21


「うわッ!」
 ガバリと飛び置き、自分を驚かせた正体はただの着信音だと悟りつつも、俺は勢いよく体を後ろへ引いた。騒ぐ胸を片手で押さえつつ、謎の生物を見るような感覚で、俺は遠巻きに光る携帯を眺める。
 ……この曲は。まさか、また母さんじゃないだろうな…?
 おっかなびっくり顔を近付け小さな画面を目を細めて確認し、そこを流れる文字に、安心と複雑な感情を引き出された。俺は携帯を手に取り、ボタンをひとつ押して鳴り響く音を切る。腕を上げながら息を吸い、ハイと応える為に口を開いた。だが。
 俺が声を出すよりも早く、相手が何処に居るのかと挨拶もなく尋ねてきた。
『どちらに居られます?』
 この人とは昼間に話したばかりなので、改めて挨拶をする必要は余りなく、多分これが正しいのであろう。簡素な言葉をそう考える事で受け入れ、それに習って俺もまた簡潔に答える。
「萩森ですが」
『ああ、ではもう料亭に帰られているんですね』
 確認と言うよりも、戸川さんは事実を言葉にして表すように、どこか乾いた声を出した。まるで用意された台詞を述べるかのように無味無臭で、見える事はないのに、俺は思わず首を傾げる。何だか、らしくはないと。
「あの、」
 どうかしましたかと問い掛けようと声を出した俺に、戸川さんは新たに質問を重ねてきた。
『千束さん、ご自分で戻られたんですかね?水木とはいつ、何処で別れました?』
「えっ? 水木さんですか…?」
『ええ、そうです。実は水木と連絡が取れないので、お電話を入れさせて頂いたんですよ。よければ、教えて貰えますかね。昼間、彼は部屋に行ったでしょう。その後、どうしました? いえ、別に他意はありませんよ。水木の事だけで結構です、二人に何があったのかまでは聞きませんから勿論。ですがまあ、そちらに戻られているのが、何よりもの答えなのでしょう。ああ、だったら彼は、失恋による雲隠れでもしているんでしょうか。まぁ、例えそうであったとしても、フッた相手などを気にかける必要はないのでしょうが。ここはひとつ、私の顔に免じてお願いしますよ。何時頃に水木と――あ、失礼』
 声を挟む間もない程に勢いよく話していた戸川さんが、不意にそう断り通話を遠ざける。送話口を手で塞いでいるのか、くぐもった声が途切れ途切れに聞こえて来た。通話先は何だか慌ただしいようだ。微かに聞こえる戸川さんの声は、俺に対するものと違い、かなり雑である。それでも、戸川さんはやはり戸川さんのようだ。俺が若干違和感を覚えたのは、彼の焦りを感じたからなのだろう。理由は知らないが、水木を急いで探しているようだ。
「……あの」
 今まで戸川さんは俺の相手をする時、いつでも落ち着き、余裕綽々の雰囲気を持っていた。今は、戸川さん自身が焦っているのか、通話口の向こうがそういう空気を持っているのかはわからないが、俺に対する対応が何処か少し、緩い。それは、水木に重点を置いているからなのだろう。多分、俺を蔑ろにしようとしている訳ではなく、ただ単純に今は構い倒す時間的余裕がないだけなのだろう。素っ気なさを感じても、冷たいとは思わないのは、だからだと思う。
 テンポ良く紡がれた言葉は、引っ掛かるものが多く、色々訂正を入れておきたい気もするが。それよりもまず、慌てているらしい戸川さんに伝えるべきものがあるだろう。指名手配中らしい水木の居場所をリークしても、俺の心は痛まないし、何よりも願ったり叶ったりな展開に持って行けるかもしれないのだ。この際、ツッコミは後でよい。
「戸川さん…?あの、戸川さん、もしもーし」
 料亭だと答えた俺にはもう用はないかもしれませんが、こちらにはあるんです。気付いて下さいよと、俺は相手に聞こえるまで名前を連呼してみた。もしもし戸川さん、貴方は俺の救いの神となるのかもしれません。だから早く戻ってきて下さい。お願いします。そう切実に訴えるが、返ってくるのは、俺の反響した声と雑音だけ。
 一度通話を切り掛け直そうかと考え始めた時。漸く、「済みません、千束さん」と苦笑しながら戸川さんが戻って来てくれた。忘れられていなかったようで、良かったです。ハイ。
『お騒がせしましたね、では――』
「あ、ちょっといいですか?」
『はい』
「水木さん、居ますよ」
 多分…と続けた俺の言葉は、意外にも、空中に浮きフラフラと彷徨った。何とも言えない沈黙が、突如として緊張を呼び寄せる。直ぐに食い付いてくれるかと思った戸川さんが落とす無言は、まるで水木を相手にしているかのような感じで。こちらも不意打ちを喰らい、言葉を詰まらせた。
 何かマズったのかと、何か言わねばならない焦りがあるのに、口からは何も出ない。待たせたのは戸川さんであり、俺は悪くは無い筈なのに。失敗したのは何だか自分のような気がしてくる。これは、最初に居場所を問われた時に、すぐさま答えなかった俺のミスなのか…?
