17


「ならば、どうするつもりだ?」
 沈黙を挟んで落とされた問いは、どこか呆れの色が濃いものだった。頑なに断る俺に嫌気がさしたのか、飽きたのか。水木のその変化を思うと、勝手だと思いつつも、少し悲しくもなった。
 甘えろと、何度も言われておかしくなったのだろうか、洗脳されたのだろうか俺は。甘えられない自分が、歯痒くなる。踏み切れない自分が、駄目なように感じてしまう。
 このままでは、何を我慢しているのか、わからなくなりそうだ。
「親との問題は解決したのか?」
「…いいえ」
「どうする?」
「…どうにかなるでしょう……じゃない。何とかします」
「俺が出来る事はないのか?」
「出来る事…?」
 強引さは全くない伺いに、一瞬戸惑う。何だよ、こんな聞き方も出来るんじゃないかよ、と。今更、こんな聞き方するんじゃないよ、とうろたえる。
 水木の声は、まるで俺を心配する兄のようだ。
「何でもいい、言え」
「……」
 言えと言われても、何を言えば良いのか。水木が出来る事、水木にやって欲しい事、水木に望む事。それは何だろうと頭の片隅で思う俺の視界の中で、難しい問い掛けばかり投げて来る男がゆっくりと動く。泳ぐようにと言うのか、流れるようにと言うのか。存在感の大きさの割りには静かに、周りを侵す事なくキッチンから姿を現す。
 習得した所作ではなく、生まれながらに持っていたのだと思える仕草は、些細だからこそ余計に目につくようだ。本人の意識にはないのだろう、ついっとカウンターを滑った指先に、妙な味わいを覚える。もっと見ていたいなどと思ってしまう。
 だが、それは命を削る行為なのかもしれない。美しい美術品に魅入られた者の末路は、大抵がそうだ。水木にもその毒があったとしても、なんら不思議ではない。
「大和」
 数歩先まで距離を縮めてきた男を見上げ、俺は息を吐くとともに小さく笑った。
 惑わされた空気は、例え心地良くとも、俺には合わない。だから、焦る事も意地になる事も無く、ただ一歩。ほんの少しだけ、足を引けばそれで終わりなのだ。
「俺は、親と意見の違いで揉めているんです。出て行く計算をしているわけじゃない。相談をするのなら兎も角、それで他人に頼るのは、間違いでしょう?」
 水木の言葉に頷き逃げ道を確保するなど、卑怯としか言えない。たとえ一週間後に両親と決別するのだとしても、今はまだしていないのだから、何も選んではならないのだ。この時点で水木の世話になれば、俺は自ら家族を捨てた事になる。水木を利用する事以上に、俺はそれを後悔するだろう。出て行っても住める場所が見つかったから、父さんと母さんはもう俺には必要ない。――何の感情もなければそんな不義理も出来るのかもしれないが、俺は状況は兎も角、彼らを親だとこれでも認めているのだ。だからこそ、悩み苦しんでいるのだ。支援者を乗り換えるような、そういう事は出来はしないし、したくもない。自ら逃げ出す事で家族を捨てる様な行為を既に自分がしたのは確かでも、可能な限り捨てたくはないのだ。都合のいい自分勝手な思いしかそこには存在しなくとも、俺はやはり家族を手放したくはない。
 だから。これが今の俺が出せる精一杯の答えだと。例え間違っていようが愚かであろうが、これに対しての後悔はないと。自信と言うよりも、ただ己を信じて、俺は穏やかに言葉を紡いだ。まるで、水木を諭すかのように。いや、水木にも納得して貰いたいかのように、軽く笑いまで付ける。
 だが。
「間違っているかどうかは知らないが、わかる事はある」
 俺の笑いに答える事はなく、無表情とさえ言える真面目な顔で、水木は静かにそう言った。真っ直ぐと俺を見る眼は、内奥の力を教えるような、真剣なもので。
「……なに…?」
 問い掛ける俺の声は、何故か微かに震えていた。自分の顔から、笑いがスッと消えていくのが、見なくてもよくわかった。
「正しいかどうかではなく、いま一番重要なのは、お前自身だろう。違うか? 例えお前自身が違うと言っても、俺はそうだ。大事なのは、お前が助けを必要としているその事実だ」
「……」
「実際に今がその状況である事だ」
「…………」
「だからと言って、その役目が誰でも良いと言う訳ではないのは、わかっている。お前にだって、選ぶ権利はある。だが、他に適当な候補がいないのなら、とりあえず俺で手を打て」
「…とりあえずって、そんな……」
 常に見せている不機嫌なような無表情ではなく、水木は緩やかな笑いを作りながら言った。硬い表情ならば、また何をと呆れたのかもしれないが、意外なそれに思考が停止する。命令ではなく、俺は誘われているのだと実感すると、頭が瞬時に沸騰する感覚に襲われた。
「大和」
「…………」
 とどめの様に、目の前で優しげに名前を口にされる。免疫のない口説かれ方をされたように上がる俺も俺だが、水木も水木だ。ヤクザがそんな柔らかい声を出して言いのか?おかしいだろう…?
