寝ようと決めた瞬間、俺は眠りに落ちたらしい。
　七時ジャストに設定している携帯の目覚まし機能と三十分程格闘しておきながら、心地良いまどろみの中でハタと現状に気付いた時には、己の不甲斐なさを心底呪いたくなった。だから寝るなよ…と胸中で嘆き、寝起き早々に重く深い溜息を落とす。
　睡魔に勝てない俺は、もしかしたら誘拐されようと監禁されようと、その他諸々最悪な事態に直面しても、睡眠はきっちり取ってしまうタイプなのかもしれない。確かに八時間は寝ないと使い物にならない体質だが、ちょっとコレは頂けない。いや、ちょっとではなく、かなり危険だ。眠りの前では危機感が消えるだなんて、ただの餓鬼ではないか。この歳では、ただの間抜け。果たして、寝ている間に何かあったらどうするんだ俺。早々に直さねば、いつか痛い目を見るぞ。本気で気をつけねば…！
　今更であるのかもしれないが決意する俺の想いに水をさすかのように、何度目かの軽快な音が割れんばかりに鳴り響く。
「……ウルサイ」
　五分ごとに起動するアラームを終了させ、もう一度気持ちを切り換える為に大きな息をひとつ吐き、俺はベッドを降りた。だが、カーテンと窓を開け、清々しい朝に改めてショックを受ける。寝てしまった事実は消えないとわかっていても、それでも軽く地球にめり込むくらい気分が沈む。再びこの部屋で一日を始めた気まずさは、三日目であってもなくなりはしない。
　自己嫌悪を覚える。そしてそんな自分に、重ねて俺は嫌悪する。今の俺は、まるで悪循環装置のよう。終わりがない。今は朝だぞ、昨日ではなく今日を考えよう。今が最悪ならば、後は浮上するのみじゃないか。ここに止どまる理由はないだろうと、短い掛け声で一発気合いを入れ直し、俺は携帯を手に漸く寝室を出た。いつまでもウジウジしていても仕方がない。
　リビングに入り、こちらも空気を入れ替える為に窓を開ける。キッチンで水を一杯飲み、トイレを済ませ、脱衣所へ。洗顔をし、洗濯機の中のものを取り出し、若干の抵抗を感じつつも与えられた勉強部屋へと足を向ける。向けねば当然、出掛けることも出来ないので、嫌がっても無駄だ。これ以外の方法はない。
　Ｔシャツとハーフパンツから、シャツとジーンズに着替え、鞄の空いたスペースに洗った洗濯物を押し込む。通学の準備をしながら確認した時刻は、まだ八時にもなっていなかった。
　……何となく、時刻さえも恨めしい。
　通学鞄を持ってリビングに戻り、テレビを点ける。ニュースを回し見るのに使った時間は、それでも十分未満。現役大学生の立場としては、現代の日本社会に触れるのがたったそれだけでイイのか？と思いもするが、今は世の中の出来事よりも自分の事だ。水木が帰って来た様子はない。ならば、このまま会わずに出た方が得策なのではないか？と考えるのは当然だろう。芸能人の恋愛も、頭がイカレた犯罪者も、どうでもよい。それこそ、隣国のミサイルが頭上を通過しても、だ。そこに時間を割くには、余りにも遠い現実。ヤクザの部屋の居間で唸っているのが、一番近い現実。
　今の俺の気を引く事が出来るのは、ニュースに水木や戸川さん、そして若林さんの名前が出た時だけだなと思いながら、俺はテレビの電源を切った。プツリと途切れた音が、部屋の静寂を教えて来る。
「…………」
　こんなに広い部屋なのに、誰の気配もなく何の音もしないと、まるで世界から切り離されたかのように感じてしまう。夜は閉塞に違和感を持ちはせずとも、明るい部屋の中では、何故か少し気になる。それは、不安なのか寂しさなのかはわからないが、馴染みたくはない類いのものだ。窓の向こうには、一面に広がる薄い色の空。眩しい太陽。だが、それは遥か下に見えるビル群と同じで、遠い。目には見えても、この部屋とは繋がっていない感じだ。まだ、テレビ画面の中の景色の方が身近に思える。
