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普段ならば食事を御馳走になっても、九時前には暇を告げているのだが。今夜は海谷氏も居たので、帰路に扱ぎ付けたのは九時よりも十時に近い時間だった。会話を振られるままによく喋ったからか、アルコールを摂ってはいないのに自分のテンションが若干高めであるのに俺は気付き、敢えてゆっくりと自転車のペダルを漕ぐ。しかし、このペースで進んでも、十時過ぎにはマンションに到着するだろう。海谷家と水木家の距離は、そう遠くはない。
水木は帰宅しているだろうか…? 表通りではなく、ポツポツと外燈が並ぶ住宅街を進みながら思う。宣言通り、土曜に続き日曜も、二日続けてあの部屋には戻らなかったのだ。今夜は早めに仕事を終えているのかもしれない。
さて。水木が居たならば、どうしようか。
それを考えると、ただでさえのんびりな進行が、止まってしまいそうになる。けれど、道の真ん中で立ち尽くそうが、途中下車しコンビニに立ち寄ろうが、何も状況は変わらない。別の何処かに居場所を作らない限りは、水木との関係は続くのだろう。
草川との一件で、友人達にはとてもではないが居候させてくれとも、今夜だけでも泊めてくれないかとも申し出る事は難しく、何も言えずに今日と言う貴重な一日は終わってしまった。結局、朝出て来た部屋に今夜も世話になろうと足を向けているのだから、呆れる外ない。しかも、背に腹は代えられないのではなく、これは明らかに甘えだろう。本気で出て行く気になったのであれば、講義終了後に荷物を纏めに行き、そのままバイトに向かえば良かったのだ。少なくとも、時間的には十分可能であり、出来なかった言い訳にはならない。
結局。俺は都合よく現状を解釈しているのだろうなと、暗い道を進みながら改めて自覚する。
己の考えが足りない事も、状況が異常なのも、現実がそう甘くはないのも、全て知っている。それなのに、仕方がないじゃないかと、現時点での問題はないと、むこうが良いというのに甘えて何が悪いと、逆切れ意見が勝手に沸き起こり本質を誤魔化そうとしている。悪しき傾向だ。このままでは、自堕落のようにズルズルとあの部屋に居着いてしまうのかもしれない。そう考えると、怖いというよりも、胃のあたりが痛くなる。それでも俺は馬鹿で、あと一日、あと二日だけと、本気でそんな事を願っている。
ヤクザの部屋であるのに都合よく危険は無いと判断し慣れている自分が、信じられない。過ごした二晩がたまたま安全だっただけなのかもしれないのに、何て事だろう。誰かに何かを言われたならば、あの部屋しか行くところがなかったんだと、しょうがないだろう?と同意を求めそうな勢いだ。まるで、問題の根本を、俺はわざと忘れようとしているかのよう。
だが、何をどう言ってもヤクザの部屋なのだから、俺とて居心地良く感じているわけではない。しかし水木が居ないお陰で、部屋自体に段々と慣れていっているのも事実。こうして帰ろうとするくらいに、俺はあの広い部屋に馴染み始めているのだ。最悪だ、マズい。しかし、拒否感は確実に、昨日よりも薄らいでいる。
人間は、絶望にも恐怖にも慣れてしまう、適応力が高い生き物だ。嫌悪も拒絶も、維持し続けるのは難しい。――なんて、言い訳も理屈も、今はどうでもいいのだろう。大事な事実は、ただ、悪い傾向に倒れかけているなというもので。本人が居ずとも、ヤクザの部屋は、ヤクザの部屋なのに。意外と大丈夫だと、平気じゃないかと、俺はしっかり評価してしまっている。想像した最悪ではないからといって、安心していい理由にはならないのに。俺は本当に、どうかしている。
加えて。確かに別宅であるのかもしれないが、むこうもただの学生とは言え良く知らぬ人間を、懐に居座らせて心配はないのだろうか。そこが、不思議で仕方がない。ヤクザはもっと疑心を持つ輩ではないのか?あっさりし過ぎている。危機は感じないのだろうか。俺が馬鹿な事をすると考えないのだろうか。誰かに利用されるかもしれないと思わないのだろうか。そんな風に、こちらが逆に心配していたりもする。
何かが起きたとしても、彼等には対処法があるのか、それとも些細な事だと済ませられるのか。何を考えているんだろうなと考え、ふと、水木がこの二晩戻らなかったのは多少は俺を警戒しての事かと思い付く。俺の出方を窺っていたのではないか…?
