20
料亭の裏門から少し離れた場所に車を停めてもらった時には、陽は沈んでおり、辺りは夕闇に包まれていた。水木に世話になった礼を述べ、外に出ようと俺はドアノブを引く。
だが、またもやそれは開かなかった。ロックが掛かったままのようだ。
「…あの、開けて下さい」
「ここで待っている」
「……」
答えになっていない、応え。その宣言は、本気でまだ、俺にあの部屋に住めと誘っているという事なのだろうか。あまりにもクド過ぎて、判断しかねるくらいだ。
「…いえ、もう…帰って下さい」
何度言葉を交わしても、結局同じ。相手がそのつもりならば、こちらもそうするしかないと、俺は何度目になるかもわからない変わらぬ拒絶を口にする。だが、それでもやはり、水木もまた相変わらずだ。録音されたテープのよう。
「お前が来るまで、俺は待つ」
「……」
勝手な事を、よくこうポンポンと言えるものだ。タヌキかよ、コラ。これで俺がキツネならば、まさに、タヌキとキツネの化かし合いだ。空しい事この上ない。どんぐりの背比べと全く同じで、馬鹿らしい。俺は人の話を耳に入れもしない男と同レベルなのか、泣けてくる。
「……アンタ、ホント…暇ですね。でも、俺を待っても無駄になるだけだよ。諦めて帰って下さい」
「だったら、降ろさずに今すぐ戻るぞ?」
「…………」
疑問形できた水木の言い草に、俺は思わず言葉をなくす。そして、驚きの次にやってきたのは、言葉に出来ない空虚だった。何を考えているんだと苛立つ思いもあるが、それ以上に体の芯から力が抜る。本当に、間違いなく馬鹿だ。阿呆すぎる。何だかまるで、辻褄が合わないのに力説する、子供の訴えのようだ。そんな奴の相手をしている自分の無意味さを、頭に捻じ込まれ教えられた衝撃が、虚無を呼ぶ。自分は何をしているのかと、気力が彼方へ飛び去った感じだ。
だが、こうして衝撃に参っていては、本気でこのまま連れ戻されかねない。
何故俺の話を聞かないんだと詰るのではなく、どうやってこの男を宥めようかと、俺は根性で気力を立て直し頭を働かせる。ヤクザ相手にこんな事をしている自分が、途方もなく侘しい、切ない。しかし、それに負けては、人生終わりだ。今は考えない方が得策だろう。
そう己を叱咤し慰めながら、俺はふとある事に気付いた。大したことではないのかもしれないが。いつの間にか、受け入れられない想いを相手にする苦痛が、自分の中から消えている。ぞんざい扱って良いと判断した訳でないのに、驚きだ。
「……戻るぞ、じゃないですよ。ここまで来たんだから、帰して下さい」
「……」
「水木さん」
今の俺には水木に対し、上手に出る方が良いのか下手でいく方が良いのか、全然わからないというのに。何事も負けて堪るかと無意味に強気に出る俺の言葉に、水木は沈黙を生み出した。そこに、己の勝利を見た訳ではないが、別段不快も感じはしない。相手が口を閉ざした事実があるだけで、それ以上でも以下でもなかった。
何か考えているような、僅かに顰められた横顔を見ながら、苦痛を感じない訳を不快を感じない訳を探ってみる。迫られる事は相変わらず迷惑で、早く車を降りようと思っているのも変わらないのに、自分は何故嫌だとまでは感じないのか。それは多分、水木の好意がじんわりと、俺の苛立ちを和らげているからこそのような気がした。
表現は適していないかもしれないが。何度断ろうと誘い続けるしつこさも、こうして困惑げにだんまりを決め込むのも。俺を気に掛けてこそのものなのかもしれないと思うと、強引だと見えていた姿もただの駄々こねにしか見えない気がする。
果たしてこう感じるのは、一体どうなのだろうか。良い事なのか、悪い事なのかもわかりはしない。だが、相手が相手であるので簡単に答えは出せないが、ムカツク、嫌だと思っているよりも。それ自体は、間違いではないように思う。