 どうしようかと、どうすればいいんだと、思わず何かに助けを求める。部屋に彷徨わせた視線は、けれども縋るものなど捉えない。
『多分とは、どういう事ですか?』
「……ァ」
 しかし俺の焦りをよそに、微妙な間を置き向けられた戸川さんのその声は、笑いを含んだものだった。怒ったのかと、呆れたのかと考えかけていた俺は、その軽くもある声音に一気に体の強張りを解く。心の底から、ホッと安心する。しかし、安心はしても、安堵をしてはならないのだろう。
 状況が状況なだけにサラリと伝える事は出来ず、しどろもどろになりながら水木がそこに居ると思われる理由を話す。恥ずかしさと居た堪れなさに、スミマセンと謝罪で言葉を締めくくった時には、俺の中からは力が抜けきっていた。脱力する身体を傾けるように丸め、項垂れ俯いた俺は、『多分ではなく、間違いなく水木は居ますね』と笑い声に断定され、更に縮こまる羽目となる。…身の置き場が、ない。
 まだ、電話で良かったのだろう。戸川さんが目の前に居たら、俺の顔からは火が噴いていたはずだ、絶対に。水木の事も俺の事も、話さずとも戸川さんは良く知っているのだろうが。こうして自分の状況を人に説明するのは本当に恥ずかし過ぎる事で。…どうにかなってしまいそうだ。もしも羞恥で死ねるのならば、俺はとっくに河を渡っている事だろう。
 情けない。
 俺はなんて、ガキなのか…。恥ずかしい……。
『別に、こちらの事情ですから千束さんが謝る事はないですよ。携帯の電源を切っている水木が悪いんですからね。何より言うなれば、無理やり送迎されている貴方は充分に被害者ですし、気にしないで下さい』
「いや、でも…済みません」
 一方的に構いに来たのは、確かに水木だ。戸川さんの言う通り、俺は被害者だと言えるのだろう。だが、断り切れなかった自分にも落ち度があったのも事実である。悪いのは水木ばかりではないと思えば、彼を探していた同僚である戸川さんに謝罪するのは当然だろう。
『ですから、そんなに謝らないで下さいよ』
 けれども戸川さんは、恐縮しまくる俺を和ませるかのように、喉で笑いながら言った。
『そこに居るのがわかれば、問題は何もありませんから。本当に気にしないで下さい。お願いがあるのに、頼み難くなるじゃないですか。ね』
「え? お願い、ですか…?」
 このタイミングでの「お願い」に嫌な予感を覚えないわけではなかったが、聞き返さずにいる根性もなく、恐る恐る首を傾げる。
「…何でしょう」
『悪いのですが、千束さん。水木に、こちらに連絡を入れろと伝えて貰えませんか?』
「……いや、それは…」
 また水木に会えという事ですか。そうなんですか、戸川さん…?
 今散々俺は恥をかきながらも状況を説明したというのに、再び水木のところへ行けと、そんな殺生な事を本気で仰っているのでしょうか。……貴方はやはり、天邪鬼? 俺が困るとわかりつつ、やっています…ね?
