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「まあ、余り難しく考えずにどうぞ」
「……」
 眉を寄せる俺に、若林氏はサラリと言う。どうもこうも、やっぱりここは、この人に水木の正体をソフトに教えて貰うのが無難に思えるのだが。キッチンに入り、中の物は適当に食べてくれれば良いと、水木は余り食べないので処分する事が多いからと、冷蔵庫を開けて説明をする若林氏を見ながら、これは大人のズルさだなと思う。だが、口にしても流されてしまいそうで、詰め寄る事までは出来ない。これが戸川さんならば、適当な事を言って俺に詮索しないようにさせるのだろう。それか、あっさり暴露し、大した事はないとフォローをしまくるか、放っておくか。どちらかだ。どちらにしても、俺の反応で遊ぶはず。
 そして。
 そして、若林氏は水木に訊けと言ったが、その水木はきっと得意の沈黙で終わるのだろう。三人の中では一番、役に立たなさそうだ。俺の言葉を解釈し、適した答えを返す気は初めからなさそうで、最早挑む気にもならない。
「あぁ、そうでした千束さん。水木に渡されたキー、頂けますか?」
「あ、はい」
 言われるままに差し出すと、代わりに別のカードキーを渡された。
「千束さんの分です。初めて使った時に暗証番号を設定するようになっています。基本的な操作はお分かりですよね」
「はい。多分…大丈夫です」
「では、もしもわからない場合は、管理室を呼び出して下さい。ここのスタッフは教育が行き届いていますので、心配は要りません」
 へぇ、そうですか。もしかして、貴方が躾たんですかね?と。そう聞いてみたくなるような言葉に、どんな顔をすれば良いのかわからず、俺は曖昧な笑みを浮かべ頷いておく。秘密にしたい俺の存在は、けれどもやはり管理人にはバレたとしても良いようで。曖昧すぎて、その線引きがいまいちわからない。俺は別に知人達に話す気はないので、勝手にやってくれていいのだが、何とも微妙だ。
「あと、カードキーには個々にナンバーがあるのですが、参考までに申しておきますと。今返して頂いた水木のものは一番で、私のものは三番です」
 そう言い、若林氏は新たにスーツから取り出した銀色のカードの隅を、俺に見えるように指し示した。そこには確かに、「003」の番号が刻印されている。自分の手の中にあるものを確かめると「005」の文字。この鍵が、俺の為に今日新たに用意されたものならば、これが最新だと言う事で。
「この部屋の鍵は、全部で五枚あるって事ですか?」
 一人暮らしなんだよな? まるで家族並だなと少し驚きながら尋ねると、若林氏は頷きながら付け加えた。
「ええ、そうです。戸川が四番で、千束さんは五番」
「二番は?」
「ありますよ。ですが、千束さんの知らない方です。それに、使われる事もないでしょうから、お気になさらないで下さい」
「……あ、そうですか。へぇ…」
 何も考えず訊いてしまい、その返答で漸く、自分がでしゃばった事を悟る。気にしないで下さいではなく、これは興味を持つなという命令なのかもしれないなと受け取り、俺はただ訊いてみただけだからと気のない振りで流しておく事にした。だが、頭ではオンナなんだろうなと憶測してしまう。奥方に別宅の鍵を渡すバカはいないだろう、愛人で決まりだ。多分きっと、前にここで暮らしていた人が持って出たのだろう。だが、それって余り気持ちの良いものじゃないよな? 取り返すか、鍵自体を取り替えるか。普通はそうしないか?
 そう思い眉を寄せ掛けたが、家主はそういう事に気を使いそうな人物ではないよなと、何処かで存在しているのだろう鍵の理由に俺は妙に納得する。何にしろ、もう使われないのなら何だって構わないというものだ。唐突に知らない相手の襲撃を受ける事がないのならば、「002」が何者なのか知っておく必要は全く無い。と言うか、別段知りたくもない。
「どのキーを使い何時に入退室したかは、24時間以内であれば操作パネルで確認出来ます。参考程度のものですが、鉢合わせになりたくない時は、注意して見てみて下さい。私や戸川の鍵は別の者が使う事も稀にありますが、水木のものは彼専用ですので」
「はぁ……はい」
 ……って。ちょっと待て!
