16


 大学の合格手続きをする際、俺は本気で親との縁を切ろうとした。保護者がおらず、学費も生活費もバイトで賄うのだと申請すれば、確実に入学金と授業料が免除になるからだ。国立大の授業料は数万円と言う破格の時代があったらしいが、それは遠い昔だ。今は学業の合間のバイトなどでは、全く間に合わない。これまでの貯金と、これからバイトで得られる金額を考えれば、免除を申し入れなければやっていけないのは明らかだった。
 だが、そんな事はするなと、兄にキッパリと止められた。修復は不可能だとしでも、絡まっていても繋がってはいるそれを、自ら切るような真似はするなと諭された。
 それでも、俺は兄貴のようには割り切れない。そう思ったが、その時の自分には、心配してくれる兄を跳ね除ける事は出来なかった。お金ならば自分が出してやるとまで言ってくれる兄にまで反発しては、俺は家族全てを失ってしまうと打算したのかもしれないが、それでも縁を切るのは確かに賢くはないとも思えた。現に今は、実行しなくて良かったと心から思う。
 学費を払えないのならば、休学して働く。奨学金も受けない。そう兄に話したのは、まだ数ヵ月前の事だ。あの時、俺も、そして兄も、勘当をされていながらも父との繋がりを信じていた。だが、既に俺が家を飛び出した時に、それは切れていたのだ。
 父は、俺が病院を継ぐと言わない限り、俺との関係を繋ぎはしない。切れた糸を結びはしない。それをするのはあくまでもお前だというスタンスを、何があっても崩しはしないのだろう。
 無理やり繋げられた、などと言う言い訳は出来ないように。後々、俺が責任転換をして逃げないように。父は俺に選ばせるのだ。期間を与えて来たのも、選択肢を示して来たのも、全てはそのためなのだろう。
 今まで許されて来た部分があった事を知ると同時に、これからはそこに甘えられはしない事を俺は教えられる。
 やっていけるかいけないかではなく、やらなければならない現実が、俺には正直重い。普段は判った風に偉そうな口をきくと言うのに、なんて甘え腐った人間なのか。ここまで弱い情けない奴とは……。
 俺は――。
 最低だと続けかけたところで、何かに急かされるよう勢いよく立ち上がり、俺は強く床を踏み締めキッチンへと向かった。興奮ではなく、恐怖に似た感覚が自分を包み込もうとしているかのような息苦しさに、心臓が早鐘を打つ。
 己の考えは、沈めばきりがない底なし沼である事を、俺は知っている。そこには一切の救いがない事もだ。居直る訳ではないが、今この状態で自分を蔑んでも意味がない。己を貶しても、自虐心を鍛えるだけで、問題の解決にも気分の転換にも繋がらない。考える事も悩む事も必要だが、反省と卑下とは違う。
 無駄だ、意味がない。考えるな、必要ない。
 本当は、今こそきちんと自分にも両親にも、全ての事に向き合い考えなければならないとわかりつつも、己を洗脳するかのように俺はその言葉を頭で繰り返した。今は、止しておこうと。
 だけど。止めるのが、悪循環するトライアングル思考なのか、状況そのものなのか。わからない。これは必要な休憩ではなく、ただの逃げだと認めた途端、また今以上に沈み込むような気がして。
 何もかもが不安に繋がる。
 同時に、こんな事で振り回されている自分が、嫌になる。
「…………」
 洗ったばかりのグラスを取り、水を一気に飲み干す。手の甲で口を拭い、俺はひとつ深い息を吐いた。グラスをシンクに置き、横向けで一番近い椅子に腰掛ける。疲れたと、体を捻りテーブルに突っ伏したところで、ドアが開く音がした。しかも、それはリビングの扉ではなく、廊下とキッチンを繋ぐ扉であって――。
「……あ、…スミマセン」
 反射的に伏せたばかりの顔を上げると、ノブに手を掛けた水木とバッチリ視線があい、意識する前に謝罪が口をついた。だが、その後で。それは何の謝罪なのかと自身で思う。話の途中で通話を受けたからか、居間から追い出してしまったからか、勝手にグラスを使ったからか、テーブルでノビきっていたからか…。