「…………」
……と言うのは、余りにも馬鹿らしい。
「…ンな事、ある訳ないじゃん」
思わず、溜息と共に俺はそう呟いた。訳がわからない方向に展開中の思考を変えようと軽く頭を振る。そもそも、水木の事よりも、自分の事を考えろよと。水木との関係を明確にしている場合ではなく、自分の進むべき道を決めれば、全てに答えが出るんじゃないかと、己に突っ込みを入れる。けれど、苦しさばかりが目立つ現実から逃避するように、考えはやはりあのヤクザ男のもとへと戻る。
それは、両親と違い、今の自分を相手にしてくれている者だからだろうか? 水木個人ははっきり言ってどうでもいいのに、彼との関係よりも俺は家族との関係を大切にしたいと思っているのは間違いないのに、不思議と意識はそこへと向かう。
居場所がないから部屋をくれと、俺は水木に強請った訳ではない。水木が側に居て欲しいと、俺に乞うたのだ。試されているとか、避けられているとか。何故俺がそんな事を考え、気にしなければならない。帰らないのは、水木の無謀さを誰かが心配しての事かもしれないが、側近らしき戸川さんはああなのだ。彼等に不安があるようには、全然全く思えない。だから、気にかける理由は微塵もない。
ただ単純に、帰らないのは仕事だと結論付け、何なら一生仕事をしていてくれと胸中で俺は悪態を吐く。その方が、世の為人の為にはならないだろうが、俺の為にはなりそうだ。今夜も帰って来なければいいのにと、願うように俺は思う。来なければ、世話になり易いのになと、自分勝手にそんな事を考える。
水木が帰宅すれば、俺が出て行くにしろ、ソファを借りるにしろ、無駄に揉めるのは必至だ。それは、避けたい。帰って来るなと考える自分は、卑怯でしかないのだろうが、俺としては切実な思いだ。どうにかしないと考えないと、と予定していた今日があっさりと潰れてしまったのだ。更なる最悪に転がらぬよう、現状維持での時間を欲しがるのも自然だろう。
こんな風に。水木を相手にしていると、俺は良くも悪くも俺でしかなく、他の何にも誤魔化されない。実はそれこそが、オカシイ奴だと引きつつも水木に傾いてしまう原因なのかもしれない。威圧的であり、奇天烈な男は、決して自尊心を守れる相手ではないが。余りにも人として違いすぎるからか、同じ区分にはいない人間を相手にする気楽さが、どこかにあるのだ。本人を目の前にすれば、あの空気に振り回されるが。それでも俺は、所詮は別世界の人間だと、異星人だと頭の片隅で思っている。心がそこに安心を見出している。
一瞬後には何がどうなるのかはわからないが。水木から遠く離れ落ち着いて考えれば、多分、あの男は俺にとってはそう悪い奴ではないのだ。少なくとも、今の時点では害はない。精神的に振り回されるのはかなりキツイが、両親と揉めたのは水木のせいではないのだから、考えて見れば俺は水木からは得てばかりなのだ。もしかしたら、恨むのはただの八つ当たりなのかもしれない。
だが、それでも、ヤクザ。ヤクザが、パンピーな学生を構ってはならない。例え被害者が100パーセント馬鹿だとしても、加害者に罪がある。闇金だとわかりつつ違法な金を借りたとしても、貸す方が悪いのだ。借りた方は、法で守られる。闇金相手に借金を踏み倒しても、罪には問われない。それが、社会の常識だ。
だが、だからと言って、そこで金を借りるのはただの愚か者。踏み倒そうとした瞬間、未来を消される。罪はなくとも、それは間違いなのだ。
…だから、どうして、ヤクザなんだ。
ヤクザじゃなければ、良かったのに……。
信号待ちをしながら、同じく歩道に並び立っているサラリーマンを見て思う。極々普通の奴であったならば、暫く厄介になりますと言い易いのに。とりあえずは、それでオーケーなのに。掛ける迷惑も己の甘さも変わりはしないが、周りに対する裏切りにはならないだろうに。俺だけの事では済まされないかもしれない危惧があるだけに、己の利益に目が眩んだ自分が、家族や友人達に対し後ろめたくて仕方がない。
だったら、ごめんなさいと謝り反省するよりも。わかっているのならば、それ相応の行動を俺はとらねばならないのだ。それなに。
だから何故、帰るんだ。ヤクザの部屋に。頭がイカレたんじゃないのか、俺。感覚が麻痺しているんじゃないのか、オイ。
何がどうなりこうなっているのか。その理由はわかるが、己の理屈が自分でもわからない。ヤバイと知りつつ、水木を利用する俺は、ただの馬鹿だというだけで処理していいのか? ……いいわけがない。
浅はかなのが自身の罪で、悩み苦しむのがその罰…?