「ヤクザじゃなく、俺を見ろ」
 …こんな部屋に住んでいて、そんな存在感を持っていて、どうすればヤクザである事を忘れられると言うのか。無茶を言うな。普通に考えて、無理だろう。なあ。
「俺は信用に欠くか?」
 ……走って逃げ出したいと本気で思った事も、ふざけるなと抑えられない怒りに支配された事もある。そんな時は、見目の完璧さが相乗効果となりこの上なく胡散臭く思え、信用など出来るものではなかった。だが、一歩離れて見れば、嫌悪する人物ではない事も俺は判っている。だから。一般人がヤクザを信用して良いかどうかは疑問だが、きっと仲間内でならば信頼に足る人物なのだろうと憶測出来る。平気で人を無視するが、それでも不実さは皆無だ。信用しようと思える魅力は確かにある。だけど…。
「この部屋に住むのは、苦痛か?」
 爆睡した身としては、苦痛かと問われれば、違うとしか言えない。だが、重荷かと問われれば、俺はやはりまだイエスと答えるだろう。水木の告白とこの部屋への同居は、俺の中では切り離せない。水木の「惚れた」に、同じ言葉を返せないのならば、部屋は部屋だとは割り切れない。でも……。
「ここは嫌いか?」
 嫌いかどうかではない、ここは、この部屋は、水木なのだ。そしてその水木は、ヤクザなのだ。好きか嫌いかの俺の気持ちではなく、それ以前に受け入れられない問題がある。間違いなく、それは存在するのだから、答えは決まっている。そう、その筈なのに――。
「今この時点で、帰る場所がないのなら、ここに居ろ。一日でも二日でも、嫌になれば出ていけばいい。家族のところに帰るのでも、一人で暮らすのでも、別の誰かと住むのでも。新たに場所を見つけたら、そこへ行けばいいんだ。出て行く事を止めはしないと約束する。逆に気に入ったのならば、ずっと住めばいい」
「……」
「ここでの生活は、多少何らかの事を頼むだろうが、それは安全の為だ。お前の人権を奪うような事を強制するつもりはない。嫌なものは遠慮なく嫌だと言えばいい。お前を縛る事はしないと誓う。俺に気を使う必要もない、何でも好きにしろ。それこそ、女遊びをしてもいい」
「…ンな事しませんよ……」
 俺の沈黙を挟みながらなのでゆっくりとだが、それでも向けられた言葉は沢山で一度には処理など出来そうもなく、俺はそれを後回しにする形で最後の発言に突っ込みを入れた。女遊びって…タラシみたいな言い方はやめてくれ。俺は男前なアンタと違って、モテないんだ。遊びたくとも、遊べないんだバカヤロー。普通に、「恋人を作っても構わない」とか言えよ。微妙に玄人なオヤジ発言をしないで欲しい。
 ……って言うか。本気で、こんな事を言っているのか?
「……貴方はそれで…いいの?」
 ここまで言い寄り、住んで欲しいと訴えるわりには、それはおかしくないか?何をしてもいいだなんて、もう一切の関心を向けないみたいではないか。そんな奴を住まわせて、何になる?
 惚れていて、そばに居て欲しいと言うのならば。俺とでは女のように身体の関係はあり得ないとしても、それなりに上手くやりたいと思うものではないのか?幼子やペットのように、仲良くなりたくはないのか? それとも、俺がただここで過ごすだけで、この男は満足なのか?大事なのは、自分のそれだけなのか?
 水木の「惚れた」は、何なんだ?
「言っただろう。これが俺の妥協だ」
「……」
 妥協という事は、望んでいるものは他にもあると言う事で。それが何なのか、流石に思い付かないほど鈍感ではない。だが、俺のそれが正しいのならば、水木の「妥協」は間違っているようにも思う。訳がわからない。
「…妥協って、なに?」
 もしもそれが俺との仲ならば。妥協の仕方が違うのではないか?
 確かめる為に首を傾げると、少し長い沈黙を作りながらも水木は答えた。
「……俺は下手に迫って逃げられるよりも、お前がここで好きに暮らす方がいい」
「それが、妥協…?」
「俺の都合だ、お前が気にする事じゃない」
「…そう言われても……気にしますよ」
 っていうか。それ以上にサラリと言われた「迫る」も気になる。妥協を必要としない状況ならば、この男は俺に対して今以上のそんな行為をするというのか? それって、女性にするような類のものなのか? この、中も外も特殊な男のそれに興味が向かない訳ではないが、それ以上に恐ろしい。性的な意味で自分が対象の場合は、知りたくはない事柄だ。
 ……聞かなかった事にしてもいいだろうか? …いいよな。だって、確か先日もこの手の事を聞いて、結局良くわからなかったのだから、つまり水木もわからないと言う事だ。はっきりとしないのも微妙だが、それを掘り下げ、墓穴になる方が嫌だ。スルーに限る。
 だが。
「ここに居てくれるのならば、後は何も望まない。お前に俺を好きになれとは言わない。安心しろ」
「……」
 無視を決め込んだ途端、それは見事に破かれてしまった。言わなくても良い事を言うのは、俺ばかりではないようだ。だが、言う必要がある事を言わない男にこれをされるのは、どうだろうか。腹立たしい。
