24


 基礎教育棟に辿り着く前に、メインストリートから少し外れたベンチに座る草川を見付けた。植え込みの緑と、灰色の建物の中では、彼女が着る赤い服は目立つ。決意を持って追い掛けはしたが、予想したよりも早くに見付けてしまった事に、俺は少し戸惑い足を止めた。今ここで声を掛けて良いのかどうか、華奢な後ろ姿を見ながら考える。
 そう言えば。草川を初めて視界に入れたのも、細い小さな後ろ姿だった。
 入学式当日、資料一式を手にして説明会場に向かう俺の前で、不安げに首を廻らす少女を気に掛けたのは、着慣れなさそうにスーツを着ていたからだろう。新入生ですかと声を掛けた俺は、振り返ったその少女の可愛さに感嘆した。黒目の大きな眼に見上げられ、思わずナンパでもしているかのようにニッコリと笑ったのは、そう遠い過去の話ではない。
 同じ学部なのだとわかると同時に、俺は一緒に会場へ向かうよう草川を促した。別に疚しい思いがあったわけではなく、同席した理由は単純に、自分もまた一人で入学式に挑んでいたからだ。説明を受ける時は、連れが居る方が何かと便利である。もしも草川がいなければ、他の誰かを捕まえていただろ。実際に、俺と草川は並んで座ったが、説明会が終わる頃には周りの連中とも混ざり合い、大所帯のグループになっていた。
 出会った頃の草川は、今と比べると少し無口で、大人しかった。緊張ゆえに他人と距離を置いているようなものではなく、どう触れ合えば良いのかわからず戸惑う子供のようだった。今は、同期生達と打ち解け合い、大学にも慣れたからだろう。本来の性格を発揮しているのか、ちょっと我儘な感じが見え隠れしている。男の気を引く為の計算をしているのだと、陰では同性から顔を顰められている部分もあるらしいが、それは草川の容姿に対する嫉妬が大半なのだろう。草川のあれを容認するわけではないが、あの程度のブリッコで釣れる程、男は単純ではない。少なくとも、彼女を好いている男性供は、彼女を貶す女性達よりも草川を知っているだろう。
 煙たがられるには、確かにそれなりの理由がある。草川はただでさえ目立つというのに、それを考えずに行動する。好き勝手にという訳ではなく、接していれば控えめであるのはわかるが、多分窺うだけの周囲にそれは計れないのだろう。俺は妹のようだと草川を捉えていたが、多分、それは彼女の幼さがそう見せるのだ。草川は、例えるならば大人の顔色を窺う子供だ。仲間とふざけ合いながらも、引き際は理解している。だが、それが実行出来ずに、多少行き過ぎる事もなくはないが、総じて上手く事を運ぶ。しかし、そこにあるのは計算とかではなく、諦めだとか喪失だとかを飲み込む感じだ。親の顔を見る事は出来るが、そんな自分が周りからどう見られているのかわからない、そんな子供なのだ。本当に計算して自分を魅せている大人ならば、同性からの妬みなど受けず、彼女達すらも上手く扱うのだろう。
 同性と付き合うのが不器用なタイプなんだろうなと思いながら、俺は草川に近付き、隣に腰を下ろした。だが、草川は振り向く事もせず、暫く口を開かなかった。
 暑いくらいの天気だ。梅雨が近いのが信じられない程、空は真夏のように晴れ渡っている。都会の汚れた空気では抜けるような青空を拝められないのが残念だと、灰水色の空を見渡し、太陽の眩しさに目を細める。
 構内にある緑の間を抜けた風が、爽やかな匂いを運んできた。もう暫くしたら、梅雨の季節になれば、咽返ると感じるようになるのだろう。今だけ限定の気持ちよさに思わず俺は目を閉じかける。だが、草川がポツリと言葉を溢したのに反応し、直ぐに隣を振り返った。
「……焦っちゃったのかな…」
「草川」
「どうしてかな、何だか今言っておかないと誰かに先を越されそうな気がして不安で…どうしようもなくて……。だけど、上手くいかないと意味がないのにね…、ダメだなぁホント。悲しいというか、悔しい…な」
「…………」