だから、もしも。もしもこれが、己を不器用に見せかけ俺を篭絡する水木の演技なのだとしても。俺は畜生騙されたと悔しがるのではなく、完璧に負けたと敗北を認めるだろう。それくらいに、今の気分は悪いものではない。気苦労は尽きないが、目の前の男が子供だと考えるのは、なかなかに楽しいものだ。呆れが強いのが正直なところで、自分の日常である料亭が近いからこその余裕も影響しているのだろうが。水木がただの我儘なガキに思えるのが、意外にも心地良い。いや、心地ではなく、小気味良いといったところか。何だか、馬鹿な奴だと声を出して皮肉り笑ってやりたくさえなる。
これもまた、見様によってはひとつの前進じゃないのかとか、これでイイのかとか何だとか。こちらも無言で考えを巡らせていると、前振りもなくドアロックが解除される音が車内に響いた。一体どうしたのかと目を張ると、左腕をハンドルに乗せた水木が俺に向けて体を捻り、口を開く。
「留学、するのか?」
「……わかりません」
袖口から現れたゴツイ腕時計に眼を奪われながら答えたが、曖昧過ぎるかと気付き、俺は直ぐに訂正を入れた。黒い服装故に冷たさを増しているのだろう高価そうな時計が、なんだか研ぎ澄まされた刀のように思え、自然と背筋が伸びる。
「俺は、したくないと思っています」
「…そうか」
「はい……」
水木の短い返答が綺麗に消えるまで車内にとどまり、俺は相手の気が変わらないうちに身体を外へと出した。もう一度礼を言いドアを閉めかけ、不意に思いだした事に、運転席を覗き込み問い掛ける。
「あの、傘は…?」
「……あぁ」
「どこですか」
「ない」
「…ハイ?」
後部座席に走らせていた視線を前に戻すと、この車には乗っていないのだと真顔で言われた。
「別の車だ」
どんなにその顔が整っていようが、綺麗だろうが何だろうが。今の自分には関係なく、俺は心のままに顔を引き攣らせる。別の車じゃないだろう、オイ。
「……そう、ですか」
「ああ」
「…………」
言われてみれば、先日傘を忘れた車は、右ハンドルだった気がするようなしないような――いや。あの時どんな車に乗っていたかなんて、全然覚えていない。この車とどこがどう違うかだなんて、一度助手席に乗っただけの俺にわかるわけがないだろうバカ!普通に頷いてンじゃないッ!!
完璧、騙されているではないか…。しつこく傘カサと言っていたのは、どこのどいつだ。勘弁してくれ…。俺で遊んでそんなに楽しいのか、クソ。前言撤回、本気で嫌だ。苦痛だ。この男の相手は、もうしたくはない。
「……じゃ、やっぱり…処分しておいて下さい、お願いします。もう要らないんで」
「要らないって事はないだろう」
「別にもう、いいんです…。それより、マジ帰って下さいよ。俺はもう戻ってきませんから。サヨウナラ」
「こんなところでヤクザに居座られたら、困るんじゃないのか?」
ないのか?じゃない。可愛らしさを見せているつもりか何かは知らないが、ハテナがついていても、アンタの場合それは疑問じゃなく脅しなんだろうコラ。わかっているんだからな畜生。
「……困らせておいて、アンタが言うなよ…」
「俺は別にどうでも構わないし、困らない」
「……」
「冗談だ」
「……どこが」
一体、どの部分がどんな風にジョークなのか。事細かに説明してみやがれ。じゃないと信じられるかと睨み付けると、水木はジッと俺の視線を受け続けた。中腰の姿勢でこんなヤクザと睨み合いたくはないが、自分からは眼が反らせられない。
こう言うところが理不尽なんだよと、だからムカツクんだよと腹の中で怒りながらも、交す視線に意識が冷えていく。真っ直ぐと自分をただ見てくる水木の眼は、闇夜の空のように真っ黒で、心の奥底のようだ。だが、深層を覗かれているのは何故かそれに見られている自分のようで、居心地が悪い。だけど、視線を外せない。
何処かでこれを見た事があるなと俺が気付いた時、水木が呪縛を解くように瞼を閉じ、顔を背けた。
「…さっさと行け。来ないようなら、迎えに行く」
「……」
「荷物、取って来い」
いつの間にか詰めていた息を落とすと、溜息だとでも思ったのか、水木がクイッと口角を上げる。意味がわからない、何故ここで笑う。笑いのツボまで、普通とはズレているらしい。っていうか。深刻そうまではいかないが、それでも真面目腐った真剣さがそこにあると感じていたのに。笑うとは余裕じゃないか、オイ。何て眼で人を見るのか、それが普通ならば、公害人間決定だ。誰か、この男を隔離して監視しろってものだ。日本国よ、水木警報を発令しろ。