 こんな事を言われ、安心など出来るはずがないだろう。何を言っているんだと、この男は耐える自分自身に酔いたいのかと、頭が痛くなる。何故こんな事を言う前に、必要な努力をしないのか。理解出来ない。
「何で、そんな事を言うんですか」
 別に、水木のそれを応援する気はないのだが。頑張られても俺が困るだけなのだが。気付けば、不服そうに俺はそう言っていた。
「それは、違うでしょう」
 もっと俺の事を考えろとは言わないが、考え方を変えて欲しい。側に居てくれるのなら他を我慢する。本人はそれで良いだろうが、される方はどうなる。俺は嫌だ。それならば、まだ陰険に突かれている方がマシだ。だが何よりも、ベストなのは意思の疎通をし、互いに納得が出来る事だろう。妥協や我慢ではなく、水木は俺とそうする努力をまずするべきじゃないのか?自己満足で完結などしておらずに、だ。
 人の話を聞かずに強引に事を進めるのを改め、相手の立場や価値観の違いをもっと意識すれば、こんな風に大きな問題にはならないだろう。何故に妥協などと言い、今更物分かりのよい振りをするのか。卑怯だと、そう思う。
 しかし。
「貪欲に全てを願って何も得られない空しさを味わうよりも、俺は確実にひとつのものを手にする事にした。打算的だと、お前は詰るのか?」
 水木の問いに、俺はゆるゆると頭を横に振った。詰れる訳がないそれは、俺にも良くわかるものだ。自分の気持ちと両親の考えの中で迷う俺も同じ。俺も水木のように、どちらかを選ばねばならない場所に立っている。何かを選択する難しさ苦しさ辛さを思えば、怒る事も笑う事も出来はしない。
 けれど、だからと言って、この場合は頷く事も難しくもある。
 俺はそうでも、果たして水木の状況が本当にそこまでのものなのか疑問だ。俺は父に決断を迫られた。だが、水木に対し俺はそんなものを求めてはいない。何かを捨てろとは言っていないし、ひとつなら認めるとも言ってはいない。
 確かに、不快を与えられる事は多くとも、水木は俺に対して優しいと言える。見目や雰囲気に呑まれる事もあるが、怒鳴られた事も暴力を振るわれた事もない。俺がイメージするヤクザらしい粗暴さは皆無だ。言葉は少ないが、時として今のように話をするので、無口というわけでもないのだろう。丁寧に応えているとは言い難いが、本人の性格を考慮すれば、こんなものなのだとも思う。
 そんな風に、ある程度だが、俺はこの男を知っているつもりだ。しかし、水木は違うのか。今は良好とは言えない俺との関係を、どうにかしたいとは思わないのか。上手くやる為に、自分の行いを改善する気はないのか。
 水木の言葉を反芻していると、そんな疑問ばかりが沸いてくる。それとも、俺への思いはその程度で、努力などしたくはないのだろうか。本気で、先に言った通り、水木の言葉は俺を突く為の道具でしかないのか。
 互いを理解しようと話し合った事はなく、ただ自分の意見を述べあうしかしていないのに、早くも線を引く。しかも、自分勝手に決めた「妥協」を免罪符のように楯にして、俺を責める。何て勝手なのか。勝手すぎる、何もかも。全てが、いい加減だ。
 納得出来ない苛立ちとわけの判らない歯痒さに、水木を詰りかけ、俺は唇を噛み締めた。水木の自分に向けられる想いがやはり曖昧で、自ら言葉にして指摘するのは躊躇われる。一回りも年下の男を本気で口説いてきていたのならば、俺はきっと形振り構わず逃げただろう。からかっているだけなのならば、いい加減にしろと怖さを隠して怒っただろう。だが、どちらなのかはっきりと判らない場合は、どうすればいいのか。何度考えても、俺の中では答えは出ない。
 言葉をなくし俯く俺の髪を、水木が指で掬い上げてきた。上目遣いにそれを眺め、目を閉じる。
「…俺は……、貴方のようには、決められない」
 自分に何が言えるだろう、言う権利があるだろうと考えると、何も言えないように思えた。水木の告白にも同居にも応える気がないのに、何て考え方だと非難する事は出来ない。何よりも。
 水木に勝る点が自分にあるのか。それが俺には判らない。
「…家族も夢も……何もかもを掴み続ける力は、俺にないのはわかっているけど…。だけどだからと言って、ひとつだけを選ぶ事も出来ない。……こんな風にしていたら、直ぐに全てを無くすのかもしれないのに…決められない……」
 俺と言う人間は本人が思っていたよりもずっと、意志が弱く決断力もない、駄目な若者そのものだ。良い学校に通っている事で、他人より秀でていると自惚れていた昔がある分、今は逆に劣等感が増しているようにも思える。今の自分には、己に対しての自信など欠片もない。それは、母が言ったように俺もまた、職種で人の価値を計っているからなのだろう。医者になれず教員を選んだ俺は、冷静に見ればただの「脱落者」だと、他でもない自分がそう思っている。
 俺は数年後、本当に教師になった時、達成感を得られるのだろうか。医者になれなかったコンプレックスは、これからも全く持たないのだろうか。回りの友人や知人と、他人と比べる事は一切ないのか。――今は何も言えない。