 草川は、俺の答えをちゃんとわかっているのだ。それを悟ると同時に、後悔が俺の胸に打ち寄せた。草川に応えられない事がではない。ただ、逃げようとした自分に、嫌気がさした。上手く言えないが為に、俺はこの少女に不必要な傷を付けたのだろう。その事を単純に悔やむ。どんな気持ちで教室から去ったのか。それを思うと、痛みに顔が歪んだ。
 立原が口を挟むのも、無理はない。
「理由、訊いてもいい…?」
 俯き手元を見ていた草川が、俺を見上げ首を傾けた。サラリとした髪が風に舞い、柔らかそうな頬を隠す。口元に届いた髪を除ける指は、驚くほど細い。ジャケットの袖口から覗く手首も、同じように細く、白い。
 普段は五月蝿いくらいに元気であり、それを気にかけても戸惑う事はなかったが、こうして見ると大丈夫なのかと心配してしまうくらいだ。小柄というよりも、まだ身体も子供なのだと痛感する。成長期の少女なのだと、思い知る。たった二歳の差なのに、何故自分は草川の事を恋愛対象から外していたのか、今ならよくわかるような気がした。
 俺は多分、草川のこの幼さに恐れたのだ。愚かと言えるような部分にではなく、その純粋さが怖くなったのだ。過去の不安定な自分を思い出してしまいそうで、怖じ気付いたのだ。そして。
 そして、きっと。まだまだ成長し変わっていくのだろう姿が眩しすぎて。もうこれ以上変わりそうもない、変えられないかもしれない自分と比べ、愚かにも嫉妬したのだ。夢を掴めるのかもしれない、未来ある子供に。
 だから俺は余計に、草川に小言を言い続けていたのだろう。素直なだけだとわかりながら、バカだと評したり。じゃれているだけだとわかりながら、本気で引き剥がしたり。無邪気な明るい振る舞いも、気だるげな態度も、草川自身の姿だと知りながら、苦言を呈したり。多少の害も飲み込んでしまう程度には、草川を友人だと認識していたにも拘らず、俺は何処かでこの少女を見下していたのかもしれない。子供だと呆れている立場が心地良くて、草川を利用していたのかもしれない。
「どうして、私じゃダメなの…?」
「……」
「…ねぇ」
 どうして、だなんて。寧ろ、どうしてこんな俺に拘るのか。その方が不思議だ。
「草川が駄目だと言うわけじゃない」
 友達としか思えないから。友達でいたいから。そう答えるつもりで追いかけて来たが、それを口にする事は狡いと気付き、俺は自分の醜く弱い部分を曝け出す。
「草川は悪くはない。ただ、俺の方が駄目なんだよ」
 呆れられようとも嫌われようとも、寂しく笑う草川を見ると、取り繕う気にはなれなかった。俺は惚れるような男じゃないんだぞと、そんな価値はないんだぞと、自分を蔑むのではなくただ単純に、この少女にその事実を教えてやりたいと思った。
「俺は余裕がないんだ。草川だけじゃなく、他の女の子でも同じ。今は恋愛をする気持ちにはなれない」
「だから、試してみて欲しいの。恋愛出来るかどうか、」
「無理だよ」
「……。……恋人までいかなくても、ダメなの…?友達以上になる可能性があるかどうか、考えてみる余裕もない…?」
 考えている。十分考えた結果だと言いかけ、果たして本当に自分は考える事が出来ているのかどうかと疑問も感じる。付き合っていけるだとか、何だとか。今の俺には一年後の事はおろか、一週間後の事すらわからないのに。大学を辞めるしかなく、友達ですらやっていけないのかもしれないのに。恋愛だとか余裕だとか、そんな次元で区切る話ではないのかもしれないと思う。
 だが、今ここで、俺のそれを突き詰めても仕方がない。草川の気持ちには、そこまでの俺の事情は、関係ない。
「そうじゃなくって…。この年で恥ずかしいけど、親とゴタゴタしていてさ。特別優先するような関係を誰かと築くのは、今の俺には無理だって事だ。試してと言われても、付き合いを維持する努力を俺は全然しないと思う。そんな中では、楽しむ事も出来ないだろう?今以上の付き合い方は、俺には無理だ。草川だけじゃなく、これは他の奴等も同じ。だから、草川が駄目なわけじゃない」
「……」
「ゴメン、全然上手く言えていないよな。でも、これが正直な気持ちだよ。何て言うのか…、今を変える心の余裕がないんだよ。俺がこんな風に、そのままならさ。友達と一緒だろう? だから試しても、ただ草川が疲れるだけだと思う」