 突っ込まれたらどう返そうかと決まらない内に、俺の口からは「色々と…」と、纏まっているのかどうなのかもわからない言葉が落ちた。……色々って何だよ、オイオイ。言い訳にすらなっていない。しかも。水木は完璧無視なのか、無言だ。二人だけの空間で無反応って……大人のする事じゃないぞ、クソッ。
 取り繕おうとした俺が馬鹿なのか?そうなのか? 堪らないよなと視線を手元に落とし、そっと息を吐く。何故にこの男との疎通は、ここまで難しいのか。説明書が欲しい。攻略本とかないンでしょうか、戸川さん……。
 ……って。水木瑛慈を極める気は全然ないので、それもそれなのだが。
 それでもやはり、対処法は知っておきたいよなと。ジェットコースターに乗る時は、前もってコースを把握しておきたいよなと思いながら、もう一度深い息を吐く。無視された場合、再度声を掛けるのはこの男の場合どうなのだろうか。誰か教えて欲しい。
「…元気になったのかと思ったら、また落ち込んでいるな」
「えっ?」
 近付いてきた水木が、不意にそんな言葉を落とした。
「あっ、……済みません」
 溜息は誰のせいだと思いながらも反射的にまたそう応え、言われた言葉を反芻して思う。元気がないとわかっていての先のやり取りは、傷に塩を塗り込む更なる苛めではなく、その逆だったのかもしれないと。この男は俺を元気づけようとしていたのかと浮かんだそれに顔を上げかけた時、頭の上に手を乗せられた。
「リュウよりマシだ」
「……」
 不覚にも、その重みを心地よく感じてしまい、振り払う事を俺は忘れ視線の先にある足を見つめる。相変わらず、水木はスリッパを履いていない。黒い靴下を眺めながら、足のサイズは何センチなのだろうかと、どうでもいい事を頭の隅で考える。
 腰タオルから着替えた水木の格好は、黒一色だ。頭の天先から、足の爪先まで。
「……リュウくん、ですか?」
 靴下を欲したらブカブカの物が用意されるのだろうかと、本当に意味のない事を、今度は自分の裸足を見ながら思う。それとも、スウェットと同じように、水木のものではない別の誰かのための物が出されるのだろうか。
 小さな子供を頭の中に浮かべながらも、的の外れきった事を俺は考える。
「あいつは、すぐ泣く」
「あの歳なら、そんなものでしょう…?」
「誰にでも甘えてばかりだ」
「……」
 誰にでもかどうかは知らないが。あの子供が、この男に甘えたがるのは、少しわかるような気がした。先日見た子供と水木の図は、全く悪くはないもので。幼子にとっては当然の行為なのではないだろうか。
 優しくされれば、人間、甘えるものだ。それが嫌なら、初めから手を伸ばしてはならない。
 こんな風に。
「だが、まぁ、あいつにはそれが必要なんだろう。普通の餓鬼に比べれば、色々我慢をしているのだろうから、甘えるくらいは仕方がない」
「……」
 だから。仕方がないと言う事ではなく。甘える方が一方的に悪いなんて事はないのだ。甘えさせる方にも、責任はあるだろう。――っていうか。
 四歳児と比べられている自分はかなり問題なのではないかと俺は思い、頭を軽く振る仕草で水木の手を払い落とす。顔を上げると、その手はまだ目の前にあった。水木は俺に触れていた右手を軽く握り、拳を作ってみせる。
「…えっ? ――痛ッ!」
 何だ?と思った次の瞬間には、デコピンを喰らっていた。実際の痛みよりも驚きの方が大きかったからか、喉を鳴らしながらも逃げるわけでもなく、俺は無防備にも呆然と襲撃者を見上げる。幸いにも第二波が来る事はなかったが、攻撃以上に厄介そうな視線にあった。
 ……水木の目が笑っているように見えるのは、気のせいであって欲しい。
「……何ですか…」
 何だか嫌な予感を覚えながら、赤くなっているだろう額を指先で撫でる。何故、こんな仕打ちを俺は受けたのか。…解せない。
 遅れてやって来た痺れに、これは罰なのかと考えるが、しっくりくる理由は見つからなかった。確かに水木には色々しているが、今の会話に関しては、そう拙い事を言ったつもりはないのだが……どうしてデコピンなんだ?
「お前は、下手だな」
「ハイ…?」
「泣くのも、甘えるのも」
「…………」
 ……会話が続いているのか? その気があるのか? ――だったら間で余計な事を仕掛けて来るんじゃねェ…!