「…俺だって、親にも自分にも甘えきってきた自覚もあれば、今尚そうであるのもわかっているんです。苦労している奴から見たら…俺は贅沢な程に恵まれていて、我儘もいい加減にしろと言うものなんだろうけど……。それでも俺にはもう……限界なんだ」
 優劣を感じる限り、もしかしたら、俺は医者を目指すべきなのかもしれない。その方が何らかの間違いに気付いた時、残るものは多いだろう。そんな打算をするのならば、ステイタスの高いものを選ぶべきなのだ。
 納得したくはなくても、本当は両親が訴える理論を俺はわかっている。多分ではなく、絶対に。彼らの言う事の方が、正しくはなくとも、間違いでもないと。親としては当然の行為だと、頭の片隅ではきちんと理解さえしているのだ。
 だが。今の俺にはそれを認める根性がない。間違っていないと頷いた瞬間、俺の中で大事にしたいものが確実にひとつ壊れるだろう。俺は何よりも、今はそれが恐ろしい。
 自分が初めて持った夢が望んだ未来が崩れたら、俺は俺をこれから先ずっと疑い続けるだろう。己の非力さを狡さを、ずっと非難し、自身を否定し続けるだろう。考えて、迷って。苦しみ抜いて見つけたそれをあっさりと手放す自分を、信じられる訳がない。
 そう。
 何よりも俺は、自分自身が信用出来ないのだ。
「…これ以上、他の事を考える余裕は…ないんです。だから、もう……」
 何も言わないで下さいと、困らせないで下さいと、俺は俯き半歩足を引いた。はっきりと最後までは言葉に出来なかったが、ニュアンスは伝わったのだろうか。水木の手が離れていくのを感じながら、ただのいい訳だと俺は思う。両親とのいざこざが解決していても、俺はこうして逃げただろう。
 余裕がないのは、考える事ではなく。俺は、自分の狡さを認めるだけの覚悟がないのだ。水木の言葉に揺らがない自信がないなのだ。だからこそ、下手ないい訳で逃げ出すなんて事が出来るのだろう。
 俺でなくとも、こんな人間は信用出来ないはずだ。
 それなのに。
「……そうか」
「……」
「わかった」
「…………」
 勝手な言い分に過ぎないそれに気付いていない訳ではないのだろうに、水木は納得したのか体を離した。自分の事に精一杯で、逃げる為に適当に紡いだ俺の言葉を、驚く事に水木は受け取った。
 …いや、この場合、受け取ってくれたと言う方が正しいのだろう。
 水木は、俺をこのまま逃がしてくれるのか? 今のをいい訳だと知りながらも…?
 己が口にして並べた言葉を恥しく思いながらも、思わぬほどの水木の引きのよさに呆然となる。こう思うのは、間違いなのだろうが。余りにもあっさりとし過ぎていて、物足りなくさえ感じる。
 そう言えば。先日も、こんな風に。水木はあっさりと、告白をかました後、何事もなかったように去っていった。
 これって、どういう事だ…?

「服はどうする」
「…えっ、あ……服?」
「昨夜のお前の服は、洗濯中だ。乾燥が終わるのを待つか、それとも、このまま今すぐ帰るか」
「…あ、…えっと……」
 自分の服がどうなっているのか。そんな事は考えもしなかった。水木に言われ漸くそうだったと思い出した俺には、どうすればいいのか即座には決められない。説明をされても、服よりも水木の「わかった」発言の方が頭を回る。一体、何をどう納得したんだろう…。
「えっと、あー…。ど、どうしようかな……」
 目が泳いでしまう。
 折角洗ってくれているのを、洗濯機を停止して取り出し持ち帰る――なんて真似は流石に出来はしないし、かと言って待つのも嫌だ。気まずすぎる。だが、日を改めて取りに来るのも何だし、処分してくれとも言い難いし…。
 不意打ちに小さなパニックに陥りかけ俯いた俺は、それでも頭は動いているのか新たな事にも気付く。俺の服ばかりではなく、このまま帰れば、今借りている服を返しに来ねばならない。……待つしかないのか、これは…。
「帰宅は急ぐのか」
「…叔母が心配しているので、出来れば…早く帰りたいなと……。急いではないので、あくまでも出来ればですが……」
「そうか。なら、行くぞ」
「え…?」
 戸惑う俺を気にする事なく、水木は廊下を目指し足を運び始めた。向けられた背中に、思わず手を伸ばす。だが、自分の行為に気付いた瞬間、俺は慌てて腕を下ろした。
 …驚いたからと引き止めて、掴まえて、どうするんだよオレ。下手に手を出せば、噛み付かれるかもしれないのに……いや、流石にそれはないか…。
「服は明日にでも、誰かに届けさせる。それでいいな?」
「えぇ、まぁ…」
「今着ているそれは捨てるなり何なり、お前の好きにしろ」
「……ハ?」
 水木の後を追いリビングを出たところで、決定事項のように言われた。確かに自分の服は、明日でも一週間後でも一年後でも、全く問題はない。だが、それにはきっちりはっきり突っ込ませて欲しい。
「ちょっと、待って下さい。捨てるだなんて、そんな事、出来る訳がないでしょう。ちゃんと洗ってお返ししますから」
 そう言えば俺が借りた服を簡単に捨てる人間だと、そこまで恩知らずの礼儀知らずだと思われているらしい事が、とてつもなく悔く感じた。
「……」
