22


 偽善者のつもりはない。だから、逃げることは悪い事だとも、仕方がない事だとも、他人に説く気はない。俺にとって重要なのは、それをする自分がどうなのかという事だけだ。逃げる自分をズルいと思う時もあれば、正しいと感じる時もある。そんな己を受け入れたり拒絶したりしながら、折り合いを探るのだ。それを見付ける為に、俺は沢山悩むのだ。正しい道ばかりを歩いているつもりはない。自分を良く見せようと、被り物を着る趣味は一切ない。
 だが、今の俺はただの卑怯者なのかもしれない。わからない自分を正当化し、全ての問題を水木に押し付けているのかもしれない。仕方がないと、こうなるのが当然だろうと開き直る部分もあるが、上手く対応出来ないのは紛れもない己の浅さで。俺の方が悪い事をしている気分になってくる。
 悲劇のヒロインぶって自分を慰めるような愚かさはないつもりであったのに。
 俺って…何故こうなんだろう。意思が弱い訳でもないのだろうに、決断力が曖昧すぎる。何が、助けてよ、だ。助かりたいと思っているのならば、自分が動くしかないのに。水木に頼るなど、ふざけている。相手に戦線離脱を乞うなど、ただのガキだ。
 痛みを伴わない勝利など、あるはずがないのに。
 水木に対する己の腐った態度に、吐き気を覚えた。殴られたからと言って、殴り返す理由にはなっても、それを正当化する事までは出来ない。それと同じで、しつこい水木を遠ざける為に、あれこれ手を尽すのだとしても、嘘をついて良いという事にはならない。卑怯な行いをして良い事にはならない。逃げる為にそれをするのならば、自分が行動するべきなのだ。相手にさせるのは、許されるものではない。
 今の俺は、昼間に水木の部屋で母に対して行った事を繰り返しているに過ぎない。
「……行くぞ」
「え……、ナニッ!?」
 底なし沼の底まで沈みそうな勢いで溺れかけていた俺は、短い言葉と共に手首を掴まれ、勢いよく身体を引かれた。突然の事で数歩そのまま足を進めてしまったが、直ぐに不信を感じ、慌てて抵抗をする。
「ナ、何だよッ!?」
「荷物、取りに行くぞ」
「は…? やっ!ヤだよそんなの!!」
 引き摺られては堪らないので、咄嗟に水木の言葉に反応し、俺はその場で腰を落とした。放せと腕を振るが、肘が踊るだけだ。車体の影でしゃがみ込み半身を捩る自分の姿を想像すると、少し泣きたくなった。これでは、俺が駄々捏ねしている餓鬼じゃないか。歯医者は嫌だと、抵抗する子供と自分が重なる。
 そう、俺達は。本当に子供なのかもしれない。だから、同じ事を繰り返すのだろう。
 だったら、救いなどどこにもないんじゃないか…?
「……クソッ! だから何で、アンタは俺の話を聞かないんだよ。俺、そんなにおかしな事言っているのか?ワガママなのか? 違うだろ…?」
 最後の言葉に懇願が混じったのは、仕方がない事だと許して欲しい。俺なりにでは水木に通用しないのだろうが、それでも必至で俺は対応しているのに。出来る限りの事はやろうとしているのに、結局はこれなのだ。
 水木には全然、全く、俺のそれを理解してもらえないのだ。こんなに俺は苦しい思いをしているのに、何ひとつわかってくれない。それをこうして目の当りにするのは、悩んだ事実がある分、辛い。辛くて堪らない。マジで泣きそうだ。
 そう嘆きながらも、片手を取られて俯く俺とそれを見下ろす水木のこの図は、目撃者に不信がられるんじゃないだろうかと頭の隅でズレた事を俺は思う。俯いている限り俺だとはバレないだろうが、水木は暗闇でも目立つ。通り掛かった人は気に止めるだろう。料亭に来た客が、それを叔母に話したりしないだろうか? …っていうか。義叔父が帰って来たらどうする? 彼には、確実にバレるだろう。こんなところでの長居は、マズい。
 だから、もういいじゃないか。水木なんて、どうでもいいじゃないか。こんな男を気にする必要はない。ここで逃げても、俺は傷つかない。大丈夫。全てが水木の我儘だ。俺と水木の間に、俺の問題は関係ない。混ぜるから対応に困ったりするんだ。もう、充分だろう。沢山考えたのだから、もう振り払ってもいいんじゃないか?
 膝に顔を埋め、俺は自分にそう言い聞かせる。もう終わろうと、終わらせようと。だが、それを実行するのが、何故だろうか怖くて堪らない気がした。逃げたいのだろうに、どうして俺は逃げないのか。何を怯えているのか。わからないのに、一方的にこの手を振り払う事は、してはならない気分になる。
 訳がわからない。俺は何を考えているんだと、自分の事なのに説明のつかない気持ちに片手で頭を抱えると、捕らわれていた腕の拘束が不意に弛んだ。
 逃がしてくれるのかと、ホッとなるのが普通なのに。重力に従い落ちてきた腕に不安になり、俺は反射的に顔を上げる。
 目の前に水木の顔があった。
「ッ…!?」
 声も出せないくらいに驚き、頭をのけ反らせる。バランスを崩し地面に尻を着けてしまったが、それ以上に逃げ場を求め、足が地を蹴る。だが、腕を再び強く取られ、小さな抵抗はただスウェットを汚しただけで終わった。
 膝を折り、俺を押し倒したかのような水木は、けれども何も感じないのか焦った俺に呆れたのか、詫びる気など更々ないようで。淡々と言葉を発する。
「お前は何も間違ってはいない。だがそれ以上に、俺が譲れないだけだ」
「…………。……それって、俺の意志が弱いって事…?」
「違う、優しいって事だろ。それより、無理なら、お前はここに居ろ。俺が話をつけ、荷物を取ってくる」
 力が緩まり、そのまま離れて行こうとする手を、今度は逆に俺がしっかりと掴む。
 ちょっと、待て!
