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 予想に反し、猿でも出来るそれをきっぱりと否定され、俺は素っ頓狂な声をあげてしまった。オイオイ、こいつは猿以下かよ?なんて茶化そうにも、苛立ちが沸々と沸き上がってくる。普通は嘘でも何でも、ここは「ゴメンナサイ」だろう。「しない」とは、また、良く言えたものだ。
 この際、もう反省はいいから、せめて人間になってくれ……。
「……困らせたくはないって、アンタ、言わなかったっけ…?」
 疑問の確認ではなく、教えるように俺は敢えてそう口にする。正直、水木との会話は驚くばかりで良く飲み込めないのだが、確かにそう言ったのだ。俺を困らせるしかしないのに、何を言っているのかと呆れたから、それは絶対だ。間違いない。だが、だからと言って別に、言った事全てを守る人物だとは思っていないので、裏切られたとは感じないので責める気はないのだが。
 あれでこれでは何ともしがたく、つい突っ込みたくなるのはこの場合仕方がないだろう。
「言いましたよね?」
「…ああ」
「アンタ、俺で遊んでる…?」
「困らせたくないのは本当だ。だが、思うばかりで実際には困らせているのだろう、その自覚はある。だが、遊んではいない」
「…自覚、あるんだ?」
 あるのなら反省くらいしろよと嫌味を込めて返した言葉に、水木は「お前を見ていたらわかる」と、感情ではなく状態の説明をした。
「…………」
 ちょっと待て。色々突っ込みたいが、まず、何よりも。「見ていたらわかる」だと…? 他人の感情に鈍感なのか無関心なのだろうと思って諦めていたが、ちゃんと俺の心境をわかっていると言うのか、オイ。だとしたら、それは流石に冗談でも納得は出来ないぞ。俺がどん底に沈みもがいているのを知っていて、色々言って来ていたというのかよ。それって、考えずに自己主張するよりも性質が悪いんじゃないのか…?
「…だったら、やっぱり、遊んでるンじゃんッ!」
 意識せずとも、唇が突き出た。眉間に皺が寄る。前を行く車のブレーキ灯に触発され、興奮が増す。
「どういうつもりだ、反省しろよッ!」
「悪いとは思っている。だが、それ以上に嬉しいと感じる。だから反省はしない」
「…………ナニソレ」
 全く意味がわからない。もしかして、いい加減な発言をもって俺は喧嘩を売りつけられようとしているのかと身体を捻り横を向くと、「考えて貰えないよりはイイだろう?」と水木はシャアシャアと言ってのけた。
 ……まさか素、か?
 本気で、総てをそう考えているのか…?
 お前は好きな子をわざと苛める幼稚園児かよ……。
「…………」
 …脱力だ。
 完敗だ。
 ゴメンナサイ、お手上げですと俺は誰にだろうか心底から謝りながら、横のガラスに頭を預ける。これが柔らかい素材であったならば、俺は確実にめり込んでいるだろう。最早、何なんだではなく、何とかしてくれ!だ。
 この状況も、この男も、どうにかして欲しい。ドロンパと、魔法使いのように煙と共に消えてしまいたい。スライムのように溶けるのでもよい。色んな意味で身の置き場がない。例えそのスペースがあるのだとしても、置いておきたくはない。
 俺は自分の状況や、水木との関係で頭を悩ませていたはずなのに。何故に、どうして、水木そのものにここまで振り回されねばならない。自制心はないのか、この男は。世話焼きなのか構いたがりなのか知らないが、自分勝手なそれを撒き散らすな。対応に困る。もし、感染したらどうしてくれよう。俺はこれ以上、浮き沈みはしたくはないぞ…!