コイツは何がなんでも俺をムカつかせたいのかと疑いたくなる。こんなのだから、アンタの「住め」はペットを飼うのと同じ意味じゃないのか?と思えてしまうのだ。気付けよ馬鹿。それとも、わかっていてやっているのか、本気でそうとしか思っていないのか。クソクソクソー。マジ押しされるのも困るが、キャラとズレた事をされるのも困る。これが戸川さんならば、絶対遊んでいる!と言い切れ流せるのだが……本当にコイツはわからない。
やっぱり取り扱い説明書があれば良かったなと心で嘆きながらも、怒っているように見せかけ、無言でバタンと勢い良くドアを閉めてやる。雑な音によって空間を閉ざされる虚しさを、水木が感じるのかどうかは知らないが、俺はこれが結構嫌いだ。だからといって、わざとこんな嫌がらせをして、それで溜飲を下げようとするのも何だか同じく虚しくもあるが、可愛いものじゃないかと自分のガキ臭さを正当化してみる。だが。
実はこんな俺を全て見透かしていて、振り返れば水木のしてやったりな笑いが見えるのかもしれない。そう考えると、車内の男がどんな表情を作っているのか確認したいような気もしたが、知る方が何だか損をしそうだと真っ直ぐ門へと向かい、俺は足早に料亭に入った。
ドアの閉め方ひとつでは、結局何も変わりはしないと言う事だ。
後ろ手に玄関を閉め、息を吐く。水木の高笑いにあっていたのなら、今ここで警察に不審者の通報をしたのだろうが、敢えて振り向かず無難にそれを避けたので、大人しく叔母を探し俺は帰宅を伝える――べきなのだが。
思わずそのまま三和土でしゃがみ込み、俺は頭を抱えた。
ただただ、疲れた。怒涛と言えそうな一日だった。昨夕にバイトを終えここに帰り着いたのが、とてつもなく遠い昔のように思える。それから起こる事を全く予期もしていないあの時の俺は、何て愚かだったのだろう。だが、それでも平和だった。小さな幸せを手に持っていた。
今は、この手には何もない。だけどそれでも、ここにこうして帰って来た。帰って来られた。水木を振り切った俺、偉い。頑張った。俺を取り巻く状況は何ひとつ良い事はないけれど、それでもヤクザの手に縋らなかった自分を褒めたい。この事に関しては、俺は間違っていなかった筈だ。
ああ、良かったなと。別に善し悪しの話ではないのだけれど、感慨深くそう思い、漸く日常と思える空間に戻れた安心感に力が抜ける。一気に緩んだ気は直ぐには立て直せず、俺は暫くそうして今を噛み締めていた。だが、誰に見られるとも限らないので、足が痺れてきたところで立ち上がる。ひとり暮らしの部屋ならば、そのままベッドに倒れこみ眠りたい所だが。ここではそうもいかない。
取り合えず、叔母を捜さねば。
そんな俺の電波を感じ取ったのか、靴を脱いだところに、求めた本人がやって来た。昨夜の事だけではなく全てを引っ括めて、俺は真っ先に謝罪をする。実の息子なら兎も角、甥っ子の面倒になど巻き込まれたくはないだろうに、掛けた迷惑を考えると申し訳なさで一杯だ。
「ホント、ゴメン…」
「別に、私は良いのよ、気にしないで。それよりも」
店はまだ忙しくないのか、叔母は玄関脇の狭い空間に俺を招き話を続ける。
「ね、大和。泊めて貰った友達って、今の大学の子?仲が良いの?」
「え…? ……あー、それがどうかした?」
唐突な質問に、疚しい事がある俺は変な声を出さないだけで精一杯だった。そうだよと普通に頷けば良いだけなのに。叔母の性格では、何処の誰だとかは根掘り葉掘り訊きはしないとわかっているのに。俺は間抜けにも、あからさまな誤魔化しでしかない、質問に質問で返す。……馬鹿だ。
「アラ、もしかして。そう仲良しでもないの? まあ、今時の子はそんなものかしら」
「あぁ、いや別にそうでもないけど……だから、何で?」
「ちょっとね。もしも、何日か泊めて貰えるようなら、世話になってみた方が良いんじゃないかなと思って。ね、どう?無理かしら?」
…………ハイ?