『水木の誘いに乗らないのだとしても。そのまま放っておけば、貴方が明日学校へ出掛けるまで彼はそこに居ますよ、確実に』
「……」
 …そんな解説要りません。予言ですか、脅しですか、それは。
 電話だと言うのに、簡単に戸川さんの表情を頭に思い描けてしまう自分が、少し悲しい。きっと今は、あの眼鏡の奥の目を三日月型に細めているに違いない。もしかしたら、お尻には先が矢印になった尻尾が、本当に生えているのかも…。……笑い飛ばせない想像に、自分でやっておきながら背筋が寒くなる。
「それは…ちょっと、困ります……」
 居場所はわかったのだから、そっちで何とかしろよと思わず思ったが。誰が迎えに来ても、水木は言う事など聞かなさそうだと考え直す。変な刺激により、本気で料亭を訪ねて来られたりなんかしたら……俺は今以上にもっと困るだろう。叔母への言い訳など、何をどうしようが無理だ、用意は出来ない。ならば、下手な事は言わないに限るのだろうか…?
 対応に迷い悩む俺の困惑が伝わったのか何なのか、戸川さんが優しい言葉を紡ぐ。だが、それでもやはり。優しさはあっても、どこか上辺だけで説得力はない。
 ……俺を操作しようとしていませんか、ねえ…?
『大丈夫ですよ。貴方がもう一度行って断れば、多分大人しく帰りますから』
「はぁ…」
 多分、ですか。言い切る割には、そこは曖昧なんですね…。
 段々この人の、言葉のテクが掴めてきた気がする。性格同様に、上辺だけを汲んでいたら、痛い目を見そうだ。
『帰れ!と、ビシッと遠慮せず言ってやって下さい。そのついでに、伝言。お願いしますね』
 助言なのか何なのか。そう言う戸川さんの声はやけに楽しげだ。本当に、何か企んでいるのではないかと、本気で疑いたくなる。しかし。そんな俺の警戒は、どこ吹く風と言うように。俺の疑心を勘付いているだろうにスルーする戸川さんは、同じ声で秘密を打ち明けるように爆弾を落とした。
『それか、そうですねぇ。水木がしつこければ、いっその事、誘いに乗ってみるのがイイかもしれませんね。その方が、抵抗するよりも楽でしょう。多分、今夜も彼は一晩中仕事で、あの部屋には帰りませんから、大丈夫ですよ。心配は全くもって無用ですし、一時的にでも、受け入れてみればどうですか? 言う通り今夜は泊まって、実践し考慮した上で側には居られないと結論を出し、一日で去る。いい訳ではなく、立派な答えでしょう。どうです?』
 どうです…って言われても。前以てのそれって……。
「…それって、騙すって事ですか…?」
『まさか。騙すも何も、ただの作戦ですよ。千束さんの答えが変わらないのでしたら、直接本人と住む必要はないでしょう? だが、それなら水木は納得しません。ですから、実行するのならば、確実に帰らない今夜が良いと思いませんか?』
「…………。水木さん、仕事なんですか…?」
『ええ。なので、言ってしまえば、泊まる振りをして速攻で帰る事も出来ますね。勿論、明日の朝イチで出て行くのも、簡単です。何でしたら、私もお手伝いしますよ。だから、千束さん。余り遣り合わずに、穏便にお願いします。大丈夫ですから、ね』
「……はァ」
 はァ、ではない。まるで、「だから、さっさと二人揃って、俺の前にツラを出せ」――と言っているように聞こえるのは、何なのだろう。気のせいでしょうか、戸川さん。実際には戸川さんが必要なのは、水木だけなのだろうが…。彼だけではなく、俺も貴方に首根っこを押さえられているような錯覚に陥るのは何故でしょう。考えすぎなのでしょうか、ねえ…?
 情報提供に感謝すべきなのだろうが……ごめんなさい、出来ません。怪しいです、戸川さん…。遣り合わず穏便にって…。……出来るのならばこんな苦労はしていません。
 大丈夫、大丈夫。何ひとつそれを立証出来はしないのに、その言葉を大セールで撒き散らした戸川さんの「お願いします」が、通話を切った後も耳奥で響いた。お願いを実行したくはない俺のどこが、大丈夫なのか。既に危機的状況だと脱力しかけ、滑り落としそうになった携帯を掴みなおす。
「…………」
 大丈夫でなかったならば、その責任は取ってくれるのか…?