「そ、そんなの駄目に決まってンだろッ!」
 冗談じゃない。何をサラリと吐かすのか、危ない危ない…。優しいって何だ?と考えかけた隙を突かれ、危うく暴走されるところだった、やばいヤバイ…。水木の正体を知る叔母に会われたら、俺の人生は多分そこで終わるだろう。幾ら放任主義でも、ヤクザと付き合うなど認めるわけがない。何としてもそれは阻止せねばならない要項だ。
「取って来るって、アンタは本気で俺の人生を壊す気かよ!?」
「なら、自分で適当に片付けて来い」
 来い、じゃない。来ないよ俺は。ってか、偉そうに言うな。
「ムリッ!」
「不可能じゃないだろう。昨夜は何て言ったんだ、正直に言ったのか?」
「い、言える訳ないだろっ。友達とこだったって言ったさ、決まってンだろう…!」
「だったら、同じ事を言って来い」
「だから無理だって!」
「どこがだ」
「友達っても、学生だぞ。ワンルームが普通なの。そんなとこに連日世話になるってか?なれないだろ。少なくとも、俺は掛ける迷惑を気にしない性格じゃない。叔母はそれを知っている」
 知っていても、異なる提案をする場合があるのを隠し、俺は少々芯の弱い説明をがなりたてる。
「下手な言い訳なんて出来ないし、しても無駄だ。絶対直ぐバレる!」
「二十歳過ぎた男の外泊など、そう気にかけないだろう。心配しすぎだ」
「心配って…」
 だから、そうじゃなく。何て言うか、この状況でそれは普通無理だというのが正論だと思うのだが、違うというのかオイコラクソッ。確かに叔母も外泊を勧めてはいるが、それを水木は知らないのだから、今は関係ない。こいつがわかっているのは、親と揉めて外泊した俺が、漸く料亭に帰ったと言う事だけだ。普通、そうして帰ったばかりのところを誘うか? ……なんて大人気ないヤツなんだ。信じらンねぇ…。
「あのですね! 俺は常識的に考えてオカシイと…」
「ウダウダ言っているなら、本気で俺が行くぞ」
 唐突にガシリと頭を掴まれ、言葉を無くした。
 呆然と見上げる俺の視線の先で、水木の両目が細くなる。
「イイのか?」
「……良くないです…」
「なら、行け」
「……いや、でも…。……アンタが行って、どうするの…?」
「女将に頭を下げる」
「ハァ? ハイィ?」
「甥っ子を俺に預けて下さい、とな。易いものだ。お前が不利にはならないよう、巧くする。心配するな」
 …いや、俺がするのは、そんな心配じゃないだろうオイッ!!
「ちょ待って、マジ待って…! や、止めろよ、そんなの。アンタの頭は、ンな安くないんじゃないのか? だって、アンタ……」
「だからこそ意味があるんだろう」
「……マジかよ…」
「ああ、マジだ。茶化す余裕は俺にはない」
「…………」
 頭の中に一気に大量の情報を放り込まれたような感覚に襲われる。鳥肌が立つようでいて、脱力しているような。パニックに陥りそうで、何も考えていないような。夢の中なのか、現実なのかわからない不可思議な状態だ。暫く息をするのを忘れていたのか、吸い込んだ空気がやけに重い。重くて肺が体から千切れ落ちそうだ。
 嫌がらせとか、からかいとかではなく。本気で言っているんだなと思うと、どう位置付ければ良いのかわからなくなった。たかが餓鬼ひとりに、ヤクザが頭を下げるなど。しかも、だからって得られるものなど特にないのに。意味不明だ。この男は何を考えているんだ…?
 ……まさか、何も考えていないンじゃないよな…?
 だから、簡単に言える――とか?
 …………有り得そうで、恐ろしい。神様、ヘルプミー!だ。
「大和」
「……犬を呼ぶみたいに、呼ばないで下さい」
 駆け引きとか、打算とか。そういうものを抜きにしたら、水木の中には何が残るのだろう。最後まであるのは、「惚れた」なんだろうか…?
