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「――そうなのかと問われましても、ねぇ」
困ったなと苦笑するように、若林氏は目を細め、片手で口元を隠した。
「私は当事者ではありませんし、囲われているのか囲っているのかはわかりかねます」
「……」
そんな事は、わかっている。俺はただ、貴方はどう見ているのかという意味で訊ねたのだが、またはぐらかせるつもりか? 俺だって、囲われているつもりはない。だが俺にはなくとも、俺の立場はそれそのものなのだろう。何もなく、他人の面倒など普通は見ない。メリットがなければしない事を、水木はしているのだ。水木自身が俺に望んだのは、ここに居る事だけで、囲うだとか何だとかの下世話な話ではないが。それは周りに認識されている事なのかどうなのかを、俺は知りたい。俺は一体、どう見られているンだ?
囲うとか、愛人とかではなく。水木の場所に、ただ俺が居るだけだと。そう言う関係ではないのだと、周りはわかってくれているのか? この若林氏の態度では、誤解されているような気がしてならない。だから訊いているのに、本人は避け続ける。まるで、水木の持ち物でしかないように、俺自身を相手にしない。
俺は俺でしかないのにと思うと、単純に悔しい。本当に、水木や戸川さんはどんな説明をこの人にしたのか。不快で堪らない。俺の事が説明出来ないのなら、第三者を出してくるな。俺を住まわせるな。あの男は、一体何を考えているんだ…!?
「賄いの事はそう言う意味でお尋ねした訳ではなく、ただ不便のないようにと私が考えただけです」
……だから、そこまで尽くそうとするのが可笑しいと俺は言っているんだ。何処の世界に、居候の為に家政婦を用意する奴がいる?貴方が何故そんな発想をしたのかを、俺は訊きたい。
「答えて下さい。貴方は俺をどう思っているんですか?」
相手がヤクザらしくないからか。この人に何らかの説明をして俺の世話を言い付けたのだろう、水木と戸川さんに苛立ったのか。俺はそれが知りたいんだと意地になり、はぐらかされたばかりの問いをもう一度重ねた。この人が、俺を水木の付属品としてしか見ないのならば、俺は今すぐにここから出て行こうじゃないか。それで若林氏が困ったとしても、俺は知らない。
俺と水木の関係を、第三者がどう判断するのか。それは気に入らずとも文句を言っても仕方がない事であり、また、若林氏個人を責めるつもりは俺には毛頭ない。嫌だ不快だと騒がない程度には、自らそこへ飛び込んだ自覚はある。受け入れねばならないものだろう。だがそれでも、何と言うのだろうか。俺の中の譲れない部分が、この状態は我慢出来ないと抗議するのだ。若林氏の俺の扱い方ではなく水木の俺の扱い方が、与えられる恩恵を差し引いても、許せない。
確かに、彼に俺は頼った。だが、俺は自分を捨て、彼に己の全てを委ねた訳ではない。
「ですから、どうと言われましても」
「貴方の感じた事でいいんです。教えてください、お願いします」
何故水木は、この人に俺の世話を焼かせようと考えたんだ?親切心からか。それとも、ただの勝手か。彼が博愛主義者なのか、独裁者なのか、全くわからない。そのわからない中で思うのは、この展開は非常に面白くないと言う事だ。何故自分がじわじわと苛立ちはじめているのかよくわからないが、その理由は目の前の若林氏ではない。間違いなく、水木だ。
だからこそ、この興奮を止められない。
「水木さんは、どんな説明をしたんですか?俺に世話役を付けなければ問題があるような事を言ったんですか?監視目的ですか?」
「まさか、違います。水木はそんな事は言っていませんよ」
「だったら何故、賄いだなんて…」
「ですから、それは私が判断し、お話させて頂いただけです。水木が言ったのは、貴方をここに住まわせる事になったというだけですよ。自由にさせてやってくれとも言いましたが、具体的には何も。きっと、彼としては『余計な事はするな』という意味で言ったのでしょう。ですが、水木の側に居るだけで十分に不自由ですからねぇ。何も手伝わない訳にはいきません」
「手伝う…?」
「ええ、そうです。彼は自ら率先して動くタイプではないので、極端な事を言えば、周りが手を貸さねば何もしないままです。水木はそれで良いとしても、千束さんは困るでしょう? 部屋を与えられたはいいが、そのまま音信がないとなると不安になりませんか? なので、今日、私と戸川がお邪魔をしたんです。水木の命令ではなく、独断です。この部屋の使い勝手は我々も知っていますし、力になれる事があればと。ですから、千束さん。とりあえず、誤解を解いて頂けますか?」
「…誤解、ですか?」
「ええ。水木は決して、貴方を所有物のように扱おうとした訳ではありません。確かに彼には感覚がズレている面もありますが、この件に関しては、行き過ぎたのは私のようです。怒るのならば、水木にではなく私にどうぞ」
「…………いえ、別に、怒っているわけではないです。なんか…ちょっと、賄いだなんて俺の人生の中では縁のないものだったので、驚いたと言うか何と言うか……」
