだろう。いや、素晴らしい、涙が出るよ、畜生…ッ!
 夫の顔色は伺えても、こうした計算が出来ない母を、善く思えば良いいのか悪く思えば良いのか、俺にはもうわからない。ただ思うのは、母親には純粋に子供を思う気持ちはないのかという事だけだ。だが、こんな風に夫が全てだと示されれば、それさえも馬鹿馬鹿し過ぎて聞く気にはなれない。
 ここまでくれば最早、父に対する母のそれは依存ではなく執着なのかもしれないとそう思うと尚更頷く事も詰る事も出来ず、俺は肺の中の空気を全て吐き出す事で胸のモヤをやり過ごす。俺達は親子ではあるが、果たして本当に家族であるのかどうなのか。こうなれば、流石に疑問を覚えない訳にもいかない。……微妙だ。
「……許すも何もないだろう、母さん」
 新たに吸い込んだ空気は、どうやらマイナスの感情を育てる栄養になったようで、一気に負の思いが膨らむ。だが、これを吐き出せば昨夜と同じだと。あんな言い合いでも学習する点はあったんだなと思いながら、意地になったように俺は苛立ちを必死で抑えた。
 腹が立とうが、何だろうが。ここで母親を追い込んでも、意味がない。
「俺は、確かに迷ってはいるけど、間違った事をしてはいるつもりはない。ふたりの思い描く息子でないのは残念だと俺も思うけれど、許しを乞わねばならない行いをしているつもりはないよ」
『何を言っているの…。お父さんもお母さんも、今の貴方を賛成してはいないわ』
「それは、だから判っている。俺が言っているのは、ふたりに許可を願う気は自分にはないと言う事だよ。反対されようが、関係ない。…もう、決めた事だから」
『関係ないって……ずっとこのまま喧嘩をしていくつもりなの?』
「……」
 それは、多分無理だろう。母とならばそれなりに可能だろうが、今のこれをこの先維持し続けられる程も、父は俺に執着はしていない。同じく、俺にはその根性がない。結論は近いうちに出るはずだ。出さなくとも、それもまた結果になるだろう。
 だが、しかし。俺はこの状態も辛いが、確かな答えが出るのも怖い。一方を取れば、一方を失うのは絶対なのだ。自分が納得出来ないうちにそれが決まるのは、可能な限り避けたいものだ。けれど。
 俺はその避け方を知らなければ、相手もそんな俺の気持ちを気にする者ではない。
『お母さんは嫌よ、大和。絶対に嫌』
 俺自身、もうどうすれば良いのか、どう言えば良いのか判らない。俺も嫌だよと心の中で答えながら、俺は壁に背中を預けた。上半身を軽く揺らし、後頭部をコツンと打ち当てる。……貧血を起こしたかのように、気持ちがスッと下がっていくのが良くわかった。ヤバイなと、他人事のように思う。だが、もう俺自身にも、どうする事も出来ない。
『貴方までお父さんと揉めるだなんて、もう堪えられないわ。お願いよ、上手くやってちょうだい…ねぇ大和』
「俺だって、揉めたくて揉めているんじゃない」
『だったら…!』
「だけど、留学はしない。医者への道は進まないし、病院も継がない」
 それは嫌なのだ、本当に。こんな風に揉め続けたい訳ではないが、両親に応える事も出来ない。これはこの先も、何があっても変わりはしないだろう。医学の道へは、戻りたくはない。自らの意思で戻る気はない。戻らない。
 あの時、確かに鬱状態ではあったのだろうが、間違った考えをしたつもりも、選択を誤ったつもりもない。どん底に居たからこそ、気付く真実もあるだろう。
「俺は教師になる」
『そんな事は認めませんッ!』
「母さん」
『小さな子供じゃないでしょう、大和。嫌だからってやらないは通らないのよ、いい加減わかりなさい!』
「うるさいッ」
 痛いところを突かれカッとなった俺は、体を起こし握った右手を壁に叩き付けた。ジンと腕にまで痛みが伝い、頭に上った血を下げる。だが、体の中から上ってくる言葉までは、素直に下がりはしない。
「だからそれは、わかっているさ。だけど、ただの偏食じゃなくて、正真正銘俺の人生がかかっている事なんだ。母さんの方こそわかっていないだろう!」
『わかっているわ!わかっているから、病院を継ぎなさいと言っているんでしょう! 医者になって病院を継げば、他人より恵まれた人生が手に入るわ。教師になるよりも、そうでしょう。違う?』