 そんな、考えて良いのかどうかさえわからない疑問を思い浮かべたところへの呼び掛けに、つい感じたまま言葉を口に乗せてしまう。勿論、嫌味として言ったものだ。だが、その聞き流せば良い皮肉にも、水木は律義に答えを返してきた。
 遣り返して来たかのような、嫌な答えを。
「お前が犬なら、俺のものだと首輪を付けてやるんだがな」
「……犬までも拉致る気かよ…。…ってか。アンタが欲しいのは、やっぱ…ペットみたいなもんなんだ……」
 ヤケクソで、首輪にかかるリードは水木が持つのかと、男が犬と並ぶ図を思い浮かべ笑ってやろうとするが、その犬が自分であるのならば当然笑えない。逆に泣きたくなる。
 犬ならば、飼いたいと思うのも、側に置いておきたいと願うのもわかる。動物は、可愛いものだ。ヤクザでも、人間ならばそれを愛でて当然で、おかしくはない。その愛情と同じく、誰かを欲するのも理屈ではわかる。俺はまだ、一生を誓うような心底から人を愛しきった事はないが、それでも付き合った娘に対する独占欲はあった。一緒に暮らしたいとまではいかなかったが、相思相愛のまま月日を重ねれば、同棲や結婚で束縛しあう事になるのも不思議ではない。恋愛を否定はしない。
 だが、水木と俺の場合は、どちらも当てはまらない。俺は犬みたいに愛嬌があるわけでも癒しになるわけでもなく、恋人のように愛を紡ぐわけでも支え合うわけでもない。水木が俺を気に入ったのが本当でも、同居を望む程のメリットは何もないのだ。たとえ俺の境遇に同情したとしても、本人が断っているのに迫るなど、どう考えても行き過ぎた行為である。下手な親切など、迷惑なだけだ。
 だからこれは、ペットを飼うと言うよりも。気紛れに捨て犬を拾う事を決め、人間不審なその犬を手懐けようとアレコレ試している。遊んでいる。そんなゲームなんだと言われる方が、惚れたなどと言うよりも断然しっくりくる行いだ。水木個人の本心は兎も角、世間一般的な常識ではかれば、俺は人間でも動物でもなく、玩具として見られているような気がする。
「首輪を付けたければ、俺じゃなく、本物の犬にしろよ。犬でも猫でも勝手に買ってくれ…」
 よくもまあ、そんな事が言えたものだと。犬ではなく人間であっても、この男は首輪を付けるかもしれないぞと。フザケタ発言に頭を振り嘆いた俺の切実な思いを、水木は端的な言葉で一蹴した。
「馬鹿かお前は」
「…………ナニ?」
「ただのペットなら、こんな面倒な事はしていないだろう。欲しいだけなら、無理やり捕まえ監禁している。一生部屋から出しはしない」
「……」
「忘れてないか、俺はヤクザだぞ?」
 それが可能だと言うように。また、そうではなく手間を掛けている意味を考えろと言うように。水木は唇を歪めた。本当にお前は馬鹿だと、黒い眼が雄弁に語っている。
 けれど。
「……バカってなんだよ…。つーか、笑うな。むかつく…」
 物騒な言葉を、何故か楽しげに紡いだ水木の表情に、深刻になりかけた自分がアホらしくなる。この男のノリは本当に、わからない。だが、わからないなりにも慣れていっている自分が、何とも言えない。
 いつの間にか離れていた手が、再び俺の髪に振れ、頬におりてきた。そのまま片手で、ムギュッと両頬を押される。水木のゴツイ親指と人差し指が食い込み、自然と口が開いた。
「タコ」
「…………」
 …いや、タコではなく。多分、ムンクだ。ムンクの「叫び」。顔もそうだが、今の俺の心境はあの名画そのものだ。タコ顔にされてのタコ呼ばわりはムカツクが、それ以上に、水木の行為に絶叫だ。コワイ、コワすぎる。ヤバイ、ヤバすぎる。どういうつもりだ。何故、タコだ。頭の血管でも切れているんじゃないのか、この男は。
 今の俺に手が八本あったら、間違いなく不可解なその頭を押さえ付け、その首を閉めるぞと。人間なら無理だが、ムンクやタコなら、もしかしたら宇宙人に対抗出来るかもしれないぞと睨みつける。しかし残念ながら口がタコでも腕の数は変わらないのが現実なので、俺は水木の手を退かすだけで、暴挙には走らず我慢しておく事にする。
「……やめろよ」
 ドデカイ根性があればやり返してやるのだが、生憎俺にはそれを持つ予定すらない。何より、更なる危機を呼ぶような根性など、欲しくもない。第一、水木の顔は押しても引っ張っても、愛嬌の片鱗は現れないだろう。同じ事をしてもタコにもムンクにも、ましてアッチョンブリケにもならないのならば、やる意味がないと言うものだ。
 ならば、健気に耐えてやろうではないか。

 距離の近さを忘れたわけではないが、それでも我慢出来ずに水木の目の前で俺が溜息を落としたところに、携帯の音が響いた。本日四度目の、マーチ。その着信音を覚えていたのか、「…実家か?」と水木が眉を寄せる。
 聞いていないようでいて、よく聞いている奴だ。抜け目ない。だがきっと、俺が話す言葉は本気で聞いていないのだろう。水木の無視っぷりは、それくらい見事だ。
「さあ…、どうかな……」
 問いに対しそう答えはしたが、流石にそれはないだろう、多分戸川さんじゃないのかと予感しながら腰を軽く上げ、俺はポケットの携帯を引き出す。案の定、周りの闇を晴らすかのように明るい画面には、その名前があった。
「はい」
『戸川ですが、水木とはどうなりましたか?』
 その明るい声が漏れ聞こえたのだろうか、顔を顰める水木を前に、俺の言葉は意味なくまる。
「……どうって言うか…」
 …何と言いますか。
 普通は、伝言を伝えてくれたかどうかを聞くんじゃないですか?声が弾んいでますよ、戸川サン。俺と水木の状況を楽しんでいますね…? クソォ。
 頬を押されてはいないのに、自然と突き出る唇を悟られないよう、俺は立ち上がった。だが、水木も直ぐに腰を伸ばす。何となくの気まずさに、俺は横を向き汚れた尻を叩いた。堅い地面に座っていたせいか、腰を反らせると尾骨がコキリと鳴る。
『もしかして、観念させられてしまいました?』
「いえ、まだ…頑張っているところです……」
『そうですか。それは是非とも、応援させて頂きたいところです。が、しかしですね。いかんせん、こちらも水木を必要としているので、そろそろ決着を付けて頂けませんかねぇ。水木が居ないと、仕事がまわらないんですよ』
「それは……本人に言って下さい…」
『勿論言いますけど、相手が相手ですからね。馬の耳に念仏、犬に論語ですか。土に灸、糠に釘。千束さんならわかるでしょう?反応が薄くて、張り合いがないんです。当然、効果も』
「はぁ…」
 確かに、それはわからないものではないが。ンな事まで、俺は知らない、関与したくない、だ。同意を求めないで欲しい。たとえ泣かれても、俺は絶対に同情はしないぞッ。
『ですから、どうですかね千束さん。水木を帰してくれませんか』
「喜んでお返ししますよ」
 多分きっと、こうして電話をしてくるのだからそれなりに切羽詰まっているのだろうに、あくまでも軽口を叩く戸川さんの言葉に俺は即答を返した。斜め上からの視線が少し痛かったが無視し、どうぞ回収して下さいと本気で頼む。懇願する。必要ならば、見えないだろうが、土下座もしますよ…?