 引いては押し寄せる波のように、親切と傲慢を繰り返す水木は、まるで俺と同じだ。ループにはまった、馬鹿のよう。
 曖昧な夢に甘い理想に、当然な現実に厳しい状況に。驚き戸惑い、悩み考え、答えを探して迷う。動いた瞬間に足は止まり、見えない未来と通り過ぎる今と、振り返ればそこにある過去が混ざりあう。何をどう考えれば良いのかもわからず、思考はグルグルと同じところで廻り続けるのだ。踏み外す事なく。
 水木がそこまで、そんな風に俺のようにはまり込んでいるとは流石に思えないが。それでも、俺の戸惑いを考慮していない訳ではないのだろうに押してくるところは、親切に甘えながらも好意を否定する俺と変わりがない。どちらも迷惑極まりないものだ。確かに、性質が悪いのは俺の方だろうが、水木が同じくらいに大人気ないのも間違いない。
 俺達はどちらも、意地になった、ただのマヌケだ。そんなバカが二人で、何がどう出来るだろう。確実に、何も出来やしない。
「……嬉しいって、さ。俺は…確かに色々と考えてはいるけれど。だからって、それが好きって事でもないんだけど…?」
「わかっている」
 窓に話しかけるようブツブツと紡いだ言葉にも、きちんと返事がくる。答えを欲する問には無視をするくせに…。水木の会話の基準は、不明瞭過ぎる。第一、わかっているとは、何が解っているのか甚だ怪しい。俺は水木がわからず、それを憶測する事も出来ないというのに。何なんだ、全く。
「じゃ、アンタは、そんなのを本気で嬉しいと言っているのかよ?」
「そうだな」
「……変だ」
「そうかもな」
「…単純だ」
 自棄になったというよりも。怒られなかったので調子に乗り悪態を続けると、「ああ、そうだ」と変わらずサラリとした声が返ってきた。訊くしかないと問うてみてもこれなのだ、訊く意味がない。こちらが何を言っても効果はない、暖簾に腕押し、糠に釘、だ。身体から、空気が抜けたように気力が萎む。
 このモヤモヤを発散出来なければ遣り合う意味はないと、俺の気分はすっかり逸れる。言っても無駄な相手を、それでも負かそうと努力するような趣味は、俺にはない。ひとりで勝手に、己の可笑しさと向き合っていろ。
 意識を切り替えようと、そうして水木を切り離し、俺はガラスの向こうに視線を定めた。ビルの合間に見える太陽が、いつの間にか赤味を増している。気付けば、夕方と呼べる時間だ。特に何かをした訳ではないのに、早くも陽は傾いており、明日の顔を覗かせる。あと数時間で終わるこの休日は、何て最高な週末であった事か。思い返さずとも鮮明で、泣けてきそうだ。
 センチメンタルになるような暗闇はまだ訪れないが、それでも、黄昏だ。日中では思わない事を考えるのも、不思議ではない時間。夜に書いた日記は読めたものではないと言うが、沈む太陽を見ながら交わす会話もまた、聞けたものでもないのだろう。クサくて、寒くて、明日思い出したら死ぬかも知れないなと何処かで淡々と思いつつ、今しか言えないのだろう言葉を俺は紡ぐ。
「……でも、さ。いいかもね、そう思う事が出来るのは。俺もそんな風にさっぱり考えたいよ…」
 何となく浮かんで口にしたそれは、言葉にした瞬間、気紛れでも世辞でもなく、自分の本心なのかもしれないと思えるものだった。
 夕日の眩しさに目を瞑った俺には、隣を見る事は出来ない。だが、返る沈黙は無視ではないと、水木はちゃんと俺の言葉を聞いているのだと、何故か信じられた。そして、それは少し満足を覚えられる結果であり、その気分のまま俺は続けて口を動かす。
「ひとつの事だけを真っ直ぐ見られたらいいのに、多分、俺は欲張りなんだろうな。余計な事でも捨てられずにさ、ごちゃ雑ぜの中で考えるから、出す答えもグチャグチャだ」
 無駄だよなと、馬鹿だと思うだろうと、自虐ではなくただの事実として俺は述べる。水木のように、単純に思えたのなら、それを信じられたのなら。こんな風にグルグル廻ることはしていないのだろう。嬉しいから反省はしないと言い切ったように、俺もやりたいからやるのだと、そう声高に宣言出来たなら……。
「考え悩む事は悪い事ではない。いい事だ」
「……」
 こちらが認めた途端、意見を翻すかのような言葉を吐いた水木に、つい眉が寄った。真面目な生徒の模範回答かよと、意欲に燃える教師の理想論かよと、思わず胸中で詰ってしまったのも当然だろう。遠回りながらにも、水木の思考を褒めた俺の立場はどうしてくれようか。