「俺は、そんなのは願っていない」
『願わなくとも、それを目指すのが普通でしょう。理想と現実は違うのよ大和。夢で生きらるのは、一部の人だけなのよ。教師が悪いわけじゃないわ。でも、それは貴方がする事じゃないでしょう!』
「俺がやりたいんだよ!」
 何も、役者を目指しているわけでも、スポーツ選手を目指しているわけでも、職に就かないと言っているわけでもないのだ。極々普通の、夢だとも言えない目標だろうこれは。サービス業に就きたい、営業をやってみたい、手に職をつけたい。教師になりたいというのは、そんな素朴な望みと何ら変わらないだろう。俺は別に、分不相応な事を求めているわけでも、夢物語を語っているわけでもないのだ。
 こんな言い方をされる謂れはないぞと吼えると、母は短い間を落とし、今度は諭すかのような声を落とした。
『大和。貴方だって知らない場所に飛び込むより、親しんだ場所の方がいいでしょう?ここなら、お父さんもお母さんもいるのよ。いずれは、大地も帰って来るでしょうし、兄弟ふたりで――』
「兄貴は関係ないだろう。俺の話を聞けよ!」
『一体何が不服なのッ!?』
 俺に触発されたのか、直ぐにまた母が鋭い声でそう叫ぶ。しかし、向けられた言葉を噛み砕く度に、それは俺の熱をどんどんと冷ましていった。
 恵まれた人生ってなんだ、兄貴がどうした。俺は不安になり助けを求めているのではなく、主張をしているのだ。思いを述べているのだ。それなのに、この母は何を言うのか。
 全く噛み合っていない言葉と言葉に、意味などある訳がないのだろうが。今この時点で何が不服かと問う、その神経がただ最低だと思う。
「なら聞くけど。父さんと母さんが居て、何の役に立つんだよ。母さんの言い分は、ただ自分を正当化しようとしているだけだろう。自分の育て方は正しかったと、そう思い込みたいだけだろう。それも、俺の将来を心配しているんじゃなく、自分が父さんに責められない為にやっているんだよ。なあ、そうだろう? そんな母さんの人生論を聞いても、俺には意味がない。無難に生きる術を、俺は教わりたいわけじゃない。俺は…、俺は貴女のその、父さんの顔ばかり見ているのが何よりも嫌いなんだよ。いい加減にして欲しいのは、俺の方だ!」
 今まで散々息子よりも夫に尽くしてきたくせに、今更何を言っているんだと俺は言い切った。そして、言った後で、自分の失敗を知る。後悔は、決して先にたつ事はない。
 自分を棚にあげ母を詰る資格は、逃げるばかりで向き合わずに勝手をしているだけの今の俺にはないのだろう。俺と母に、どちらが悪いのかどうかを決められるような差はない。
「…………。……いや、ごめん。今のは、言い過ぎた…」
『……貴方が医者にならないのは、お母さんが悪いからなの…?』
「……」
 その平坦な声は、昔から良く聞いたものだ。絶対的な父の命令に応える声と、全く同じ。だが、今それを母にださせているのは、父ではなく俺で――。たったひとつの事でここまで違うのかと、純粋に驚くと同時に、胸が詰まる。
 堪らないと髪をかき上げると、俺の手は湿り気を帯びた。指先で額をなぞると、更に濡れる。興奮したからではなく、これは、脂汗なのかもしれない。
『お母さんのせいなのね』
「それは、違うよ…。ならないのは…なれないのは、俺の問題だ」
『……』
 そう、それは真実だ。俺がその道を突き進めなかったのは、根本的に弱かった自分が原因なのだと良く判っている。確かに、父や母に頼れなかった部分はあるのだろうが、それを責める気はない。そこまで図太く甘える気はない。だから、医者にならない事と両親と揉める事は、俺にとっては別ものなのだ。父に対する反抗だけで、こんな事態になった訳ではない。
「病院の事は兎も角…。父さんとも母さんとも、出来るならば、上手くやりたいと思っている。本当だよ。何だかんだ言っても家族なんだし、俺としても大事にしたいものに変わりはないから…。だけどさ、それは俺の意思でなければ意味が無いんだ。そうだろう? 父さんの支配下で、物分かりの良い息子を演じる気はもうないんだ。今、我慢して喧嘩を治めても、またすぐ衝突するよ絶対に。それだと意味がないだろう?」