「……そう単純だったら、楽なんだけどな…」
思わず呟いたそれは、愚痴と言うよりも、恨みに近いものだった。
残念ながら現実は、本物の世の中は、そんなに簡単なものではない。ひとりのガキが胸に抱える思いは、ひとりの人間の中でしか存在はないのだ。現実に影響はない。悔いるだけでは、事態は変わらない。反省はサルでも出来る。俺がしなければならないのは、一も二もなく、ヤクザから手を引く事だ。
だが、何度そう繰り返しても、動けない。わかっていると叫ぶだけで、実行出来ない。
水木が居ようが居まいが、荷物を取ってサヨウナラだろ普通。世話になった事実はあるので、自分が出来る範囲で感謝を示し、失礼します、だ。頑張れオレ負けるなオレ、挫けるな。誤魔化すな。ちゃんと現実を見ろ!このままで言い訳がないだろう!?
マンションに着いてからも口内で呟くよう叱咤を繰り返し、地下駐車場の入口付近にある駐輪場にバイクを停め、鍵をかけた。十分後に、この鍵を俺は外せるのだろうか。明日までこのままとなるのだろうか。バイクを見下ろし、そっと息を落とす。掌の中の小さな鍵を握り締め、俺は足を踏み出した。
あの部屋に向かって。
スロープを辿り、正面の入口から中へ入り、凝った扉のエレベーターに乗り込む。使ったカードキーは財布には戻さず、パンツのポケットへ。氷を入れたわけではないのに、その存在は若干冷たい。このまま長い間こうしていたら、尻が固まり攣るかもしれない。気が重い。
「……」
三半規管が弱い子供のように、上昇する箱の中で息苦しさを覚える。水木は居るのか、居ないのか。それを考えると胃が痛くなりそうな程の緊張が、全身に圧し掛かってきた。……重さに耐えられず、キレてしまいそうだ。
圧迫を振り払おうと、壁に背中を預け、頭をのけ反らせる。視界の隅で階表示が順々に上がって行くのを捉えながら、深い息を数度繰り返す。……18、19、20…21――到着。
俺が身体を起こすと、それに反応するかのようにタイミング良く扉が開いた。鞄を肩に掛け直し、拓けた空間に向かいゆっくりと足を進める。明るく静かな通路を歩き、重厚な玄関前に立ち、カードを取り出しながら考える。
水木が帰宅していた場合。俺は何て言うのが正しいのだろう? ただいま、でイイのか…?
でもそれだと何だか、自分がここに住んでいるのを、俺自身が受け入れているかのようだ。まるでホームだと認識しているかのようだ。だから、それはちょっとダメだろう。ただいま、は嫌だ。今の俺が言うのは、変だ。ならば無難に「お疲れ様」だろうか、この場合。
面接受験のように、馬鹿なシミュレーションを頭に浮かべ吟味し、大丈夫だと俺は気持ちを落ち着かせた。水木でも何でも、かかって来い。俺は平気だと、思い込む事で気合いを入れ、ノブを掴み扉を開ける。
一応、まずはチャイムを鳴らせば良かったかと。そんな当たり前な事に気付いたのは、それを見てからだった。
「…………」
三和土に革靴が一足あった。
だが、邪魔にならないようにだろう、隅に置かれたそれに違和感を覚え、自分のスニーカーを並べてみる。俺と変わらないサイズだ。ならばこれは、長身である水木の靴ではない…ハズだ。そして。
上がり框には、何がどうなっているのか、アニマルスリッパが鎮座している。水木の趣味とは思えない。薄茶色の二匹のパグ犬を眺め、俺は首を傾げた。
「……戸川さん…?」
だよな?と目の離れた愛嬌ある顔に問いかけるが、二匹は何も返さない。だが、この場合、沈黙は肯定と受け取っていいだろう。もしもこいつらをここに連れて来たご主人さまが、俺の意表をつこうとした水木であったのならば、俺は何だって言う事をきいてやろうではないか。そう思うくらいに、自信がある。
水木ではないのなら、部屋に居るのは、絶対に戸川さんだ。俺はそう憶測しながら、現金なもので水木の不在に若干気分を軽くし靴を脱ぎ、二匹の犬の横を通り抜ける。
もしかして、戸川さんは俺が退去するのを手伝いに来てくれたのだろうか? …だが、それなら、何であんなスリッパが用意されているのか。水木が履くのか?今夜、水木は帰ってくるのか?それとも、他の誰か…女子供が来る予定だとか?
だったら確かに、速攻で撤退しなければならない。自分がここに居ると問題になるのではないのだろうかと考えながら、俺は通路の突き当たりにあるリビングの扉を開け、戸川さんと呼びかけかけた。
だが。
「…………」
俺の勘は見事外れ、そこに居たのは、見知らぬ男だった。
「ああ、お戻りになられたんですね。お疲れ様です、お帰りなさい」
「……ただいま、です…」
…って言うか、どちら様でしょう?