 第一、何よりも。別にそう思う事自体は個人の自由であるので否定はしないが、ヤクザ男が「良い事だ」と宣言するのはどうだろうか。人を悩ませる存在そのものであるくせに、おかしいだろう。間違っている。
「……良くは、ないでしょう」
 けれども流石に、そこまでの突っ込みは出来ないので、俺はただ向けられた言葉を否定した。勿論、「だったらアンタももっと頭を使って考えろ!」なんて嫌味も言えはしない。言ったところで、水気には通じもしないだろう。
「俺は、考え過ぎて、こうなっているンですから…」
「考える余地を与えられない事の方が、苦痛だ」
「余地って…」
 また、何を言い出すのか。
 確かに、無理やり何かを選ばせられるのは苦痛だろう。それは、父にそれを迫られている俺にもよくわかるものだ。だが、それでも考える事は出来る。現に俺は色々考えている。考えたくはないが、考えられる。
 ならば。これが出来ない状況って、一体どんなンだよ? 即決を求められた時も、選択肢がない時も、頭があれば考えられる…よな? ……水木の言う状況は、現実的ではなく、よくわからない。
「考えなくていい事などない。なのにそれが出来ないのは、自己を失うという事だ」
「……考えられないって事が、有り得るの…?」
 それはただ、考えないだけではないのかと異論を述べると、短い沈黙を挟み水木は問うてきた。
「自分を捨てた人間を、お前は見た事があるか?」
「……」
 淡いが熱いと言うような、不確かだが温もりを覚える水木の声音に、自然と顔を向けてしまう。ハンドルを握る左手に、必要以上の力が籠っているのがわかった。だが、何を固くなる必要があるのか。俺には、向けられた問いの重みが、わからない。
 何も考えられない、自分を捨てた人――。それが、俺の問いに対する答えなのだろうか。わからないが、とても重大な事を聞いたような気はする。けれども、やはり、よくわからない。
 自分を捨てたと言う事は、それこそ自身で考えて思考を放棄したのではないのか?だったら、苦痛も何もないだろう。考える余地が与えられないのは、自業自得じゃないのか。
 水木の言葉は抽象的過ぎて、何ひとつ纏まらない。
 でも、何故だろうか。深く訊く事は躊躇われた。わからないままで終わらなければ、自分が壊れてしまいそうな、おかしな錯覚に襲われる。
「――お前は、誰かの。自分とは違う奴の道を歩いているのか?」
 信号で止まり、スクランブル交差点を渡る大量の人を見ながら、水木は続けてそんな質問を投げ掛けてきた。
「俺は…」
 どうなのだろうか。俺は、水木の言うような、自分を捨てた者ではない。捨てる予定もない。だが、それが自身の道を歩いている理由になるのかどうなのか。突如として、わからなくなった。イエスというのは勿論、ノーと言う事すら出来ない。
「どうなんでしょう…。正直、わかりません……」
 歩いていると言いたくとも、そう言いきれる要素が見つからない。それが、堪らなく歯痒く感じる。多分、今の俺はまだ、歩きたいと思っているだけなのだろう。自分の足下にある道が誰のものなのかさえ、全然わかっていない。それこそ、この思考が自分のものだとも言い切れはしない。考えひとつ取っても、俺の全ては両親によって構築されているのではないかと、本当は千束大和自身は何も考えられていないんじゃないかと疑いたくさえなる。

「…………実は、俺。…前に医学部に通っていたんです」
 ヤクザに話すつもりはなかったのに。大学の友人達にも、まだ話していないのに。
 水木の新たな一面が見えた気がして、自分もそれをしてみたくなったのか。クサい言葉にクサい言葉で返され、この雰囲気に酔ったのか。気付けば俺は、そんな告白をしていた。
 自分でも、意外だ。しかも、しまったと後悔をしないのがまた、驚きだ。
 どうした俺?と、そんな自分を少し持て余しかけたところに、水木が「知っている」と答える。
 ……知っている…? ……ちょっと待て。…待て待て。聞き捨てならない台詞だ。
 何故、それをアンタが知っている?
「えっ!どうして…ッ!?」
「…………」
 驚きに飛び跳ねる声で尋ねると、胡乱な視線を向けられた。……この場合、それをしたいのは俺の方だと思うのだが…?