 卑怯な言い方だとわかっていても、言わずにはいられなかった。
 だが。
 母には俺が何を思いそんな言葉を口にしたのか、全く伝わりはしなかった。

『貴方はひとりで大きくなったんじゃないでしょう。お父さんの言う通りにすれば、間違いはないわ。わかったわね、大和。返事をしなさい…!』
 ――馬鹿らしい。
 何をどう言おうとも、母は端から聞く気がないのだ。俺の返事でイエス以外の答えは、なかったものとするらしい。お父さんお父さんと連呼する母親に、息子が我慢せねばならない事などあるのだろうか。今は気持ちを吐露してはならない理由などあるとは思えず、俺は溜息をひとつ吐き大きく空気を吸うと、一気に言葉を紡いだ。
「昨夜、父さんが言った事は、確かに当たっているんだろう。俺は我儘だし、贅沢をしている。医大の事も、簡単に言えば我慢が足りなかったの一言だ。それ以外は、言い訳なんだろうな。自分に甘い答えを出したのも、確かだ。俺は、大人で経験豊富な二人から見たら、餓鬼だよ。愚かな息子の修正を図ろうとするのも、当然だ。わからなくはない。だけどさ、母さん。だからと言って、それが何だよ?何の意味がある?何の理由になる? 俺が見ているのは、接しているのは、「両親」という器じゃないんだ。その中にある、個人だよ。間違っていようが愚かだろうが、あの時俺が辛かったのは本当だった。だけど、ふたりは俺に何をした?何をしてくれたんだよ? 非難する以外、何かをしてくれたのか、なあ? 馬鹿な事をしてくれたと怒るだけで、何もしなかったじゃないか。それを今になって留学だなんて…。それこそ、俺を馬鹿にしているのかとしか思えないぜ。悪いけど、父さんも母さんも、もう今更だよ。今更何を言ってきているんだとしか、思えない。俺は、アンタ達には賛同出来ない。当然だろう?息子の話ひとつ聞かなかった親のそれに間違いがない根拠など、どこにもないんだからな。これ以上、惨めになって 堪るかよ…!」
 上手くは言えないが、言う必要もないのだろう。母親の中に俺の声が留まる事などないのだから。
 そう開き直るかのように自棄になり繋げていった言葉は汚いもので、口から零れる度、胸が痛んだ。だが、多分。辛いのは母に対して暴言を向けてしまった申し訳なさからではなく、こんな言葉を親に向けねばならない自分が可哀想に思えたからだろう。電話の向こうで母は泣いているらしい事を察しても、故に思うのは自分の方が泣きたいくらいだと言うだけのものだった。
 だから。
『――大和だな』
「……」
 泣く母から受話器を取り上げたのだろう父が通話口に現れても、余り何も思わなかった。
 母とのやり取りで、十分すぎるくらいに俺は疲れていたのだろう。自宅なら父が居るのも当然だとしか感じない。だからどうなんだ、という程度のものだ。昨晩のような焦燥感もなければ、脱力感もない。どちらかと言えば、母親から開放された喜びが沸き上がってきそうだ。
 勢いだけの言葉に、真実などないだろう。けれども、嘘をついた訳ではない。だが、それを母に向けた事が正しいとも限らない。ホッとしているのは確かでも、相手を傷つけ遠ざける形で逃れた自分が許されるとも思ってはいない。
 それでも俺は、泣く母を気遣う事はせず、淡々と状況を判断したかのように、父親に対して言葉を向ける。
「父さん。手を出した事は、謝っておくよ。ごめん」
『そんな事はどうでもいい』
「……ああ、そう」
 電話口に出られても、言う事はこれくらいしかないんだがなと口に乗せた謝罪は、素早く一蹴された。全く感情を込めていなかったのは事実だが、ここまであっさり捨てられると、昨夜の後悔を後悔しそうだ。
 どうでもいいのなら、一発殴ってやれば良かったのかもしれない。父の答えに、思わずそう思う。しかし、そんな芸当が出来る性格だったのならば、こんな風にはなっていないのだろうと自己分析などをしてみる。兄貴のように、昔から面と向かっていけていたのなら。もう少し、俺も両親と巧くやれていたのかもしれない。
 衝撃を受けすぎて心が上手く動かないのか、ほとほと母親が嫌になったのか、父親が出てきたせいで頭の血管でも切れたのか。考えが横へとズレる。