俺がそう聞くべきなのか、それともこの部屋で厄介になっている新参者の自分がまず自己紹介をするべきなのか。予想を違え、初めて見る人物の存在に、俺は小さなパニックに陥った。水木の部屋で優雅にコーヒーを飲み寛いでいるこの人は、一体何者なのか。訳がわからない。第一、誰も来ない隠れ家のようなものだと、家主はここを説明していなかったか…?いや、そう言ったのは戸川さんだったか? どちらにしても、バリバリ居るじゃないか、嘘つきめ…!
「そう驚かないで下さい」
呆然と立ち尽くすように固まった俺に、男は無理な事を言って来た。
「怪しい者ではありません」
「はあ…」
ダークスーツに、白シャツ、紺ネクタイ。三十代半ばの年齢だろうが、その割に控えめな笑顔はどこか爽やかで、中年と呼ぶのは申し訳ない。しかし、年齢は兎も角。確かに悪い人には見えないが、ここに居るというだけで、充分警戒に値する人物なのであろう。本人はそのつもりではないにしても、俺としては色んな意味で怪しく感じるものだ。男の談を鵜呑みになど出来ない。
「とりあえず、こちらに来ませんか。コーヒー淹れますね」
「あ…いえ、自分でしますから…」
言葉を吐き出すと同時に立ち上がりキッチンへと入って行く男を、俺は慌てて追いかけた。淹れなくていい、飲みたくないとは流石に面と向かって言えないので、自分がすると手を伸ばす。だが、やんわりとソファで待つように言われてしまった。警戒するはずが、早くも挫折してしまうのだろうか、危機に晒される。
「お疲れでしょう。どうぞ、お待ち下さい」
大した事ではなのだから気にせずに待っていろと丁寧な口調で言われ、仕方なく仰せの通りに俺はソファへ腰を下ろした。言われるがままだ、拙い。だが、何かをする事も出来ない。
「……」
全くもって、落ち着かない。この状況で気にせずにいられる者など、そうはいないだろう。それをわかりながら、俺をここに置くとは。ある意味、拷問だ。カウンターの向こうの背中を盗み見るように眺め、俺はそっと思い息を吐く。……この人は一体、誰なんだ?
タイミングを逃し訊きそびれた問いが、俺の頭をぐるぐると回った。水木の関係者であるのは間違いないのだろうが、何がなんだか全然よめない展開だ。戸川さんであるならば兎も角、こんな時間に初対面の男が一人、一体何だと言うのだろうか。予想もつかない。
「遅くにカフェインを摂っては、眠れなくなりますかね? ハーブティーの方がいいですか?」
「あ、いえ、大丈夫です。目が冴えるなんて事はないんで…」
不意に声を掛けられ、思わずヘコヘコと条件反射のように頭を振ってしまった。場違いである筈なのに極普通な振る舞いというか、男の自然な仕草に、わけもなくドギマギしてしまう。これでは、まるで俺が悪い事をしているかのようだ。闖入者は、俺なのか? …居心地の悪さが、如何ともし難い。得体が知れないくせに落ち着きはらった男が、俺の調子を狂わせる。
ホント、何だよこれは……。
じっとしていられない子供のように、ソファでムズムズと身体を動かし、俺は部屋に視線を彷徨わせる。夜鏡になった窓が、俺と男を映していた。キッチンに居るその姿は、水木よりも断然その場が似合っている。まるで、部屋主のようだ。彼が加わっただけで、何だか家庭の匂いがする。だから余計に、初めて来た部屋であるかのように思え、俺は緊張を覚えているのだろうか…?