「な、なに…? なんで?」
「……言っただろう。初めて会ったのは、大学病院でだと」
「…………」
「お前は白衣を着て、学生用のネームプレートを下げていた」
 大学病院、白衣、名札――確かに覚えがある。以前通っていた大学は、一回生の頃から学部棟への出入りと変わらないくらいに、院内へ出向く事が多かった。付属病院とは言え、白衣を着た学生がウジャウジャ居るのは、医学界ではちょっと有名な話だ。研修中でもない学生の激しい出入りなど、邪魔でしかないだろう。患者にとっても、迷惑極まりない。だが、不思議な事にそのシステムは信用を呼ぶのか、病院は繁盛していた。学ぶ方としても、本物の医療現場に近い事は魅力だろう。
 実際、俺もそのひとりであり、国立を蹴ってまで私立のその大学を選んだのは、実践の多さゆえだ。だが、入学してみればそこは生臭いシビアな現実に外ならず、夢や希望は生まれない場所だった。元々それらを持っていなかった俺にとっては、なまじ閉鎖的な空間であるからこそ、高い濃度の毒に見事ヤられてしまった。
 派閥など、学生には関係のない事なのに振り回され。誰かに良くされれば、逆に誰かに蹴られてしまう状況で、患者を慮る余裕など生まれるはずもなく。人間関係に追い詰められれば、己の意義に、その在り方に意識は向かうというもので。
 自分は何なのだろうと、何故ここに居るのだろうかと本気でわからず過ごした過去を水木の言葉に少し思いだし、痛みなのか乾きなのかわからない、枯れた風に胸の奥を刺激される。だが、それでも、あれは過去だ。今はもう、医者になる事すら辞めた自分には、膨らみはしない思い出だ。
「あの時は、確か、もっと髪が長かったな」
「……本当に、会ってたんだ…?」
 そういえば、昨夏に俺を見掛けたと先日言っていたなと思い出す。すっかりそれを忘れていたのは、けれども仕方がないだろう。俺の方には全然覚えがないのだから、デマかどうかの見極めは出来ないものだ。何より、一目惚れがどうのこうのの驚きで、頭から飛び出していた。
「話しもしたんだがな、覚えてはいないだろう」
「マジ…?俺、何か言いました?」
「当たり障りのない挨拶をしただけだ」
「そうなんだ…」
 挨拶をしたならば顔くらいは見ただろうに覚えていないとは、と少し申し訳なく思う。だが、会ったのが夏ならば、そんなものなのだろう。どん底に沈んでいた時の記憶は、極端に少ない。覚えているのは苦しさばかりだ。幾ら美形ヤクザだとは言え、患者は患者でしかない。院内で挨拶をしただけで記憶に残している方がどうかしているだろう。
「嘘だと、口説き文句だとでも思っていたのか?」
「いえ…、特に何も考えてはいませんでした、スミマセン」
 だから俺が医学生だったのを知っているのだとそれを認めると、勝手に調べたのかと焦りかけた自分が、恥ずかしい。水木に悪い事をしたなと、正直にスルーしていた事を認め素直に謝る。水木は俺のそれに対し、何か言いたげな顔を作ったが、開いた口から落ちたのは話を元に戻す言葉だった。
「それで、何だ。医学部がどうした」
「あぁ、うん。…それならわかっているんだと思うけど……。俺、見事に挫折したんですよね、医学の道を」
 間に余計な事が入り、気が少し逸れていたが、それでも何となく告白を続けたのは、安心を覚えたからだろう。この男は本当に沈み切っていた自分を知っているんだなと、別にこの失敗を教えても見下されはしないんだなと、俺は気負う事なくそれを口にした。知られるのは嫌だと、今なお決着を付けられていない事実は恥だと、友人達にさえ多くを隠してはいるが。知られているという事は、自分を楽にもしてくれるんだなと俺は気付く。
 水木と話して、知り合いになって良かったのかもしれないと、いま初めて思えた。
 だが、だからと言って、出会いたかった相手でもないのでそれ以上の思いはない。そう、現実はこんなものだ。たったひとつの事で全てが片付く程、単純ではない。
 簡単な事など、やはりないのだ。考えひとつをとっても。欲張りなのが、人間じゃないか。悩む事が良いか悪いかは兎も角、さっぱりと考え選べる人生などあるはずがない。