「……それでもイイって私が言ったら…、ねぇ、どうする?大和クンには無理させないから、ダメ…?」
 いま退けば次はないのだと言うように、草川が同じ言葉を繰り返す。ダメかと問われても、俺には草川を制限する権利は持っていない。止めた方がいいと助言出来るだけで、最終的に判断をするのは草川本人だ。
 だけど。
「草川がそう思ってくれるように、俺も草川にそんな無理をさせたくはない」
 ポンと俯く草川の頭に手を置き、柔らかい髪を掻き回す。そんな事は言わなくても良いんだと、無理をする必要はないんだと、触れる温もりに伝える。恋愛や恋人に対する価値観や優先順位がこれだけ違えば、辛い目を見るのは誰がどう見ても草川の方であるのが明らかだ。ここまで俺が本心を曝け出してしまった分、もし最低な事態になったとしても、俺には「ホラ、やっぱり無理だって言っただろ」と居直る材料が残される。逆に、押し通す形となる草川には、それがない。
「外から見たら、それなりかもしれないけれど、俺の中身はただの子供だ。草川がそれに合わせる事はない。俺なんかに安売りしちゃ、損をする」
「…じゃ、待つのは?それも、ダメ? 今は友達でいいから。大和クンに余裕が出来たら、恋人に立候補してもいい…?」
「草川…」
「それとも、私にはこの先も、絶対そんな気持ちは持てない…?」
 眩しい光に照らされながら、顔に影を作る少女を伺う。俺はその顔が、いつでも笑っていればいいと思うが、俺が笑い続けさてやらねばとまでは思わない。多分こういうのが、友達と恋人の違いに繋がるのだろう。出来ない事は出来ないと言えるのと。出来ない事もやりたいのだと願うのと。その小さな気持ちの差が、心を大きく変える。草川が俺を想うのと、俺が草川を思うそこに優劣はないが。見方によれば、それは雲泥の差があるものなのだろう。
 その違いが切ないと、ただ思う。
「俺は、今は友達でしかないし、友達のままで居られたらいいなと思う。仲良くやっていきたいよ。でも、友達以上の関係は、正直想像出来ない。少なくとも今の俺は、それを望んではいない」
「…嘘でも、可能性はあるって言ってよ」
「草川の好意が嬉しいからこそ、いい加減に扱う事はしたくないんだ。今、俺が出来るのはそれだけだから」
 俺が自分自身の勝手な振る舞いを許せるのならば、草川と付き合う事も可能だろう。適当に話しを合わせ、性欲処理を目的に体を重ねる。傷付けても罪悪を感じないのならば、その告白に簡単に頷けるのだ。友達としての好意はここにちゃんとある。それを元に行動を少し変えればいいだけの事だ。多分、思う程も難しくはないだろう。だが、それが出来ないから、こうして気持ちを晒しているのだ。ならば、今更、温い優しさに逃げるのは卑怯だろう。
「余裕が出来ても、草川を好きになるとは限らない。確かにそれと同じく、逆を言えば、余裕がないのに恋をする可能性もあるって事だけど…。だけど俺は、それでも、草川を安心させられるような言葉をいま言う事は出来ない。先がわからないからこそ、今は自分が信じて出来る事をしたいと思う」
 頭に乗せた手を下ろすと、草川は顔を上げ両手で目許を拭った。ゴメンと、その横顔に心で謝りながら、俺は酷い言葉を続ける。
「草川には悪いけれど、俺は何も出来ない。期限も切れない事に、付き合わせてしまうような事は言えない。それでも、と草川が言うのなら。それは草川の自由だから、俺に伺いをたてる必要はないよ。思うようにすればいい」
「……それって、どういう事?ストーカーになっても怒らないって事?」
「ストーカー? 何を言ってるんだよ。俺は、草川の好意に嫌悪は感じていないから、ストーカーとは思わないぜ?」
「じゃ、どういう事?難しいよ。大和くん、難しい事ばかり言うからわかんなくなっちゃう…。私に気を使っているのか、ただの自己満足なのか、わざと意地悪を言っているのか……私には難しくてわかんない」
「……ゴメン」
「謝らなくていいから、簡単に言ってよ。今どう思ってるのかを。ねぇお願い!」