　吸い寄せられるようにベランダへと降り、地上を見下ろし距離を測る。21階ならば多分、百メートルもないのではないだろうか。だが、それでもこちらもまた遠い。灰色の地面は、足下とは思えない。まるでここは空中に浮かぶ透明な部屋のようだと、ふと思う。実際には、ニ棟からなるマンションなので最低でも50程の部屋があり、それに合うだけの人が暮らしているのだろうが。他の誰からも認識されていないような感覚が付きまとうのはどうしてなのか。
　おかしいよなと考え、そこで漸く、このマンション内で他の住人に会った事がないのだと俺は気付く。偶然でしかないのだろうが、エントランスでもエレベーターでも、誰かと一緒になった事がない。そんな風に住人が見えないから、他人の視線を受けないから、妙な気分になるのだろうか。そうなのかもしれない。いや、少し違うのかもしれない。…よくわからない。
　何にしろ。偶然とは言え、不思議だ。奇妙だ。何度も出入りをしていて他人に会わないなど、奇跡のような確率ではないだろうか。本当に、他にも人はちゃんと住んでいるんだよな…？
　何か聞こえないかなと耳を澄ませてみるが、上下の住人はどんな人達なのだろうか、ベランダに出ている気配はない。声も聞こえない。もう出払ったのか、それとも生活音を拾うのは、このマンションでは無理なのか。こんな事をしても無駄でしかないのかと諦め、俺は窓を閉める。他に誰も住んでいない訳がなく、住人が存在するのであれば、その内きっと嫌でも会うだろう。それが、俺の居候中に起こるかどうかはわからないが、可能性は低くはないはずだ。それこそ今から会うかもなと、部屋を見回しながら鞄を持ち上げる。
「なんで時計がないんだよ…」
　普段は、時刻を確認するのは携帯電話ばかりなので、腕時計もしていない。だが、それで不便を感じた事はなく、時計など特に必要ないと思っていたのだが。やはり無ければ無いで、不便だ。時計が見当たらない部屋に、置いておけよ･･･とついボヤく。仕方なく取り出したケータイには、08:07の表示。こんなものだろう。こんなものでなくとも、もうこれ以上時間を潰すアイテムも気持ちもないと背中に鞄を背負い、昨夜若林さんに教えてもらったようにエレベーターの呼び出しボタンを押し俺はリビングを出る。寝室の窓を閉め、軽くベッドを整えれば出発準備は完了だ。
　少し迷ったが、二匹のイヌを上がり框に待機させ、俺は玄関をくぐった。


　結局、俺の期待に反し、誰に会う事もなくマンションを出た。俺の中で違うとわかりつつ、無人の疑いが一段と強くなっていくが、だからと言って何が出来るわけでもない。セキュリティが高いと言う事は、逆に言えば監視されていると言う事である。無駄に他階をうろつけば直ぐに捕獲され水木に通報されるのかもしれず、ましてそんな危険極まりない行動をとる程も住人に会いたいわけでもない。ならば、大人しく機会が来るのを待つ外ないのだろう。正直、それ待つ程もあそこに留まるつもりも無いが。
　なんと言っても、高級マンションだ。ヤクザ程ではないとしても、他の住人も一般人とはひと味もふた味も違う人種なのだろう。自分にはわからない次元だと思う事でどうにか納得し、俺は大学に着くまでに気分を変えた。
　だが。
　大学生協で買った朝食をメインストリートを歩きながら食べ、学部棟を通り越し辿り着いた情報センターの演習室で講義が始まるのを待つ間、パソコンに打ち込んだ文字が水木の名前なのは如何なものだろうか。インターネット検索にかけられるワンクリック前の「水木瑛慈」をじっと見つめながら、俺は自問自答を繰り返す。
　調べて大丈夫か？悪質なウイルスメールのように、ボタンを押した瞬間、災いがやって来るのではないか？知らないでいる恐怖もあるが、知って後悔するのかもしれないのならば、調べるメリットは余りないように思う。第一、水木に関しての情報で安心を得られるようなものがあるのだろうか。多分きっと、無いだろう。たとえ彼が慈善活動をして表彰されていたとしても、胸を撫で下ろす要素にはならない。逆に、どこの暴力団員だとか、犯罪歴だとかの情報の方に、俺は納得しそうだ。しかしそれも、はっきりとは知りたくない種類のもの。見てみぬ振り出来るのならば、そうしたい。けれど、気が引かれる。若林さんの意味深な発言を思うと、気になって仕方が無い。