 サラリと言われた言葉に思わず頷いてしまったが、俺は直ぐに胸中で激しく突っ込みを入れた。若林氏の言葉を頭で復唱し、喉の奥で唸る。
 それは一体どう言う意味で言っているのか。水木が部屋に居そうだとわかりながら避けるのは許されると言う事か? それとも、若林さんや戸川さんだと安心していたら、見知らぬ誰かに出会うかもと言いたいだけか? ただの説明なのか、裏に何らかの意図があるのか。戸川さんと違いあっさりし過ぎているので、圧倒的に経験不足な俺には若林氏の真意はわかり難い。難しすぎる。お手上げだ。
 俺の戸惑いなど気にもかけずに他の説明へと移る彼を捕まえる術は、俺にはない。どこに何の意図があろうと、もうどうでもいい。好きにしてくれ。嵐の中では、下手に動かない方が安全だ。
 一階のエントランスと玄関前ではインターフォンの音が違うだとか、出掛ける時は前もってエレベーターを部屋の中から呼んでおく方が楽だとか、箱の中で操作しなければ一階でしかドアは開かないだとか。玄関の電気はオートだとか、風呂は浄化機能もついているので、一人ならば湯を張ったまま数日は大丈夫だとか、何らかの緊急時は管理室を呼ぶのが一番早いだとか。居候するのに便利そうな使い勝手を幾つか教えてくれた若林さんは、「遅くまでお邪魔しました、お休みなさい」とリビングで挨拶を済ませ帰って行った。嵐が過ぎ去った後に残るのは、脱け殻のようになった俺のみ。

「…………」
 ……色々、驚いた事も言いたい事もあるが。
 まずは、戸川さん。貴方に物申したい。
 若林氏の今の説明では、鍵がなくとも、暗証番号を知らなくとも、この部屋から簡単に出て行けるらしいではないか。帰るのは、ボタンをひとつ押すだけで可能なんじゃないか、オイ。考えてみれば、いちいち来客をエレベーターまで見送らねばならないなんて手間だ。あって当たり前な機能だろう。ならば、気付かなかった俺が悪いのか? …いや、そうじゃない。嘘をつき俺をからかった彼が悪いのだ。何が管理人を呼ぶだ、大事のように言って俺の足を止めやがって。畜生…!
 何て間抜けなのだろう、俺は。悔しくて悔しくて堪らない。戸川さん、これって絶対に苛めだぞ!と俺は呻きながら俯き、片手で顔を覆い溜息を吐いた。もしも昨日、水木が帰宅する前に出て行っていたならば…。そう考えずにはいられない。あの時水木に捕まっていなければ、多分俺はこんなところには居なかったはずだ。
 しかし、もしそうなっていたら俺は今どこにいるのだろうかと想像しようとしてみるが、けれども何も浮かんではこない。叔母のところで腐っていたのか、実家で狂っていたのか、知らないどこかへ逃げ出していたのか。何もわからない。そして。
 ここに居る事もまたそれと同じだなと、現実だが実感が伴っていない今に、力が抜ける。焦ったり慌てたり振り回されたりしている自分は、まるで糸で操られている道化のように虚しい、侘しい。それに加え、愚かだ。
「……バカだ…」
 腕を下ろし明るくなった視界に二匹の犬を入れ、俺はお前達よりも自分がわかっていないと愚痴る。ピエロの役目すらこなせそうにない、何も知らずにただ舞台に乗せられた子供だ。泣いても良いのかどうかすらわからず、目を瞬たかせ、そのままそこに立ち尽くすしか出来ない無能者だ。
 どうしたかっただとか、どうするべきだったとかではなく。そんな事は何も関係なしに、俺がここへきたのは水木が俺を呼んだからだと、俺を呼んだのが彼だけだったからだと、ただそう思う。色々考え迷い悩み、そして選んだが。ホントは何も考えてはいなくて、何ひとつ理解してはいなくて、自分は波に乗っただけなのかもしれない。多分、水木ではなく。相手が戸川さんや若林氏でも、俺は同じ事をしたのかもしれない。犬のように、そこに誰が立っていようと、呼ばれた方へと向かったのかもしれない。
 もしも、俺を呼んだのが水木ではなく、父ならば。あんな風に、頭ごなしに決め付け、首根っこを押さえようとするのではなく。「大和」と、静かに俺の名を父が呼んでいたのならば。俺は、今、ここには居なかったのだろう。きっと父の前で、同じ様にもがいていた。
「……何処でも同じなら、ここにいる意味がないじゃん」
 負け惜しみのように、呟く。だが、それこそ言っても意味がない。
 水木、水木と若林氏は言ったが。彼が思っている程に、俺は水木を見てはいない。