……世話って、それは――暗に出て行けと、そう言う事なのでしょうか…?
「ちょっと、待って。それって……どういう事?」
出て行って欲しいのかとは、流石に口には出来ず、言葉を濁す。だが、この叔母ならば、本気でそう思っていたらこんな風には言わず、荷物ごと俺を放り出すだろう事はわかっていた。わかっていたが、他の意味が見えない。
「あぁ、やっぱ、さ。……迷惑…?」
「違うわよ。迷惑なら、さっさと独立させているわよ。私が言いたいのはそうじゃなくて。ここにいると、落ち着けないでしょうって事よ」
「……えっと、それは…」
「一日でも二日でも、環境を変えてみるのも手だと思うのよね私は」
何処に居ようと考えなければならないのだから、敢えてここにいなくてもいいのではないかと。一歩外から見られるような、暫く客観的に考えられる場所に居る方が良いのではないかと、叔母は思いもよらなかった提案をしてきた。こうなったら、ここに居れば実家と変わらない干渉を受けるかもしれないと、両親はまた来るだろうと叔母は断言する。そうするだけの何かが、昨夜あったのだろう。
だが、だからって。
俺にはいきなり過ぎて、自体が飲み込めない。漸くここに辿り着いたのに、コレってないんじゃないか…?
だが、そう思う反面、叔母の言いたい事もよくわかった。俺がもしも、水木と関わっていなかったならば、この話に乗っていただろう。多分、俺が水木に昨夜世話になったのは、叔母と同じ考え方をしたからだと思う。
「勿論、貴方がそれでも良いなら、こっちは全然居てくれて構わないのよ。兄さんがああなのは、貴方以上に私は慣れているから平気。迷惑をかけているんだなんて、本当に考えなくていいのよ。ただね、私も仕事ばかりになるから、ここだと一人きりと一緒でしょ? 友達のところの方が、少しは気が晴れるんじゃない?」
「うん、まぁ…、どうだろう……」
彼は友達ではなかったが。確かに水木に世話になり、多少気は晴れたように思う。だが、別の厄介事が増えたのも事実だ。俺には俺の考えがあるように、相手には相手の考えがある。水木は俺を気にはかけてくれたが、俺が望むものだけを与えてくれるわけではなかった。それは、意思を持つ人間同士ならば当然だろう。だが、今の俺に、相手の思考を思い遣り相手にする気力があるのかどうかが問題だ。大学の連れでも同じで、気晴らしにはなるだろうが、掛ける迷惑に対する申し訳なさは、その場では意識せずとも自分の中に少しずつ少しずつ蓄積されていきそうな気がする。そしていつかその重さに気付き、耐えられず潰れてしまうのかもしれない。
しかし、それを言えば、叔母に対しても同じだろう。ここにいても、今まで以上の迷惑をおばに掛けるのは目に見えている。
「逃げるみたいで、嫌? 貴方は変に真面目だから、私にも友達にも迷惑になるから家に帰ろうか、なんて思ってないでしょうね?」
……何故、わかる。…俺はそんなに単純思考をしているのか?