若林氏の話に毒気を抜かれ、俺はしどろもどろに言葉を返す。これでは図星を差されたみたいだと恥ずかしく思いながら、本当はどうなのかと少し考えてみた。
俺が苛立ったのは、水木にモノのように扱われたと思ったからなのだろうか…? ……ちょっと違うような気もするが、気が逸れた今はよくわからない。けれど、ひとつだけわかる事がある。また、俺は若林氏にはぐらかされてしまったと言う事だ。
けれど、もう言及する気にはなれない。
「…済みません、何か俺、失礼でしたね……。忘れて下さい」
「いえ、私の考慮が足りなかったのは事実です。こちらこそ、失礼しました。掃除や食事の世話をする者が居れば便利だと、単純に考えて勧めてしまいましたが。確かに、知らない者に出入りなどされては落ち着きませんよね。済みません」
「ええ、まあ…」
「では、不便があった時には、ご遠慮せず仰って下さい。そういう事にしましょう。ただ、月に数度――そうですね、水木が帰る時や彼の仕事の都合で人の出入りがあると思うのですが、その点はご了承頂けますか?水木が居ない時は、勿論私や戸川が居るようにします。それとも、私や戸川も苦手ですか?」
「…………水木さんよりは、苦手じゃないですよ――なんちゃって…」
何てイヤミな事を言うんだと絶句仕掛けたが、若林氏の笑い顔を見てジョークなのだと気付き、数瞬迷った末、俺もまた軽口を叩いた。内容は冗談ではなく、紛れのない事実なのだが、それに気付いているのかどうなのか受けた相手は楽しげに微笑む。
「そうですか。それは良かった」
……本当にいいのか、それで? 良くはないだろう。
調子が狂うと俺は眼を泳がせ、自分の発言に自分でフォローを入れる為に口を開く。だが、開いたはいいが上手い言葉は見つからず、一杯いっぱいな感じが丸わかりでフォローにはならない。みっともない。
「あー、そのぉ、えっと…。あ、あの、ですね。俺は、ただの居候なんですから、余り気を使わないで下さい。だから、その。水木さんに必要な事まで止める権利は俺にはないので……別に誰の出入りも文句は言いません。俺が居ても全然気にせず、今まで通りにどうぞ。若林さんや戸川さん以外が来られても別に…たぶん大丈夫です。…俺はただ、自分が何かをさせてしまうのが苦手だというだけで……水木さんの事までは…ハイ……」
「仰る事は、よく判ります。しかし、申し訳ないのですが、私にとって貴方は水木の客人であるんです。千束さんにとって落ち着かないとわかっていても、放ってはおけない事があります。迷惑でも、我慢して頂き、通さねばならない事もあります。それが私の役目です。確かに慣れずに居心地が悪いと思いますが、その点はご理解して下さい」
「…………」
理解してくれないかという伺いではなく、若林氏はきっぱりとそう言い切った。この人にとって、これが譲れないラインなのだろう。いつまでもウダウダ言うのなら我儘と見なし、追い出すぞと。そんな風にも若干聞こえるが、そうであっても、俺がそこにケチを付ける権利はない。
俺がここに居る限り、居心地の悪さは仕方がない事なのだ。それが嫌ならば、出て行けばいい。俺は何を、自分勝手に、住み心地を良くしようとしていたのだろう。
若林氏にはっきりと言われ、今まで自分が口にしていた事が愚かなものであった事に気付く。人としては当然の主張ではあるが、提言出来る立場に己が居るのだと考え実行した、自分のその厚かましさが恥ずかしい。口ではなんだかんだ言いつつも、俺の心底には世話になっている気がないのではないだろうか。俺は本気で水木の言葉を信じ、彼の為にここに居てやっているのだと、何処かでそう偉ぶり反り繰り返っているのだろうか。自分の行いに気付き、一瞬頭が白くなる。
「とは言え、迷惑を掛ける事を前提にしている訳ではないのですから、ご安心下さい。水木の客人は大事にせねばなりませんから、出来る限りの事はさせて頂きます。ぞんざいに扱ったりはしませんので、ご心配は要りません。ですから、千束さん」
「……はい」
「私の言葉を信じられるようになった時は、どうか肩の力を抜いて、ご自由にお過ごし下さい」
この部屋にも直ぐに慣れますよと、若林氏は安心を与えようと太鼓判を押す。だが、俺にはその見解が信じられない。それは確信か、予言か、希望か。何もわからない。しかし、それこそ俺の解釈までこの人には関係ないのだろう。何をどう感じ信じようと、言うべき事を言っているに過ぎない気がするのは何故だろう。
不審を抱くわけではなく、事務的な対応だと感じているわけでもないのに。若林氏の言葉は、水木や戸川さんのそれとは少し違う。だが、その小さな違いが何なのか発見した所で俺にはどうする事も出来ない。貴方は何々だと言い当てたところで、若林氏が変わるようには思えない。また、別段俺も変わって欲しい訳ではない。この違いは多分、俺にとってデメリットになっている訳ではないと思う。
「……わかりました。俺は世話になっている身ですから、文句は言いません。俺がこちらに合わせるよう、努力します。俺は何も知らないし、わからないから…、貴方の言葉を、信じます。…ですが、もしも。もしも、そう、何か問題があれば、水木さんに直接言います。…それでいいですか?」