 ヤクザ男だと意識するのが嫌で、水木自身を、その中身を見ていたが。それでも、俺が対峙していたのは33歳のヤクザに変わりはないのだ。どうすれば、そんな男をまともに見れるだろう。ヒヨッ子の俺には無理な話だ。ヤクザでも何でも、水木は若林氏が言ったような、愛嬌のある男ではない。知人でも友人でも、ましてや愛人でもなく、俺にとっては水木は水木であり、他の何かではない。たとえ若林氏に何を吹き込まれようと、戸川さんに教えられようと。彼等が見ている水木を俺が知ったとしても、それは同じだろう。
 俺にとっては、水木は父の変わりでも、誰かの変わりでもないが。そこにあるべき必要な存在でもない。代えが効くような人種ではないが、そもそもそこに居るべき者ではないのだ。だから。
 だから――と考えかけ、ふと糸が切れたように思考が唐突に止まった。今正に飛び出ようとしていた言葉が、一瞬のうちで消滅してしまった不快感に、意識が追いつかない。暫し空白を漂い、俺は唐突に身体の中から消えた何かの喪失感を握り潰し、ゆっくりとソファに座り込んだ。何を考え形にしようとしていたのか、追及する気にはなれない。
 疲れたなと、長く深い息を吐きながら淡々とそう思った。思うと同時に、何も考えたくなくなった。欲求に従い、目を閉じる。
「…………」
 数十秒か、数分か。己の息遣いだけを感じていると、眠くなって来た。だが寝る訳にはいかない。
 重い瞼を抉じ開け、鞄を探り携帯電話を取り出す。
 時刻は、11時をまわっていた。と言う事は、若林氏との接触は一時間程だった事になる。だが、得た情報が沢山あったからか、緊張していたからか、もっと時間が掛かっていたように思えてならない。経過時間と疲労度合のバランスが、全然全く吊り合っていない。何だか、損をした気分になる。
 若林氏との対面は、突発的なものであったにしては、自分はよくやった方だと思う。だが、実際には何がなんだかわからずに終わってしまった感じで、全然頭に入っていない。処理出来ていない。そんな俺の状態に、あの人も気付いていただろう。しかし、指摘する事はしなかった。一体それは、どういう事なのだろう。俺の頭に諸注意を叩き込みたかったわけでも、追い出したかったわけでもなさそうだ。曖昧な接触。何をしに、若林氏は来たのだろう。
 顔を合わせ適当に説明をして帰って行った彼が何をしたかったのか、去っても尚わからない。一緒に戸川さんも来ていたようだが、まさかスリッパを持ってきただけでもあるまいに。だが、若林氏が話した内容は、電話でも事足りるものだ。必ず今夜でなければならないものでもなかった。と、言うか。二日も部屋を拝借した俺に、今更な説明。ならば…俺はもしかして。何かも、何故かもわからないが、試されたのか…?観察されたのだろうか?
 二人は俺を査定しに来たのか、判断しに来たのか。若林氏が帰ったと言う事は、俺がここに住む事を認めたのか。それとも今から戸川さんと相談するのか、水木に説教をたれるのか。全くもって何もわからない、何も見えない。意味不明、予測不可能だ。
「……何だってんだよ、全く…」
 一人嘆くように呟き、俺はソファに上半身を横たえた。心地良い固さであって身が沈む事はないが、気分はどんどん止まる事無く沈んでいく。低い位置から、そのままの姿勢で見える部屋の一部をただ眺める。ローテーブル、ボード、テレビ。ラック、チェスト、照明ランプ。昨日見た黄色の椅子が、いつの間にか窓際に移動していた。今朝はどこに置かれていただろうか。椅子に乗る鉢を見ながら考えるが、思い出せない。
 体を起こし近付くと、植木鉢の中身がサボテンであるのがわかった。俺の手なら、ギリギリ片手で上から持てるだろう程度の大きさの鉢に、小さな子供の拳くらいの丸いサボテン。可愛すぎるこのインテリアは、戸川さんか若林氏かはわからないが、絶対に水木ではないだろう。彼のキャラじゃない。
「……リュウの椅子じゃなかったんだ」
 どうでもいいような他愛のない事実に、何故か酷く落胆している俺が居る。訳がわからない。
 ぼんやりと不貞腐れていても仕方がないので、寝室に向かい、私物を持ち出す。自室にと明け渡された部屋の床に、通学鞄と荷物を降ろす。
 水木だけが相手ならば、サヨナラと言うだけで良かった。だが。戸川さんは兎も角、若林氏と会い、こんな部屋を用意され、出て行き難い環境に追い込まれつつあるように感じるのは、錯覚ではないだろう。あったはずの逃げ場が、急に無くなってしまったような気がして、心許ない。