「……別に、そんな事はないんだけど…。まあでも、一度ちゃんと家に戻らないとダメなのは事実だし……」
「まあ、それもひとつの手であるのは確かよ。医者にはならないからと、もう一度はっきり言いに戻るのも良いと思うけど。でも、今はちょっと、二人からもっと離れて考えてみたら?」
「……いや、あのさ。もう…言ったんだよね、実は」
「え?」
何をと首を傾げる叔母に、昼間の両親とのやり取りを俺は伝えた。自分が酷い事を言ったのも、選択により縁を切られてしまう可能性がある事も。全てを包み隠さずに。
「そうだったの…」
思い込むように短い沈黙を作り、軽く握った拳で顎を叩いていた叔母が、「手強いわねぇ」と息を吐いた。
「うん…。でも、仕方がないよ」
笑うしかなく、口角を上げると、「馬鹿ね、無理しないの」と頬を軽く叩かれた。
「仕方がなくなんてないのよ。なに諦めているの。まだまだこれからよ、最終的に全部を掴めれば良いのだから」
結論付けるのは早すぎると、叔母が笑う。伸ばされた手でそのまま頬を摘まれ、不覚にも先程の水木の指を思い出してしまった。今更ながらに、恥ずかしさが沸き起こる。
彼の言葉や行動は、まるで家族のように深い温かさがあったと。こんな時に気付く自分は、どうなのか…。少し間違っているような、情けないような気がする。その行動は兎も角、優しかったなと思うのは、……多分失ったからこそだ。手放したからこそ、勿体無いと思うのだ。
きっとそれだけだ、と。
そう思うのに……。
「医者にはならない、教師になる――なんて言うのは、可愛いものよ。戦場カメラマンになるからと宣言する娘に比べたら、優秀すぎて困るくらいね」
「そりゃ、まあ、そうだろうけど」
「…あっさり認めないでよ、もう。貴方ももっと、無謀なチャレンジをしてみると良いわ。私に言わせれば、二十歳の癖に纏まり過ぎているのよね。今時の子は、堅実思考というかなんというか。私の頃は、大学生なんてもっと我儘だったわよ?」
「我儘だよ、今の学生もさ」
バブル期にキャンパスライフを楽しんでいた彼女と、永遠に続くかのようなデフレのなかで成長してきた今の若者とでは、時代が違いすぎる。将来に対する感覚が変わっていて当然だ。だが、それでも。この叔母に比べれば確かに誰もが可愛いものなのだろうと、言葉だけをくみ取り小さな笑いを顔に乗せると、再び指で頬を弾かれた。困った子だと呆れながらも愛しむような、優しい笑顔を向けられ、泣きだしてしまいそうな感情が込み上げてくる。
離れていく細い指を見ながら、あの男はどんな顔で俺の頬を抓ったのだろうかと、今更だが気になった。この叔母のように、慈愛に満ちた表情をしていた――なんて事はありえるのだろうかと、俺は叔母の姿に水木を思い出す。真意は兎も角、俺に向けられるものをみれば。こんな風に甥を助け続けてくれるこの叔母とあの男に、大きな違いはないのかもしれない。そう思うと、胸がざわついた。
失ったものを惜しむのではなく、ただ単純に。俺は自分に向けられていたものの深さを、叔母のそれと比べる事により、理解する。傲慢であろうと、強引であろうと。その行動は兎も角、自分は思われていたんだなと、少し信じてもいいような気になった。
あの男に想われる程のものが自分にあるとは今尚思えないが。それでも、彼が俺に対してとった行動を、語った言葉を、嘘だと言い切る事は出来ない。
「大和。貴方が遠慮する事は何もないわ。兄さんなんてとりあえず放っておいて、好きなようにしてみなさい。大丈夫、絶縁になんて絶対ならないから」
「でも、父さんは…本気だよ」
弱音のような声が出てしまったのはこの先の不安からではなく、水木の事に意識が向いていたからだろう。心配してくれている叔母の前で何を考えているんだと、俺は頭を振りながら摘まれ弾かれた頬を手で擦る。
だが、振り払ったばかりなのに。この痺れるような温もりは、一体誰に与えられたものなのだろうかと、つい考え込んでしまいそうになる。