「結構です」
「……告げ口、じゃないですよ…?」
「わかっていますよ」
水木の事を考え若林氏が動くと言うのならば、俺の意見はその上司に言うのが良いだろう。そう考えた俺の言葉を違えずに受け取ってくれたのか、「お手数をおかけしますが、宜しくお願いします」と軽く頭を下げられた。……だから、こういうのがちょっと退いてしまうトコなのだが…。俺を二十歳のガキだと認識していたのならば、こんな風に下手には出ないだろう。
しかし、これはもう、仕方がないのかもしれない。若林氏が水木に仕えるのを止めるか、水木が俺を必要とするのを止めるかまでは、こうなのだろう。この人にとって、俺が「上司の客人」以外になるまでは、何を言っても変わらないのだろう。もしもこの先関係を続けたとしても、若林氏は今でも確かに柔らかいが、戸川さんのようなフレンドリーさはどんなに馴れ合おうが見せては来ない気がする。
冷めたコーヒーを飲み干しながら、俺はこの人はちょっと芸能人っぽいなと、何となく思った。笑うそれは嘘ではなく好感が持て、優しい雰囲気に人となりを知った気になるが。実際にはブラウン管の中のそれしか知らず、プライベートな顔は何ひとつ見えはしない。そんな感じに、若林氏が俺に見せるのは、仕事中の顔だけなのだと俺は視線を向ける。ここにいるのは、若林某ではなく、水木の部下なのだ。
そこに、水木や戸川さんとの違いが、何となく見えるような気がした。この人は、あの二人と違い、俺個人を見てはいないのかもしれない。俺自身に関心がないのかもしれない。ならば、もしも水木が間に居なければ、この人はどんな顔を俺に見せるのだろう。
笑みを象る口に、柔らかそうな目許とはアンバランスな、強い眼。ヤクザとか何だとかではなく。働く男は、大概がこんなものなのだろうか。芸能人ではなくとも、己の役割を全うする為に、上手い演技を披露するものなのだろうか。
仕事をするという事は、そう言う事なのかもしれない。
「何か?」
「いえ…。あの、御馳走さまでした。それで…話は他にもあるんですよね…?」
「ええ。まず、守って頂きたい事ですが――」
そうして、漸くメインのこの部屋での生活についての話になり、幾つかの注意を俺は受けた。だが、賄いのように反対するものはなく、住まわせて貰う身としては一も二もなく頷くしかない、当然と言えば当然な約束事ばかりだった。水木との付き合いは口外しないだとか、誰もここへは招かないだとか。水木にも言われた、電話もインターフォンも受けない、などというのもあった。要するに、ここで厄介になるのは「秘密」という訳だ。
「危険だからというのではなく、危険にならない為の、単なる予防です。煩く言われると不安になるかもしれませんが、大丈夫です。神経質になる必要はありません」
ここのセキュリティは万全ですからと、俺を廊下へ促しながら若林氏は言う。安全ではなく安心を買っているのだと言っていた戸川さんの言葉が、実感を伴ってわかるような気がした。確かに、これだけの部屋に住んでいて、あれやこれやの危機を考えるのは無粋と言うものだろう。でも、だからって。ヤクザの部屋にお世話になり始めたばかりの一般人が、はいそうですかと、直ぐに安心し羽を伸ばすわけはないのだが。…ってか。俺は何日世話になるつもりだよ。こんな説明を受けて、居着くつもりなのか?と自分に突っ込みながら考えるうちに、俺は玄関脇の部屋へと通された。そして。
「千束さんの部屋です」
「…はい?」
そう紹介されたフローリング張りの洋間には、一通りのものが揃っていた。クローゼットに、空の本棚。シンプルだが洒落たデザインデスクには、照明と小さな絵画が載っている。部屋の中央には二畳程の絨毯が敷かれており、ソファにもなるような大きなクッションが二つとガラスのローテーブル。チェストの上にはオーディオと、薄型のテレビまである。学生のワンルームのような整いようだ。だが、物はあっても閑散とさえしているような空気には、人の匂いは皆無だった。俺の為に態々空けられたのではなく、もとから使っていなかった部屋なのだろう。
しかし、そうなるとこの家具は、まさか…?
「いかがですか?」
「……いかがもなにも…俺の部屋って、言われても…」
先程の言い合いの手前、要りませんとは流石に即答出来ない。けれど、心は確実に、ドン引きしている。俺の、部屋。俺の部屋。……あの男は次に会った時、俺に住民票でも移せと吐かすのではないだろうか。恐ろしい…。
「そうですね。確かにこの部屋だけではなく、他にも好き勝手に使って頂いて結構です。ですから、まぁ、勉強部屋としてどうぞ」
「…………」
……いや、そういう意味ではないのだが。…何てボケ方をするんだ若林。恨めしい。
あまりにも自然な流れに、何をどう突っ込めば良いのかわからず、俺はもう一度ゆっくりと中の様子を眺めた。広さは八畳といったところか。玄関があれば、ここだけで充分住んでいけるだろう。水周りがなくとも学生向けの1Kマンションなどよりも豪華な勉強部屋は、そう認識する方が断然まともだ。成り行きでちょっと手を借りただけの居候に与えられる部屋ではない。
あの、俺はリビングで充分なんですが?