 昨夜、この部屋に戻った時と同様に、今夜もベッドは綺麗に整えられていた。俺が寝た形跡など伺えないそれは、戸川さんや若林氏の手によるものなのか。それとも専属の誰かが、家政婦などが出入りしているのか。考えながら足を向けた浴室もまた、同じく綺麗に片付いている。浴槽に新しい湯まで張られていては、最早溜息さえ出ない。
 清掃犯の正体はどうであれ、自分の後始末を知らぬ間にされている居心地の悪さに、不快感さえ浮かんでくる。相手は仕事なのかもしれないが、こういうのは気分が良くないと、俺は洗面台に凭れ天井を睨んだ。これは俺に対するものではない、水木に対してのものだ。そうわかっていても、それでも複雑で。当たり前だが、若林氏の申し出を断って良かったと心底思う。しかし、全てが終わりになる訳ではないのだろう。彼等は、水木の世話は変わらずにする筈だ。そして。
 世話は、水木にだけだと言いはしても。俺が居る分、清掃係の手間はやはり増えるのだろう。そして俺自身もまた、余裕がなくなるような気がする。何かする時は、後片付け込みでせねばならないのだ。洗濯機に数日の衣服を溜める事など絶対に出来ないなと、早くも息が詰まりそうな想像に、知らずに視線が下る。
 爪先の犬を見ながら、いっその事、俺が水木の世話役に立候補しようかと、バカな事を考え思わず笑ってしまった。食事の支度は出来ないけれど、洗濯も掃除も、風呂の準備も俺がするから。だから、必要以上に人を使わないで下さい――なんて。まさかじゃないが、そんな提案は世界がひっくり返っても出来はしないだろう。俺は一体何様なンだよと、自分で呆れ返り笑ってしまうというもので。少し本気で思っても、口には出来ない。したくもない。
 居候は、あくまでも居候。周りにどんなに煽てられようが、何をされようが、俺が水木に合わせねばならない。同じく、でしゃばってもならない。それが出来ないのなら出て行くべきなのであり、そのルールは絶対なのだ。当然、それは俺とて初めから重々と承知している。だが、出て行こうにも、それがし難い場合はどうすればいいのか。全てに耐えるか、諍う事をわかりながら強行突破を謀るか。それとも…。
「……ただ、諦めるか…」
 口から零れた呟きが、胸の奥を乾かせる。こんなところで虚しさを味わうならば、まだ両親の言う事を聞いていれば良かったのかもしれないと、つい思ってしまう。何だって、自分はヤクザとの付き合いで悩んでいるのか。おかしい。絶対にオカシイ。異常だ。
 こんなつもりではなかったのに、いつからか人生が狂いはじめている。しかも、今はヤクザだ。ヤクザに世話になっている。やっぱり俺は、来るところまで来てしまったんじゃないか? グレた訳ではないので、悪い事はしていないが。犯罪に手を染めた訳ではないが。それでも、ヤクザ。少しずつ転がりヤクザ稼業に就いてしまった訳ではなく、ただヤクザに頼っている自分はどうなのだろうか。一気に全てを飛び越え下まで落ちてしまった気分だと、俺は鏡に映る自分を眺め、指先で頬に触れてみた。指で肉を摘み、ひっぱる。疲れた顔は、当たり前だが学生にしか見えない。ヤクザと住んでいる奴には、全然見えない。
「…………。……まだ、住んではいないけど…」
 二晩寝たが、水木は居なかった。留守を預かったようなかたちであり、正確には一緒に暮らしてはいないんだと、自分の考えに意味の無い突っ込みを入れる。だが、意味は無くとも、その事実は今の俺には大きい拠り所だ。しかし、同時に墓穴でもある。水木が居たら、多分きっと直ぐに俺は音を上げ、早々に撤退していたのだろう。皮肉なものだ。
 このままだと、本当に俺はここに住むのかなと。水木と生活を共にしたりするのかなと、今更でしかないのだが想像して見るが、よく思い描けない。今、現時点で一杯一杯なのに、一緒に暮らすなど無理と言うものだ。これ以上何かを突込まれたら、間違いなく俺は壊れるだろう。粉々に、跡形も無く――なんて。そんな予感は覚えたくはないし、断言もしたくはない。だから。
 だから、その時はその時だと、鏡の横に立てられている歯ブラシを俺は口に咥え意識を切り替えた。服を脱ぎ洗濯機に放り込み、歯磨きをしながら浴室に入る。かけ湯をし、バスタブに浸かり、無心で手を動かす。口を注ぎ、湯から上がり、頭と身体を洗う。