 だが。
『いえ、そうではなく、千束さんにそれをして頂きたいんです。何をしても構いませんので、水木をこちらに向かわせるようお願いしますよ』
 ……それって、あれか?尻を蹴って追い払えないのなら、縄を付けて引っ張って来いと言う事か? 俺が、この男を…?
「……普通に無理っす」
『大丈夫、貴方なら出来ますよ。むしろ、貴方しか出来ない。ですから、お願いします』
「いや、あの……代わりますから」
 自分で説得してくれと、俺を巻き込むなと、ちゃんと面倒をみてくれと。口まで出かかったその言葉を飲み込み、俺は携帯を耳から外した。いま戸川さんに意見をすれば、多分痛いしっぺ返しがやってくる。逃げるが勝ち、だ。
「……戸川さんです、どうぞ」
 隣に立つ水木に携帯を差し出すと、意外にも、不機嫌な顔ではあったが無言で受け取った。意図的に携帯の電源を落とし、戸川さんから逃げているのかと思ったが、そうでもなかったのか。それとも、漸く観念したのか。携帯を耳にあてる男を、ついマジマジと見つめてしまう。
 だったら、初めから大人しくそうしておけと言うものだ。ただの学生でしかないガキを、屁理屈を並べて脅してなどいずに。
「何だ。…ああ、……いや、……それは――大和」
 不意に名前を呼ばれ、顎で「行け」と料亭を示された。俺に会話を聞かれたくないのだろう。
 だが、だからって顎を使うなよコラ。口はどうした、口は。行動ひとつひとつが勘につく。しかも、ムカツクのにその仕草がハマっていると感じるのが、嫌味だ。きっと俺が同じ仕草をしても、サマにはならない。そうやって水木を認めてしまう自分が、イヤだ。
 しかし、追い払いたいのならこちらも好都合だと、俺は大人しく水木の横を擦り抜けた。何を密談するのかは知らないが、ヤクザのそれが毒のない話であるはずがない。一もニもなく、反論せずに離れるのが賢い選択だろう。特殊な話を耳にするのは、謹んで遠慮する。
 そう。ヤバイ話をこんなところでするなよ、地下にでも潜ってしろってものだ。さっさと秘密基地にでも帰れ。俺は何も知らない、関係ない。だから、お暇させて頂きます。さようならッ!
 そんな風に胸中で強気に吐き捨て、必要以上に力を込め地面を踏み付けながら料亭へと戻る俺の背中に、パタンとドアの閉まる音が届く。
 ……マジで、帰るのか?
 足を止めそろりと肩越しに振り返ると、やはり水木は車内に入ったのか、そこに姿はなかった。だが、そのままの姿勢で数秒待つが、エンジンはかからない、ライトは点かない。どうも中に入っただけで、去る気はないようだ。
「……」
 だから、そんなに内緒話がしたいのならば帰れって。何を他人の電話で話し込もうとして――ん? ンン? 他人の、電話……?
 その言葉に引っかかり、漸く気付く。
 そうだよあれは、俺のケータイじゃないかッ!!
 裏門の直ぐ側まで来たところでそれを思い出し、俺は慌てて足を戻しかける。この隙に料亭へ引き籠ってしまおうかと少し考えていた俺は、なんて馬鹿なのか。携帯を取り返さねば駄目だろう。促されたからって、帰って来てんじゃねぇーよアホ。ボケるには多分まだ早いぞ、と。勢いよく体の向きを変えたが、視線の先に進む事は不覚にも出来なかった。暗闇の中でぼんやり浮かぶ白い車体は、何だか別世界への入口のようで……とても、「携帯を返せっ!」と乗り込める雰囲気ではない。
 前に進めない代わりに、俺は体を傾け、門柱へと凭れ込んだ。最早、溜息さえ落ちないと、嘆きはとりあえず横に置き考える。俺を顎で使った水木は何を考えているのか、何をする気なのか、を。
 料亭へと促したのは、去れと言う意味ではなく、荷物を取って来いと言う意味なのだろう。それで逃げられると思っていないのは、無意味な自信ではなく、多分脅しの効果を把握しているからだ。俺が戻らなかった場合、水木は料亭を訪ねるつもりだろう。携帯の返却を口実にやって来て、そのまま俺を拉致る気なのかもしれない。
 だったら、俺がこのまま水木に携帯を返してくれと要求したらどうなるのか…?