 今の勢いだけだろうが、そう考える事が出来、自分を肯定する事が出来、胸が少しすっきりとする。
「けれども、俺のそれを両親は認めませんでした。無断で大学を辞めた事は、確かに責められて当然ですが。未だに医者になれの一点張りで、挙句の果てには留学ですよ」
 愚痴るというのではなく、可笑しな話をするかのように話すと、水木は聞き慣れない言葉を耳にしたかのように俺を振り返った。
「留学…?」
「ええ。さっきの電話で、今週中には今の大学を辞めろと言われました。逆らえば絶縁だなんて、今時、有り得ない展開だと思いませんか?」
 肩を竦め、視線を手元に向けると、握ったアルミボトルに結露がついていた。指先でそれをなぞりながら、気持ちを曝す。手を濡らす水滴よりもヌルいものを。
「だけど、俺は全然笑えない。損得勘定なんかをしちゃってさ、頭がグルグル。だから今は、俺の道ってどこにあるのかもわからない。どの道が、俺の道なのかなぁ…てね。貴方の質問は、俺には難題ですよ」
「……」
「可笑しいでしょう?青臭いでしょう? だけど、それでもやっぱり、これが俺。足下の道はわからなくても、立っているのは俺」
 それに間違いはないと笑い、ひとりでああ言ってはこう言って語っている自分に気付き、恥ずかしいなとそのまま口を閉じる。…何も自己啓発をしている訳じゃないんだから、これはいただけない。するのならば、心の中でひとりやっていろ、だ。
 水木のノリが感染して、ちょっと頭が沸いたのかもしれないと。照れを誤魔化し紛らわすようそう思う俺を、再び苛めるかのように水木は言った。
「お前はそこに立ち続けるのか?」
「……」
 話を聞いてくれるだけで良かったのに、突っ込まないでくれ。これ以上、俺に何を曝せと言うんだ、コイツは。何を言われても、俺はもう一枚足りとも脱ぎはしないぞ。
 ストリップの趣味はないと横目で運転席を見ると、「それでいいのか?」と重ねて問われる。……ゴメンナサイ。謝りますから、脱いだ服を着させて下さい。夏だけど、このままでは風邪を引きそうだ。
「大和」
 犬を呼ぶみたいに俺を呼ぶなよと、つい鼻の付け根に皺を寄せてしまう。イイ声でも何でも、名前はやはり、呼ぶ奴を選ぶようだ。
「…イイとか、悪いとかじゃないんだけど……」
 これは完璧ズレているぞと感じ、俺は相手の意図を直球で聞いてみる。
「……そんな事言ってさ、貴方は俺に何を求めているんですか…?」
「……」
「……」
 オイ待て。ここで沈黙か?無言か? 俺はそんなに都合の悪い事を聞いたのか?それとも、馬鹿過ぎる発言だったのか?
 そろそろパターンを変えて欲しいぞと、本気で思う。相も変わらず、本当によく判らない男だ。だが、水木の反応の波は掴めないが、今この状況では俺が喋らなければどうにもならないのは、悔しいが何よりもわかった。
 そして。わかったからには、口を開かねばならない。
「……水木さんは…二十歳の時、ちゃんと自分の道を歩いていたんだ?」
 しかし、だからと言って、無難なのが「済みません」だとわかっていても、謝罪の言葉は述べたくはないと。俺は逆に、突くような言葉を選んでみた。確かに言った後で、少しマズいかと思いもしたが、少しくらいならまぁ良いだろう。水木の性格の方が、相当にマズくてヤバいのだから、相殺される筈だ。
「貴方は、迷いも何もなかったんだ?」
「……」
「ふーん、そう。それって、まぁ凄いよね。かっこいい。でも、だから何? 俺はアンタじゃないよ。世の中には、迷いながら生きている奴の方が断然多いだろう。『他人の道を歩いているのか』と揶揄され非難されるいわれは無い」
「……そう言う意味で言ったんじゃない。怒るな」
「別に、怒るまではいっていませんけど……だったら、どういう意味? まさか本気で、今の自分と俺を比べて貶しているンじゃないですよね?」
「…貶してなんかいない」
 ぼやくように低く呟く水木を無視し、「十二年」と指を一本立て、夕焼け空を指すように俺は腕を伸ばす。
「俺はアンタより、一回り分以上、愚かなの?」
「……そんな事はない」
「だよね。…良かった、そうだと言われたらどうしようかと思った」