 何故かと問うた言葉を無視して勝手に話を戻す男に心の中で罵声を浴びせつつ、大人しく俺はそれを受け答える。再度聞いても、多分、同じだ。水木には、答える気が端からないのだろう。ならば、齧り付くだけ無駄だ。俺が妥協しなければ、話は前に進まない。
「……泣くって、そんな…。俺は、保育園児じゃないですから…」
「知っている」
「……」
 …あぁ、そうかい、それは良かったよ。俺はまた認識出来ていないのかと思いましたよ、コン畜生。わかっている、知っているのだったら、ンな事言うなよクソッ!微妙な苛めをしてくるんじゃない、陰険野郎!!
 元気付けにきているのではなく、これは明らかに因縁を付けようとしているかのようだと。まさに嫌がらせでしかないじゃないかと、水木の評価を俺は元へと戻す。園児と比べて貶すだなんて、最低なヤツだ。俺はリュウとは違い、我慢しているのだ。年相応の行動だろう。下手だと詰られる謂れは、断じてどこにもない。
「泣いてみろ」
 まだ言うか…!
「…何を馬鹿な事を、」
「甘えてみろよ」
「…………」
 反論しかけた言葉を遮られムカついたが、落とされた言葉がやけに優しく響いていて。
 俺は情けなくも言葉をなくす。
「大和」
 いつの間にか下げていた俺の視線を捕まえるかのように、水木が床に片膝を付きしゃがみ込んだ。唐突なその行動に驚き見開いた目に、ふざけた事を吐かしている割には真剣な、硬い男の顔が入り込んで来る。…意味不明なボケも困るが、こういう真面目なのも、困る。
 こいつは本気で、俺をリュウと同じように見ているのではないか。幼い子供だと思っているからこそ、こんなスキンシップをとってくるのではないか。まさかと思いながらもそう考え、有り得ない事もないなと思ってしまう。33から見たら、二十歳も四歳も変わらない――は、普通は流石にないだろうが、この男の場合はわからない。俺に構うのは、あの幼子を可愛がるのと同じで、父性本能みたいなものだと考えるのがやはり自然だろう。
 自分とリュウにあまり差はないのではないかと、水木の認識は同じではないのかと、改めて確認しかけたところに、けれども意外な言葉が向けられる。
「お前が泣こうが喚こうが、それこそ愚かであろうと、醜くとも。俺には関係ない」
「…………。……ハァ…?」
 今までの過程を考えると、それは思いも寄らなかった言葉であり、俺が沈黙の後に出す事が出来たのも、問いにはなっていない間抜けな声だけだった。
 関係ない――。はっきり言って、その内容は兎も角、言われる意味がわからない。それ相応の理由があるのだとしても、こんな風に面と向かってこんな宣言するのならば、最初から放っておけば良かったではないだろうか。何も、俺が関係を迫ったわけではない。責任転換もいいところだ。嫌がる俺を強引にかまっておいて、何て事を吐かすのかこの男は。辛うじてだが会話を続けているこのタイミングで、全く以って何を考えているのか。本当に意味不明だ。
 そんなに、俺を虐めたいのか? 悪趣味め…!