 手ぶらで戻った俺に、水木が納得するとはとてもではないが思えない。また先程の繰り返しで、引きずられながらの押し問答をするのではないだろうか。俺と水木は、どこまで行こうが平行線を辿るばかりのような気がする。それは間に戸川さんが入っても同じで、彼は救いの神様にはならない。いや、今の会話を考えれば、戸川さんの乱入で、俺の方の分が悪くなっているのは明らかだ。二人がかりで攻められては、抵抗しきれる自信が俺にはない。
 平行線が崩れたその時、ポッキリ折れているのは確実に自分だと、俺は悟る。例え、水木をどれだけ説得しようと理解させようと、あの男は折れる事はないように思う。何となく、戸川さんがそれをさせないような気がする。水木同様に戸川さんも、ヤクザの面子とかプライドだとかに重点を置いてはいなさそうだが、だかと言って持っていないわけでもないのだろう。ただ、生臭い顔を俺に見せていないだけなのだろう。だから、そう。餓鬼の一匹や二匹、簡単に捕まえろ。逃げられるだなんて恥だ。――俺には丁寧で親身にもなってくれるが、裏ではそんな風に水木を嗾けているのだとしても、なんら不思議はない。
 そこまで考える事が出来るのに、それでも戸川さんに危機感を抱けないのは、俺には彼しか頼る人物がいないからだろうか。今夜水木は仕事だと言ったあの言葉を信じ、とりあえず折れてみようかと、ふざけた事に俺の中でそんな妥協案が浮かんでしまう理由も、他には見つからない。水木に絆されたなどというのは、絶対にありえない事だろう。
 もしも何かが起こった時の対処法は俺にはないが、いま現時点でのそれもないのだから、もうこうするしかないのかもしれないと。俺は夜の中に浮かぶ車を見ながら、呆ける。身体から力が根こそぎ奪われたような感じがするが、脱力感とはまた違う。何だろうか、肉体ではなく、精神が落ちたというのか。神経が四次元空間を彷徨っているような、微妙な力の抜け具合だ。
 水木に料亭へ乗り込まれる事を考えれば、全てを我慢し、大人しく一日二日世話になる方が断然良いだろう。少なくとも、それにより害を受けるのは俺だけだ。たとえ人質になるのだとしても、叔母の目の前で拉致られるよりもマシなはず。昨日のように、何もなければ万々歳で。もしも何かあったら、俺は馬鹿だったと一生後悔すれば良いだけの事だ。
 全然全く「だけ」だなんて言葉で割り切れるものではないが、無理やり気味にそう考え、俺はのろのろと料亭へ戻った。人が落ちるのは、案外簡単なものなのかもしれない。こうして人は道を外して行くのかと、俺もそうなんだなと他人事のように思う。悪さをしたわけでも、自棄になっているわけでもないのに、ヤクザに丸め込まれている。馬鹿だ、馬鹿げている。そう思うのに、逃げる道など探せば幾らでもあるはずなのに。最も愚かな手段を、今ひと時の判断で格上し、屁理屈で正論付けて選ぼうとしている。
 アレよりも、コッチの方が良いからと。短絡的に。
 その判断は正しいとは限らないものだと頭の隅で気付きながらも、そうするしか仕方がないからと、簡単な言葉で言い訳をする。仕方がない、など。今の自分にわかるわけがないのに、だ。

 水木は、ヤクザだ。親切だとか、何も悪さはしないだとか、問題はなかっただとか関係なく。そのひとつの事柄だけで、全てを否定しても、それは間違いではないのだと思う。人権だとか何だとかは、関係ないのだ。ヤクザとは、そういうものだから。
 別宅だろうと、ヤクザの部屋だ。手を貸したいだなんて、ただの迷惑でしかない。傍に居て欲しい? 本気でそれを望むのならば、まず稼業から足を洗え。出来ないのなら、一般人に声をかけるな。今のヤクザには、堅気に対する敬意はないのか。任侠道は皆無なのか。
 詰る事なら、幾らでも出来る。だが、それでも、俺は馬鹿だから。同時に考えてしまうのだ。
 ペットだろうと、気紛れだろうと、何だろうと。それこそ、何らかの材料に利用されるのだとしても。水木は俺を必要としているのだな、と。会ったばかりで、何も知らないのに。知っているといえば、親と揉めて泣いている弱い姿か、虚勢を張って吠えている姿だけなのに。たとえ、それが嘘だと前置きされていようとも。水木の言葉は、口先だけでも、俺にはくるものがあるのだ。親と揉めている時だから、不安を感じている時だからこそなのだろうが。相手が女の子ではなくヤクザ男なのだと思えば、経験など全然したくはないのに、その言葉や行動に胸は高鳴ってしまうのだ。
 三十男が、同性のガキに惚れたなどとぬかす。傍に居て欲しいと、手助けをしたいと言い、下手なアドバイスまでするのだ。ヤクザが学生に気を使うなど、可笑し過ぎる。雨が降る中出迎えに来たり、食事の用意をしたりするのだ。だけど、忘れた傘を一週間も保管しておきながら、なかなか返しはしない。バイクの鍵も奪ったままだ。親切など吹き飛ばす勢いで強引なくせに、俺が突っ込める隙が常にある。
 水木は、麻薬みたいなものだ。酒、煙草、ギャンブル、セックスでもいい。俺は、その依存性から抜けられない中毒者のようだ。水木そのものはどうでも良い。だから、その言葉が本物かどうかは関係ないと思うのだろう。たとえ嘘でも欲しいと思うのは、その空気に依存し始めているからだ。水木が作る、優しさや甘さに。
 まるで、そう。一夜限りの相手が紡ぐ睦言に酔っているようなものだ、これは。
 駄目だとわかっているのに、止められない。自分の首を自分で締めている。