　ならば、こんな風に迷っているのではなく、想像を膨らませているのではなく。事実を直視しろよと、知ろうが知るまいがそれは変わらないのだからと思いもするが。クリックしそうになるが。勢いはやって来ず、止める気持ちの方が大きい。果たして、こんな風に情報を探してまで水木を知らねばならないのか。迷う内に、そんな疑問まで浮かんでくる。
　これなら、マンション住人の事に気を取られている方が良かったのかもしれない。何故、今日に限って、インターネットを使う授業が朝イチに入っているんだ。最低なタイミングじゃないか。
「……バカらしい」
　気になるとか、知りたいとかではなく。ただ若林さんの口車に乗せられているだけじゃないのかと、俺はパチポチと画面の名前を消してみる。だが、空白の欄を見つめていると小さな焦りが生まれ、また水木瑛慈と打ち込んでしまう。検索するべきか、せざるべきか。腹拵えをしたばかりだからか糖分はまだ血液に溶けていないようで、頭がまわらず結論を決められない。
「おはよう、今日も暑いね」
「千束ー、眉間に皺寄せて何してンの？エロサイトはガッコで見ちゃいけないぞ」
「…見てねぇよ」
　画面から顔を上げると、隣の椅子に猪口と下西が座るところだった。馬鹿な事を言うなよ、俺はお前とは違うんだと、ひとしきりアホ会話で騒ぐ。どう転がったのか二人がゲームの話で盛り上がり始めたところで抜け、俺は画面に視線を戻した。
　意を決し、検索をかける。だが、水木ではなく、自分の名前で、だ。
「…………多すぎだっつーの」
　驚く事に、結果は1000件を軽く超えていた。まさか俺の知らないところで俺の情報が流れているのかと少しビビったが、そういう訳でもない。順番に掛かったページを見てみると、半分以上が、苗字と名前それぞれのヒットだ。千束も大和も、珍しくも何ともないものなので、当然だろう。地名や個人名に反応し出て来たページを見ながら、これは水木瑛慈でも一緒だろうなと思う。ネット検索は、絞り込むのがなかなか難しい。
　フルネームで引っ掛かってきたもので一番多かったのは、同姓同名の主婦によるブログだ。たぶんＨＮなのだろうが、バンバン画面に自分を表すものと同じ字形が出て来るので、少し妙な気分になる。『まさかダンナにあんな趣味があったなんて…大和ビックリ！』――物凄く違和感有り、だ。オタクで女装趣味まであるらしい旦那が千束大和でなかっただけマシなのかもしれないが、あまり救いにもなっていない気がする。精神的には小さいが確実なダメージを受けつつ続けて調べを進めると、他にはアニメのキャラクターやお笑い芸人にも同じ名前があるらしく、それを話題に出した掲示板などにも辿り着いた。どこかの同窓会メンバー表や、小学校や塾や企業のサイトも幾つかヒットしていたが、千束大和なる人物は沢山居ても、そこに俺はなかった。
　ひとつふたつくらいあるんじゃないかと覚悟もしていたのだが、知り合いが運営しているようなホームページは見当たらない。俺の情報は流れていないのだと、全てを確認し、ホッと息を吐く。疚しい事はない自分でこれなのだ、水木瑛慈を調べようものなら、俺の心はリンクに飛ぶ度に参っていってしまうのだろう。検索をかけたら最後、全て見なければ気が済まなくなるのは必至だ。だが、内容にそれらしいものが出て来たとしても、俺にはそれ以上調べようがない。と言う事は、気になれば結局、生身の人間にその情報の信憑性を訊かねばならないと言う事で。こんな風にパソコンを前に唸っていても、やはり余り意味がない。
　若林さんの言う通りだと、ネットには真実などあってないようなものだなと、沢山の千束大和とオサラバし、俺はブラウザを閉じた。いつの間にか始まっていた講義にあわせ、UNIXに繋ぎソフトを立ち上げる。教授の説明に続きながら課題を進め、合間に内職がてらメーラーを開きメールをチェックする。