「…それは、どうも、済みませんでした……」
 関わりを考えていない奴の相手をさせて、面倒を見させて、申し訳ございません。
 内心水木の発言にヒク付くというか、爆発しかけながらも、ここは我慢だと何とか俺は耐え、謝罪を口にする。心が篭っていないのは、この際仕方がない。そこまで求められても、応えは出来ない。これが限界だ。
 いや、限界点はすでに超えているかもしれないなと思いながら、こんなところに長居は無用だと勢いよく立ち上がる。ここまで言われて、ここに居る理由は全くない。俺だって、アンタの事など知るかと。関係ないと、前に居座る邪魔な体を避け足を出す。
 しかし、一歩進んだところで腕を引かれ、同時に肩を捕まえるように押され、見事呆気なく簡単に俺は椅子へと戻された。
「ちょ、何ッ!?」
「……何を怒っている?」
「ハア?」
 ちょっと待て。泣こうが喚こうが関係がないのならば、怒っていても関係ないと言う事だろう。ならば、聞く必要はないだろう。気紛れに尋ねるなよ。
「…大和」
 納得のいく答えでなければ、認めない。そんな声音で名前を呼ばれ、先程電話越しで聞いた母親の声を思い出し、頭に上った血が少しだけ下がる。けれども、絞り出した声は、内容に比例せず不機嫌だ。
「……別に、怒っていませんよ」
「……。ならば、何を謝っている…?」
「何を言って――」
「わからないから聞いている。謝られる理由はない」
 言った本人が、何だそれ……。
 何故に屈辱ながらも謝罪をした自分が、こんな責められ方をせねばならないのだろうか。悔しいと同時に、遣る瀬無さが胸を襲う。
「…アンタが言ったんだろう」
「謝罪を求めた記憶はない」
「俺の事はどうでもいいと言ったじゃないか。だから、関心のない奴の世話をさせて悪かったと、俺は謝っているんだよ。なんで俺がこんな説明しなきゃいけないんだよ! 俺だって、迷惑をかけた自覚はあるさ。反省もするよ。だけど。だけど、ここまで言われのはちょっと納得出来ない…!」
 目の前の無表情を見た瞬間、我慢などせずに言ってやる!と、押さえていたものが溢れ出した。確かに俺も悪かったが、アンタだって強引だったじゃないかと。別に興味の対象外でも何でも良いが、だったら変に構わずに放っておけよと。思考回路が普通とは違う相手にそんな正論を述べても無駄だと言う事も忘れ、俺は俺ばかりが悪くはないのだと畳み掛けた。
 だが。
「……お前、記憶力がないのか?」
「…………」
 やはり、何を言ったところで無駄でしかないのだと悟る羽目となる。
 俺の記憶力の前に、自分の言語力を高めて欲しい。俺の今の訴えは何処へ行ったんだ? オイ…!
「馬鹿でもないのだろうに、馬鹿だな」
「……」
 条件反射と嫌味半分で「それは済みませんでした!」と返しかけた言葉を、俺は顔を顰める事で耐え、口から出掛けていたそれを飲み込んだ。そこに気持ちはなくとも、今は謝罪となる言葉はもうこの男には向けたくはない。言葉を紡ぐ息も、時間も、労力も。何もかもが、もったいない。
「それは悪くはないが、今は厄介だ」
 …厄介なのは、アンタの頭の中身だろう。まだ因縁を付ける気かと、嫌気が増す。一体、この男は何を話しているのか。関心の無い餓鬼を構う程に暇なのだとしても、俺はその相手をしていたくはないのだが。
「聞いているのか?」
 聞いている。ただ、俺が欲しい終わりの言葉を言ってくれないのならば、別段聞いていたいものではない。
「俺は、お前が何をしようと、全て受け入れると言っている」
 ああ、そうですか。勝手に言って――。
 ――ハイ…?
 今、何かおかしな事を聞いたような気がすると、俺は半眼にしていた目をきちんと開き、水木を見た。相手はまるで俺のその視線に促されたように、腰を上げる。自然と首はそれを追う形になり、俺は真下近くから水木を見上げた。
 影がかかる顔の中で、何の反射を受けているのか、水木の眼が光る。
「鼻水を垂らして泣いたとしても、利己的な行動をしたとしても、それこそ罪を犯したとしても。お前を嫌う要素にはならない。俺の想いは変わらない。だから、何をしようが関係ないと、そう言った」
 ……言った、じゃない。
 そんなの、俺は初耳だぞ…?
「無関心だとの意味じゃない」
 ……どこをどう聞こうが、先の言葉はそれしかなかったが…?
「大和」
 わかったか?と強い視線が俺に問い掛けてくるが、わからない。…と言うか、理解してはいけない様な気がする。だって、これって……マジでヤバイ。
「……いや、あの……ちょっ、待って…。えっと……その……、ウソ、だろ…?」
「お前は、勘違いをしている」
「…………」
 勘違い…?
 いや、本当に、勘違いなのか?