 今の俺は、かなりヤバイ。正常な判断など、出来そうにはない。水木の空気に長く触れ過ぎた。早まるな。逃げられなくとも、逃げろ。依存するのなら、叔母にしろ。彼女ならば、間違いなく俺を助けてくれる。下手な罪悪感など、捨てて飛び込め。
 最後の理性を確かめるよう、そんな風に頭の中で唱え続けても。何かに気付けても直ぐには変われない俺が、激しい流れの中で巧く泳げるわけがなく。
 玄関ホールで仲居のひとりに出会った俺は、見事に溺れるくらいの衝撃を食らった。おかえりなさいと挨拶した彼女は、俺がいま帰宅したのだと勘違いしたのだろう。「女将を呼んで来ましょうか?」と首を傾げたのだ。何とも言いがたい表情で。
「…………あ、いや…。あとで、自分で行くから大丈夫。ありがとう…。……それよりも、昨夜は騒がしくして済みませんでした…」
 何とか俺はそう言い頭を下げ、逃げ出すようにそそくさと自室に戻り、愕然とする。
「…………」
 俺は今までも、叔母の事はこれでも自分なりに考えていたつもりだったが、「料亭の女将」の事は殆ど考慮していなかったように思う。店の者達が、突然の居候の説明をどんな風に受けていたのかは知らないが。昨夜の件で、俺が実家と確執を持っている事は、皆の知るところとなったのだろう。それに女将が巻き込まれている事も、問題は解決するどころか悪化してしまった事も、全てがバレてしまっているはずだ。それを踏まえ叔母の女将としての立場を思うと――俺はもうこれ以上世話にはなれない。その結論にしか達しない。
 叔母がどんなに迷惑ではないと言おうが、料亭にとって俺は面倒事でしかない。その事実に突き動かされるよう、俺は慌ててスポーツバッグに机の上の本を詰め込んだ。昨日の両親に続き、今日はヤクザが俺を訪ねて来たとしたら、どうなるだろう。今以上の困惑を従業員に与えてしまうのだと、それは絶対に駄目だと、衣類を適当に押し込み太った鞄の口を無理やり閉める。
 俺が知る水木は、強引でもそんな無茶をするようには思えない。だが、周囲が感じるのはまた別のところにあるというものだ。先日の海谷家の事にしてもそうだ。ヤクザが目の前に立てば、普通は誰もが怯える。不安を抱く。
 あの時の、海谷夫人の蒼褪めた顔を思い出し。自分が感じた慄きを思い出し。俺は小さなパニックに見舞われた。何としても、水木との関係を此処に持ち込んではならない。先の事ではなく、今この瞬間の危険を取り除く方が、俺には重要だ。水木の要求に従う事は、家族や親戚に恩を仇で返す選択となるのかもしれないが。それでも、今はここで我は張れない。
 今の格好にでもおかしくない、ジャケット代わりのシャツに袖を通し、俺は部屋を一回り見回した。今この瞬間に水木がやって来る焦りはあるが、迷いは比べ物にならないくらい萎んでいる。俺は間違っていないと、間違っていたとしても後悔いはしないと、心で呟き足を踏み出す。
 料亭に迷惑をかけない為に出て行くのだ。ヤクザに落ちるわけではない。対応を誤らない為に、水木の誘いに今は乗るだけだ。これを結果にする気はない。
 いつかは…と思っていたが、まさかこうして出て行くとは、考えてもみなかった。片付けもせず飛び出す事になるとはと溜息を吐きかけ、そうじゃないだろうと思い直す。お前はここに、帰って来るんだろう、と。これが終わりじゃないだろう、と。まだこれからだ、と。
 俺は、勝手をしているわけじゃない。ただ、決めかねているだけだ。だから、いつかは答えに辿り着く、見付けられると思う。それがなければ、生み出せばいい。それしか、ないのだから。
 今なお、自分の行動も判断も、全ての状況が信じられない。だが、それでも、馬鹿で愚かな己を今の俺は赦してしまっているのだと思う。これからも叔母に甘え続けようとしているのも、今からの行き先がヤクザの家なのも、全部をだ。水木を説得するのか、また逃げるのか。何も考えてはいない。ここにも、片付けに来るだけなのか、また戻ってきて暮らすのか、思い描けもしない。だが、それでも俺は。誰にも迷惑はかけたくはないし、不幸にもしたくはないと思う。そこには、多分、水木も含まれている。
 そして、何の根拠もないのだが。
 それを無くさない限り、自分は大丈夫な気がする。

 忙しそうな叔母を掴まえ、手短に話をした。暫く友達のところで世話になるからと、両親とちゃんと話をするからと。叔母は、貴方の選択肢の中には当然ここもあるからねと、俺を気遣い励ましてくれた。
「友達のところに居辛くなったら、帰って来なさいよ。気分転換に行って気を遣っていたら意味がないから、ね。頭でっかちに考えず、意地にならないのよ大和」
「うん…」
「貴方がここに馴染み切れないのはわかっているけど。私は大和が住んでくれて嬉しいし、楽しいのよ。だから、遠慮はしないでいいの。たとえ我儘でも、通し切れば意志と認められるわ。私にだけじゃなく、何事にも遠慮せず突っ込んで行きなさい」
 叔母と玄関で別れ、短い砂利道をゆっくりと歩き、門を潜る一歩手前で振り返る。明日には帰って来るのかもしれないし、ずっと先の事になるのかもしれない。予想出来ない未来をそれでも探すように屋敷を眺め、頭の中に残して来た部屋を浮かべる。
 いつの間にか、自分のものとなっていた空間。あれは俺の甘えであり、エゴでもあるが、何があろうと譲れない部分でもある。例え、叔母の迷惑になろうとも、だ。