それとも、何らかの緊急時にはここに篭らねばならないから、必要なのだとか…?
実家の自室以上に綺麗な、受け渡されたばかりの「俺の部屋」を見回し、何とも言いがたい理不尽さを飲み干す。ここを俺にどう使えと言うのか、水木め…。
「必要なものがあれば、遠慮せずにどうぞ。ただ、先程も言いましたが。ご自分で購入の際には、こちらに直接品物を届けるような事は絶対にしないで下さい。通販などする場合は、別の住所を用意しますので、一声かけて下さい」
本気で俺が何かを仕出かすと心配している訳ではないのだろうが、若林氏は何度もその点を念押しする。俺とて馬鹿ではないので、ヤクザの隠れ家をばらす気はないし、自分のこんな状況を誰かに教えるつもりもない。だが、こう何度も言われると、逆に気になる怖くなる、だ。そんなに俺がここに住んでいるのが世間に知れるのは危ないのか…?ヤバイのか? だけど、既に戸川さんや若林氏以外にも、マンションの住人や従業員にはバレているのだろうに…何故?
何故と疑問を浮かべても、返る答えは決まっており、口に出すのもバカらしい。そんなのは、水木がヤクザだからだろう。それしかない。それ以外にあったら、問題だ。
けれども、しかし。そのヤクザにもピンからキリで、色々あるという訳で。
「……あの、ちょっと良いですか?」
「何でしょう?」
「水木さんって、何者なんですか…?」
「何者とは?」
「…偉い人、なんですか?」
「……」
俺のその問いに、若林氏は無言で真っ直ぐと視線を向けてきた。複雑そうな表情を眺め返し、「…俺は全然、そちらの世界はわからないんだけど……忙しそうだし、こんなトコに住んでいるし…」と、言い訳のような理由を口にする。
もしかしたら、探るのは…マズかったかもしれない。だが、訊かずにいるのも、不安を呷る。けれど、答えによっては、知る方が不安になる事もある…カモ?
「あ、いえ。…あの、言えないんだったら、」
「言えない訳ではありません」
早まったかと気付き、もういいですと断りかけたが、それは最後まで伝えられずに遮られた。だが。
「偉いかどうかと聞かれれば、下っ端ではないと答えられます。しかし、そうですね。水木の事となると、何と言えば良いのか…直ぐには答えかねます」
「それは、どうして…?」
「千束さんは、どの程度水木の事をご存じですか?」
「えっ? えぇっと…」
どの程度と言われても。ご存じも何も、知っている事など極僅かだ。簡潔に言えば「可笑しなヤクザ」で終わり。だが、俺が知りたいのは水木自身の中身などではなく、彼の立場だ。どんなヤクザなのかだ。任侠世界の中での水木は、どこに立っている?世間に、どう位置付けられている…?
「……水木さんと戸川さんが自分達の事を、その…ヤクザものだと言っていたので、それはわかっています。…と言うか、それくらいしか俺は知りません。他は、義理の父親が組長さんで、その方の子供がリュウ君だという事くらいで…。水木さんがどんな立場の方なのかは、全然知りません」
「つまり、本人からは何も聞いていないんですね?」
「ええ、まあ…そうですね、…はい」
「でしたら、申し訳ありませんが、今の段階では私もお教えする事は出来ません」
「……。あの、それは…、俺が聞くのは駄目だと言う事ですか?それとも…」
知るだけでもヤバイとか?まさか、奴は犯罪者?指名手配犯?教えられた途端、隠匿や幇助の罪に問われてしまうのだとか…言わないよな? もし…警察に通報する義務が発生するのならば、俺は今すぐ逃げた方がいいんじゃないか…? なあ、オイ?
「…それとも、他に何か問題が…?」
「いえ、別にそういう訳ではありません。確かに吹聴して回るような仕事はしていませんが、それは関係ないです。ただ、水木がどのようにしたいのか私は知らないので、今は何も答えられないと言っているだけですよ。水木が貴方に教えても良いと考えているのがわかれば、どんな事でもお応えします。しかし、彼が貴方に何も教えたくはないと言えば、私もそれに従います。その時は、どんなに問われようとお教えできませんので、ご了承下さい」
「了承って、そんな…。水木さんがそうする可能性は高いんですか?」
「偽る事はないでしょうが、外聞の良いものばかりではありませんので、隠しておきたいと思っているかもしれません。ですが、実際に隠し通すような事はしないでしょう。水木はそのような性格ではありませんので、覚悟が決まれば何でも話すと思いますよ。勿論、聞いた千束さんが不利になるような危ない話はしないでしょうが」
「はあ…」
覚悟を決めねば話せられない、なんて。それってやっぱり、かなりの問題があるんじゃないだろうか? 知らずにここで暮らす事が、俺にとっては一番の不利にならないか?