 病院を継ぐ気はないし、医者にもならないと言い続けた兄は、けれども父の援助で大学院まで出た。ふたりは反りが合わずとも、父は兄に対しては親の役目を十分果たし、兄は兄でそれを拒む事無く受領したのだから、それなりの害を被ってきた俺としてはいい加減にしろよなと言うものでもある。
 反発しながらも巧く父を利用する兄を、凄いと思う反面、俺は狡いと思う。兄のせいで、弟の俺が犠牲になった面は確かにあるのだから、思うくらいはいいだろう。親との関係にしても、進路の事にしても。俺がそれに付いて考えるよりも数年早く、兄は父と衝突し、その都度両親には「お前はあんな風にはなるな」と幼い俺は言い包められ、反抗をする前からそれを絶たれた。
 だが、だからと言って、好き勝手をする兄に文句が言いたい訳ではない。両親との事については、擦り込まれるままに反抗しなかった自分自身が、ただ間抜けだっただけなのだ。だから、もしも、誰かを怒るのならば。長男が駄目なら、次男が居ると。そんな勝手な考えをしていた、父に対してだけだろう。同じ彼の息子である、兄では決してない。
『大和』
 聞き慣れた平坦な声に思考を中断されたが、考えている方が場違いなので、父の呼びかけに応える。
「…何」
『次の週末には、千草のところから引きあげて来るんだ、いいな』
 兄の時とは違い後釜がないからだろう、しつこく俺にそれを繰り返してくる父は、ここまでくれば滑稽でさえある。昨夜あんな風に息子に投げられても、この人は痛みを感じないのだろうか、全く。
 本気で、殴ってやれば良かったと、再び俺は考える。だが、そうしていたところでダメージなど微塵も受けそうにないのだから、やるだけ無駄だ。
 父が相手であっても、人を殴れば手も胸も痛い。何の効果も無いとわかりながら、自分だけを傷つける行為をする程、俺は馬鹿ではない。自虐の趣味もない。
『わかったか、大和』
「全然わからないよ。言っておくけど、大学を辞めるつもりは――」
 ――俺にはない。
 その言葉を言う間を、父は俺に与えられなかった。
『退学届を出しなさい』
 要求ではなく、これは指示だ。
「……馬鹿言うなよ」
『馬鹿なのはお前だ、大和。部屋はそのままにしている。直ぐに帰って来い』
「…………」
 もしも優しい声で言われていたのならば、少し傾いていたのかもしれない。それくらいに、その言葉は俺を揺さぶる可能性のあるものだった。だが、父の声に変わりはなかった。自分が話すのは全て事実だというだけの、平坦な声。部屋があるというのは、本当にあるに過ぎない。ただそれだけなのだと教える言葉。
 戻ってきて欲しいと願うから、部屋はそのままなのだという親心をもっと感じられたのならば、俺だって多少の躊躇いはしただろう。ただの弱さなのかもしれないが、それなりに苦労をし、親の存在がいかにあり難いものなのか、俺は良くわかっているつもりだ。誰かの親でも夫でもない俺には、どんな育て方をしたにせよ、子供をここまで大きくした両親に頭が上がる事はない。だが、それらを差し引いても、今は反抗心の方が強い。
『用意が出来次第、向こうに行き語学学校にでも通え。あちらでの準備は出来ている、問題は無い』
 問題はお前の頭だけだと言うような父の調子に、俺の口からは深い息が落ちる。語学学校って何だ、用意って何をどうしろと言うのか。呆れる外ない。
「……そんなので、俺が大人しく従うと、本気で思っているのかよ?」
『お前に他の選択肢はない』
「……」
『家を出ると言う事は、今の全てを手放し生きる事だ。だが、どうだ。大地は兎も角、千草に甘えているお前のそれは、単なる子供の家出でしかない』
「……」
 実際に。一体俺は昨夏から何を手放したのだろうか。何を捨てたのか、失ったのか、放り投げたのか。
 父のそれは、何も言い返す事は出来ない言葉だった。
『千草にも大地にもこれ以上頼る事を、私は許さないぞ大和』
 誰よりもわかっていると、そう思っていたのだが。言われた瞬間、情けなくもそれが揺らいだ。わかった振りをしているだけで、本当は一番わかっていないのは俺ではないのかと。甘えている事を自覚しながら、それを当然のように受領していたのではないかと、体が震える。