 ビシリと断言されても、それこそ俺にはわからない。もしこれが事実だとしても、俺にそうさせているのは間違いなくこの男なのだから…。当人が指摘をするなよ!と言うものだ。まるで俺の理解力が乏しいみたいであり、気に食わない。
「だって、アンタ…全然そんな風には言わなかったじゃん…!」
 勘違いという言葉を、熨斗をつけて相手に返したいくらいだ。アンタこそ、勘違いしているんじゃないか、と。
 水木の発言は明らかに、俺の存在を無視するかのような類いのものだった。そういう雰囲気だった、ニュアンスだった。いま表現したような包容力は、微塵もなかった。それをどうやって、そんな解釈をし受け取れというのか。無理がある。
「……有り得ねぇーよ…」
 何を今更、苦し紛れの誤魔化しにもなってはいないぞと、俺は頭を振る。だがその動きは直ぐに問題発言しかしない男に止められた。
「なッ…!」
 髪を握るように掬われ、無理やり視線を合わされ、俺は喉を鳴らしながら息を飲み込む。間近に迫る整いすぎた顔立ちに圧倒され、その後ろに職業を思い出さされ、背筋が凍る。
 頭の中が、一瞬にして真っ白になった。
 思考が戻るよりも早く、ドキリと胸が痛い程に、大きく脈打つ。
「俺は惚れたと言った筈だ。それは変わっていないとも」
 水木の声は、直接俺の頭の中に向けられた。吐き出された息が、頬を掠める。
「…え、あ……い、言いましたっけ…?」
 引きつりどもりながらも、俺は軽く首を傾げる事で、さり気なく水木の手から逃げた。それは、怖いという恐れからではなく、ただ逃げなければと判断した頭がとった行動なのだろう。だから実際に出来たのは、それだけだった。変わらずそこにある水木の手を意識し固まる緊張しすぎた体は、それ以上には動かない。
 宙に浮く手を数瞬眺めていた水木は、そんな俺の内心の焦りを知ってか知らずか、再び頭に手を置いてきた。今度は、押え付けるように強く、下向きに力を加えてくる。
 ……俺は、180を軽く超えるアンタと違い、175センチにも届いていないんだ。背が縮んだら、どうしてくれよう…。
「やめ――」
「直ぐに嫌いになれはしないと言っただろう」
「……」
 やめてくれと、成長期が終わりかけの者としては少し切実な理由で訴えかけたが、それを遮り水木は新たに俺の記憶を試すような言葉を向けて来た。
 俺とて、一字一句は覚えてはいなくとも、一日二日の中で話した内容ぐらいは忘れはしない。確かに、水木のそれは、聞いた記憶がある。昨夜俺がした、迷惑じゃないのかと言う問いに返った答えだ。だが、しかし。
「…でも、だからって、あれは好意がなくなっていないと言うだけで――」
「ただそれだけで、俺が世話を焼くと思っているのか?」
「……」
 …嫌な聞き方をするなよ、クソッ。昨晩きちんと聞こうとした俺に、判り易く最後まで説明しなかったのは誰でもない、アンタだろう。今更そんな言い方するなんて、卑怯だぞ…!
「そんなの、俺には判んないだろう…。アンタが何をどう考えているかなんて…わかる訳がないよ」
「大和」
 ムカツクと。その勢いのまま頭に乗る手を払いのけると、水木は子供を諭すかのような声で俺を呼んだ。
「……」
 冗談じゃない、だから何だその声は。俺が…、俺だけが、過ちを犯しているかのようじゃないか。
 理不尽なそれに父を思い出し、水木に対する嫌悪感が一気に募った。血の繋がった親子だからこそ許される衝突は、他人には当然ながら適応されない。父親だからこそ、貶されようと否定されようと、繕う術を探る。だが、他人にそれをされては、どうにもならない。ただそれだけで、繋がりなど簡単に切れる。
 そう、そんな風に、縁を切るなどとても簡単な事なのだ。俺がこのままここを出れば、水木とはもう一生会う事はないだろう。家族ならばそうは行かないだろうが、所詮この男は他人だ。知り合いでも友人ですらもない。良く知りはしない人物だ。今はまだ、言えるほどの縁すらない、繋がるかどうかすらわからない関係だ。そして。
 幾ら見た目が良くても、こんな話し方をする男と俺は付き合い続けたくはない。ヤクザだとかではなく、水木自身が俺には合わない。悪い奴ではないのだろうが、自己中心的過ぎて、付いて行けない。行きたくない。そんな俺をこれ以上突き回し続ける程、水木とて暇ではないだろう。ここでバッサリ全てを切れば、関係が終わるのは明白だ。
 もう、謂われなき非難は沢山だ。限界だ。全て断ち切ってやろうじゃないか!