「水木さん…!」
「……言っただろう、好きにしろと。それよりも、忘れ物はないな?」
「…………はい」
 納得しかねる言葉であったが、それ以上突き詰める事は出来ず、俺は低い声を絞り出す。
 勢いのまま飛びだしてきたのだ。忘れる程の物は、始めから持ってきていない。服がそうと決まれば、後は携帯だけだ。自転車の鍵すらない。
「…大丈夫、です」
「……」
「…………」
 俺の返答を聞いているのか、いないのか、無言が返される。上がる音は、二人の足音だけだ。ウエイトの割りには軽く静かに床を打つものと、ペタペタと子供の様なものが、ひとつずつ。単調なそれはまるで永遠に鳴り続けそうな錯覚を引き寄せてくるが、当然の事ながら、そんな訳はない。
 水木は玄関に着くと直ぐに靴を履き、扉を開けた。重厚なドアに半身を預けるように体を捻り、漸く俺に視線を向ける。
「…帰るんだろう」
 見られた事で反射的に足を止めてしまった俺は、水木の問いに一呼吸の間を置き頷く。
「……ええ」
「なら、早くしろ」
「……」
 怒られた…と言う程でもないが、それに近い言葉で促された。確かに、帰りたいと言いながら行動が遅れぎみなのは、先導に立つ水木にすれば苛立たしいものなのかもしれない。だが、散々さっきまで粘っていた奴がヒラリと態度を変えたら、戸惑うのが当然だろう。自分が悪い事をした自覚がある分、どうしようと、これで本当に良いのかと、迷ってもおかしくないだろう。大人気ない、急かすなよ。
 何だよ、畜生。俺はアンタと違い、切り変えが早くないんだよと少し不貞腐れながら、俺は靴に足を突っ込んだ。しかし、湿っている上に裸足であるので滑りが悪く、スニーカーを履くのに思った以上の苦労を強いられる。爪先を床に打ち付けてもなかなか履けず、しゃがみ込んだところで無言の視線に促され、仕方なく俺は直ぐに立ち上がった。
 この際、靴は後回しだ。
「……済みません」
 そう小声で待たせた謝罪を述べながら、水木の前で軽く頭を下げ、開けて貰っていた扉をくぐる。靴の踵を踏みつぶしているので、必要以上にひょこひょこ上下しながら俺は数歩進み、通路の端で腰を曲げた。再び靴と格闘する俺の横を水木が通り、エレベーターパネルを操作する。
「…来るぞ」
「あ、はい」
 水木の声に、紐を解かない限りは無理そうだと諦め、俺はサンダルもどきで駆け寄った。シュッシュッと靴底が床と擦れる音が間抜けだが、仕方がない。行儀は良くないが、見学者が水木だけなのだから、今更格好を整える必要もないだろう。何よりも、この服装だ。気にする意味もない。
 半ばヤケクソ気味にそう開き直り、タイミング良く開いた箱に俺は乗った。だが。
「え…?」
 振り返り、お世話になりましたと挨拶をしようとした俺の横に、水木が並ぶ。
 ……何故、アンタが乗る…?
「もう、ここでいいですよ…?」
「……」
「…水木さん」
「……」
 返事もせずに扉を閉め、水木は一階へのボタンを押した。多分、セキュリティシステムの都合上ではなく、外まで送ってくれるという事なのだろう。
 だが、こんなところは律義だとしても、複雑だ。嬉しくない。それよりも前にまず返事をしてくれよなと思いながら、俺は表示される階数を眺めた。順番に順調に、数字が小さくなっていく。外の景色は見えないのでよくわからないが、多分、普通のものよりも早い速度で降りているのだろう。けれど、浮遊感はそれ程でもない。高層タワー並みの、性能の良いエレベーターなのかもしれないなとそう感じても、流石高級マンションと思うだけで、最早驚く気にもならない。勝手にしてくれ、だ。俺には関係ない。
 よくドラマや小説で、住む世界が違うだとか何だとか言うが、現代の日本でそれってどうよ?と俺は思っていた。貧富により価値観や生活観の違いはあれど、世界観まで違う程そこに差はあるのかと。アラブの大富豪と独裁政権下で喘ぐ貧民や、イギリス貴族とジャングル奥地の少数民族ではないのだ。日本人同士の中での差など、差にもならないだろう。本気でそう思い呆れていたが、今ならその言葉が良くわかる気がする。
 人間は、下は簡単に見るが、上からは目を逸らすものなのだ。羨みはしても、自分を守る為、心底から理解はしないものなのだ。
 俺は、自分よりも格段に上に立つ水木に触れ、自分の世界にはない世界を垣間見た。そこから見る俺は、遥か遠い地面の上で、ちまちまと生きている奴だ。下がそんな自分となれば、上と一緒だと、同じ世界だと認めたら虚しさが生まれる。差がある事が、納得に繋がる。立場が逆であるのならば、違う答えを持つのだろうが、下である限りはこの考えを持ち続けるものだろう。それが普通だ。何も、卑屈になり思っている訳ではない。
 ヤクザと堅気と言う立場の違いも大きいが、相容れる存在ではないよなとシミジミ思う。全然そんな気はないが、将来俺がヤクザになる可能性は、生きている限りゼロではない。だが、水木のような生活を送る事は、絶対にないだろう。ヤクザに落ちながらも、その中で上を目指す根性が俺にあるのならば、こんな風にヘコタレてはいない筈だ。それこそ、医者でも何にでもなっている。