 首の裏に熱いシャワーをかけながら、このまま時が止まればいいと、今時マンガでも描かれないような事をふと思う。どこにも進めないのなら、考える事も止めてしまいたい、と。今が永遠に、この空白が続けばいいと。そうだったならば、自分がどこに立つか、どんな状況かは何も関係ないのに…なんて。女々しくも、そんな事を願う。そして。
 今頃、もしかしたら草川も同じような事を思っているかもしれないなと。傷つけた小さな少女を思い出す。草川もまた俺との距離を計りかね、会わずに済ませたいと思っているのかもしれない。俺が水木に対して思うように、自分に都合の悪い現実を投げ飛ばしたいと考えているのかもしれない。
 だが、基本的に真面目な彼女は、誰かを避ける事は出来ないだろう。草川は、周りに避けられる痛みを知っている。多分、俺と草川は、そういうところが少しシンクロしているのかもしれない。感覚が似ている気がする。だから、彼女は俺を意識したのかもしれない。逃げないのだろう彼女と、逃げられないだけの俺とでは、雲泥の差があるのかもしれないが。
 俺も草川も外では構えて強気に明るく振る舞うタイプだが、中身は小心者なのだろう。何となく考え始めた事で、ド壺にはまり悩んでしまう。最終的に開き直る事で正当化し逃げてしまい、痛い目を見る。草川は、俺の様にそこまで愚かではないだろうが、多分同じように馬鹿だ。自分で勝手に一生懸命になり無茶をし、ある時プツリと糸が切れるような、危なっかしさがあるように思う。
 けれど、それもまた彼女の魅力なのだろう。女の子ならば、それでいいのだ。弱さは欠点になりはしない。けれど、俺は駄目だ。弱くては、駄目なのだ。
 それにしても爪が長いなと、流れる水とともに足を眺めながら、回転する思考とは別のところで思う。泡が流れきった身体にシャワーを当て続けながら、ふやけそうだなと喉だけで笑う。俺はひとつしか身体は無くて、頭も同じくひとつなのに。色んな事を同時に考えているようだ。だからこそ、思考するようには動けない自分が嫌になるのだろう。どんなに考えようと、身体は分裂しないのだから、ひとつの事しか出来ない。それは仕方がない事なのに、沢山の事を思い描く頭は納得出来ないのだ。
 シャワーを止め浴槽に浸かり、俺は意識する前に膝を抱え、身体を小さく丸めた。脚を胸に抱き、伸ばした両手で足の裏を掴むように押す。入浴中だというのに、爪先は冷たい。未だ緊張しているのか。頭上のライトを見上げ、息を吐く。今家主が帰ってきたら、俺はふやけるまでここに居続けるのかもしれない。一生、ココから出ないかもしれない。水木と接触する気力は皆無だ、この状態で会ったら死ぬかもしれない。軽口としてそう呟きかけ、冗談にはなりそうにない事態に気付き、再び続けて息を吐く。溜息を吐く度に、精気がなくなっていっているかのような錯覚に陥ってしまう。
 気持ちを切り替えねばと、足首からふくらはぎを擦りながら思ったのは、草川の事だった。膝の裏を押しながら、細かった腕を脳裏に描く。今の俺の頭は、両親の事から離れたら水木の事を考え、それを切ったら次は草川の事になるらしい。全てから逃れるなど出来る訳がないと、俺は考えない訳にはいかないのだなと、しみじみ実感する。俺が無の境地に到達する事はないのだろう。仏門に入っても、無理そうだ。意味が無くとも回転する頭は、まるで止まれば死んでしまうマグロのよう。
 忙しないなと、自分で思い、また新たな疲れを身体に感じる。己の騒がしさに嘆くなど、悪循環もいいところで、マヌケでしかないのだが。落ち込んだ時は、更に落ち込む事を考え沈み込んでいくように、疲れた時は何をしようと思い浮かべようと、疲れの増長に繋がるものなのだ。人間は、人生は、日常は、そういうものだ。事態がマイナスであるから、マイナスを呼ぶのであって、俺自身の存在がマイナスなわけではない。生きている限り、誰もがプラスであろう。態々、今ここで、このタイミングで、沈まねばならない必然などどこにもない。
 そうわかっていても、けれど、どんどんと引かれてゆき、マイナスが嵩むばかりでどうしようもない。
 腐りそうだ。
 いや、実際に、もう腐っているのだろ。

 草川と別れ講義に戻った後の2コマ目は、触らぬ神に何とやらと言った感じに、俺の周りは静かなものだった。俺自身、何かに集中していたくて、内職の出来る内容の授業だったので、2コマは原田から請負った独語の予習をしていた。だが、昼休み以降はそうではなかった。学食で本日始めて顔を合わせた名倉が、開口一番「ねぇ、千束は草川さんをフったの?」と悪気のない顔で問うてきたのを皮切りに、周りの連中も参加し好き勝手に騒ぎだした。