 中途半端な、何もかもがいい加減な自分は、水木の攻め以上に疲れる。ウダウダな己にこうしてはまり込むよりも、水木と進まない会話を交わしグルグル周っている方が、断然マシに思えるくらいだ。今はもう、考えまい。考えても、仕方がない。結局、俺はこうして此処にいるのだから。
 頭を軽く振り、描いた部屋を振り払う。何をどう言おうと、俺はただ、目の前の問題を天秤に掛け比べただけなのだろう。そして、楽な方へ逃げたのだ。我を通す前に、自ら毒を飲んだのだ。確固たる意思など、本当はどこにもないのかもしれない。禁断症状に、負けただけなのかもしれない。
 水木を跳ねつけても、経緯も何も知らない叔母は俺を褒めない。だが、逆に水木の誘いに乗れば、少なくとも水木本人は。俺の選択に喜ぶのかもしれない、と。俺は本当はそんな事を考え、今ここに立っているのかもしれない。情けない人間だ。
 果たして、そんな俺自身は兎も角。
 水木はこんな風なガキで満足なのだろうか、これでいいのだろうか。
 俺ならば、自分が惚れた相手にこんな最低な逃げ道を選ばせはしたくないと思う。全く関係のない相手でも、愚かだと幻滅すらすると思う。だが、彼はそういった考慮や心配はしないのだろう。ヤクザの自分を選べというのだから、相当だ。それは、自分が手を貸す事で俺の問題は解決すると考えているからなのか、それとも自分の意思が通れば俺が親族の中でどんな立場になろうとどうでも良いからなのか。惚れた、手を貸したいという割には、よく考えればかなりえげつない。同様に俺もそうなので、今はもう強く詰れはしないが、さすがヤクザだ。かなりエグイ。
 本気で惚れたとしても、ヤクザがガキの立場などそこまで気にはしないよなと思いつつ、水木の発言を頭に浮かべ今一度考える。気に入った物やペットを欲するのと、俺への感情はどう違うのか。水木はきっぱり否定したが、やはり明確な差はないように思う。料亭へ乗り込むといったぐらいなのだ、俺の人生などに重点は置いていないのだろう。だが、それでも、何と言えばいいのだろうか。水木の言葉を聞いていると、求める理由や背景などは霞んでしまい、ただ彼の訴えに呑まれてしまいそうになる。
 相変わらず水木はわからない男で苛つくが、嫌悪感はかなりなくなった。だが、それは絆されたと言うのとは少し違い、彼が紡ぐ言葉に癒される部分があり、俺が張っていた糸を少し弛めたからだろう。信用は出来なくとも、簡単に頭を下げると言った男のその姿勢を嫌う要素はないのかもしれないと、俺は自ら足を運び始める。依存というよりも、俺は許したのかもしれない。水木の何かを。
 出てくる俺を待っていたのだろうか、路地を歩き出したところに、車が静かに滑り込んで来た。運転手により開けられたドアを暫し見つめ、俺は無言で助手席に収まる。ゆっくりと進み始めた車。シートベルトをしながら、スモークガラスの向こうを過ぎてゆく料亭を眺め、角を曲がったところで視線を前に向ける。
 横から、手が伸びてきていた。厚い手には、見慣れたケータイ。
「感謝する」
「……」
 返された携帯電話を開き、閉じ、開き。感謝されたのは、コレを貸した事なのか。それとも、ココに座っている事なのか。考える。考えるが、本人に訊かない限り、俺には真実はわからない。だが、聞き出す必要性が見えず、俺はそれを膝に抱いた鞄に突っ込んだ。
 先程は夕焼けの中通った道を、今度は街明かりを受け逆走する。日曜の夜は車が多いのか、速度は遅めだ。緩い感覚が、眠気を誘う。腹も空いた。だが、何よりもまず、さっきも訊いたが、もう一度確かめてみたい事がある。
「……やっぱり、ガキだと思ってる…?」
 対向車線を見ながら呟くように尋ねると、短い答えが返ってきた。
「いや」
「でも、何だかんだと抵抗しても結局は落ちたじゃないかと笑っているんでしょう」
「笑っていない」
「嘘っポイ」
「そう言われてもな。第一、お前も落ちたわけじゃないンだろ」
「そうだけど…」
 敢えて隣は見ずに景色を眺めながら、思うがままゆっくりと言葉を紡いでみたが、流石に続きを口にするのは躊躇われた。だが、それでも数秒後には隠さずに本心を語ったのは、ここに来てまで誤魔化す事はしたくなかったからだ。
「…なんか俺、アンタに負けたみたいだ……」
 素直に、悔しい。
 腹が立つといったような怒りが沸くのではなく、何と言うのか、子供のように泣きたくなるような。自身が思っていたよりも自分は何も出来ないのだと知った衝撃が、じわじわと胸の中で消えずに這いずりまわっている。その感覚を味わっている自分が、とても口惜しい。
「偉そうな事を言っておいてさ。ダサ過ぎ…」
「俺は全く、勝った気はしない」
「……」
「今も必死で、明日はどうやってお前を引き止めようか、考えている。お前は別に負けてはいない」
「……何だよそれ」
 どんな理屈だ。ドキリと高鳴りかけた胸を誤魔化すように、溜息に呆れを滲ませる。だが、「なんか、俺よりもアンタの方がガキみたいだな…」と続けた言葉は、強気と弱気がない交ぜな、煮え切らないもので。まるで、結果ははっきりとしているのに負けを認めたくない子供の悪足掻きのようだった。これでは完璧俺が敗者ではないかと、今度は水木にではなく自分に対して溜息を落とす。
 何だか、バツが悪い。気遣いなどせず、わかり易く呆れてくれれば、俺もこうはならないのに……。
「確かに、ガキかもな」
「…………」