 そもそも、責任ってなんだ。そんな償いなど、俺は受けたくはないぞ。大丈夫とか何だとかではなく、要は俺が戸川さんに押し切られるかどうかと言うだけの事で…。全てに意味が無いように思う。何故にその空虚さを、俺は今ここで味わっているんだ。
 理不尽だ。
 煽てるように言葉を紡いだ戸川さんに対するものではなく、こういった状況を作った水木に苛立ちが募り、先程は発信出来なかったダイヤルを俺は躊躇う事なく押した。点滅する11桁の数字を睨み、携帯を耳にあてる。
「…クソッ」
 戸川さんの言った通り、水木の携帯は昼間と同じ返答を返して来た。だが、ずっと電源を切っているとは考え難い。まして、タイミング良くバッテリー切れというのも、嘘臭い。
 そう、これは明らかに、確信犯だろう。仕事の連絡を避ける為か、俺を困らせる為かは知らないが。絶対、着信を予期しながら電源を落としているのだ。何て、陰険なのか、用意周到なのか。傲慢だ。携帯電話に対する冒涜行為だ。
 だが。まさか、俺が戸川さんの伝言を承る展開になるとは、考えていなかったんじゃないだろうか? ここまでの展開を、ヤツは予想していなかったんじゃないのか…?
 それを浅はかだと詰る訳ではなく、また意表を突かれて可哀相にと同情する訳ではなく。俺は思いついたそれに対し、ただ単純に。水木に言ってやると、言ってやろうじゃないかと、よくわからない勢いに狩られ部屋を飛び出した。玄関を過ぎ、門を潜り抜け、路地を早足で駆ける。あの男も俺と同じ様に、少しは面白くない思いをすればいい。

 変わらずそこにある白い車を目掛けて一直線する自分を、どこかで馬鹿だと思いながらも。これこそ戸川さんの策にはまっているんじゃないかと感じながらも。それらはノブにかけた手を止める要素には全くならず、俺は躊躇せずにドアを引く。
「戸川さんから、電話がありました。連絡が欲しいとの事です」
 大きく開いたドアと車体にかけた腕に体重を預け、背中を丸め車内を覗き込み低く告げると、水木は驚く事もなく「…ああ」と気のない返事を寄越した。
「それで?」
「……」
 ……それもどれもない。反応が薄過ぎて、こっちが面白くないぞコラ。何より、伝言をした俺に対して礼は無いのか、礼は。……もしかして、予想の範囲内だったのか…?
「…別にそれだけですよ。……って言うか、まだ俺を伝書鳩として使う気ですか? それも何もどれも、ちゃんと自分達で話して下さいよ。携帯持ってンでしょう、電源入れて下さい」
「……戸川の事はいい。あいつから離れろ」
「は?離れろって…」
 いや、簡単に言われても。俺だって離れられるのならば、戸川さんからも水木からも、何もかもから離れたい。だが、普通に考えて、無理だろう? 無理な事を言うなよオイ。それとも何か?彼に押し切られここまで来た俺が馬鹿だと言いたいのか…? ……その面白くなさそうな表情は、俺に呆れていのものなのか?
「…それって、どういう――」
「荷物は持って来ていないのかと聞いている」
「――ハイ…?」
 聞いているって…、初めて言うだろ、それ。
 何を偉そうにと顔を顰め、ふと思う。荷物とは、もしかして。水木は、俺が現れ期待したのだろうか? 誘いに了承してやって来たと勘違いしたのだろうか?
 俺は、自分がとった行動が誤解させるようなものであった事に今更ながらに気付き、呆然となった。「それで?」とは、戸川さんの事ではなく、俺自身に聞いたのかもしれない。とってもわかり難いが、水木は水木なりに、別の言葉を待っていた…のか?