 何故にお前がモテるのかと誰かが言えば、顔はイケてるが中身は細かい煩い、気のつく奴だが意外と短気、面倒見はイイが口が悪い、と。ここが良いあそこが悪いと、俺についての議論を展開される始末で、止める気力も湧かないほどに辟易した。勝手に言ってろ、とキレ無かったのは、「草川さんはズルい、抜け駆けだよ」と名倉が話の腰を折ったからだ。彼が周りを唖然とさせるような事を言い出さなければ、俺は感じ悪く言葉を投げ捨て席を立っていただろう。だが、名倉には、素直に感謝する気にはなれない。理由はどうであれ、ただの遊びであっても男に告白をされるのは、気持ちの良いものではない。その手の冗談は、俺は嫌いだ。
『だったら千束、僕と付き合ってよ。いいよね、ネ? 僕の事キライじゃないでしょ?』
 例えどんなに可愛く言われても。それが事実だとしても。無理なものは無理であり、不可能は可能に変わりはしない。何を言い出すんだと呆れつつも、冗談に乗る程の余裕はなく俺が無言でいると、それまで散々俺をからかっていた周囲の連中が名倉のそれに乗った。ホント千束はもてるなァと、嫉妬交じりだった空気が嘲笑に変わる。勝手にしろではなく、いい加減にしてくれと、周囲を一掃したい衝動に俺はかられた。草川の事を本気で俺は悩み考えているというのに、それをネタに遊ばれるのは不快でしかない。その上コレだ、キレて当然だろう。
 俺の機嫌が悪くなる事に気付かず、ニコニコ顔のまま名倉は無邪気にも返事を促してきた。度が過ぎるそれに、徐々に嫌悪が湧き、再び爆発に向かう俺の怒りは、けれども再度停止をかけられる。遅れて現れた立原によって、名倉が沈黙の刑に処せられたからだ。後ろから羽交い絞めにされ口を塞がれ唸る彼の姿に、皆が馬鹿だと笑った。確かに馬鹿だ。だが、彼等の笑いの中に、明らかな安堵が混じっていた。きっと、引っ込みが吐かなかっただけで、俺の顔色の変化に名倉以外の者は気付いていたのだろう。
 ナニ告白をかましているんだ、お前が言うと冗談に聞こえない、自分のキャラを考えろ。立原は犬を躾るようにグイグイと名倉の口許を掴み頭を揺すった。草川に対抗してどうするんだ、ガキ。そう怒られた子供は、けれども拘束が解けた瞬間、「半分以上本気なのになぁ」と唇を突き出した。直ぐに、立原がその口を抓る。だが、そんなことで懲りる名倉ではなく、立原の手を剥がそうと必死になりながら、俺について明るく語った。あっけらかんと、恥ずかしい事を言ってくれた。
 名倉曰く、「千束と付き合うと、絶対に気分が良くなる」らしい。小言は多いだろうが、何だかんだ言いつつも面倒を見てくれるだろうし、恋人には弱いタイプで甘やかせてくれるはずだから、居心地はいいはずだとアホな想像を披露した。何を考えているのだろう。だが。「僕は千束の小言には負けないからメリットばかりだよ」、「恋人は千束みたいなのが理想だね」と。どこか妙に説得力のある理由には、唸るしかない。確かに、一見のほほんとしたタイプだが、実際にはなかなか根性の座った名倉であれば、大抵の人間の手綱を握る事は出来るだろう。事あるごとに名倉に対し負けを実感している俺としては、彼の理屈には納得するが、リアリティがあり過ぎるのが問題だ。想像出来るのだとしてもしたくはない類のもので、気分が悪い。
 ふざけた事を言ってんじゃないぞと怒鳴りたい気持ちを抑え、「名倉を相手にしたら、俺が振り回されるのがオチだな、疲れそうだ」と、肩を竦めて俺はその話を流した。それが精一杯だった。いつもならば、そのノリに乗って軽口を叩いただろうが。その時は、どんな言葉も暴言に繋げてしまいそうな予感に、それ以上の事をするのは無理だった。
 名倉は、絡みもせずに全てを放棄した俺に、何も言わなかった。そっか、と笑っただけだった。
 その彼が率先して道化を演じていたのだと俺が知ったのは、三コマ目に入ってからだ。立原と並んで受けたその授業は、頭に入らなかったのか、何をしていたのか全く記憶にない。ただ何となく、教壇でチョコマカと動く太ったオヤジを視界に入れつつも、意識は隣の男の上で保ち続けた。