「本気って、ねぇ。兄さんは何に対しても、いつでもそうよ。本気と言うか、クソ真面目なだけよ」
「……でも、さ。父さんの場合は決定事項、だろ? ただの脅しじゃなく、ちゃんとそれを考えているんだよ…」
「だからあの人はいつだってそうなのよ。今に始まった事じゃないんだから、それは気にしないの」
「気にするよ」
そう出来るのならばどんなにいいだろう。だが、怯えていたわけではないが、顔色を窺い続けてきた俺には、今直ぐそれを実行するのは難しい。確かに叔母が言う、「ただクソ真面目なだけ」だと言うのもわかる。父は何に対しても、常に本気の姿勢ではあるが、一度決めた事を貫く事に心血を注ぐ精神は持っていない。頭は硬いし、自分自身を修正する事はそうある事ではないが、意固地でもないのだと思う。
だが、だからと言って、俺の考えをいつか理解するだろうかと考えてみても、正直わからないとしか言えない。自分が正しいと判断し突き進むあの人に、俺の不安定さを解れと言うのは難しい事だ。俺自身、自分の判断を誤りだとは思っていないが、父の主張に勝てる自信はない。医者と教師ならば、断然医者の方にステータスがあるのは、父の個人的な意見ではなく、今の世の中の判断だ。その評価を覆せる程のものが、自分の夢にはないのを、俺が一番わかっている。
「太刀打出来るものがあるのなら兎も角、今のままじゃ、父さんのアレを無視するなんて事は出来ないよ」
「まあ、確かにそうでしょうけど。あれでも、かなり改善されているから、貴方は平気だと思うのよね、私は」
「改善って、ナニ?」
「兄さんも人の親って事よ。大地との事があるから、意地になっている部分もあるんだろうけど。兄が良くて弟は駄目って事はしないと思うのよね」
「そうかな…」
「昔はもっと強引だったのよ。私の時は、家族だけじゃなく周りにも理解されなくて当然な事だったから、もっと凄かったわ。死に別れてもおかしくないようなものだったから、喧嘩なんてレベルじゃなく、もう悲惨だったわ。兄さんと掴み合いしたのは、あの時だけね。戦地に行く前から、惨事に直面よ」
「掴み合い?それって、父さんと?」
「そうよ。マサ兄は激昂したから。逆に、コウ兄は余り何も言わなかったわね。勝手にしろと呆れていたのね」
アッケラカンと叔母は笑うが、戦場へと赴いた彼女の立場がどういうものだったのか。幼かった俺は、それをよく覚えてはいない。しかし、、今になって昔を振り返れば、親戚の中で孤立状態であったように思う。子供心にも、そんな風当たりの強い中で凜と背筋を伸ばし立っていた叔母がとても輝いて見えたもので。俺は勿論、兄やいとこ達が親の渋面を気にもせずに叔母に懐いたのは、だからこそなのだと思う。この人は、芯が強い。そしてそれは間違いなく優しさであり、俺達は純粋に惹かれたのだ。
だが、俺は…。
「俺は、叔母さんみたいに強くはないよ…」
叔母が家族の反対を押し切り、命の危険さえある外国に身ひとつで向かったのは、今の俺と変わらない歳の頃だ。何もかもが、違う。何度も同じ事を繰り返している俺とは、全然違う。俺には、そんな決断力も行動力もなければ、向上心もない。
「別に、強い弱いの話ではないんだけれど。でも、貴方がそう感じるのならば、なればいいじゃないの、ねぇ。強くなってみなさいよ」
「……」
「大和」
「…うん」
「後悔するのなら、自分の選んだ道でしなさい。留学して医者になったら、貴方、自分や親を非難するんじゃないの?誰にも文句を言わない自信はある?」
「…ない」
「だったら、突っ走ってみなさいよ」
コツンと、俯きかけていた頭を、横から軽く拳で小突かれた。気合いを入れてくれる叔母に何か応えようと、俺は口を開く。
だが、何も言えない。
大和、と再び叔母が俺を呼ぶのと同時に、女将の居場所を問う声が厨房の方から届いた。話し込む時間は、無い。