 そう考えると、何とも言えぬ気まずさに、吐き出した俺の声は情けなくも掠れていた。
「……いや、あの…俺は、…伝言を持って来ただけだから……」
「それだけか?」
 …モチのロンで、それだけです。他に何がある、悪いですか? ――って、水木にとっては正に「悪い」になるのだろう、そんな事は言えはしない。
「……さっきも言ったけど。もう、いい加減、帰って下さい…」
 じゃあ、と俺は水木とは視線を合わせずにドアを閉め、足を踏み出した。今の俺には、他に出来る事はない。多少なりとも後ろ髪を引かれる思いがするのは、何とも馬鹿らし過ぎる事ではあるのだが。やって来た時よりも勢いがないのは、仕方のない事だろう。今になり、俺は水木が本当にそこに留まっていた事実に驚愕しているらしい。断られても待つとは、どんな神経をしているのか。馬鹿だ。俺も馬鹿だが、絶対、アイツの方が馬鹿だ。後ろめたさを蹴散らすように、その言葉を繰り返すが、心臓は苛立ちではない暴れ方をする。
 ドキドキと脈打つ度、目眩まで感じるのは如何なものなのだろう。
「大和」
「……」
 静かな呼び声に、俺の足は持ち主の意思を無視し、勝手に動きを止めていた。仕方がないとの態度を崩さず、けれども何故か痺れる身体を深い呼吸で宥めながら、俺はゆっくりと肩越しに振り返る。不機嫌な顔で。
「……なに」
 ドアを開けたまま車の屋根に肘をつく男は、指先で俺にこちらへ来いとの命令を寄越した。暗がりの中、離れた外灯や家並みの明かり等でわずかに浮かび上がるその姿は、どこか現実味がない。朧だ。だが、幻のようであっても、その存在感はしっかりとそこにある。それだけの魅力を、闇の中でも男は放っていた。
 それでも、俺はなけなしの根性を奮い立たせ、意地でも動いてやらないぞと相手を睨みつけると、「聞こえるぞ?」と水木が顎で料亭を示す。この距離では内緒話は、確かに出来ない。でも、だからって。何て脅し方だクソッ。
「……」
 仕方なく足を戻し外車の鼻先で立ち止まると、もっと来いというように、眼で促される。いい加減にしろよと思ったが、ここでキレたならば今までの我慢が無駄になると堪え、俺はドアを閉め体の向きを変えた水木を真正面から見つめた。
「…何ですか」
 間近で見ても闇に溶ける服装故、むき出しの肌が必要以上に目につく。その水木の決して良くは見えない顔色を見ていると、何故か頬を抓ってやりたいという衝動が湧いてきた。それは、苛立ちが呼んだのか、それとも――。それとも、叔母や水木が先程俺にしたのと同じ感情を自分が抱いているからなのか。よくわからないが、取り澄ましたこの面を引っ張れば気分はスカッとするだろうと、つい考えてしまう。
 だが、当然ながらそれは実行出来はしないので、睨むだけで我慢しておく。抓みにいったが最後、腕ごと食い千切られてしまいそうだ。例え我慢出来なくても、耐えねばならない時もある。
 だが、そんな俺の健気な苦労も知らず。当人は、傲慢に言い放つ。
「お前が車に乗るまで、俺は動かないぞ」
「……」
 笑いもせず、真面目に。けれども脅しでも説得でもなく、静かに。ただそれだけの事実のような声音の問いは、しかし意外にも、スッと俺の胸に染み込んで来た。だが、微妙に尻上がりな、疑問形でもあるようなのが気になる。日本語のニュアンスは、難しいと言うよりも、単純に恐るべし、だ。母国語なのに掴み切れない俺が軟弱なのだという事ではないだろう。使いようによって、こんなにややこしく、狡くもなる言語は他にないのかもしれない。
 望んではいないのに、そんな島国の言葉の利点を発揮してくれる男に眉を寄せ、俺は軽く頭を振る。
「何言ってンですか…。……仕事なのでしょう、戻って下さい」
「俺は何も聞いていない。だから、待つ」
「……ハァ?」
「戸川に怒られるぞ」
「お、俺…?」
 どうして自分がと戸惑い掛けた俺に、水木はさらりと言った。
「伝言を頼まれたのはお前だろう」
「…………」
「違うか?」
 それって、つまり――。
「――バッ!!」
 馬鹿野郎――と意味を理解した途端反射的に口にしかけた言葉を、辛うじて飲み込む。だが、水木の言い草はどうしようとも飲み込めはしない。要するに。ここで誘いに乗らずに困るのは、俺だと言いたいわけだ。俺の遣いをなかった事にして、戸川さんを無視するわけだ。そして、その非難は俺が受けろってか…?