 顔を向けてきた草川は、泣いてはいなかった。だが、怒った顔の中で揺れる大きな目は、綺麗だが潤んでいた。悲しいよりも悔しいと言ったその意味が、いま漸くわかった気がする。気持ちが擦れ違っている事よりも、そうなってしまう理由が腹立たしいのだろう。
 好きな奴を振り向かせられない悔しさ。好きな奴が言い訳を並べる悔しさ。それは恋ではないが、俺にも良くわかる感情だ。両親には何を言っても伝わらない、届いても相手にされない憤りを、俺はよく知っている。
「草川」
「……」
「告白は本当に嬉しい。ありがとうな。だけど俺はそれに応えられないから…ゴメン。やっぱ上手くは言えないんだけど……、困るのとは少し違ってさ、何て言うか……やるせないよ。自分が不甲斐ない。折角好きになって貰えたのに、それを踏み躙るような対応しか出来なくて、傷付けて、…情けない。だから余計に、こんな俺に拘らず草川には違う可能性を探して欲しいと思う。俺に構っていたら、チャンスを逃すかもしれないから、待つなんて約束はして欲しくない。
 厄介だと突き放しているわけじゃない。だけど、想い続けられるのは迷惑じゃないが、正直荷が重くもあるよ。ごめんな、ホントこんな事しか言えなくて。自分勝手な言い訳を並べている自覚はあるから、さ。ムカツクと、お前なんか嫌いだと考えを変えられても仕方がないと覚悟はしている。草川がもう話はしたくないと、顔を見たくない言うのなら、俺はそれに従うよ。だけど許して貰えるのならば、今までと同じように仲良くしたい。して欲しい。草川のそれとは少し違うけど、俺は草川が好きだから」
 こんな風に、ダメだと自分の想いを唐突に止められたら。普通は相手を恨むものなのか、自分のそれを殺すものなのか。草川はそのどちらを選ぶのだろうかと思いながら、俺は水木の事を考える。あの男は、何を選んだのだろう。
 話は聞かないし強引だが、現時点の結果を見れば、水木は後者を選んだと言えるのだろう。側に居ろというのは譲らず、俺を部屋に連れ戻しはしたが、あれは惚れた等の思いとは別の庇護欲のようなものからきているように感じる。迷子の猫に、とりあえず手を貸してやったみたいな、多分そんなものだ。その過程のしつこさは、確かに愛情が絡んでいるのだと感じずにはいられないものでもあるが。彼の心を恋とするならば、水木は俺の言い分を飲む事で、それを掻き消したように思う。捨てたのか、奥深くに隠したのかまではわからないが、彼に色恋が見えにくいのはだからだろう。結果の割には、俺の戸惑いが少ないのが、その証拠だ。
 しかし。
 俺とて、真剣であったし、必死だったが。信じられないだとか、考えかられないだとか、それはオカシイだとか。適当な言葉で俺は水木の心を殺したのかと、今更ながらに気付き、何とも言えない気分に襲われる。後悔はない。謝る気もない。ただ、…何と言うのだろうか。それでもやり直せるのであれば、もう少し上手い振る舞いをしたいと思う。
 水木は、餓鬼よりも性質が悪いこんな俺に呆れていないのだろうか。一目惚れが本当ならば余計に、褪めて当然のものではないだろうか。俺が荒んでも暴れても、初めの時と変わらず側にいる事を乞う男が、何だかとてつもなく大きく思えた。同時に、その執着が、ただ鈍感なだけだとか、頑固なだけだとかとも思えてしまう。
 彼はある意味ファンタジーだ。美しい夢とは雲泥の差がある、生臭い裏社会の住人なのに、あれはないんじゃないか…?……うん、ないだろう。態度は違うが、やっている行動は、世話好きのオバサンと変わりない。ヤクザが出会ったばかりのガキに愛を告げ、部屋を宛がうなど、最早ファンタジーではなく奇怪だ。夢などどこにもない。
 それでも、桃源郷のような景色が頭を翳め、俺は思わず仙人のようだと考えてしまう。おかしいのを差し引けば、奴は霞を食って生きていそうな、何とも言えない独特の命を持っている。だが、おかしさを引いては、水木は水木ではないのだろう。真面目にふざけているのが、あの男だ。だったら、奇怪ではなく、コメディか?