 環境よりも、何よりも。水木瑛慈と千束大和は、世界という概念そのものが重なりはしないのだろうなと。良くわからないのにそれらしい言葉を当て嵌め、俺は頷いてみる。…我ながら、バカだ。だが、そう外れたものではないとも思う。

 そうこうして独り遊んでいるうちに、途中で停まる事なく、エレベーターは一階に到着した。開かれる扉に俺は体を滑らせ、素早く振り返る事で水木の行く手を塞ぐ。降りるのは、俺だけで良い筈だ。
「ここまでで、結構です」
「……」
「色々ご迷惑をお掛けしました。生意気な事も言って、済みません。本当にお世話になりました、ありがとうございました。では…」
 また、と。思わずそう言いかけ飲み込み、正しい言葉を落とす。
「…さようなら」
 もう会う事はないと、その意味を込めての別れの挨拶をする。水木は、俺の服は誰かに届けさせると言った。ならば俺もそう、宅配便にでも頼む方がいいのだろう。また明日、また今度。そんな約束めいたものは、必要ない。だから、ここはサヨナラが適切なはずだ。
 だが、しかし。そんな俺の予想に反し、水木はスッと目を細めた。
「……」
 自分は間違っていないと思いながらも、男の圧力に顔が下を向く。それでもやはり、合っているだろうと、相手の無言に戸惑い迷い始める前に、俺は体の向きをクルリと変えた。逃げるが勝ちだと、足を踏み出す。
 しかし。そんな逃亡くらい、見逃してくれればいいと言うのに。
 いきなりグイッと腕を引かれ、体が後ろへ傾いた。上げた足は地面に着く事もなく空を蹴り、あろう事か、目的地よりも二歩後ろへと落ちる。しかも、足の下に靴の踵部分が折れ込んだお陰で体重を掛け損ね、結局踏ん張れずに俺はバランスを崩した。
 エントランスの天井が驚くほど高いと知りえたところで、何ひとつ嬉しくない。同様に、鼻の中がバッチリ見えるくらい下から拝んでも、この男は変わる事なくカッコイイ――と言うのも全然知りたくはなかったのだが…。
「送って行く」
 水木のそれを聞いたのは、両脇を後ろから抱えられた姿勢でだった。ふざけた態勢だ。有り得ない。だが、有り得ないついでに、腰を引き膝も曲げた妙な状態で両肩を男の堅い腹に預けたまま、俺は答える。
「いや、でも自転車が…」
 ……って、違うだろう。真面目に答えていずに、何よりもまず立ち上がれよオレ。クララもジョーも、立ったんだ。俺にだって出来るだろう。
 さあ、立て!
 あまりにも馬鹿らしい状態に呆然とする自分に、俺は同様の馬鹿らしいネタでそう喝を入れる。だが、まるでヨガでもしているようなポーズは、肩が固定されていては思う様に動けない。
「気にするな」
「……しますよ」
 ってか。アンタはもっと、色んな事を気にしてくれ。差し当たっては、今の俺の格好のおかしさに気付いてくれよ、頼むから。
 一体、何なんだ。この、お菓子売り場で座り込んだ子供を親が背中から抱え起こしそうとするような図は。俺が抵抗する子供で、水木が引き摺ってでも売り場から離そうとする親と言うのは――嫌だ。嫌過ぎる…。
「置いておけばいい」
「通学に必要ですから、無理ですよ…」
「ならば、直ぐに取りに来ればいい」
 妙な格好を保つ為に、体に無駄な力が入る。このままでは肩が張り、背中がつりそうだ。全く、何だと言うんだ。協力しないのなら、引き起こしてくれないのなら、腕を放してくれよなと思いつつも、自力で何とかするべく俺はそのまま床に尻をついてやった。必然的に腕が上がり、水木の胸を叩くが、流石に謝る気にはならないので無視だ、無視。そうして、俺は体を捩りながら水木の拘束から抜け、膝を軽く立て、立ち上がる。
 邪魔される事なく脱出が成功したので、引き倒された事実はこの際忘れてやろうと溜飲を下げ、発言の意味を問い返す。
「それは、どういう事ですか? そんな面倒をしなくても、」
「来たついでに、泊まればいい」
「……水木さん」
 俺の声を遮ってまで言われた言葉は、水木が何に拘っているのか知らなければ、全く意味が通らないものだった。だが、多少は心当たりも関係もある俺は、嬉しくない事に判ってしまう。しかし、だからと言って成る程と頷けるものでもなく、グドイぞと呆れるしかない。ついに頭の血管でも切れたのか、何なのか。おかしさが倍増だ。何を子供の様な屁理屈を言うのかと、それを通し切ろうなどふざけきっているぞと、俺は尻を払うのも忘れ溜息を落とした。立ち上がった途端、座り込みたくなったぞオイ…。
「自分が何を言っているのか、わかっていますか?」
「……」
「…………」
 勘弁してくれ。俺は教師になりたいと思ってはいるが、まだそれになってはいないんだ。こんな大きな餓鬼は、手に余る。
「…傘は、車だ」
「……アレはもういいです。お手数ですが、捨てて下さい」
 言っちゃ悪いが、情けないぞ水木瑛慈。傘なんかで気を引こうとは。ヤクザが聞いて呆れるぞ。
 だが、見目がこれなので違和感はあるが、俺が見て来た水木瑛慈と言う人物はこういう面ばかりの様な気もするなと記憶を手繰る。言う事はいちいち突飛で、中身を疑いたくなるが。いつでもこの男は、子供のように…いや、子供以上に真っ直ぐだ。今もそう。