突っ込めば突っ込むだけ墓穴を掘っていくような若林氏の言葉に、何を言えばいいのかわからずに俺は空気だけのような声を吐き出す。水木が言わない事を言えないのは、わかる。だが、だったら、それで終わってくれ。答えられませんとピシリと線を引いてくれ。探究心を煽るような言い方をしないで欲しい。気になって仕方がない。
「千束さん。戸川のように自らペラペラ話す事はしませんが、水木も結構お喋りなんですよ」
「は? え? お、お喋り…!?」
脈絡もなく落とされた意外な言葉に、声が引っくり返る。お喋りって、お喋りか?と、何故に俺が動揺するのかと思う程に驚く。それがあからさまに顔に出たのだろうか、若林氏は予想していたように口元だけで笑った。その表情に、俺をからかう嘘ではなく、本当なのだなと悟る。だが、戸川さんのように喋る水木――想像出来ない。
クサい台詞というか、困ってしまうような持論を、確かに展開していたが。あれはお喋りというのとは全然違うだろうと、俺はつい胸中で否定する。別に否定しなければならない要素があるわけではないのだが、何となく、余り認めたくはない。水木は言葉を紡ぐが、会話はしない。現に、俺とは噛み合わない話をしたり無視したりばかりなのだ。戸川さんのようだとは、到底思えない。信じられない。
だが、若林氏は言う。ならば、この人の前では。俺以外の者の前では。水木は普通の男なのだろうか…? 無視したり、可笑しな会話をしないのだろうか? 俺にだけあんなフザケタ対応をしていると言う事か?
落ち込むわけではないが、思わずそれを考え込みそうになった時。若林氏が口元に笑みを浮かべたまま言った。
「独特ではありますが、言う事は言いますし、言わなくて良い事まで言いますし」
「……いや、それはお喋りとはちょっと違うんじゃ…?」
オイコラ、そんなオチは要らないゾ…?
「まあ、そう言われると、そうかもしれませんが。戸川のように毒のある言葉は余り吐かないので、お喋りの相手としては適当なんです。私なんかは戸川よりも、水木との会話の方が弾みます。そうですね、水木はお喋りというよりも、話し好き、ですか」
…いや、それもちょっと違うと俺は思うのですが。けれど、戸川さんとよりも会話が弾むとなれば、相当だ。若林氏にとっては、それが事実なのだろう。俺には全くそうではないが、この人と水木の遣り取りを見たわけではないのだから、何とも言えない。
「しかし、まぁ、貴方の前では私とのようには行かないのかもしれませんね。何よりも、貴方と水木はまだ知り合ったばかりのようですし――あぁ、そうでした」
言葉を紡ぎながら俺を促し、若林氏は部屋を出た。俺がそれに続くと、再び先導するように廊下を進みかけ、直ぐに足を止める。
「中断して済みませんが、忘れそうなので先にそれを」
「…これが、何か?」
若林氏が振り向き指さしたのは、あのパグスリッパだった。当たり前だが、未だに行儀良く上がり框で伏せをしている。よく見れば、きちんと短い尻尾までついているようだ。凝っている。だが、これがどうした?
「それ、千束さん用に、戸川からです」
「ハイ?」
「良ければ使って下さい。嫌ならば、こちらに普通の物もありますので適当にどうぞ。水木は滅多にスリッパを履かないので、普段はこうしてしまっていますが、ご自由に引っ張り出して下さい。水木は面倒で履かないだけです、三十路を過ぎた男にこんな事でまで小言は言いたくはないので、私は放っていますが。千束さんはどうぞ、どれでもいいので履くようにして下さい。もしも、何か落ちていた時は怪我をしなくてすみますからね」
「はぁ…あ、どうも」
俺へのプレゼントだったのかと、並ぶワンコに若干困惑していると、物置場らしい小さな扉の中から若林氏がまともなスリッパを取り出してくれた。だが、お前達の主人は俺なのか…?と愛嬌のある顔を見つめていると裏切れなくなり、仕方がないかと出されたものを断る。一体、何がどう仕方がないになるのか、自分でもよくわからなくもあるが。戸川さんの贈り物は、余り無下には出来ない。雑に扱うと怖い事が起こりそうな気もする。
「折角ですし、コレを使わせて貰います。あの、戸川さんにお礼を言っておいて貰えますか?」
「わかりました、伝えておきましょう。では、話を戻しまして。千束さん」
「はい」
出したスリッパを自分で履き、若林氏は足を進めながら言った。
「こうして私と話すよりも。気になる事は、直接水木に訊いた方がいいです」
二匹の犬を従えた俺は、厚みのありすぎる履き心地に足下を確認していた視線を上げ、斜め後ろから男の顔をじっと見つめた。話がわかるのは、水木よりも断然この人だと俺は思うのだが、それは一体どういう意味なのか。水木に聞いて、答えが得られると…?
「直接、ですか…」
「ええ」
「…済みません、何か色々訊いて。ご迷惑でしたよね…」
回りくどく自分に訊ねてくるなと言われたのだと思い謝罪すると、そうではないと振り返り軽く笑われた。その笑いは少し、バカだなと、ガキだなと言っているような類いのもので。オヤジっぽいぞと、面白くなくてついそう思ってしまう。そして、気付く。
もしかしたら、思う以上にこの人は年を取っているのかもしれない。四十を超えているのだとしたら、二十歳の俺にとっては兄ではなく、父親と言えるような人物だ。ふとそう思い、何だかどう対応すればいいのか少し判らなくなった。若林氏にとって息子のような年の俺は、どんなものなのだろう。馬鹿な事を言ったり、愚かであったりしても、許せる範囲内のガキなのだろうか…?