 やる気が出ないのではなく、俺はこのまま兄の優しさに、叔母の寛容さに浸り続けようと何処かで計算していたのかもしれない。苦しい辛いというのは気持ちの面ばかりで、実際に体力や時間を失っていた訳ではないのだ。本当の苦汁など俺はまだ知らないのかもしれないと思うと、周囲に掛けた迷惑や自分の狡さに蒼褪めるのではなく、ただただ愚かな己を笑ってやりたくなった。
 何を、ひとりで勝手に沈み込んでいるのだと。馬鹿だなと。
 そして、逆に。だったらまだ、俺はやれるのではないかと。まだ暫くはもがき続けられるのではないかと、現状をもう一度見直してみる。叔母や兄に頼らずに、自分ひとりでやってみる手は残っているではないかと。今が、「限界」では決してないと。
 しかし。
『うちに帰るのか、このまま出て行くのか、決めておけ。週末にはお前の答えを聞く』
「……」
 新たな道を模索しようと考えた俺を笑うように、踏み潰すように。父は目の前に「終わり」を突きつけてきた。既に勘当を言い渡したのではなかったのか?とは、流石に問い掛けは出来ない。
 目の前に差し出された最後通告は、受けとらねばならないものだった。拒否権は、俺には与えられていない。それはまるで、「死の宣告」かのようだ。
「…判断要素を変える気は――」
『無い』
「……」
 往生際が悪いとわかりながらもした狡い質問には、即座に簡潔な答えが返ってきた。躊躇う素振りなどないそれは、確かに父らしくもあったが、それ以上の何かが潜んでいるようにも感じる。
『留学も病院を継ぐのも、絶対だ。私の考えに従えないのなら、うちには必要ない』
「……」
 昨夜とは違うのだと、父の全てが物語っていた。久しぶり向き合ったあの遣り取りで、俺への認識を変えたのかどうなのかは判らないが、何らかの判断は下したのだろう。声には、何の色もない。駄目な息子を非難するものも、説得をするものもだ。母のそれとは、まるで違う。
「……父さんは、俺と縁を切ると…そう言う事なのかよ…?」
 本気で息子を捨てる気なのかと訊きかけたが、口に出来たのはそこまでだった。漠然と捨てられる自分を思い描いただけであるのに、身体の芯から震えが起こるのだ。冗談でも、言葉になど出来はしない。
 だが。俺のその畏れを感じているのだろうに、父は俺が言えずに濁したものを拾い上げた。的確に。
『その覚悟は既に持っているのが当然だが、違うのか。勝手をしてなお、今になりお前は甘えるつもりだったのか』
「…………」
 厳しいそれは、俺に自身の甘えを教えた。母と違い、父はもう全てを決めたのだと思い知る。自分が用意したそれを、受け取るかどうかはお前次第だと語るそこに、一切の半端はない。イエスならば全てに従い、ノーならば全てを捨て出て行けと、ふたつにひとつの選択を示す。
 息子の意思を汲む事も、互いに妥協点を探す事も、それこそ真摯に説得を試みる気も。父の頭には無いのだ。微塵も存在しないのだ。俺がこうならざるを得なかった理由も。俺達の親子としての有り方も。初めから父にとっては、関心の対象ですらなかったのかもしれない。現在の弊害を打破出来るのであれば、その犠牲になるのが息子であろうと切り取ってしまうと言うわけだ。己の要求も、叶えられなければ次へとまわすと言うわけだ。
 父はもう、全てを決めている。そこに、俺の意見が入り込む隙間は、もうない。
 そう、これは間違いなく。俺は今、家族を捨てるのかと問われているのではなくお前を捨てるぞと、返事如何によってそれを実行するぞと教えられているのだ。
 俺が願うように、このまま曖昧にしておく気など、父にはないらしい。やはり喧嘩をし続けるような無駄を、この人はしない。
『もう21歳になるんだ。何を取るのか、良く考えろ』
「……判った」
 憤りは確かにあったし、何処かでは泣き付きたい気持ちも存在した。だが、気付けば俺はそう応えていた。それは二十年間擦り込まれたものによる反射ではなく、絶望を感じつつも、父親の言葉には一理頷くものがあったからだろう。都合よく逃げるのではなく、今ここで向き合わなければ自分はもっと駄目になると気付いたからだろう。ズルズルと引き伸ばすのは、俺にとっても意味がない事なのだ。