 湧き立つ思いに押され無言で立ち上がると、俺の怒りのオーラでも感じたのか、水木は一歩下がり俺に場所を空けた。俺は椅子をそのままにキッチンから出て、リビングの中へ入る。いつの間にか充電を終えていた携帯電話をとりあげ、充電器をローテーブルに返した。
 これも、本当は。水木が俺に対して向ける、親切なのだろうが。今の俺にはそう思う余裕はなく、だからどうしたと考える気にもならない。
「俺は、お前に惚れている」
 何が駄目なのかといえば、性格とか価値観とかよりも、噛みあわないテンポが最大の問題なのだろう。自分と水木の関係をそう分析する俺の背に、何度聞いても慣れる事はない言葉が、再び投げられた。それは突然すぎて、受け取る事も投げ返す事も出来ず、俺の足元に転がり、無視出来ない存在感を示す。
「覚えておく気がなくとも、今はわかるだろう?」
「……」
 振り返ると、カウンターの向こうに立つ水木が俺を見ていた。話をまだやめる気はないのか、問いに対する答えを待っているかのような沈黙を作ってくる。
「……わかるな?」
 重ねられた問いは、懇願の色が強い気がして。
 意識する前に、俺の口からは言葉が零れ落ちた。
「…そう、ですね……」
 受け入れられるかどうかは別に、日本語としてはわかる。
 自分には話を続ける気はないと思いつつも、俺はゆっくりとそう答えた。しかし、実際に問題なのは記憶ではなく、内容の確かさだ。水木の話は個々でなら耳に入れるのは大丈夫でも、トータルすると曖昧というか崩壊気味で、持ち続けておくのは不安になるものだ。
 この感覚をどう表現すれば良いのか、出来るのか。上手くは言えないが、結局は、俺は水木を信用しきれないのだろう。もっと正直に言えば、俺にその気がないのだ。助けられている面はあるが、それ以上に害が大きい。打算をした結果のいい訳なのだろうが、俺は相性の合わない奴と穏やかに付き合っていけるほど人間が出来てはいない。学習出来ない訳でもなければ、我慢を知らない訳でもないが、嫌なものは嫌だ。我儘だろうと何だろうと、水木の言動にはもう振り回されたくないと思う。
「傍にいて欲しい、ここに住んでくれ」
「…………」
 言葉はわかっても、受け入れるかどうか別の問題だ。耳の中に入れられても、胸の奥には留めては置けない。
 だが、ここまで来たのだ。俺とて今更、それを嘘だとの一言で蹴り飛ばしたりする気もない。しかし、水木を知るにつれ、別の理由でそれが受け入れにくいものとなっていくのもまた事実だ。
 嘘ではなく真実だからこそ、困るものもある。
「俺は、そう思っている。わかるな?」
「……だから、何…?」
 だから、こんな風に構うのだとでも? それを俺に納得しろというのか?
 惚れた、が免罪符になるのは、相思相愛の場合でのみだ。俺と水木に、それは適さないだろう。惚れているから、住んで欲しい。それはただの水木が放つ言葉でしかなく、想いが事実であったとしても、俺は自分に向けられる行動と一致させる事は出来ない。この男の言動は、誰が見ても明らかにちぐはぐだ。
 俺を手懐けたければ、戸川さんのように笑っていれば良かったのだ。話しなどせずに、頭から押え付けてでも従えさせれば良かったのだ。無視をする割には構い、強引な割には伺いを立てる。どこまで行こうと、俺にはそんな水木が理解不能だ。この男を判りきる事は、本人が普通にならない限り、これからもないだろう。
 判りそうで判らない、そのあやふやさが腹立たしい。単純かと思えば、難解な事を言い、俺を惑わし不安定にするところが忌ま忌ましい。
 こんな風に話が噛み合わなくなれば忘れてしまいがちだが、水木に頼った自覚は俺にもある。だが、それとこれとは別なのだ。甘えているなと、申し訳ないなと大人しくすると、決まってそれを突きにくる。行動ではなく、水木のその根性が憎らしい。迷惑をかけた分を差し引いても余りある、陰険な攻撃が頭の理性を奪う。