 …何にしろ、不本意だ。
 自分は何故、草川には冷静に対処出来るのに、それをせねばならない水木に出来なかったのか。その点については、悔やんでも悔やみきれないように思えた。戸川さんが、水木の部下は水木に心酔していると言うような事を言っていたし、それも理解出来なくはないが。それでも俺は、威圧を感じながらも反発の方が強く、小型犬のように全身で対抗しているつもりだった。しかし、どうだ。結果を見れば、結局、俺も水木瑛慈に完全に呑まれたという事実しかない。何て事だろう。ヤクザの顔で脅されたわけでも、草川のように泣かれたわけでもないというのに。
 水木を詰れないくらい、俺も相当オカシイようだ。
「――バカ」
「……」
 俺が物思いに耽ってしまうほど長い沈黙を作りだしていた草川が、きっぱりと言い切るように落としたそれは、何よりも的確な正しい言葉だった。
「サイテーだよ」
「……ああ、そうだな…」
「ホントそう…。でも、嫌いになれないよ。そんな簡単に変わンないよ。ダメなのか、そうかそうなんだ――なんて、そうあっさり消し去れるようなものじゃないじゃない!わかるでしょ!わかってよ!私は大和クンの事が、ホントに本気で好きなんだもん!」
「…うん」
「大好きなの!」
「ああ」
「好きだよぉ…」
「……ホントありがとうな、草川」
 握った拳を目に押し当て、子供のように泣く草川に、俺は手を伸ばした。柔らかい髪を指の間に滑らせ、そっと小さな頭を引き寄せる。俺の肩口に額を押しつけた草川は、背中を抱く勇気はないのか、腕のシャツを握り締めてきた。逆の手は、頼りなげにTシャツに引っ掛かっている。胸の前にあるそれを眺めていると、愛しさが込み上げた。甲を包むように片手で握ると、その細さに切なさを覚える。
 ありがとう。
 俺は何度もそう言い、草川が泣きやみ笑うのを、ただ待った。

 残り三十分を切っていたが講義に戻ると、机の上にはペットボトルと図書館のシールが貼られた独語辞典が置かれていた。図書館は、基礎教育棟の隣だ。この教室からだと、メインストリートを通って一直線。態々遠回りをするバカはいないだろう。多分、本物のバカであったとしても、別の道は通らないだろう。
 …なぁ、原田よ。原田クン。お前、俺達の後ろを通ったのか?通ったんだな、見たんだな。
 全く、コイツは。しょうがない奴だと、俺は溜息をつきながらも、口元に小さく笑みを浮かべた。戻ってきたのを察しながらも頑なに後ろを振り向かない男の頭を、拳骨で軽く小突いてやる。
 ビクリと大きく震えた原田に気を良くし、俺は汗をかくペットボトルの封を開けた。


 人生には三度モテる時期があるのだと、以前バラエティ番組でお笑い芸人が語っていたのを聞いた事がある。もしもそれが本当ならば、俺のその栄えある第一回は今なのかもしれない。だが、なんてタイミングが悪いのだろう。何故、もっと余裕のある時に来ないのか。今はとてもではないが有り難味なんて微塵も感じず、寧ろ厄介だとしか思えない。こんな機会は滅多にないのだから、最低限まともに相手が出来る状態の時が良かったと、勿体なく思う。せめて、モテて困るよと笑えるくらい余裕がある時であったならば、考え込むほど悩もうがそれでも喜ぶのに。何がモテ期だ、馬鹿らしい。実際は、男に振り回され、友達を泣かせ、踏んだりけったりでしかない。最早、これはモテていると判断するものではないのカモ…?
 厄日厄月厄年?大殺界?……訳がわからん。
 まとまりのない事をウダウダ考えさした嫌気に、つい俺はそのままモテ期についての意見を海谷晴一に尋ねてしまった。すると相手はあっさりと「さあ、どうかな。オレはずっとモテ続けているからわからない」などと言い切り肩を竦める。自分に訪れるのなら、それはモテない時期が三度なんじゃないかなと宣う青年は、けれども発言に負けはしない人物なので何も言い返せない。
「あぁそう」
「悪いですね、役に立たなくて」
 指でクルクルとシャーペンを回しながら、数学の問題との格闘を再開するその姿は、受験生らしくて微笑ましい。だが、実際に晴一が挑んでいるのは、受験には関係ないものだ。高校生レベルでは簡単に解いてしまう彼に、クイズ感覚でマニアックな問題を出してみたところ喜んだので、それから空いた時間に大学の勉強を教えている。あくまでも、遊びだ。しかし、多少時間が掛かるが、無駄話をしながら間違えず解くのだから、遊びとも言っていられないのかもしれない。