「無口とお思いかもしれませんが普通に話しますので、本人を相手にさせる方が早いと言う事です。ああ言う者なので敬遠してしまうのかもしれませんが、水木はいい加減な対応はしない男ですよ。必要だと判断すれば、隠さず話します、絶対に。それこそ、例え躊躇っていても貴方が強請れば、言える事は素直に何でも話すでしょう」
「はぁ…」
何だ、それは。強請るって、俺が水木に? …意味がわからない。
だが、似たような事を前に戸川さんにも言われた気がすると、そう考えかけた俺に、手近なドアを開け若林氏は他の部屋の紹介を始めた。俺の勉強部屋だというその奥に、書斎と客室。玄関に戻り通り過ぎたところに、物置場のような小さい部屋。その向こうが、浴室にトイレ。廊下を挟んだ向かいに、衣装部屋と寝室。そして、リビングにダイニングキッチン。おまけのように、奥には収納部屋。
一体、どれだけ活用されているのか。中身が左程ないガランとばかりしている空間に、俺は早々に考える事を放棄する。部屋が余っているだとかの感ではない。これで住んでいるのかと呆れたくなる程のものだ。
「…広いですね」
どれくらいの頻度で、この別宅を使っているのかは知らないが。一人暮らしでは有り得ない部屋数と、高級マンションには有り得ない簡素な扱い。宝の持ち腐れと言うのか、豚に真珠、猫に小判か。水木の懐具合を考える訳ではなく、ただ単純に、勿体ないと思う。贅沢などではなく、これは単なる無駄でしかない気がする。
「物が少ないので、そう感じるだけです。部屋数は多くとも、ひと部屋自体の広さはそう大きくはないですからね」
「ハァ…」
確かに、まあ、そうなのかもしれないが。これはやはり、広すぎだろう。ちゃんとした家庭と言える家があるのだろうに、何もこんな意味のなさそうな別宅を持たなくても…。そう思い、それとも以前は普通にここで暮らしている誰かがいたのだろうかと考える。愛人が居無くなった部屋だとしたら、水木が女に逃げられたのだとしたら、ちょっと笑えるのかもしれない。…いや、実際にはそこまで根性は曲がっていないので、俺は笑わないのだが。
そもそも、それよりも。ただの独身時代の名残だという方が、何だか水木らしく、俺としてはそちらに一票を入れようかと思う。だが、それでも頭の中でくらいは、俺がヤツで遊んでやりたいというものであり、女絡みだと勝手に思い呆れてやる。顔は良くとも、あの性格だ。まともな女性は、ついては行けないはず。愛想を尽かされて当然であり、同情の余地はないだろう。勝手な想像。だが、強ちそう外れているものではないのかもしれない。
関係のない俺にまでこんな事を思われている水木とは、一体どういう奴なのか。相も変わらずその素性に不安を覚えもするが、余り使われていない感じの部屋は、俺に幾許かの安心を与えもする。居座る理由にはならないが。家主の帰りは少ないようだし、部屋はまだ余っているくらいだし。自分は静かにしている限り邪魔にはならないのかもしれないと思うと、都合良くもあるのだが気分が楽になる。次の愛人がここに住むまでは、俺は追い払われないのかもしれない。
「……俺、本当にここに居てもいいんですか…?」
まるで幼子がアレなあに?と、大人にとっては他愛ない事に興味を持ち首を傾げるように。純粋な気持ちで、俺は気付けば無意識の内に口からそう零していた。聞き取った若林氏が、リビングのドアに手を掛けたまま振り返る。
「何か問題が?」
「いえ……」
逆に問い返され、一気に焦りが浮かんだ。居てもいいのだとの言葉を強請ったような自分を悟られたくはなく、別の言葉を慌てて吐き出す。
「…あの、このまま慣れていいのかなぁ、なんて…」
駄目だ迷惑だ、なんて。今の段階でこの人が言う訳がないのに、深く考えず自分が漏らしてしまった言葉に、恥ずかしくなり声が詰まってしまう。だから、俺は一体何を言って欲しいんだ、言わせたいんだ。バカだなと己の愚かさに耐えられず視線を逸らしたが、若林氏は俺のそれを別の戸惑いだと思ったのか、「大丈夫です」と真面目な声できっぱり言った。
「貴方に危険が及ぶ事はありません。安心してお過ごし下さい」
「……はい」
強い声に、そうではないと誤解も解かずに、つい返事をしてしまう。俺はただ、二十歳を過ぎた男が他人に迷惑をかけていいのかと。こうして甘え続けようとしていいのかと。そういう意味でこの待遇に浸かってしまってもいいのかと言葉を選んだのだが。どうやら、若林氏は俺が水木の実態を垣間見て不安を抱いたのだと思ったらしい。本当はもっとずるく、ただ肯定されたがっていただけだというのに。なんて、お人好しなのか。それとも、俺のそんな全てをわかっていて、この人は見て見ぬ振りをしているのだろうか…?