 いつの間にか、水木が素直に下手でいてくれるからか、千束大和がかなりの馬鹿だからか、俺は相手を遣り込めようとするかのように会話をし、それを楽しみかけていた。こんなオフザケは流石に駄目だろうと思うが、テンションが高まった自分では止められない。いや、だが、それでも止めなきゃ、直ぐまた痛い目を見そうだと、俺は無意味にあげてしまった腕を大人しく下ろす。
 ……短い天下だったなぁ、オレ。
「えっと…。だったら、さ。あの、もうちょっと大目に見て下さいよ…なんて」
 やむを得ず付け足した言葉は、悲しいかな、全然フォローにはなっていない。役立たずだ。
「あー……もしかして。二十歳の男がこんな甘チャンなのは、貴方の中では有り得ない?許せない?」
「いや…。俺とて別に、出来た人間じゃない」
 だから甘えは気にはならないと言いたいのか、水木はそんな風に答えたが、それは少し嘘臭い。他人の弱さなど自分には関係ない、どうでもいい事だと言う方が、断然彼には合っている。だが、出来た人物ではないと自覚しているところは、好感が持てた。ヤクザのくせに、人として完璧だと威張られていたのなら、俺は普通に退いていただろう。
 中身ではなく、逆に外見をもって主張されていたのなら、俺としては「全くその通り完璧でございます」と平伏すしかないのだが。水木にはその手の自惚れはないらしい。流石、パッとしない男に惚れたとほざくだけの事はあり、審美眼は持ち合わせていないようだ。
「じゃあ、さ。結局どういう事なの? 考えとか道だとかさ、何でそんな事を言うの?」
「……」
「まさか、助言とか言わないよな…?」
 何だか会話の目的というか、必要性を激しく見失いながらも続ける言葉は、ボケに近い。だから自分でも、それはないだろう助言って何だよと突っ込みを入れたのだが、ボケにボケを返して何が楽しいのか水木が肯定する。
「…ああ、そうかもな」
「……」
 そう、かも…? いやいや、鴨じゃなく鷺だよ、サギ。
 本当ならば、まさしくそれは詐欺じゃないのかと、水木の馬鹿な発言に俺は再びガラスに頭を預ける。水木が俺にアドバイスをするのは、まあイイ。ヤクザ男がと考えると色々思う事はあるが、やってはならない事ではない。だが、環境や状況が適していないのは確かだ。
 遠慮する者を無理やり車に押し込んだ奴が、人生のアドバイスをするのはどうだろうか。絶対に、オカシイ。例えどんなに立派な事を言っても、それでは自分勝手な持論にしかならない。
 思わずアドバイスをしてしまうくらいに自分は心配されているのだと思えば、俺とて己の態度を反省せねばならないのだが。それ以上に呆れるというか、悲しくなるというか。現状を把握せず、ガキに語っているヤクザに疲れる。助言されている自分が何とも間抜けだ。阿呆でしかない。
「……アドバイスなら、もっと解りやすく適確にして下さいよ…」
 これでは全然有り難味がないとぼやくと、「そうだな」とまた素直に頷く。だが。
「俺にわかり易さは期待するな。お前と居ると、予定外の事をしてしまう」
「……何それ」
 俺は何も期待していない。仕掛けてくるのは、アンタだろう。する奴が、言う科白かオイ。どういう解釈だクソ。
「それって、俺が悪いって事かよ…?」
「いや、違う」
「……」
 だったら、そんな裏方話を俺に聞かせるなと頬を膨らませると、空かさず指で摘まれた。
「むくれるな」
 …赤信号が恨めしい。――ってか。誰だよコイツは。キャラじゃねぇ…。
 俺が止めて下さいよと払う前に水木は手を離し、ハンドルを掴むと指でそれを打った。トントンと、スローテンポを刻む音が車内に溶ける。

「お前は、勘違いをしていないか?」
「…何が?」
「誰かの道ではなく、お前が立つのは今までもこれからもお前の道だろう。他人に委ねようとせず、自分で大事に扱え」
「……」
 …ちょっと待って、話が見えない。親に行き先を決められ、一体自分は誰の道を歩いているのかと悩む俺に。あっさりきっかり、そんな断言をされても困るのだが。
「……良くわからないんだけど?」
 これもまた、アドバイスのつもりなのか?まさかな、だって水木の意見でしかないぞ? だがそうだったら…、今さっき交わした会話はドコヘ行ったんだ?