それを思い付くと、二晩泊まって馴染んだ空気が、新しいものに変わってしまっているような気がした。不快ではなく新鮮でもあるが、若干受け入れ難いものでもある。この感覚は何だろうかと考え、自分は恥ずかしがっているのだろうかと気付く。俺はここでこうしている自分を第三者に見られた事にプライドを刺激され、馬鹿な抵抗を覚えているのかもしれない。
「――お待たせしました。どうぞ」
「あ…、済みません。ありがとうございます…」
掛けられた声に首を回すと、男がテーブルにコーヒーを置き、ソファに座るところだった。間近で見入り、慌てて礼を言い、義務的にカップに手を伸ばす。別段飲みたくはなかったのだが、そうもいかない。
ミルクが多いコーヒーは、まるで泥水のような色をしているな、と。低迷する気分のままに自分でしたフザケタ発想に、俺は思わず溜息を落としかけた。せめてヘイズルやシナモン、ココアなど、食べられるものに例えるべきか。淹れて貰ったものに対する感想としては、相当失礼だろう。きっと時間を考え、この人は俺の為にたっぷりと、態々牛乳を入れたのだろうに…。
「……頂きます」
馬鹿な発想で自分の首を締めつつ、カップに口を付け――俺は眉を寄せた。
「……」
湯気に混じるこの香りは……多分ウイスキーだ。だがだからと言って隣から視線を注がれた中でカップを遠ざける根性はなく、不意打ちだが問題はないと無理やり気味に判断し、俺はそのままひとくちそれを啜り味わう。若干甘みが強いが、鼻に溜まる柔らかい薫りが何とも言えない。だが、味覚ではなく気分的に、何だかやはりしっくりこない。ミルクと砂糖は兎も角、事前に断りもせず、ガキ相手にアルコールを入れるものなのだろうか? ワインを味わうよう、啜った少量のコーヒーを舌の上で転がしてみるが、何もわからない。異物を入れられていたら、どうしようかと思いつつ、もうひとくち口に含む。……普通に旨い。
「お酒は苦手でしたか?」
「いえ、大丈夫です…。とても、美味しいです」
「それは良かった」
先程眠れるかと訊いてきていたのを思えば、やはりミルクと同様、それを考えてのアルコールなのかもしれない。けれど、俺の人生の中では余り慣れてはいない事で、そう理解しても戸惑いは消えない。俺はこんな事をするまで気を使われているのか、それともコレはこの人にとって自然な事なのか。笑うと出来る男の目尻の皺を見ながら、俺はソーサーにカップを戻した。
このコーヒーに睡眠作用があるのかどうかは知らないが、この男に俺を騙す必要はないように思う。何かするのならば、小細工などはせずにストレートにする方が簡単ではないだろうか。ここには俺と男の二人しかいないのだから、この人は自分の思い通りに事を運べるだろう。何をどう見ようとも、俺はただのガキなのだから、抵抗など害にはならないはずだ。
ここに居るという事は、この男もまた水木と同じ、ヤクザなのだから。
そう考える事で、甘いコーヒーに区切りを付ける。これ以上、深くは考えまい。
「食事は摂られているんですよね?」
「はい、バイト先で頂いてきました。それより、あの、えっと…失礼ですが。どちらサマなのかお伺いしても宜しいですか?」
今更ですがと眉を下げる俺に柔らかな笑顔を見せた男は、何故だかチラリと腕に嵌めた時計を見てから、口角の上がる口を開いた。
「ご挨拶が遅れました。私、水木のところで世話になっております、若林と申します」
「あ、はい…」
この場合の世話とは、同じ日本語でも全く俺の立場とは意味が違うのだろう。要するに、そうは見えないが、この人もやはりヤクザだと言う訳だ。予感的中。だが、予想はしていても、当たって嬉しいものではない。ヤクザの知り合いなど、増やしたくはない。
「えっと…、初めまして。千束大和です」
それでも、名乗られて名乗らない訳にはいかないので、既に知っているのだろうと思いつつ名前を告げる。続いて「宜しくお願いします」と喉元まで言葉が競り上がってきたが、ヨロシクして良いのかどうなのか疑問なので、俺は軽く尻を浮かせペコリと頭を下げるだけに止めた。
水木と戸川さんに続き、この若林氏とも親交を持ちはじめては、自分はいつかヤクザに取り込まれてしまうかもしれない。親交を深めずとも、ヤクザに慣れたら、それで終わりだ。この人達と仲良くするのは、俺の将来にはマイナスだろう。厳禁だ。だが、かと言って、間違っても邪険にも出来ない。
今の俺には、こうしてやって来られた場合に取れる対策は、ない。
「ご丁寧にありがとうございます。千束さんの事は、戸川から聞いております」
「戸川さんから、ですか?」
「えぇ」
「そう、ですか…」
この部屋に来ておいて、水木じゃないのか?――なんて突っ込みは、勿論口にはしないのが無難だろう。それよりも。戸川さんには悪いが、自分の説明をされるのならば、水木の方が何かと無事に済みそうな気がする。水木は、端的に言うだけで済ませそうだが、戸川さんは第三者であるのを考えても、俺の現状を面白おかしく語ってくれそうだ。事実に脚色し、無い事までこの人に言っているかもしれない。
若林氏は、俺の事をどんな風に聞いたのだろうか。水木に捕まったバカ、か?水木を利用したガキ、か? 何にしろ、同情されているようには思えない。戸川さんには面白がられているだけのような気がするので、余計に若林氏の認識具合が恐ろしい。
「……戸川さん、何か言っていましたか…?」
「先程まで彼もこちらにお邪魔していたのですが、急用が出来てしまい、変わりに私が残らせて頂いたんです」
「……」
……はぐらかされたのか、これは?