 名倉は名倉なりに考えているんだろ。俺と同様に前を向いたままなのだろう立原にそう言われ、漸く彼のお陰で草川から話が外れ、そのまま繰り返される事なく終わった事に俺は気付いた。同時に俺個人からも話が離れ、結局は、最終的に皆が盛り上がり語っていたのは色恋についてだ。モテ期があるのだとか何だとか、高校生にも笑われるような話に花が咲いていた。自分を茶化す事で、名倉は俺を助けてくれたのだろう。それを理解し、立原も協力したのだろう。もしかしたら、他の面々も同様に、彼等は彼等なりに俺に気を使ってくれていたのかもしれない。草川の事も、俺が思い込んでいるのを察し、あえて茶化そうとしたのかもしれない。
 よく考えなくとも。まだ知り合って二ヶ月程だが、同期達の仲間意識はかなり強い。いや、仲間というか、人を思いやる心がちゃんと備わっている。教育学部の学生だけあり、何だかんだと言っても、誰もが面倒見の良い奴らだ。若いからだけではなく、フットワークも軽い。医学生よりも断然健全だろう、いい奴ばかりだ。医学部の友人達も悪かったわけではないが、和やかさはこうもなかったように思う。彼等は優しさよりも、冷静さの方が目立っていた。同じ馬鹿をするのも、医大生の方が性質が悪い。悪質な事をしていたなと、思い出したそれに、俺は昔の自分を少し恥じた。
 もしも、医者など目指さず。高校を出て直ぐにこんな環境に入り込んでいたならば、俺はどうだったのだろう。多分、きっとあの頃ならば、俺はヌルいと感じたのだろう。自分は一度痛い目を見たからこそ、周りの柔らかさに気付けるのだと思う。だから、あの一年半は無駄ではなかったのだと過去を噛み締めている俺に、立原はポツポツと草川の事を語った。
 初めて知ったのだが、草川と立原は高校が同じだったらしい。クラスは違ったが、草川は学校では有名で、噂は良く耳にしたと言う。今は垢抜けた格好をしているが、その頃は清楚な美少女タイプであり、男子の間ではかなりモテていたらしい。しかし、家族には恵まれず、女子生徒の間では妬みからか仲間外れにされる事も多く、苛められてはいなかったがよく孤立していたそうだ。浮いた存在と言うのは、どこの学校にでもいるものなのだろうが。今の彼女を知る俺としては、とても意外で、信じがたい。だが、嘘ではないのだろう。立原が、俺に態々嘘を吐く理由がない。
 騒ぐ事もせず、悲観する事もなく、誰かを恨みもせず。そんな状況をただ仕方がないと評価するだけだったらしい草川は、家を出る為に、普通の学生生活を得る為に、地元から離れた大学を選んだ。自分の人生の為に。
 あいつ、高校では勉強ばっかりしていたんだぜ。今の姿からは想像し難いだろうけどさと話す立原は、けれどもだから何だとは言わなかった。草川に対してこうしろよとは言いはしなかった。俺がきちんと彼女の事を考えると信じているのか、それとも試そうとしているのか。どっちなんだと俺はそこで漸く隣を振り向いたのだが、立原は頬杖をつき、まっすぐ前を向いたままだった。そして、名前を呼ぶと目の玉だけを動かし、いつものようにニヤッと笑った。
 立原にとって、草川は俺と同じ友人なのだと、改めてその表情に実感した。

 その気持ちに応える、応えないではなく。
 俺は自分が周りに気遣ってもらっているように、草川の事もちゃんとしたいと思っている。草川も仲間だなのだ、いい加減になど扱えない。扱いたくない。これからも、出来る限りの誠意を持って彼女には接するつもりだ。だが俺は、何をどうすれば良いのか、具体的な事は全然判ってはいない。きっと、周りはそれでも俺を責めはしないのだろうが。不甲斐なさに、俺自身の焦りは増すばかりだ。何もかもが巧く行かない、巧く出来ない自分が嫌になる。
 俺は足りない事ばかりだよ、と。全然年上じゃないじゃないかと、同期生達の顔を思い浮かべながら眉根を寄せる。同年代の奴等より自分は優れていると、何ら疑う事なく信じきっていた頃が懐かしい。二年の差があるはずなのに、18才の少年達よりも劣っている自分を見る日が来るなど、想像さえしていなかった。だが、あの頃に戻りたいとは思わない。しかし、今の俺にはあの自信が皆無であり、もしかしたら必要なのはそれなのかもしれず。
「――自由が有意義だとは限らないんだなァ…」
 力ない声が、浴室に響いた。自分で聞いても情けない、不抜けた声だ。
 両手で湯を掬いあげ、手を広げる。湯面は落ちてきた湯により波紋を広げ波立たせるが、それでも仲間外れを作ったりはしない。俺の手に捕らえられたものも、そうでないものも、混ざりあい解け合う。