 冗談じゃない。
 ンな痴話喧嘩のようなベタな遣り合いは、俺に害が及ばないところで、二人で勝手にやってくれ!だ。何だって、俺がそれに巻き込まねばならない、そんな扱いをされねばならない。嫌がらせにも程がある。今ここで戸川さんに通報するぞコラ。俺は頼まれたとおり伝言したが、水木が逃げようとしているとチクるぞオイッ。
「お前が動かない限り、俺も動かない。どうする?」
「……」
 どうすると言われても、俺が世話になると言わない限り、ここで居座るのだろう。俺が何を答えられるというのだ。ふざけるな。
 ムカツク。物凄くムカツクぞ、と。ギリリと歯を食いしばり俯く俺の頭に、水木の声が降って来る。静かであり、柔らかくさえもあるが、聞きたくはない声だ。腹立たしい。
 そして、それと同じく。水木がこんなふざけた事を何故言うのかと考えると…。普通に、困ってしまう。困るしかない。
 こんな弱い屁理屈を捏ねる程、水木は俺を望んでいるのか…?
「どうせ、自転車を取りに来るんだろう。それが今夜になったら、不都合あるのか?」
「不都合って…。……それだと、泊まる必要はないでしょ…」
「ああ、必要はない。だが、俺はお前にあの部屋にいて欲しい。この理由じゃ不満か?」
「……不満とか何だとか…そういうのじゃないでしょう。俺は常識的に考えて貴方の行為は可笑しいと――」
「常識に従って得るものに、魅力はあるのか?」
「……」
 俺の言葉を遮り向けて来た問いは、奇妙な厳しさをも持つものだった。
「そこに俺にとっても魅力的なものがあるのならば、従う」
「…………」
「ここで俺が退いたら、お前は俺に好意を抱くのか?」
「……いいえ」
「ならば退けない」
「……」
「俺と一緒に来い、大和。それとも、お前にとって俺の言葉は、何の魅力もないものなのか?」
「…………そんな事、言ったって…」
 いつの間にか俯いた顔は怒りではなく、涙を耐えるかのように筋肉を使っていた。目に力を入れる自分に気付き、ただ、ヤバイと思う。
 確かに俺は、水木の誘いに魅力を感じている。問題がなければ、家族よりもそちらを頼りたいとさえ思っている。いや、端的に言えば、甘えさせてくれる居場所を俺は求めているのだ。水木の指摘通りに。
 だが。
「本当にお前が家に帰る事を望んでいるのなら、邪魔はしない」
「……」
 だが、だからと言って。
 本気で選ぶ気はないし、覚悟も何もない。夢を見るのと同じ、「そうだったらイイな」だ。先程も水木に言ったように、俺は選べないのではなく、選ばないのだ。
 そう。この考えは偽りではないと思う。確かに、自分の中にその思いはある。けれど俺は無意識に、水木に助けを求めているのだろうか。縋っているのだろうか。
 今、水木が俺に言った言葉は、正にそれを証明しているかのようなものではないか。邪魔はしないと言い切る男は、俺の揺らぎを感じ取るが故に邪魔をしているわけだ。言うなれば、俺が突いてくれと隙を見せつけ、水木に攻めさせている訳だ。
「…クソッ!」
 俺はカマトトぶった女かよと、自身の姿に思わず呻く。振り回されて居る振りをして、実は自分が相手を振り回しているってか。悪いのは、俺なのか…? 俺が水木に、こうさせている…?
「……アンタと居ると、どんどん自分の嫌な面が見えてくる気がする…」
 口に広がる苦味に耐えるよう歯を食いしばり顔を顰め吐きだす、毒でしかない言葉。しかし、この毒は吐き出したところで、身体から消えるものではない。むしろ、自覚すればするだけ、倍増されていくようだ。進行の早いガンだなと、俺は腐っているなと、思わず自嘲してしまう。それなのに。
 水木は何をどう考えたのか、俺の毒には合わない応えを返して来た。
「それは、俺を好きだと言う事か?」
「…………ハァ?」
 思わず水木を見上げ、間抜けな声を落とす。
 それは……どういう事だ? 俺はそんな事はひと言も言っていないが…?