 そんな晴一は、はっきり言って学力の点では家庭教師などいらない生徒だ。俺程度の大学生では、力不足で役に立たない。だが、それでも俺がこうして週に二度この家を訪れるのは、一人では勉強などする気にならないからと言う晴一の弁故だ。
 頭が良いからこそ、彼には今の勉強はつまらないものらしい。しかし、愚かではないので、学習が必要だと言うのは心得ている。頭は使わねば、働きが鈍る。けれど、勉学に熱中する程の面白さはない、味気無い。加えて、進んで奥を深める程の関心も、今はない。
 よって、簡単に言えば。晴一は勉強をする時間を作る為に、家庭教師を雇っていると言うわけだ。学力アップの為ではない。言うなれば、俺は共にテレビゲームをする相手だろうか。ひとりでもゲームは出来るが、誰かと一緒にする方が楽しいと言ったところなのだろう。必然的に学習時間を確保する為に、家庭教師を利用しているに過ぎない。それが俺に落ち着いているのは、確かに気が合ったからであり、喜ばしい事であるのだが…。……秀才の監視役は余り居心地の良いものではなく、俺は不必要な知識を、時々無意味に与えていたりする。要するに、手に余っているというわけだ。もしも仲が上手くいっていなければ、俺はきっと早々にこのバイトを辞めていただろう。家庭教師としては、教える事は殆どなく、色々と複雑だ。
 そんな海谷晴一は、明るい茶髪に、美少年に男臭さが加わり始めたすっきりした顔をしている。体型は俺と余り変わらず、170センチちょっとの身長であり、ウエイトは理想より若干軽めだろうが痩せているわけでもない。外見は、下手なアイドルに負けはしないだろう、かなりのものだ。加えて性格の方もサバサバしながらもガキ臭さも匂う、今時の若者そのままで、見た目以上の愛嬌がある。馬鹿ではないので、付き合うのが物凄く楽な人物だ。モテ続けているのも、文句なく頷けると言うもの。
 もっともその評価は、自身が気に入られているからであるからこその贔屓目と甘さがあるのだろうし、学校での彼を見た事があるわけでもないのだから断言は出来ないのだが。それでも、もし相手が嫌いな奴であっても、この青年は多分余り嫌悪は見せないのだろうとそう思う。敵愾心を剥く事はなさそうだ。たとえ苛立ちが生まれたとしても、そんな時は困ったなとシニカルに笑うだけで、簡単にあしらってしまうだろう。追求しなければ、これ以上にはないくらいの好青年だ。
 だが、追求せずとも長く付き合っていれば、見えてくる確かな面もある。晴一はそれが何であれ、面倒な事に無駄な力も時間も注がないタイプだ。適当に流せられるのならば、進んでそれを選ぶ。流せられずとも、笑って無理やり通す。熱くなるのは、ダサいウザい面倒臭い。そんな今時の子供らしく無気力万歳な阿呆でもないが、良くも悪くも、17歳の高校生。主張はそれ程でもないが、自己が強い。そしてそれを突き進んでやっていける程に、立ち回るのもなかなか上手い。流石、平成生まれだ。新人類、最高。
 ちなみに。宇宙人と新人類は、どちらが強いのだろう?
 先日の件では、気にしないでと取り繕う母親とは違い、ヤクザの訪問など大した事ではないような感想を晴一は述べていた。どうも、父親の仕事関係には余り興味がないらしい。ただそう装っていただけなのかもしれないが、それでもなかなかの大物だ。俺など振り回されるしかなかったと言うのに、恐るべし。格からして違うとでも言うのか、うーん…。昭和な俺は、その内喰われてしまうのかもしれない。
 レベルは若干違うが、この青年も十年後には水木のようなカリスマ性を持つのかもしれないよなと、ペンを走らせ始めた晴一を見ながら俺はふと思う。三才も年下の高校生なのに、ジタバタしている俺なんかとは全く違い、そういうオーラを既に持っている奴だ。やはり、神に選ばれしものは居るんだなと、妙に感心し納得してしまう。
 そんな奴に、モテ期なんて話題をふっても、どうにもならない。そもそも、バイトとは言え、17歳の生徒に聞く話でもない。やはり、オールドタイプは使えない。
「出来た出来た、コレでいいんじゃない?」
「んー、正解」