「…呼んでるよ」
俺も部屋に戻るから、行って。ああ、あと、ありがとう。早口にそう言い、笑いを落し、俺は叔母より先にその場を離れた。
慌てはしないが、余裕もない。一直線で自室へ向かい、ベッドに腰掛け深呼吸を数度繰り返す。
落ち着いて、良く考えてみよう。今のは何だ、どういう事だ。早急にきちんと全てを理解する必要があるように思う。
まずは、そう。ここを出て行く。それは確かに、今までも考えていた事だ。だが、叔母が言ったのは、俺のそれとはちょっと違う。何より――友達だって…? いやいや、水木をそれに当て嵌めるのは流石にヤバイだろう。だが、叔母が誤解したのは、当然だ。俺がそう言ったのだから、彼女の中ではそれしかない。どんなに聡い人物であろうとも、本当はヤクザの部屋に泊まった――だなんて憶測はしないし、気付かないのが普通だ。
だから。親とのバトルでへこんでいる甥に、友達のところで羽を伸ばせば良いと、そう提案するのも頷ける。俺が料亭の雰囲気に馴染めきれていないのを知っていれば、尚更だろう。叔母は良かれと思っての、助言なのだ。友達だとか、水木だとかは関係ない。こんな甥は迷惑だと、遠ざける算段を始めたわけでは決してないのだ。それは信じられる。
俺が信じられないのは、信じたくないのは、ただこの己を包む現状なのだろう。一体これは何なんだ。あの男の執念か、怨念か? どんどん水木が有利な状況になってきているようなのが、かなり気に食わない。叔母はそういうつもりでは全然ないのに、そこに水木を結び付けてしまう自分が、腹立たしい。水木は関係ない、関係ないと繰り返し、頭を掻き毟ったところでハタと思い出す。
そうだ、水木。水木だ。完璧に忘れていた。待つと言っていたが、まさか続行中じゃないだろうな?放っているが、大丈夫なんだろうか…?
本気で訪ねてくるつもりじゃないだろうなと、ベッドから立ち上がり窓へと近付きかけ、屋敷からは車は見えないだろうと気付き再び戻る。そんな落ち着かない自分が、物凄くムカついた。冷静さが、完全に欠けている。
「……冗談じゃないよ」
そう、全く以て、冗談じゃない。こんな事はいい加減終わりにしたいと、俺は溜息を吐く。何故に、ヤクザに振り回されねばならないんだ。しかも、意味不明な事で。一度甘えて利用した自分が悪いといえば悪いのだが……納得いかない。
俺としては、叔母がそう言うのであれば、これで彼女を少しでも安心させられるのであれば、何処へでも行こうと思う。それこそ、今直ぐ実家に帰っても良い。だが、それでは余計に心配をかけるだけになるのだろう。叔母は俺が両親と揉めている事自体よりも、俺の精神状態が回復しきれていない事を気にかけてくれているように思う。
だから多分、叔母は新たに始めた大学生活で、甥に楽しみを見つけて欲しいと考えているのだ。それは、友人達と遊び、躓いた出来事を早く過去にしろというものからだろう。自身の経験からもあるのだろうが、叔母が俺の尻を叩き応援するのは、夢を叶えさせる為ではなく、精神的にも経済的にも自立させる為なのだ。彼女は、守るのではなく、頑張れと俺を支えてくれている。
俺はそれに応えたいし、今ここで出された提案も、間違いだとは思わない。友達に相談するなり何なりして、気分を軽くしろと促してくれているのだろう事を有り難いと思う。だが当然ながら、だからと言って、それが水木であるのは拙い。水木に世話になるは有り得ない事であるし、叔母に対しても申し訳なさ過ぎるので、何度考えても「住め」に対する答えはノーだ。それしかない。
ならば。
「……誰か探すか…」
溜息混じりに呟き、時刻を確認する。七時過ぎの日曜ならば、誰かを捕まえられるだろうし、今夜だけなら世話になれるかもしれない。駄目なら、出費は痛いがビジネスホテルでも探せば良い。そう、どう考えても、相手がどうでも。俺の中では、進んで水木の世話になる気は生まれないよなと、改めて確認する。