 父親なら兎も角、赤の他人の水木に対しこんなにも感情を揺さぶられるのはおかしいと、俺だって言い合う度に思う。他人は勿論、相手はひと回りも年上で、ヤクザなのだ。頭に血が上ろうと黙って堪えるべきであり、歯向かうのならば覚悟を持つべきなのだ。それなのに、俺は子供のように、苛立ちを素直に見せてしまっている。奇しくも戸川さんに語ったとおり、大型犬に吠える小型犬のようなのだ。そんな自分がまた、歯痒い。
 水木と向き合うと、父と向き合う以上に。自分は何も出来ない子供なのだと、口ばかりの餓鬼なのだと、そう言われているように感じる。それが遣る瀬無くて悔しくて、不必要に声を荒げてしまう。水木の行為は本物なのだと憶測できても、ふざけているのかと思ってしまうのは、信じたくないからだ。信じる必要が、見えないからだ。
 そんな相手と、一体どう穏やかに付き合っていけると言うのだろう。どう考えても、無理だ。
「俺をここに置きたいから、振り回すの…?」
「振り回したいとは、思っていない。だが、実際に振り回しているのは確かだ。自覚はある」
「…だったら、もう止めてよ」
「止める気はない。お前が弱っていたら、俺はそこに付け込む。困らせるとしても、悩ませるとしても、だ。可能性があるのならば、そこを突く」
「酷いな……」
 また何を宣言をするんだと、俺は眉を寄せそう呟いた。判ってはいたものだがはっきりと言葉で示され、つい落としてしまった俺の正直な感想に、水木が微かに口角を上げる。…この男の笑いのポイントは微妙だ。何故にここで笑う。物凄く卑怯な事を言っている自覚はあるのか?
「酷いのは、当然だろう。俺はヤクザだ」
「…………」
 …開きなおるな、外道。アンタの惚れたは、相手の隙探しなのかよ、クソッ。そんな嫌なアプローチは、断固受付拒否だ! 弱みなど見せるか、困ってなんかやるもんか、悩む前に全てゴミ箱に捨ててやるッ!
「…ムカツクッ!」
 何て事を言われているんだと。だからどうして、こんな一方的な攻撃を受けねばならないのだと。あまりの言い草に瞬間沸騰した血を抑えることは出来ず、俺は盛大に顔を顰めそう吐き捨てた。だが、水木はしれっとふざけた言葉を返してくる。
「腹が立つのならば、お前も同じようにやり返してみろ。ヤクザをこき使っても、良心は痛まないだろう。利用してみればいい」
「…無茶苦茶だ」
「一方的にやられるよりも、いいだろう?」
「…………」
 一体なにがどう良いのか。意味不明だ。確かに、ひと泡吹かせてやりたいと思った事もあるが、本人に言われてやるのに何の意味がある? それでは納得のいく効果は得られないだろう。するだけ無駄だ。
 何より、水木は根本的に間違っている。ヤクザは悪行が当然なのだとしたら、一般人の同じ行いは、ヤクザよりも性質が悪い事になる。だから、水木のそれと、俺のそれは違う。罪は確実に、俺の方が重い。
 やられたからと言いやり返したならば、痛い目を見るの絶対に俺の方なのだ。こきなど使えない。まして、それに正当な理由があったとしても、俺には無理だ。ヤクザを利用し気にせずに居続けられる程も、肝は座っていない。
「……やられたからやり返す、だなんて…子供だ」
 俺のそれをわかっていての挑発なのだろうか。そう考えると、言い返すのは更に隙を見せるのと同じだとわかりつつも、俺は気付けば抵抗を口にしていた。…バカだと、俺は馬鹿だとつくづく思いしる。どうして、このまま立ち去らないのか。水木を相手に意地になる自分が、情けない。
「子供でいいだろう」
「良くない…」
「やり返してみろよ」
「……アンタ、本気かよ…?」
「俺は、お前が子供になれば良いと思う」
「……」
 思うと言う事は、今は違うと認識しているのかと、意外な返答に少し驚く。だが、今更だが同時に気付いた先の会話の真意に、俺の意識は一瞬過去へと飛んだ。
 泣けと、甘えろと。真剣にそう言った水木の声が、耳奥に蘇る。あの会話で、何故リュウが出たのか、今漸く判った気がする。水木は、俺を貶した訳でも、からかった訳でもないのかもしれない。だが、言葉にしたように、自分が見限らない事を俺に伝えたかったばかりでもないのだろう。また、俺がそう出来ない事を指摘し矯正を諮ったのでもなく、単純に、ただ。