 これでは、宇宙人にも新人類にも、太刀打ちなんて出来ないよなとシミジミ思いながら、赤ペンでノートにチエックを入れる。
「贅沢を言えば、これをこうした方が、式がすっきりするし手間が少ない」
 俺の指摘に成る程と首を振った青年は、シャーペンを机の上に転がし、髪をかき上げながら言った。
「千束さんも似たようなもんでショ?」
「は?何が?」
「さっきの話だよ、モテ期ってやつ。俺と同じで、ずっとそれなんじゃないの?」
「まさか、何を言っているんだか。晴一とは違うさ」
「ウソ」
「ホント。何より、俺は中高とも男子校だったから、ンな事は有り得ないし」
 自慢じゃないが、初めて彼女が出来たのは、高三になってからだ。それまでは、友達にも女の子は殆どいなかった。だが、男子校なのだから仕方がないだろう、そんなものだ。それが普通だ。
「へぇ、なら男子にもモテていたんだ」
「お前なぁ…」
「千束さんが気付いてないだけで、絶対そうだったって。友達多かったっショ?」
「男子校なんてな、誰もが皆友達って感じなの」
「成る程、誰とでも仲が良かったんだ。ンじゃ、やっぱりモテてんじゃん」
 …モテるも何も、ダチの話から離れろガキ。
「俺がした話は友情じゃなく、色恋なんだけど。お子様には早すぎる話題だったか…?」
 だったら悪かったよと、もういいよと溜息を吐くと、「からかっているわけじゃないんだけどなぁ」とのびた声で言い訳をした。これは反省しているという事なのだろうか? ったく、仕方がないなと苦笑で済ませ、俺は晴一を叩く真似をした。握った拳を、頭に乗せてやる。
「俺で遊ぶなんて、三年早い」
「微妙な長さだな、何で三年なの?」
「選挙権もない奴に、遊ばれたくはない」
「それもまたビミョー」
 今の選挙には威厳も何もないのに、と。ウヒャヒャと可笑しな笑い声を発しながら、晴一は放り出していたシャーペンを筆入れに片付け、問題集を閉じる。
「っで、どうかしたンすか。愛の告白でもされた?それとも、既に押し倒されたとか?」
「だから、からかうなって」
「真面目に聞いてンだけど」
「別にただ、友人らとそんな話で昼に盛り上がったから、ちょい聞いてみただけだよ。それより、まだ時間あるぞ?」
「五分じゃん、片付けたら終わり。腹減った、晩飯にしまショ」
 言うが早いか椅子から立ち上がり、晴一は机上を手早く整頓すると部屋を出た。八時までは自分は仕事をしていなければ拙いのだけれどなと思いつつ、俺は階下に向かう生徒の後に続く。本人がこれなのだし、海谷夫妻も別に何も言いはしないが。一時間半の契約をしている以上、その間は机に向かわせておきたいと思う。それでなくても、頻繁に食事を御馳走になったりしているのだから、仕事はきちんとしたい。
 ――なのにコイツは…。
 俺のそれをわかっていながらこうなのだから、大した奴だ。俺の抵抗を計算しているからこそ、数分前ならば大丈夫だと判断し、強引に出るのだ。そうして、仕方がない奴だと呆れている俺を見て笑う。ニンマリと、けれども涼やかに。
 だが、その笑いは馬鹿にしたようなものではないと俺もわかっているので、本当にどうしようもない。怒れない。俺を困らせる晴一は、まるでそう、弟のようなのだ。兄貴をちょっと振り回して、満足している悪戯っ子のよう。そこには悪意など全くなく、寧ろ普段スマートな彼の意外な子供らしさに、こちらは絆されてしまうと言うわけで。
 俺も兄貴に対しては、こんな感じなんだろうなとか。ひとりっ子の晴一にとっては、俺は兄みたいに思えるような存在なのだろうかとか。こいつが弟なら、出来の良さに俺はやっかむぞとか。ンな事を考えているうちに、俺はいいように流されてしまっているのだから、何も言えなくて当然だ。ちょっと情けない。けれど、生徒といい関係を作るのも仕事の内であり、まぁ仕方がないかと、やっぱり最終的には納得してしまっていたりもするもので。完全に、俺は晴一に負けている。
 ……いや、まあ、別にそれでいいのだけれど。
「二人とも、ちゃんと手を洗うのよ」
「ガキじゃないって母さん。あ、オヤジ帰ってたんだ」
「晴一、高校生はガキだぞ。父親に、お帰りの一言も言えないんだからな」
「はいはい、お帰り。お疲れ様っす」