だったら、この上なく悪質だろう。しかし、俺にはそれを見極める力はない。
「水木は貴方をきちんと守ります。信じて下さい」
「……」
正直に言えば、確かにこの部屋もこの対応も、ビビってしまう要素ではある。しかし、初めから水木はヤクザだとはわかっていた事だし、今見せられたのはあくまでもその世界ではなく生活水準の違いであるので、心配されているような畏れは俺の中には余りない。けれど、いい機会だと言う訳ではないが、今なら言えると。こうして世話になっていては何度言っても理解されないのかもしれな言葉を、俺は懲りずに紡いだ。
「……あの、信じてと言われましても…ホント俺はよく水木さんの事を知らないんです。何か、気付けばこうなっていた感じであって、別に、仲良くなった訳でも何でもなくて……」
「ならば、これから知ってやって下さい。宜しくお願いします」
貴方がそうすれば彼は喜びますからと、若林氏は目を細めた。水木といい、戸川さんといい、この人といい。何だって恥ずかしい事をポンポン言えるのか、言ってくるのか。喜ぶって、なんだ。そもそも、第一、守るだなんて……それではまるで水木が俺を大事にしているみたいじゃないか。余り可笑しな事は言わないでくれと、慣れない言葉に照れてしまい逃げを打ったところに、ガツンと若林氏の微笑みを喰らい何も言い返せなくなってしまう。知ってやってと言われても…。知りたくないと毛嫌いする訳ではないが、こんな風に面と向かって請うのは、勘弁して欲しい。
第三者から水木の気持ちを匂わされるのは、苦手だ嫌いだ、居心地が悪い。気恥ずかしく、尻が痒く、砂を吐きそうな感覚でもある。だが。二日前では確実に、そんな事は言うなよ!止めてくれ気持ちが悪い!と顔を顰めていただろうに。今は、慣れたわけではないが、それは嫌悪の対象にはならず、ただただどうすれば良いのか戸惑い対応が判らなくなるだけで…。……困る。非常に、困る。自分を何だと思っているんだと、俺はさっき若林氏に詰め寄ってしまったが。俺自身がこの部屋の中で自分をどう位置付ければ良いのか、わからない。何故、俺は嫌がらないんだ…?
昨日水木も否定したように、俺はペットなんかじゃない。愛人とも違う。彼はそこまでは求めないと、妥協すると言ったのだ。ならば俺が勝手に、その方が役得しそうだと計算し、それらしく振る舞うのは卑怯だろう。振りはしない、したくない。だが、だったら、俺は何だ?何になる? 友人知人?…有り得ない。ならば、パトロン?…馬鹿らしい。一時の庇護を受けたとしても、俺には自分を委ねる気は更々ない。ならば、与えられたからと言って態度を変えていいのか? 良くないだろう。
それなのに、こんな事をしている俺は、だから一体何なんだろうかと、己の状況に深く溜息を落としかけた時。若林氏は俺の沈黙を、未だに不安を抱えてのものだとでも思ったのか、先の話題のフォローをしてきた。
「その気になれば、今はインターネットで簡単に調べられますが。ああいう場所には真実などあってないようなものです。世間の片隅の評価は伺えるかもしれませんが、私は貴方には本物の水木を見て頂きたい」
「……」
…………はぁ?いきなり何だ?ネット? インターネットで水木がわかるって…?
「どういう意味です…?」
「水木と話してみてください。そうすれば、貴方もわかると思います」
若林氏は俺の問いを、水木との関係だと思いそう助言してきたが。本物でも偽物でも、ンなものはどうでもいい。今はそれよりも、ネットだ。俺と水木がわかりあえるかどうかより、情報社会の現状が気になる。水木の正体がそこにあるのか、オイ…?
「あ、あの、ネットって…!」
リビングの中に消える背中に向かい声を上げると、そのまま数歩進んだ若林氏が、ドア枠の中に顔だけを戻して来た。
「はい?」
軽くだがのけ反ったせいで、上着の裾が捲れる。現れたウエストの捻り具合が、何だかちょっと、滑稽だ。俺は慌ててドアをくぐり、若林氏の無理な体勢を直す為、横に並んだ…のだが。
……急いで気付いたが、このスリッパは早い動きはし難い。二匹の顔が邪魔だ。戸川さん、何故にこんな物を下さったのでしょうか。これから季節は暑くなるというのに、適さないでしょう――っていうのは、後だ、後。パグよりも、今は水木だ。小型犬ではなく、大型犬の方だ。
俺は乱れた足下を気にしながらも、若林氏に視線を置き尋ねた。厚いスリッパのお陰でか、目の高さがぴったり同じだ。
「インターネットで調べるって、どうやって…? 水木さんって、有名なんですか?」
「無名ではないですね」
……どうしてこの人は、微妙な言い方をするのだろうか。癖なのか?
「それよりも」
……っで。早くも話題を変えるのか、おい…?