　兄からの便りが二通も届いていた。そういえば、週末にしようと考えていた返事をまだ出していない事を思い出す。先週末はそれどころではなかった。そして、今なお、それどころではない。だが、兄のメールにそんな事は記せられない。
「千束、どんなの作ってるの？」
「ン？」
「えっ！？もう提出するの、早い〜！」
　隣の下西がふと画面を覗き込み、兄への返信メールを教授への課題提出メールだと勘違いし、驚きの声を上げた。この講義はそれぞれのソフトを使いこなせるかどうかであって、技術は見るが、作る内容には余り関心は示されない。今日のように、適当に文書を作れとの課題が出されれば、ソフトの機能を活用し何でもすればいいのだ。真面目なものでも、ふざけたものでも、評価に変わりはない。慣れた者なら15分もあれば作るだろう。課題を出せば出席扱いされるので、パソコンが得意なものは講義にすら出ていなかったりする。楽な講義だ。それなのに、下西はいつもクソ真面目に悩む。こういう作業は得意で黙々としそうなタイプなのに、パソコンに不慣れであるわけでもないのに、何やらいつもてこずっている。
「これは違う、兄貴へのメール。課題はこっち。まだ途中」
「何書いてるの？」
「好きな小説について云々と、適当に」
「ふーん」
　でも、そんなのでいいの？と首を傾げる下西に、俺は幾つかのポイントを教えてやる。説明ではアレとコレをしたのだから、このあたりをこう使って作ればオッケイだと、マウスを動かし実践する。俺とて他人の事は言えないが、ネットで遊んでいずにちゃんと講義を受けろよ下西。聞いていれば、すぐ出来るぞ。それこそ多分、説明と全く同じものを作っても、この教授は単位をくれるだろう。心配しすぎだ。それなりに適当にやっておけよ。
「お前、いつも訊きにくるなぁ」
「あ、ごめん…！」
　ハッと目を張り、直ぐに頭を下げてまで謝る少年に、俺は苦笑しながらその頭を片手で押し上げる。
「違う違う、別に悪いと言ってるんじゃなくてさ。ただ、ちょっと意外と言うか何と言うか。下西こういうの得意そうじゃん。難しいソフトでもないしさ」
「うん、まぁ、そうだけど…」
「パソコンは出来てもさ。何を書くか、その中身を作るのが苦手なんだよな」
　自由課題が大嫌いなタイプだと、困った顔の下西の向こうで猪口が画面を見たまま笑った。下西と違い、一緒に遊んでいた猪口はテキパキ課題を仕上げていっているようだ。前から思っていたが、個性の強い面々の中では霞む事の多い彼は、けれども案外要領がいい。もしかしたら、煩い奴等の玩具にされないように、その中では敢えて大人しくしているのかもしれない。
「猪口は何をやってるんだ？」
「ん、俺はねぇ、学食メニューのマイランキング。クッテを語らせたら、俺は煩いよ」
　はははーと、取って付けたような笑いを落とす男に肩を竦めつつ、「な、下西。中身なんて何でも良いんだよ」と背中を押してやる。確かに猪口の言うように、自信がなく小心の気がある下西には、自由というテーマは一番厄介なのだろうが、こればかりは仕方がない。慣れるしかない。
「何を書けば良いのか、考え込んじゃうんだよね」
「だから、適当でいいんだ、適当で」
「うんでも、その適当が難しいんだよ」
「だったら俺や猪口のように、何か好きなものをネタにすれば書きやすいんじゃないか？」
「んー、そうだねー」
　好きなものか、何かな、何にしようかな。答えに近いヒントを出したにも関わらず、まだ悩み唸る下西に呆れるが。それ以上に、何だか微笑ましくもあり笑いそうになる。確かに、割り切る事を知らなければ、この手の課題は難しいだろう。悩めば悩むだけ、ド壺にハマる類いのものだ。だが、この手のレポートは大学講義では腐る程あり、出来ないでは済まされない。単位地獄で生き残りたければ、やるしかない。
「よっしゃ、終了〜」
「ホントッ！？」