 ただ、水木は、自分が甘えて欲しいのだと。そう言う意味を込めて、言っていたのかもしれない。
 だが、だからと言って。それが俺の何になるだろう。
 子供は、親に愛されている事を、疑わなければ考えもしない。無心に、愛情を求め信じている。幼い子供だからこそ当然なそれを、俺だって羨しく思わない訳でもなければ、悲しく思わない訳でもない。だが、俺はやはり子供ではない。なくしたそれを再び手に入れようとは、思わない。年を重ねた事を、悔いてはいない。子供には、戻りたくはない。
 水木がどんなに言おうとも、どんなに求めようとも、この男は俺の親ではないのだ。そして、俺もまた、何も知らない幼子ではない。与えられるものを当然と受け取るには、多くのものを知りすぎている。
「俺は…子供じゃなく、大人になりたいんだ」
 例え水木の言動が、全て俺を想ってのものでも。俺を優しく包む愛情を、この男が持っているのだとしても。俺には、それを受ける気は、やはりない。子供のように包まれるだけで満足出来るほど、無欲ではない。幼子と違い、成長した俺の手は大きいのだ。当然、それに見合う分だけのものを掴みたいと思う。しっかりと、握り締めたいのだ、全てを。
「自分の事は自分で出来る、大人になりたい」
「……」
「誰にも迷惑をかけたくはない」
「それは、大人じゃないだろう。ただの孤独な人間だ。人が人と関わる限り、そう言ったものを避け切れはしない」
 確かに、そうだろう。俺とて、本気でそれが実行出来るとは思ってはいない。だが、餓鬼のような事はせず、もっと俺が大人な態度をとる事が出来ていたのならば。俺は、両親とも水木とも、こんな風にはなってはいないだろう。そう思うと、子供のような真似は、例え誰かがさせてくれるのだとしても。その方が楽なのだとしても。進んで出来はしない。
「…今の俺は、大人でも子供でもなく中途半端だ。だったら、孤独でも何でも、その方がいいんだよ」
「良くはない」
 俺とて最善を述べた訳ではなく、やむを得ず比較して紡いだそれを、水木は即座に否定し言葉を続けた。
「お前は、ここに住め」
「……」
 馬鹿のひとつ覚えかと、アンタはそれしか言えないのかと、瞬時に思う。だが、流石にそう言ってあたる事は出来ない。子供と大人の話をどう繋げ、しつこくもこの文句を言うのか。その回路はわからないが、答えとして出されたそれは、偽物ではないのだろう。言動と行動が揺らぎきっている俺よりも、強引でもその求めがはっきり一貫している水木の方が、全てに対して誠実なのではないかと思えるくらいだ。
 それでも、突けるアラなど幾らでもある。ただ、この空気に飲まれているだけで、考えなくとも矛盾な点は腐るほど上げられる。だが、俺にそれをする資格があるのかが何よりも疑問で――。
「……そう出来たらいいと、俺も思うけど――」
 変わらずに真っ直ぐ向けられる視線を見返し、ゆっくりと告げる。
「だけど、やっぱり。貴方に甘えるのは、無理です」
 水木の自分に対する思いの深さに気付いても、それを覗き込む事は出来ない。はまり込んだら、終わりのような気がする。今の俺に出来るのは、胸の気持ちを鎮め、間違いのないように言葉を選ぶ事だけだ。
「甘えろ。俺は構わない」
「…俺が構います」
 誘惑だと、水木の言葉をそう思うのは、俺が惹かれている証拠だろう。父との事を考えれば、問題があろうと何だろうと、魅力を感じてしまうのは仕方がない。だが、だからといって誘いに乗ればどうなるのか、判りきっている。
「貴方の言うように貴方を利用したら、俺は自分が許せなくなるよ、絶対」
「お前が気に病む事は何もない」
「……俺はそこまで、貴方を悪人だとは思っていません」
 罪悪感と後悔を抱える事を判っていて、水木に甘える事は出来ない。実際にそれを選べば、俺は更に苦しむ事になるのだから無理だ。水木瑛慈と言う男は、両親は勿論、兄にも伯母にも、それこそ友人達にも理解して貰える人物ではない。ヤクザであるこの男の手を一時でも取れば、俺は多くのものを失うのだろう。
 両親との諍いの比ではない。


2006/03/05