「おざなりだな。ったく、そんな奴は放っておいて、千束くん。こっちへおいで。君もどうだい?」
 ダイニングに入ると、直ぐにそんな声を掛けられた。中身は酒なのだろう、グラスを掲げる海谷氏に俺は挨拶し、誘いを丁重に断る。キッチンを覗き、手伝う事はないかと夫人に尋ねると、皿を運ぶよう渡された。それを持ち、父子が座るテーブルに向かい、俺も席につく。食べ盛り働き盛りの男三人がいる食卓は、量も中身も華やかだ。
 メインのローストビーフに舌鼓を打つ俺の横で、サラダの中からキュウリを選り分ける晴一が、母親に窘められる。気付けば、サラダはトマトとサーモンだけで真っ赤になっていた。緑の小山が晴一の取り皿に出来上がっていた。
 ポリポリとキュウリを噛む晴一は、余り肉を食べない。ベジタリアンと言うわけではなく、味よりも食感に重点をおいているようで、噛み応えがあるものを好んで摂っている。息子は食べないからと、高級肉を勧められ口に運ぶのは俺ばかりだ。申し訳ない。だが、旨い。
「千束くんは、好き嫌いはないのかい?」
「特にないですね。普通のものなら、大抵食べられます。珍食は無理ですが」
「アルコールは?」
「何でも呑めますよ。ですが、そうですね。酎ハイとか外国のビールとか、甘いものが好みです。お子様な舌なんですよ俺」
「千束さん、酔っぱらうとどうなるの?暴れたりする?」
「しないよ、そこまで呑まないし。アルコールに強い体質だから、若干ハイになるくらいだな」
「テンション上がったら、なんかしちゃう?」
「一緒に呑んいでる奴等は、ウルサイって言うな。どうでもイイ事をウダウダ語るみたいだよ。あとはちょい絡んだり、甘えたり。気持ちの制御が緩くなる程度かな」
「何だ、普通じゃん。服を脱ぐとか、キス魔になるとか、踊りだすとかしないの?」
「ないない」
 何だよそれは。どんな奴だと笑いを零すと、海谷氏が「旨い酒があるんだ。ちょっと呑まないかい?」と再び誘って来た。どうやら、ひとりの晩酌が寂しいらしい。しかし、俺とてバイト先では呑めないし、何よりこの後は水木家だ。酒の匂いはさせられない。
「オヤジ。千束さん酔わせてどーすンの」
「そうよアナタ。息子の先生で遊ばないの」
「いや、だって。男親っていうのはな、息子と酒を酌み交わすのが夢なんだよ」
「千束さんはアンタの息子じゃねーし」
「でも、ほら。お前下戸だろ?」
「未成年に何を言う」
「いんや、二十歳になってもお前は酒は呑めないよ、保障してやる」
「すンな、ボケ。うるせぇよ、酔っ払い」
 妻に似た、アルコールが入ると直ぐに倒れる体質の息子を嘆く海谷氏に、晴一が悪態を吐く。そんな二人を気にする事もなく、「遠慮せずに、もっと食べてね」と俺に食事を勧めてくる夫人は、綺麗な笑顔を浮かべていた。いつもの事なのだろう。大人びた晴一が父親の前ではまだまだ子供であり、敏腕社長もまた息子の前では、ただの甘いオヤジだ。微笑ましくて、つい夫人につられ俺も笑みを作る。
 いい家族だなと、改めて思う。海谷家は、本当に家族仲が良い。気さくな父親と優しい母親が居たからこその晴一なのだと思うと、つい俺はどうなのかと考えてしまう。あの両親の息子では、程度が知れるのも当然なのかもしれず。こことは全く違うよなと、ただ単純に思う。父も母も子も、全員違う。ならば家族が、家庭が、こうならないのも当たり前だ。
 この海谷家ほどでもないが、一般家庭よりも裕福で、うちも恵まれていた。生活の安定があったのは同じなのに、何故こうも違うのか。それは互いの愛情のなさが、家庭をあんな風にしたのだろう。ならば、俺もまたその一端を握っていたという事であり、両親だけを責められはしない。しかし、それでも思ってしまう。考えてしまうのだ。
 目の前の光景は羨ましいと言うよりも、ただ、眩しい。俺の父はこんな風に、息子の家庭教師と雑談したりはしなかった。会う事もなかった。たとえその機会があったとしても、笑いはしなかっただろう。家庭教師はおろか、あの人は俺の友人の名を、ひとりも知りはしないのだ。俺がどんな酒を好むのか、酔えばどうなるのかも知らない。海谷氏のように、息子と酒を呑みたいなどと、父は一度もそんな思いを持った事はないのだろう。言われた事もない。
 あの人が息子に求めたのは、そんなものではなかった。


2006/07/14