「送る」
「……」
 俺なんかに、意地になる必要はないのにと。似合わない事を、勿体ない事をするなよと。呆れでも疲れでもなく、何だか水木が不憫に思えた。ここまでくれば、憐れにさえ思える。もっと融通が利くようにならねば、いつもこんな風にしていては、今は何やら上に立つ立場の様だが、その内飽きられるぞ。潰されるぞ。顔だけでヤクザ者達はまとめられないだろう、気を付けろよ。俺が言える事じゃないのだろうが、年相応にしっかりしろ。
 俺はそう思いながら、見下ろしてくる水木の眼を見返し、ゆっくりと頭を振った。頼むから、餓鬼相手にガキっぽい事をしないでくれ…。
「ひとりで帰ります」
「…………」
 静かに宣言すると、水木の眼が僅かに細くなった。鋭さを増したそれに、気圧され足を引き掛けたその時。
 視界が何故か、グシャリと潰れるようにぶれた。ガツンと、どこかで大きな音が上がった。
「……痛ッ…」
 肩が、痛い。じんわりと熱が生まれていく。
「……」
 気付けば俺は、エレベーターの中、壁に凭れて立っていた。水木に引かれ、中に突き入れられたのだと。その際、扉に肩をぶつけてしまったのだと、遅れて知る。
 閉まる扉の前には、男の背中があった。
 男…? いや、同じ男としても、俺と同じところなどひとつもない。これは、ヤクザの背中だ。そう、ヤクザの…。
「…………」
 大きく揺れる事なく、静かに箱が動きだす。状況が飲み込めず、壁に背を預けただ前を見ていると、水木が振り返り腕を伸ばしてきた。手首を掴まれ、それを見下ろした途端、俺は恐怖に似た焦りを覚える。握られた箇所からゾクリと何かが這い上がってくる感覚に、慌てて水木を押し退けようとしたが、びくともしなかった。逆に拘束をキツくされ、俺の喉から呻きが零れる。
「……ッ」
「……」
「な、何で…」
 何故、どうして!? 何がどの部分が、今になり、そうも気に触ったのか。今までも口も性格も態度も、俺は取り繕う事なく、すべての悪さ具合を見せて来たのに、どうして今更怒るのか。ムカツクのなら、腹立たしいのなら、最初からそう言ってくれれば、俺だって大人しくしたさ。だが、それを特に何も言わず容認したのは、誰でもないアンタだろう。それなのに、今になってそんな…!
「ちょっ…ちょっと、待って!放せよッ!」
「…行くぞ」
「ッ!?」
 行くって、何処へだ!?
 驚くばかりで声には出せなかった俺のその問いに答えたのは、水木ではなく軽い音だった。目的地の地下に着いたエレベーターが扉を開けると同時に、吐き捨てられるかの様な勢いで、俺は腕を引かれ駐車場へ飛び出す。足の長さが違うからだろうか、身体と心が恐怖に支配されかけているからだろうか。前を行く水木はどこか悠然と歩いているというのに、俺は小走りに足を運ばねば腕が千切れそうだ。
「み、みず…」
「黙れ」
「……」
 気圧され、命令通りに口を閉ざす。だが、体の中から湧き上がってくる熱に、俺は直ぐに口を開け震える喉で息を吐いた。深く空気を吸うと、打ち付けた肩が痛みを訴える。
 何がなんだか判らないが、怖さにではなく、遣る瀬無さに押し潰されそうだ。今こうして水木に俺の手を引かせているのは、俺自身なのかもしれない。そう思うと、心にかかる重圧に、息さえも出来なくなりそうで。
 怒らせて始めて、今までの不機嫌は、苛立ちにもなってはいないものであった事を知る。この男も、こうして普通に怒りを見せるのだという事に、俺は自分の思い違いを知る。
「乗れ」
「……」
 白い車の助手席ドアを開けた水木が、俺の腕を掴む手の力を強め、短い命令を落とした。グイッと引かれ、止まったばかりの足が半歩進む。
 この状況で、車に乗れるわけがなかった。だが、肩を押され、無理やり体を曲げさせられ、中に押し込まれる。抵抗など、する暇も隙もない。
「足、上げろ」
 俺の靴を軽く蹴りながら、水木はそんな要求をしてきた。だが、俺には飲めないものだ。飲めるはずがない。
「い、嫌だ…!」
 必死に車体を掴み外へ出ようとするが、簡単に指を外され、再び座席に戻される。もう一度、何度でもと、再び伸ばした腕は、また水木に捉えられた。
「水木さ――ッ!」
 止めてくれと続けようとした呼び掛けは、ガクンと体を襲った衝撃に粉砕される。
 ぶれた視界が正常に戻った時。目の前に、水木の顔があった。その向こう、手を伸ばせば届くぐらいの距離には、ルームランプが燈る天井。座席を倒されたのだと理解出来たのは、整った顔に視線を戻した時だった。
「な、な、何を…!」
 何をするんだと、反射的に胸に抱いていた腕を伸ばし、水木の顔を押し上げる。同時に、本能が身の危険を感じたのか、膝を曲げ相手との距離を作る。
 俺の動きに反応した水木は、直ぐに身体を外へ滑らせた。男が何もせず離れていった事に、詰めていた息を零しかけ――パタンと静かに閉められたドアに、俺は現状を思いだす。
 待てよ、これって…。まんまと閉じ込められているじゃないか!