 こんな風に、水が水に溶けるように、空気が空気に溶けるように。自由になれば当然、充実した日々を手にする事が出来るのだと思っていたのに。俺の手には、今は何もない。何をするにも、ひとつひとつ悩んで、決められないでいる。
 だが、自惚れにはならない、確かな活力なんて。決断力なんて。そんなもの、考えて得られるのならば誰も苦労はしないだろう。今は、なるようにしかならないのだと思う。だが、それは疲れているから、ただそう信じたいからだけで。本当は、動かなければどうにもならないのだと俺は知っている。
 両親の事、大学の事、草川の事、将来の事、兄や叔母の事、友達の事、過去の事、俺の事、そして水木の事。考える事は沢山あるが、それが実行出来るのは、俺一人しかいない。どうしようが、動ける体はひとつだ。数を打てば当たると言うように無暗に挑んでいては、直ぐに身体が砕け散ってしまうだろう。それでは意味がない。きちんと考え、ベストを尽くさねばならない。けれど、考えれば考えるだけ悩むばかりで。時間だけがただ過ぎて行く。
 何気に上げた視線の先で、給湯機の時計にゼロが三つ並んでいた。富田みとは楽しいと言っていたが、ゾロ目を見ても全然気分は向上しない。何十回目ではなく、何百回目になるのだろうか、同じ事でグルグルまわる。まわってまわって疲れる俺に突き付けられるのは、時の流れだ。何も決められずとも進んでいくそれは、俺の首を締める。時間が過ぎる分だけ、事態が悪化して行く。抱える問題はそんなものばかりで、風化するのは俺の中の意地ぐらいだ。
 いつの間にか昨日になってしまった今夜の苦味を溜息とともに飲み込み、風呂から上がる。身体を拭いたバスタオルと洗剤を放り込み、洗濯機のスイッチを俺は押し、携帯を持ちリビングへ向かう。ペタペタと、素足が床に吸い付く感触が何とも言い難い。意味なく後ろを振り返り、ビクついているらしい自分を認識した。
「……」
 今更ヤクザの部屋に怖じ気付いている訳ではないし、広い部屋に寂しくなっている訳ではない。ただ、それでも一人なのが、心許無い。誰かが来るのだとしても、それはヤクザでしかないのだと思うと、戸惑いを覚えずにはいられない。他人の存在が欲しいのか、欲しくないのか、自分でも良くわからない。意味不明だ。
 全てが、一進一退。やはり何も変わりはしないと、自分の心に呆れながらリビングのドアを開け、中には入らずに明かりだけを消し扉を閉める。
 若林氏に寝床を訊かなかったのは失敗だったと、寝室のドアを開けて気が付いた。だが、聞いたところでどうなっていたものではないのかもしれない。用意しているのであれば、彼も言っただろう。言わなかったと言う事は、ここで寝ろと言う事だ。
 確かに俺の中でも、他人の寝床に潜り込む嫌悪も抵抗もすっかり小さくなっている。だが、問題がない訳ではない。ここが水木の家である以上、俺には別の寝床が必要だ。水木が帰る都度、ソファを非難場所にしても別に良いが。それならば、毎日そこで寝ると言うもので。寝具は毎夜同じである方が、身体は慣れ休めるはず。
 大きなベッドに腰掛けながら、馬鹿な事を少し考えてみる。もしかしたら、これは俺のものになったのかもしれないな、などと。だから、若林氏は何も言わなかったのかもしれないなと。だったら、水木がソファに寝るのか?新しいベッドを入れるのか?それとも、もうここでは寝ないとか?
 ならば、それは。俺がここを占領した事になるのか。ただの学生が、ヤクザから強奪したと…?
「全然、笑えなねェ…」
 何をあえて嫌な想像をしているんだと自分に呆れながら、俺はパタンと身体を横に倒す。そのまま深く息を吸うが、染み付いていたはずの煙草の匂いが、今はもう全然気にはならなかった。たった丸二日で慣れたのか、水木が居ないから薄れたのか、布団に鼻を付けもう一度嗅いでみるが、やはりわからない。
 昨夜は、自分に開き直っていたし、水木にムカついてもいたので、彼のベッドを占拠してやった。しかし、今夜はもしかしたら帰って来るのかもしれず、そうではなくとも三日続けて他人の寝床を奪うのは正直気が引けるというものなのだが。
 けれど、今はぐっすりと、何も考えずに済むくらいの眠りが欲しい。煙草の匂いが消えた今、この寝心地の良いベッドは俺にそれを必ず与えてくれるだろう。
「……水木が来た時は、その時だ」
 蹴り起こすなり何なりするはずだと決め込み、俺は布団の中へと潜り込んだ。


2006/10/23