手に汗握り搾り出した問い掛けは、見事に粉砕し、空中へと消えた。まさに、マジックだ。跡形もない。こうなれば重ねて問うのは流石に憚られ、俺としてはもう、言われた言葉を噛み砕くしかない。
「……と言う事は、何か俺に用ですか…?」
代わりに残る程の事が、何かあるのか? 何を言われるんだと少し身構えながら伺うと、若林氏は何故か満足げに笑顔を浮かべた。先程までの微笑とは違う笑いだ。まるで、子供の成長を目の当りにした親のよう。…とは言え、俺はそんな親の笑顔を見た事はないので、勿論想像でしかないのだが。きっと、俺が親で、子供が思った以上に大人な仕草をしたら、きっとこんな風に笑うだろう。
しかしそうなると、全く意味がわからなくなるので、もしかしたら全然違う笑みなのかもしれない。そんな笑みを向けられる理由は、俺にはない。
「あのぉ…?」
「千束さんは、確か二十歳で?」
「ええ、そうです。…と言っても、今月には21になりますけど……でも、それが何か…?」
「いえ、お若いのにしっかりしていらっしゃると思いまして。済みません、他意はないです」
繋がりのない唐突な質問に、あからさまな疑心さを顔に出してしまったのか。若林氏は、直ぐさま謝罪を口にし頭を下げた。だが、それでは逆に俺が恐縮してしまうというもので。
「あ、いや、…大丈夫です」
って、何が大丈夫なのか。言うのならば、気にしていません、気にしないで下さいだろう。なのに、何を言っているのか。何故か変に調子が狂っている自分を持て余し、俺は言わなくていい余計な事を更に口に乗せてしまう。
「でも、俺は全然しっかりなんてしていませんよ…。本当にしているのであれば、ここには居ませんから…」
知り合ったばかりの良く知らない方に迷惑をかけて世話になる奴が、しっかりなんてしているわけがないですよと返すと、若林氏は小さく喉を鳴らして笑った。全然、全くフォローにも何にもなっていない。自虐か、暴挙か。テンパっているのが、バレバレだ。案の定、「失礼、不愉快にさせてしまいましたね」と笑いを引っ込めた相手が、再び謝罪をしてくれる。もう、済みません、ごめんなさい、だ。でも、ボケた訳ではないんですよ…、わざとじゃないです、ただ馬鹿なだけです。……大目に見て下さい。
呆れられ、嫌悪されなかっただけマシと言ったところなのだろう。笑われて良かったぐらいだ。しかし、だからと言って、恥ずかしいのに変わりはない。こんなガキの相手などしたくはないだろうに、仕事とは言え可哀相でもある。
…そうだ、仕事だ。仕事だった。
「……あの、それで…ご用件は?」
水木のように言葉が通じない訳ではないし、戸川さんのように遊ばれている訳でもないのに。驚くほど普通なこの人と、どうして会話が微妙なのものになるのか。もしかして俺は、相手にわかるくらい警戒をしているのか?無意識に探っている?ヤクザなのにヤクザらしくないオジサンに、不審を感じているのか?だから相手もまた距離を掴みかね、こんな風になっているのか?
って事は、これってやっぱり、俺のせい…?
大人でも子供でも、初対面であろうとそれなりに人と接するのは慣れていると、同年代の学生と比べれば自分は上手な方だと思っていたのだが。ただの過大評価だったのか、今日が変なのか。マジで俺はテンポが狂っているぞと、今更ながらにそれを飲み込み、落ち着かねばと自身に言い聞かせる。慌てる理由なんて、ヤクザの部屋でヤクザと対面しているのだ。探さなくとも沢山ある。だが、自ら招いたこの状況でオロオロするのはみっともないし、相手がこんな大人しい人ならば焦る必要もないだろう。知らない人が居た驚きはいい加減引っ込め、先に進まねば。
そう決め、俺はご用はなあに?と尋ねたのだが、同時に心配にもなった。柔和な笑顔を浮かべる男もまた、ヤクザ。何を言い出すやら、わからない。何より、俺の方は突っ込まれる事が山程ある。あり過ぎる。水木の話にのるとはどういうつもりだ、とか。ヤクザの部屋に居座るからにはそれ相応の見返りを要求するぞ、とか。無関係な普通の人でも突っ込みを入れるのだろうに、上司や同僚となればこんなややこしい事態に一言二言三言は物申したいだろう。それを思えば、若林氏がここに居るのは当然の事に思え、何となく次の展開が予想出来た。嫌味か愚痴か説教か脅しか。いずれにしても、俺にとっては良い事ではないのだろう。だが、俺はそれを聞かねばならない立場にいるのは間違いない。
「お疲れのところ済みませんが、少し宜しいですか?」
「…はい」
覚悟なんて決められないが、神妙に頷き、俺は自然と背筋を伸ばす。出て行けと言われたら、当然の対処だなと納得するので、俺としては従うしかない。水木の不利になる行為はしない誓いを示せと言われても、信じて貰うしかなく何の保証も出来ない。何を考えているんだどう言うつもりだと問われても、見せられるようなものは何もない。
俺が出来るのは、聞くだけだ。だが、耳に入れたら最後、それだけでは終われない。どうしようか、どうするべきか。応えた直後にそれに気付き、頼むから困るしかない事は言い出さないでくれよと座る男を窺うと、誠実そうな顔で言葉を紡がれた。
しかし。
その内容は俺の緊張を嘲笑うかのように、予想から大きく外れたもので。
全然真面目なものではなかった。
「ここでの生活の事ですが、不便のないようにお世話させて頂きますので、ご安心下さい」
「…………。……はア?」
…何だよ、それ?