「……ちょっ!」
 だから、オイ!俺は車は嫌だって言っているだろう!
 慌てて起き上がり、ノブを引く。だが、無情にもドアは開かない。何故だと引き続けていると、「…壊すなよ」と囁く声が耳に飛び込んで来た。
「ヒャッ! ――イッ!」
 耳穴を擽られるその感触に、ノブを離し左耳を押さえながら振り返り体を引く。だが引くだけの空間的余裕はなく、ゴンッと俺はスモークガラスに側頭をぶつけた。凄い音がしただけあり頭はかなり痛いが、それよりも耳だ耳。
 未だに耳の中で水木の息が動いているような感触に、俺は耳全体を片手で掴む。ナメクジに占拠されたかのような気持ち悪さだ。堪らない…。
「…その程度じゃ、その窓は割れないぞ」
「な、何…?」
「防弾ガラスだ」
「…………え…?」
 静かにそう答えながらエンジンをかける水木を見つつ、今の会話を頭の中でもう一度繰り返し、気付く。…何が、防弾ガラスだ! 俺はそんな事は全然聞いていない。聞きたくもない。第一、俺が窓を割ろうとする訳がないだろう…! それも、頭突きでそれが可能だなんて、幾らパニックになろうと考えはしない。馬鹿にするなッ!
「ベルト、しろよ」
「…ロック外して下さい!」
「しないと、また頭をぶつけるぞ」
「いいから降ろし――水木さんッ!」
 俺の訴えを完全に無視し、水木はアクセルを踏んだ。加速による重圧に、慌てて態勢を正す。命は惜しいのでシートベルトに手を伸ばしたところで、俺はハタと重大事項に気付いた。
「ア、アンタ、飲酒運転じゃないかッ!」
 風呂上がりにビールを間違いなく飲んでいた男に、思わず怒鳴る。だが、相手はチラリと横目で俺を見、開き直るかのような発言をした。
「何時間前の話だ」
「なっ!? 何時間も経ってはいない!」
「ビールだけだ、問題ない」
「ビールもアルコールだろう、降ろせよ!」
 シートベルトを気にする奴が、何故に平気で飲酒運転をするのか理解出来ない。全然全く酔ってはいないのだろう事はわかるが、これはモラルの問題だ。ヤクザにそれがなくとも、俺にはある。飲酒を見逃す事は出来ない。運転など任せられるか!
「俺は酒を飲んでいるヤツに、命は預けられない!」
「…だから、ベルトをしろと言っている」
「それとこれとは別だッ!」
 問題はそこじゃなく、アンタだ!と。続けてそう叫ぼうとした時、ハンドルを掴んでいた水木の手が、俺の目の前に来た。何だ!?と思うよりも早く、鈍いブレーキの音が耳に響き、体が放り出されるように前につんのめる。そんな俺を、伸ばされた腕がしっかりと支えた。
 シャツ越しの水木の体温を感じる前に、車が完全に止まる。
「…………」
「大丈夫か?」
「…ナ、ナニ……?」
 一体、何が起きたんだ…?
「猫だ。猫が降ってきた」
「……ふ、降る…?」
「塀から飛び降りたようだな」
「……はァ?」
 ガラス越しに外の様子を伺っていた水木が、腕を更に伸ばしシートベルトを引っ張った。自分の体に回されるのを、俺は手も出さずに放心状態で眺める。
 要は、突然猫が車の前に飛び出して来たと言うだけの事だろう…?それで、これか?衝撃が激しすぎだ。……やっぱりアルコールのせいで、注意力が散漫しているんじゃないか…? 危ない、危なすぎだ…。
 っていうか。
「……まさか、轢いたの…?」
「いや、走って逃げていった」
「……そう、良かった…」
 水木の答えに、心の底から俺は安堵する。運転していたのは俺ではないが、水木の冷静さを欠かせた一端が自分にあるのだとすると、猫が犠牲になっていたら悔やんでも悔やみ切れないだろう。本当に無事で良かった。だが、そう胸を撫で下ろしはしても、簡単に動悸は治まりはしない。…落ち着いて考えて見れば、何てお騒がせな猫なのか。ビックリした、死ぬ程驚いた。ヤクザの車の前に飛び出すとは、なかなかやってくれる猫だ。クソ猫メェ、当たり屋かよ。
「平気か?」
「…はい」
 騒ぐ心臓から意識を逸らそうと、目にはしなかった猫を相手に唸る俺は、水木の問い掛けに反射的に頷いた。頷いた後で、平気なんだろうかと考えてみる。…とてもではないが、何処をどう取ろうと、平気ではない。問題だらけだ。問題しかない。だが、そう言う事を聞いているのでもないのだろう。
 水木は「そうか」と応えると、直ぐまた車を走らせ始めた。俺を降ろす気は、やはりないようだ。しかし、こちらとしても今ので何だか気が削がれてしまい、停めてくれ降ろしてくれとは言えない。言いにくい。

 これは、多分、猫のせいではない。
 俺を支えた水木の手が、俺を躊躇わせているのだ。


2006/03/09