 呆れるどころか、似合わない肯定を示されてしまう。何を言っているんだと反射的に振り返ると、水木はチラリと俺に視線を飛ばしてきた。向けられた瞳に、宣言通りの子供らしさが見えた気がして、思わずそのまま横顔を眺めてしまう。
「だが、男なんて誰だってそんなものだろう。何かに、誰かに惚れたら、馬鹿な餓鬼になる」
 お前だってそうじゃないのかと問うように、水木は口許に笑いを浮かべた。ガラスに映る男の顔は、今までと変わらないはずなのに、清々しく見える。それは、ひとつの事に熱中する子供のものと言うよりも、どこか達観した人物のように感じるものだ。周りが見え無い子供とは違い、全てを知り尽した上で、餓鬼になる事を選んだような……。上手くは言えないが、覚悟や信念と言えば良いのか。子供には持てないそれらが、奥深くにあるように思えた。
「…………」
 一方、俺はどうだろうか。
 餓鬼ではあるが、無垢な子供ではない。真っ直ぐ何かを求めた事など、あまりないように思う。いつもどこかで計算していた。そればかりだった。突っ走る程夢中になった記憶は無い。当然、何かを掴んだ事も、だ。
 だが、だからこそ。馬鹿だと思いながらも、こんな風に笑える水木を羨ましくも感じる。
 はっきり言ってその笑いは、ニヤリとニッコリを、足して2で割るのではなく、どちらも全てを兼ね備えたかのようなもので。相乗効果か何かはしらないが最強であり、最悪であるように感じもするのだが。それでも、嫌味なくサッパリ受け入れられるのは、マイナス面を凌駕する魅力を持っているからだろう。そして。
 それは、俺に納得をも与えてくる。自分の選択を、何故大人しくここに居るのかを、男の笑いに見る。
 拒絶しても歪める事はないその表情で、俺は水木の本心を計っていた。そのつもりだった。だけど、その逆はどうだろう。少し受け入れただけでこんな顔を見せてくるのだから、もう認めない訳にはいかない。
 俺はやはり、水木に負けたのだ。
 だが、あんなに嫌だったのに、今でも頷けはしないのに。負けを突き付けられても、全く悔しさはないし、嫌悪もない。仕方ないと、それこそ笑って許せるくらいだ。
 俺は自分が思う程も、水木瑛慈を嫌いではないんだなと、改めて思う。変わらず、ヤクザは嫌だし、関わりなど一生持ちたくはないと思うが。それでも、水木や戸川さんを、それだけで見て判断しようとは思わない。いや、既にそれを実行しているのだろう。だからこそ、矛盾が生まれていたのだ。
「……俺は、貴方がガキで良かったと思う」
 本当は、餓鬼だとか馬鹿だとか、人間が出来ているわけではない俺に測れはしいとわかっている。水木を評価出来る程も、俺は男の中身を知っているわけではない。けれど、そうであっても。水木は確かに、賢くはないと言っていいだろう。俺を構う姿は、正直マヌケだ。だが、その愚かさが、俺には必要だ。バカだと呆れる面がなければ、今ここでこうしてはいない。
 それは、絶対だ。間違いない。
 ヤクザであろうとも、何であろうとも。俺が知ったその一面にそれは、あまり関係ない。重要ではない。
 俺の前に居る男は、ただの水木でしかないのだ。馬鹿なガキだと呆れてしまうような男でしかない。
「だから、俺も貴方に感謝しますよ」
 自分だけで納得している。水木には何が何だかわからないじゃないか。そう気付きながらも、説明する程のものではなく、けれどもどうしても言いたくて。そんな可笑しな自分自身に呆れ、それでも満足して笑うと、俺を見ていた水木は眼を細めて言った。
「もっと笑え」
「え…?」
「笑っていろ」
「はい?」
「俺は、お前を笑わせていたい」
「…………俺、アンタのそういうとこが苦手だよ…」
 こいつは全く…。そういう台詞は、効果があるだろう女房か愛人にでも言え。その気はなくとも、まるで口説かれているみたいだと、何だか急に居心地が悪くなった。堪らないと顔を背け、窓を睨む。だが、ガラスに映る、赤く染まっているのかもしれない自分は見たくはなくて、俺は直ぐに目を閉じた。
 早まったかもしれないと、早くも思ってしまう。戸川さんの助言通り、水木が仕事に出かけた直後にお暇するかなと考えてしまう。俺が頑張って歩み寄ってやっても、この男は簡単に近づいた俺を踏んでくれるのだ。何だよ畜生騙したな!と怒りたくもなるし、一目散に退散したくもなると言うものだろう。
 不用意に見せる水木の優しさは、けれども全然甘くないのかもしれない。結果を見れば、やはりそれはただの毒だ。俺はいつでも、乙女のようにキュンとなった一瞬後には、大人に騙されたガキのように苛立ちまくっているような気がする。
「大和」
「……」
「寝たのか…?」
「……寝るわけないっしょ…」
 そこまで子供じゃないと呟くと、何がツボに入ったのか、水木は声を上げて笑った。とても楽しそうなそれに、ただただ驚く。
「…笑えるンだ」
 思わず、高らかなそれにそんな感想を零したのも、この場合は仕方がない事だろう。
 そして。
 俺のそれに対し複雑な表情を作った水木の困り顔が気持ち良かったのも、当然と言えば当然で。
 お世話になりますと、自分でも驚くくらいに気負いなく、俺はその言葉を口から滑り落とした。本当はもっと別の事を言わねばならないのに、こんな風に軽々しく頼んで良い事でもないのに。気付けば伝えていたそれに、けれども後悔はなかった。

 笑われるのは、ムカツクが。
 それでも、水木を笑わせられた事に、俺は満足を覚えたのかもしれない。


2006/05/12