「千束さんは、自分や知人の名前を検索にかけて遊んだ事はありませんか?」
「は?」
「インターネットの検索機能はなかなか面白いですから、そういった遊びをしている者は沢山いるでしょう?」
「……さあ、どうでしょう。俺はそんな事はしないので、わかりません」
何を言うのかと、誰からの情報だと若干呆れながら簡潔に答えると、若林氏は苦笑した。その認識が間違っているんじゃないのか?と、どちらかと言えば笑いたいのはこちらの方だろう。芸能人や著名人なら兎も角、パンピーな学生が自分の名をネット検索にかけ、何をヒットさせるというのか。小学生でもしなさそうな遊びだ、馬鹿らしい。
だが、そういう馬鹿らしい事をするのが若者か。幼稚園児並の愚かさを発揮するのが、学生か。些細な理由で単純に人を殺す成人も居るくらいだ。意味のない遊びをしていると思われても、仕方がないのかもしれない。
「そうですか、それは賢明です。出来ましたら、以後もその信念を曲げずにお願いします」
「…いや、あの。信念って、何ですかそれ。誤魔化さないで下さい」
「そんなつもりはありません。ただ、言いましたように、インターネットの検索はいい加減なものもありますから。見極める情報がない段階で、その手段はえらばないで頂きたいのです。手軽でしょうが、どうぞそんな事はせずに、水木自身にお尋ね下さい」
「…あの、それって、ですね。確認ですが、その…つまり。水木さんの情報がネットで流されていると、そういう事ですよね?検索で引っ掛かるって事は、誰でもわかるって事ですね…?」
「簡単に言えば、まあそうですね。『水木瑛慈』と打ち込めば、珍しい名前ではないので全く関係のないものも出てくるでしょうが、うちの水木がヒットするのも確かです」
「…なんで?」
「幾つかのページは、私共も把握していますので」
「…………」
…そうじゃない。俺はサイトの存在有無ではなく、情報がネットで流れているのがどうしてなのかを訊いているのだ。何故、ヤクザがそんなところに名前を垂れ流している?プロフィールサイトでも作っているのか、日記で語られているのか、なあ? 有り得ないだろ…?
ヤクザが秘密結社のように地下活動だけをして潜伏しているのだとは俺も思ってはいないが。オープンなのもおかしいだろう、どうかと思う。設立会社のホームページに名前があったら、笑うぞ、退くぞ。アホじゃないかと、水木に面と向かっていってやるぞ。何が起こるかわからない世の中で、何でも有りなヤクザだとしても、それでもやはりその神経は疑う。何を、世間に公表しているんだか…。
若林氏はどうも、俺に調べるなと説いているようだが、俺としては思いも付かなかった事を教えられ、そんな事はどうでもよくなる。ネットなど、考えもしなかった。そんな俺に情報を与えたのだから、これは若林氏の失態になるのだろうか。だったら、もしもその上で俺がインターネットで水木の検索をかけたら、どうなる? 若林氏のミスなのか、俺の暴走なのか。どう捉えられるのだろう。
「……もしも俺が調べたら、どうなるんですか…?」
俺が調べたならば、それはバレるのだろうか。バレたら誰が怒られるのだろうか。もしも、それが俺ならば、どんな仕置をされるのだろうか。それよりも、ネット上には警察に行く方が良い事実が載っていたりするのだろうか。見れば後悔するものがあるのだろうか。水木が何者なのか、俺は知ったら何を得られるのだろう?
幾分か緊張を覚えながら、俺は首を傾げてみる。胸に湧き上がるのは、探究心でも知識欲でもなく、好奇心だ。本当に、それくらいに若林氏の話は寝耳に水で、俺の胸は高揚する。そこに何らかの可能性があるような気がして、居ても立っても居られなくなる。今すぐ検索して見たいと思う。
だが、若林氏はそんな俺を暫し見つめ、「別に、何も」と拍子抜けするような答えを返してきた。
「何もって…何もならないって事ですか?」
「ならないと言うかなんと言うか…まあ、貴方の知識が増えるのは確かでしょうが。こちらとしては、サイトの内容が全て正しいとは限らない、というのを頭に入れておいて下されば、何も問題はありませんという意味ですね」
「…………」
言われた言葉を、考える。若林氏が何故そんな言葉を紡いだのかを、考える。
つまり、それは。俺が何か情報を得た時、水木に真偽を確かめるだろうと若林氏は踏んでいるという事か。だから、問題はないわけだ…?
それくらいに、検索結果は厄介なものであるのか、それともきっかけになる程度の些細なものであるのか。どちらかはわからないが、最終的には水木に行き着かねばならないと言う事だ。先程から何度も言われているように、結局は水木に訊くしかないのだ。それが、一番なのだ。
「…そうなんだ」
なんだかちょっと、ガッカリする。肩を落とすほどの事でもないのだが、微妙に沈む。調べても問題ないのならば、調べればいいのだが。先程の熱意は綺麗サッパリ消えていた。逆に、下手に触れる方が惑わされそうだと、気軽に検索はかけられない心境になってくる。
もしもネットに、檻の中に入っていたと記されていたら、俺はどうすると言うのか。誰かの恨みに出会ったら、どうすると言うのか。また、反対に、認めずにはいられない良い一面を見つけてしまったら、俺は一体どうする?
相手がヤクザであっても。気に入らない相手であっても。世話になっている恩人であっても。生きている人物を、身近な知り合いを調べるには、それ相応の覚悟が必要なのかもしれない。
2006/09/25