思いがけない言葉に、遠慮のない声が出てしまい、話を続けようとした若林氏の眉を寄せさせてしまった。顰め面になるとちょっと雰囲気が変わるのだなとわかったが、今はどうでもいい事だ。向けられた言葉の方が重要である。ヤクザなのだから、ヤクザらしさが滲んでも取るに足らない事だろう。今は、気にしまい。
「何か?」
「いや、あの、世話をするってどう言う事ですか?」
「どう、と仰いますと?」
何の事だと首を傾げられ、本気でこの人は疑問もなく俺の面倒を見るつもりなのかと、逆に驚く。
「俺は、水木さんの親切に甘えさせて貰い、少し部屋に居させて頂いているだけです。だから、その、若林さんに世話を掛けるつもりは全然ないんですが……?」
「ああ、そう言う事ですか。しかし、まぁ、ご存じでしょうが。水木は普通の勤め人ではありませんので、千束さんには幾つか守って頂きたい約束事があります。その変わりと言ってはなんですが、不自由のないよう、雑用でも何でもこちらで致しますというだけの事です。何も私が付きっ切りでお世話をするわけではありません。固くは考えないで下さい」
「いや、でも…」
「水木もそう言っていますから、遠慮は無用です」
「……」
「宜しいですか?」
……イイエ、ヨロシクアリマセン。アナタノニホンゴ、ムズカシイ。ワカリマセン。
あっさりとそんな言葉で終わろうとする若林に、俺は眉を寄せる。これのどこにヨロシイ要素があるのか。俺には理解出来ない。たとえ、説得されても、幼子のように頭をコテンと傾けられても。それはどう考えても無理な相談だ。居候だけでもヒヤヒヤで、いつ退散するのが良いのか考えているくらいなのに。これ以上、ヤクザに迷惑をかけられはしない。
しかも、水木になら兎も角、第三者に手間を煩わせる資格は、俺にはないだろう。俺は水木の家族になった訳でも、恋人になった訳でもないのだ。水木の知り合いではあるのだろうが、上でも同等でもない。誰よりも、下だ。そんな奴が何故、家主の部下に世話になれる…?
百歩譲って、寛容に考えてみれば。もしかすれば、水木には別の考えや思惑があるのかもしれない。だが、俺自身はそうでしかないのだから、やはり自分の世話など他人にさせられはしない。俺はただこの部屋を使えば良いと許可を貰っただけで、何らかの立場を貰った訳ではないのだ。ただの親と喧嘩をして家出をした学生であり、それ以外の他のものになる気は俺には全くない。
「…水木さんには水木さんの遣り方があるのでしょうが、俺は可能な限り身の回りの事は自分でしますから……世話はいいです」
「それは、掃除や食事もと言う事ですか?」
「勿論そうです。それに…そんなに長くお邪魔するつもりもないですから…。……迷惑を掛ける前に、出て行きますよ。何でしたら、今からでも――」
「待って下さい。それは、水木と貴方の事ですし、彼と話して決めて下されば結構です」
「……まぁ、そうですけど…」
…ってか、ちょいと待て。俺の決死の告白は、スルーなのか? 出ていこうが居着こうが、どうでもいいのかよ? 興味はないってか? 若林の返答に、マジで今から出て行ってやろうかと一瞬考える。だが、こんな話を出された直後に撤退するのは、喧嘩を売っているようなものではないだろうか……出て行き難い。けれど、それでもちょっと納得が行かずに、退散に心惹かれる。
水木と話せば良いなんて、簡単言わないで欲しいものだ。それがどんなに難しい事なのか、この人は知らないのだろうか?