勝手に待っていると言ったのは向こうだが、もう一度きちんと断っておこうと、俺は携帯を手に取り水木のナンバーを呼び出した。だが、11桁の数字を発信する事が出来ない。
「……」
電話をしても、水木を納得させられる自信は皆無だ。今更また同じ話を俺がしても、意味が無いように思う。きっと、先の会話を電話で繰り返すだけなのだ。
だったら、戸川さんに頼もうか。自分が説得出来ないのならば、放ってもおけないのなだから、誰かに頼るしかないだろう。しかし。
どんな風に言えばいいんだよと、電源を押し待ち受け画面に戻した携帯を、俺はベッドの上に放った。水木がしつこいんだ、助けて下さい――だなんて、言えない。言いたくない。
「…………」
少しだけだと、寝ている場合ではないのをわかりつつも、俺はベッドに横になり天井を眺めた。いつの間にか見慣れた、自分の居場所として認識している部屋。料亭に慣れてはいないが、この部屋に満ちるのは間違いなく自分の空気で。
失うのかと思うと、胸が苦しくなる。
今日や明日は兎も角。一週間後には、もうこの部屋は、この料亭は、帰ってくる場所ではなくなるのだと。
そう考えると、動け無くなってしまいそうだ。
甘えるとか何だとかではなく。自分はここに、家族や家庭を求めていたのかもしれないと、何となく気付く。依存まではいかずとも、執着は持ち掛けているのかもしれない。料亭という空間としての敷居は高くとも、こうして入ってしまえば、自分をしっかりと包み込んでくれる。叔母と義叔父が与えてくれる、優しいこの空気が心地良くて。俺はここが自分の居場所だと、思い込もうとしていたのかもしれない。ここで居るのは楽だからと、この温かさに猫のように身を丸めかけていたのだろう。
一時避難の場所を自分の家だと錯覚しかけている俺は、最早愚かと言うよりも滑稽だ。幼過ぎて話にならない。父の言う通り、俺は考えていないんだなと。考えたつもりになって満足しているんだなと、自分の思考の浅さに溜息が出る。
まだ二十歳だとか、経験不足だとかは、意味のない言い訳だ。現に今、自分がとる振る舞いにそれは関係がないのだと改めて思い知る。どんなに理由を並べようが、馬鹿は馬鹿でしかないし、甘えは甘えでしかない。心がどんなに叫ぼうが、現実は理想よりもクールでシュールなのだ。思いは結果のエッセンスにもならない。
簡単に言えば。俺の今は、「フザケている」だ。いい加減にしろボケ、だ。なのに、叔母も水木も、怒らない詰らない。内面は兎も角、表面的にはしおらしく悩んでいるのだから、それはそれで当然な、正しい接し方であるのだろう。落ち込んでいるのを知っていれば、普通はまず励ますものだ。俺がその立場なら同じ事をしている。だけど。
お前馬鹿だよ、甘えるなよ欝陶しい。そう呆れて怒って欲しい時もあるのだ。
誰か間抜けだと笑ってくれないだろうかと、俺は知人達の顔を思い浮かべる。水木のように深いところではなく、ただ単純にドジったなと頭を叩いてくれる友人を、俺は探す。こんな事を算段する自分は嫌な奴なんだろうなと思いながらも、今から誰を呼び出そうかと頭の中で真剣に考える。
医学部時代の友人達は、その忙しさを知っているので相手にさせるのは気が引ける。その点、中高校時代の奴等は暇をしているだろう者が多いので問題はないが、気楽な学生生活を満喫する彼らが相手だと、ただ負けて終わってしまいそうだ。ここで狙い目なのは、草川の事もある立原だろう。彼なら、年上など気にせず呆れてくれるのだろうが…。
「……バイト、だったっけ…?」
確か、未成年の癖に週末はバーテンをしていると言っていたのは奴だったような……いや、それは猪口だったか、角だったか。それとも、別の誰かか…?
覚えていない記憶を、それでも何とか掘り起こそうとした、その時。
俺の耳元で突然、高音が弾けた。
2006/04/25