 自分の突っ込みが何の効果もなかったらしい事実に溜息を吐く俺を気にする事なく、水木は車を走らせながら言う。
「生きているのはお前だろう。それはお前だけが歩ける、お前だけの人生だ。足下にあるのは、他の誰のものでもない、お前の道だ」
「……」
 確かにそうだ。そう言いきってしまえば、それだけでしかない。だが、一人で生きている訳ではない。そこに両親が絡んでいるから、俺は迷い悩んでいるのだ。簡単な事だとしても、単純ではない。ひとつのそれだけで、全てを決められはしない。
「周りに良く思われたいと思うのも、認めてもらいたいと思うのも当然だろう。だが、それにしがみついてどうする。お前はお前の道を歩くしかないんだ、人の目ばかり気にするな。自信はなくとも、貫け。間違ったところを歩こうが何だろうが、罪にはならない。お前に掛かる責任はお前の分だけだ。誰かのそれを背負う覚悟は要らないし、引け目を感じる事もない」
「……それはまた、強引な解釈ですね…」
 かなり控え目に伝えた嫌味をどう捉えたのか、「そうだな。だが、間違っているか?」と白々しくも水木は嘯く。
 間違いとかなんだとかではなく、今の俺を知りながらそんな事を言い切るその神経が、理解し難い。共感出来ない。面白くない。だが。
「……正しいのかは疑問だけど、間違ってもいないんでしょう。だけど、だからって。家族を…今の全てを捨てる覚悟なんて、俺にはないですよ。そうして自分は残ったとしても、それを喜べるとはとても思えない。俺は…貴方が思うよりも、狡いくせに弱い、甘えたガキなンです」
 貴方が言うように前ばかりを向いて歩くのは、自分にはとてもではないが無理だと肩を竦めると、「誰だってそれは無理だ」とあっさり同意された。
「後ろを振り返り確認しなければ、前へ進んでいるのかどうかはわからない」
 ……ご尤も。それは正しい。だけど、俺に説明しなくていい。アンタを崇拝する部下相手にでも語ってくれよと、俺は片手で目許を覆う。
 この男は本当にわからない。誠意はあるのだろうが、常識がなさ過ぎる。こんな風に語る前に、まともな会話をしてくれと言うものだ。
 立派な発言と、それを言う水木のキャラが、俺の中で一致しない。
「自分が自由に出来るのは自分のものだけだ。お前は父親や母親の人生を所有しているわけじゃない。持っていないものは、捨てられない。人が捨てられるのは、己だけだ」
「……」
 他には何もないと言い切る水木を、俺はまともに見る事は出来なかった。言いたいと言うか、反論したい事は山程ある。だが、ギュッと直に心臓を掴まれたかのように、何故か胸の奥が痛たくなり何も言えない。
 少し癪だが、水木の言葉が耳に残り、俺の中へと染み込んでくる。
 何と言えば良いのか。多分、覚悟が違うんだろうなと、理由もなくふと思う。生きる事へという大層なものもそうだが、日々の日常に対する心構えが、水木と俺とでは全く違うのだろう。だから、こうも考えが異なる。しかし、その違いをそれ程嫌だとは思わない。
 やはり、水木の言う事は、間違いではないのだろう。突き詰めて考えれば、多分俺も似たような答えに辿り着くのかもしれない。だけど、俺は。まだ二十年しか生きてはいなくて、社会にも出てはいない俺にとっては、自分以外の存在はとても大きいものだ。綺麗事だろうが、俺は自分のせいでその両親の道を歪ませるのは忍びないと思う。水木のように、スパスパと割り切れはしない。
 これは多分、性格や価値観の違いなのだろう。経験を積み重ね、覚悟を備えても。33才の俺もきっと今と変わらず、水木の発言は簡単に受け取れられないと思う。
 これ以上語り合っても、そもそも歩み寄り合うとかそう言う話ではないのだから、意味がないだろう。もう、これで十分だ。十分、水木の考え方はわかったと、俺は会話にピリオドを打ち無言を通した。
 沈黙の中であれこれ考え、アドバイスというよりも、水木のそれは励ましだったのかもしれないと思いつく。確かにこの男は強いのだろうが、見せるそれは自慢でも押しつけでもなく、ひとつの方法を指し示すかのような柔らかいものだ。違う考えを相手が持つ事を知りながら、別視点で淡々と自分が得た事実を言葉にしたかのようなそこに、責めはないはず。
 ああ、そうか。俺は呆れられたのではなく、元気付けられているのだとわかると、何だか可笑しくて。可笑しすぎて零れだした笑いを、止める事は出来なかった。
 訝るようにではなく、確認するようにチラリと向けられた視線がまた可笑しくて。
 無言で運転する水木の横で、俺は暫く肩を揺らし続けた。

 ここでこうして笑える自分が、嫌いではないと思う。


2006/04/08