にこやかな対応に反し、事務的極まりない言葉を向けられ、ただ驚く。やはり、これは、水木が俺をここに置くのを面白く思っていないという事なのだろうか?面倒だと感じているのだろうか? 確かに、普通はそうだろう。上司のワンマンは、部下にとっては迷惑なものだ。それがプライベートなものとなれば、…余り関与したくないはず。事務的で当然なのだろう。しかも。この人は戸川さんから話を聞いているのだ。親と揉めているなどと言う俺の事情など、他人にとってはどうでもいい事だろう。
それもまた当然だと、そう思う。俺がもし社会人で、上司が水木と同じような事をし、その面倒を見なければならなくなったら……絶対に適当にするだろう。転がり込んできた青年を苛めはしないが、同情して親切にするとも考えられない。若林氏と同じ様に、事務的に済ます筈だ。
そう、確かにそう思うのに。それでも俺は、何故か軽いショックを受けた。どうしてだろう、何が苦しいのだろうかと考え、若林氏の対応の仕方ではなく、自分がそんな態度をとられる立場にいる事がだと気付く。こう扱われるのはわかりきっていた事なのに、俺は深く考えてもみなかったのだ。
「……」
戸川さんのように認めて構って貰えると思っていたのか、俺は。おめでたい。水木がひとりで生きている筈がないのに、何を勘違いしていたのだろう。俺に、家族や親戚や友達が居るように、水木にもそれはあるのだ。その者達が俺の存在を知ったならどう思うのかなんて、気にかけもしなかった。
若林氏はそれでもまだ丁寧だが、別の誰かはあからさまに嫌悪を向けてくるのかもしれない…。俺はそれに無駄に傷付けられ、また知らないところでは、誰かを傷付けてしまうのかも知れない……。
「失礼ですが、料理は出来るのですか?」
「……え?」
内面は可笑しくとも、あの容姿ならば妻や愛人などに水木は尽くされているのだろう。もしかしたら、俺はそんな彼女達に恨まれたりするのだろうか…? 俺と水木はそんな関係ではないが、何がどう誤解されるかわからない。現に目の前の人も勘違いしている感じだしなと眉を寄せた時、若林氏から問い掛けが降って来た。とっさの事で付いていけず、頭を切り換えられないまま、間抜け面を晒してしまう。
料理って…誰に?まさか、水木にしてやれとか言うんじゃないよな…?
「出来るって…?」
「一人暮らしの経験は?」
「あ、ありますが…」
「普段の食事は自分で?」
「は? …えぇ、まぁ、簡単なものを少し。普段は、そうですね、平日は学食で済ませて、休日は適当に食べに出たりコンビニ弁当だったり…。料理は確かにそう得意ではないですが、特に問題もなく……普通にしていましたよ。普通の学生の食生活です――が、それが…?」
「外食ばかりでは身体に悪いでしょう。賄いを来させます」
……マカナイ?巻かない?蒔かない…?
余りの事に脳味噌が処理を拒否し、頭の中で出鱈目な文字が飛び交う。
もしかして、この人は、水木二号なのか…!?
「……。いえ、いいです」
賄いって、何だそれは。そんなものに来られた方が、身体に悪い。というか、若林氏だけでこんなにもビビっているのに、常時誰かがこの部屋に来るのだとしたら、もうこことはおさらばするしかない。非礼でも失礼でも何でも、さっさと出て行かねば、俺の精神が耐えられない。
「遠慮はなさらずに」
「……」
この人は、確信犯な戸川タイプなのか、天然な水木タイプなのか。遠慮じゃなくドン引きなんだよと顔を引き攣らせながら、俺は目の前の男を眺める。やり手のビジネスマンと言うよりも、仕事熱心な教育者と言った感じの、進学塾にでも居そうなオジサンが一気に遠い存在となった感じがした。ヤクザに加え、まさかこの人も宇宙人とは言わないよな…?
戸川さん。何故に貴方は帰ったのですか…。帰るのならば、この人も一緒に連れて行ってくれれば良かったのに……。
雰囲気も性格も見た目も、全て嫌いではない。嫌いではない。だが、苦手だ。戸川さんよりも断然善い人そうに思えるが、何て言うのだろうか、和めない。コミュニケーションが水木以上に取り難い。敢えて表現するならば、若林氏は俺との交わりを全てシャットアウトしている、そんな感じだ。笑顔も会話も、彼の想定の範囲内でしか行われていないような気がする。
「あの、ですから俺は、泊まらせて頂いているだけなんです。確かに今日で三日になりますが、いつまでもお邪魔をする訳ではないです。それに…もしも状況が変わって、長く住まわせて頂く事になったとしても。俺の食事や洗濯の世話をするなんて、変ですよ。水木さんの身の回りの世話をしろと言うのならば兎も角、俺は居候なんですから、自分の事は自分でします。俺、可笑しな事は言っていないですよね?これが普通でしょう? あの…、若林さんは一体俺をどう見ているんですか?水木さんは何て言ったんですか? 俺は別に、水木さんに、その――囲われているつもりはないんですが……俺が知らないだけで、そうなんですか…?」
一体何なんだと、勢いで言葉を紡いだが、最後に向けた問い掛けに、言った側から自分で馬鹿らしくなった。視線を下げ、中身が半分も減っていないカップをじっと眺める。今この瞬間、掻き消えてしまいたい。だが、残念ながら、この小さなカップには自分は入れそうもなく、またこの水量では溺れるのも無理だ。己の言葉が気まずく漂うこの空間に、俺は身を置くしかない。
2006/08/18