 しかし。
 それ以上何かを言う事もなく、無言で切り合った通話に、遂にここまで来てしまったんだなと思うと涙が出そうだった。兄ならば、こんな事態にまではなりはしないのだろうと、またもや女々しく考えてしまう。縁を切るか、漸く持った夢を捨てるか。選択は、難しく厳しいものだ。

 まだ充電の終わらない携帯をチェストに置き、水木が戻る気配が無い事を確認しソファに座ると、俺はそのまま後ろにのけ反った。背凭れに肩を押し当て、顎を突き出す。見上げた天井を伝い壁に視線をはしらせ、インテリアの小さなスツールを見たところで目を閉じる。
 先日来た時にはなかったはずのそれは、部屋にも家主にも似合わない、白銀パイプに明るい黄色いシートの可愛らしい物だ。多分この場にあるとは言え、水木自身の持ち物ではないのだろう。何だか、あの男の隙のようだ。だが、それだとわかっていても、突けるものでもないよなと考えたところで、義弟だと言うあの幼いリュウにならば似合うのだろうなと思考がズレる。しかし、ズレたところで、問題はない。寧ろ、その方が良い。
 意味なく想像を続け、小さな黄色い椅子は鉢植えやぬいぐるみなどを置くものだろうが、あの子供が座るのも微笑ましいよなと思う頃には、俺の頭には順調に血が上っていた。体に力を入れて息を止め、勢いよく上体を戻し前屈みになると、頭の中がじんわりと痺れる。少しクラリと眩暈を覚えながらも数度その動きを繰り返すと、気持ち悪さが胸に広がった。軽い吐き気を深呼吸で散らし、それと同時に遣る瀬無さを抑えつける。
 馬鹿げた方法だが、気分を変える手段としては意外と効果的だ。先程のように壁を殴れば手は痛いし、物を壊せば片付けが面倒である。それで全てを発散出来るのならばそのデメリットも悪くはないが、大抵の場合は余計に腹立たしくなり逆効果だ。ならば、そんな事をするよりも、自分自身を脱力させる方が何倍も有意義であると言えるだろう。そうすれば、力の入らない体では無駄な事を出来はしないし、考えるのも一時休止になるので、確実に落ち着ける。さほど、後にも響かない。
 苦々しい思いをしている時は、いつの頃からかこの方法で紛らわせるように俺はしている。幼い頃、苛立ちのままに机を蹴り、捻挫をしてしまった事があるので、これは自分に似合っているのだろう。しかし、だからとは言え、他人様の居間でする事では無いよなと思いながら、俺は肘掛けに肘を突き掌に顔を押しつけた。誰かに目撃されても特に問題は無いが、見られて嬉しいものでもない。もしも水木が自分と同じように頭を振っているのを見てしまったならば、…間違いなく俺は退くだろう。アイツはキャラ的に即アウトだよなとどうでも良い事を考えつつ、深い息を吐く。
「……」
 溜息の理由は、当然だが水木のキャラクターについてではない。何をしようと、何を思い浮かべようと。頭の隅で父の言葉が回り続けているからだ。こんな風に自分を痛めつけても、この方法で無視をするには限界があるらしい。まして、意識を逸らしたものが、ものだ。あの男は、勝手に長く弄っていられる材料ではないし、弄っていたくもない。
 多少落ち着いたのならば考えるべきかと、邪魔なものを放り、脱力した体勢のまま父の声を耳奥に蘇らせる。
 週末には、答えを求められるのだ。打ちひしがれている間も、不貞腐れている間もない。
 俺が人生を決める時間は、一週間もない。
 母の言葉ではないが、自分に合わず辛くとも、医学への道を選べば得るものは大きく多い。仕事ならば、嫌だとしても我慢し頑張るべきであるのだから、医者になるのは間違いではないのだろう。確かな、ひとつの選択肢だ。だが、それは医者になれるという前提が必要なものでもある。もう一度そこを目指しても、俺はまた同じように挫折しそうな気がする。遣り遂げる自信など、全くない。何より、遣ろうとする気力も皆無だ。
 だが、しかし。
 ならば俺はもう、あと一方を選択するしかないのだろうが、それもまた自信がない。自分が今持つ夢はただ必要だから見ただけのものであり、今なお形にはなってはいない。それこそ、数年前まで自分が医者になるのだと思っていた頃のそれより、きっと朧だ。家族や親戚との繋がりを捨ててまで、本当に教師になりたいのかどうなのか。そのふたつは、どちらがどれくらいどう重いのか。俺は何ひとつわからず、天秤に乗せる事さえ、出来ていない。それをはっきりさせるのも、怖いと思う。