「……何でそうなるの」
「俺のそれを認めるから、自分のそれを欠点に思う――そう言う事じゃないのか?」
「…………」
 ……怒るか呆れるか照れるか、迷う展開だ。その自惚れはかなり強引すぎるし、呆れるには意外に鋭すぎる。かと言って、素直に照れてやるのも癪に触る。
「どうなんだ?」
 …ンな真面目に問われても。
 見やった男の真剣さに耐えられず、俺はつい深い息を落とした。
「……アンタは、誰が見てもカッコイイ。変だけど、イイ男だよ。同じ男として、負けたなとか悔しいなとか思うのも事実。でも、自分より優るアンタのそれに好感を持つかどうかは別だ」
「……そうか」
 ……何故、声が沈むんだ…。
「……。…極端すぎだよ、発想が。飛躍しすぎ……多分」
 水木の声に落胆が滲んでいるように感じ、思わず何も考えずに言い訳を口にしかけ、失敗する。自分でも、何をフォローしようとしているのかよくわからず、焦燥感だけが胸に生まれた。
「……さっきと同じじゃん…」
 思わず零れた愚痴は、けれども間違いでも何でもなく、正にその通りのもので。遣る瀬無さを吐き出すように、俺は口を突いて出ただけであったそれを拾い上げ、言葉を繋いだ。
「俺達、同じ事を繰り返しているだけだよ……意味がねぇ…」
「お前になくとも、俺にはある」
「まさか、俺と話せるのが嬉しい……とかって言わないで下さいよ?」
「……」
 自嘲的に、茶化すよう口の端を上げ鼻で息を吐きながら言ってやったそれに、否定は返らなかった。全くこの男は…と呆れ、斜め下から見上げると、どこか困ったような戸惑ったような表情に出会う。暗がりがそう見せるのだろうが、それは新鮮と言うよりも取るに足りないもののような淡泊さを覚えさせてくるもので。こんな顔をしても何も変わらないのだなと、ただ思う。
 そう、変わっているのは時と場所だけで。水木の部屋と車の中と今は同じ。こうして新たな何かを知っても、同じ事ばかりを繰り返し、同じ気まずさを味わう。飽きるくらいに、同じだ。
「アンタはずっと、その調子だよね。っで、俺も同じで――馬鹿言ってんなよ冗談キツイって思うけど…。だけど、真面目な言葉を向けられて、さ。俺は人を拒絶するのが巧くなくて、下手なくせにズルくて、ただただ接し方に困る。俺は絶対に頷けないから、放っておいてと頼むのに。なのに…アンタは変わらず馬鹿な事を真面目に言って……。上手くはいえないけど……ずっとそんな繰り返し、だよ…」
 このままでは、これから先も同じだ。どちらにも転びはしない。なのに、まだ続けると言うのか。意味もないのに。
 それに加え、無駄なだけであるのならば無視も出来るが、そうではない。俺も水木も、意味はないのに話すから。思いを簡単に語ってしまうから、流し切る事が難しくなる。中途半端に馴れ合うなど、性質が悪いとわかっているのに。…最悪だ。
「……しかも、さ。友達にも、家族にも話さない事を、いきなり現れたアンタに、俺はなんで話してるんだよ。…オカシイって。普通じゃないよホント…」
「大和」
「絶対変だよこんなの。同じ事をグルグルグル。全然楽しい事じゃないのに、終わらない。…もう、終わりたいのか終わりたくないのかさえ、わからなくなる……。……胸の中がグチャグチャで…気持ち悪い。……助けてよ」
 俺が好きだと言うのなら、助けてよ。アンタが終わらせてくれよ。
 近付く夜の暗さが俺を陶酔させたのか。昼間では決して言わないだろう、非難か弱音かわからない思いが口から零れる。水木の呼び掛けを無視し、言ったそれに後悔はないが、このまま闇に溶けたい気分になった。
 本当に、俺はおかしくなってしまったのかもしれない。
 処理出来ない感情に、状況に、酔っている。浸かりきっている。
 最悪なのは、俺だ。
 また、そうして免罪符を得て、逃げる事を考えようとしている。


2006/05/02