 そんな俺はどちらを選んでも、きっと悩み続け、悔やみ続けるのだろう。だが、本当は既にもう選ぶ選ばないではなく、ひとつしか道は残っていないのかもしれない。曖昧に誤魔化している間に、自分は来るところまで来てしまったのだ。正しく、逃げ続けた結果がこれだ。
 医者にはならないと言い続け、俺の中ではそれは絶対的なものとなり、逆に両親は遠くなった。だが、それも当然だろう。俺は走って、ふたつの物から逃げたのだから。医学の道はもう進まないとだけを決め、よく考えないままに家を飛び出した結果がこれだ。自分以外の誰も責められはしない、なるべくしてなった「今」だ。
 ならば俺はもう、このままっ切るしかない。
 しかし、それでも俺は卑怯にもそこまでの覚悟は持っておらず、往生際悪く躊躇う。その戸惑いが甘えを生み、図々しくも近しい者の理解を求める。  父に捨てさせられるのではなく、俺は自分で捨てる道を既に選んでいるのに、何て調子が良いのか。自ら捨てようとしておきながら、実際には独りでは何も出来ないなんて。馬鹿もいいところだ。
 勘当だと言われ家を出て行ったというのに、俺は全然判っていなかった。幾ら兄や叔母が手を差し延べてくれたとしても、俺は絶対に握り返してはならなかったのだ。縁を切ると言う事は、父の言う通り、独りになる事なのだろう。このまま突き進むのならば、兄や叔母とただ会う事ですら、今まで通りにはいかなくなるのだろう。散々彼らに甘えてきた俺には、それは辛く難しい。
 苦しみに沈んでいた時は、それから逃れるのが最優先事項であったので、勘当発言も仕方がないと思えた。だが、あれから一年近く経った今は、そうとは考えられない。考えたくない。少しは気持ちに余裕が出来たからか、両親を失わずにやっていきたいと、俺は自分に都合良く思ってしまう。
 俺は、俺が思う以上に。この数ヶ月、不安定だったのかもしれない。
 昨夏は両親と折り合いがつかない事に悩んではいたが、それ以上に医学以外の道を見つけなければと必死だった。受験を決めてからも、無我夢中だった。そんな俺を支え続けてくれた兄が日本を離れるとなった時は、それなりに色々と考える必要があり心配もしたが、叔母が居たので不安に陥る事はなかった。けれど。
 自分でも、この状況に無理があるとわかっていたのだろう。春以降、何とかしようと、そればかりを考えていた気がする。どうにかしなければと、いつもどこかで焦っていた気がする。
 状況よりも、精神的にじわじわと追い詰められ、ただ気付けば俺は疲れていた。生きる事にではなく、自分の意志を貫く事に。それと同時に、誰かの言葉に耳を傾ける事に。全然、全く、現状は最適には程遠いのに。俺は「今」の維持を望んでいた。悪くならないのならば、良くならなくともいいのだと、変化を拒絶していた。これ以上、波に揉まれたくはないのだと。
 そんなところに、これだ。己の愚かさに気付かされ、けれどもそれを認め受け入れる強さがないのならば。ただ。ただ、請うしかない。子供のように、涙を流して嫌だと言うしかない。
 両親に、俺を諦めないでくれと。棄てないでくれ、苦しさをわかってくれ。我儘を、聞いてくれ。
 それが出来れば。胸の中に居る小さな子供のような自分を出せれば、俺の「今」は変わるだろう。だが、出せないのが、出さないのが、俺なのだ。
 苛立ちや軽蔑などとは別のところで、俺は両親を求めている。新しい友達では埋められなかった、人の温もりをそこに欲している。だが。彼らのせいだと思う事で責任逃れをし続けたツケが、いま自分にまわってきているのだと思うと、すがる事は出来ない。望む事は出来ない。プライドか、自己満足か。絶対にそれはしたくはないとさえ思う。
 この矛盾だらけの思いは、けれども結局。
 俺は俺の思うようにしか動けない人種なのだとわかるだけで。

 どんなに沢山考えようが。己の判断や夢がどれだけ正しいのか、自分の「今」を他人に示せるものは、俺にはない。


2006/02/24