「ホントもホント、嘘じゃねーよ。悪いな、下西。後は頼んだぜ。千束もよろしくな」
「あぁ？何だ？」
「ちょっと、チョコ待ってよ！」 「時間がないんだ、じゃあな」
　あぁうぅと小さく唸る下西をその度に笑いつつ茶化していた猪口が、まだ講義終了にはかなり時間があると言うのにバタバタと部屋を出て行った。薄情者と頬を膨らませながら、どこか泣きそうにもなっている下西に俺は問う。
「いきなりどうしたんだアイツ？」
　いつもならば課題を仕上げた後も、次の講義まではネットをしながらこの部屋で時間を潰すのに、早々に退出するとは何なのか。珍しいよなと同意を求め、俺は隣に声を掛けた。だが、予想外に下西からは明確な答えが返ってきた。
「パチンコだよ」
「ハァ？」
「駅裏の店が新装開店なんだって。残りの授業の代返頼まれたんだけど…。もしかして、一日中やるつもりなのかなぁ」
「……。…ンなの、無視してやれ」
「立原と原田の分もあるんだよ、ムリ。あの三人に来られたら、負けちゃうよ」
「お人好し」
「うん、自分でもそう思うよ」
　力なく笑う下西に馬鹿だなと評価を落としながら、更なる馬鹿である三人の学友を思い浮かべ、溜息を吐く。多分、立原と原口は登校さえしていないのだろう。ならば、ひとコマだけとは言え出席した猪口は偉いと言うべきなのかもしれない。だが、当たり前だが、馬鹿さ加減に差はない。
「勝ったらチョコレートくらいくれるかなァ」
「悲しい事を言うなよ。たとえ負けたとしても奪い取るぐらいの気合いを持て」
「それがあるのなら、僕も一緒に行っているよ」
「……ご尤も」
　講義を休みギャンブルをする気概があるのなら、確かにわざわざバカをみる事はないだろう。仰る通りでございますと俺が答えると、あははと声を上げて下西は笑った。笑って済ませて良い事なのか疑問だが、笑うしかないのかもしれず、心の中で俺は思う。
　だがな、下西よ。あのバカ達のように厚かましくなれとまでは言わないが。断るべき時は、きちんとその意思を示そうぜ。嫌な時は、はっきり拒否しよう。自分と一緒ではない講義の面倒までみてやるのは、パチンコに走る奴等と同じくらいに愚かだと俺は思うぞ。本当に、それでいいのか…？
　良くないだろうと無言で語りかけると、それを汲み取った下西は、また曖昧な微笑みで苦笑した。

　結局。
　笑うだけの下西を哀れに思い、課題を提出後も、俺は隣で格闘する彼に付き合い２コマ目を少し遅刻した。だがそのお陰で、下西の課題を手伝いつつも、じっくり兄への返事を書く事が出来た。父が俺に留学の話を出したのを母から聞いているのかもしれないので、下手に隠す方が心配をかけそうだと考え、敢えてその話題を出し考慮中だとの言葉を添えておく。だが、当前、ヤクザに関わっている事までは言わない。と言うか、言えない。言おうものなら、それこそドイツへと連行されるだろう。あの手この手で絆され、兄と並んで飛行機に乗っている自分を想像し、全然全く笑えない事に気付く。水木の世話になっている事が一番バレては駄目なのは、間違いなく兄貴だろう。内緒なだけではなく、今のうちにそれらしい嘘を用意しておかねばならないのかもしれない。離れた弟を心配せずにいられるような嘘が必要だ。ヤクザのヤの字も出せやしない。
　もしも、これが逆ならば。兄が何らかの理由でヤクザに関わったのであったならば。果たして、俺はどうしただろう。
　一瞬考え、俺は自分の生活が成り立たない状況であっても兄を連れ戻すだろうなと、直ぐに答えを出す。今更ながらに、二人して両親に縋る事になろうとも、叔母達に迷惑を掛ける事になろうとも、ヤクザよりは何だっていいと俺は思うのだろう。兄が躊躇えば、どうしたんだよ、しっかりしてくれよと、その目を醒まさせようと必死になるのだろう。そう、実際にはどんな人物だとか、何だとかではなく。相手がヤクザならば、それが当然なのだ。ヤクザはヤクザだからこそ、ヤクザなのだ。一も二もなく、縁を切るものだ。嫌だと兄が言ったとしても、俺は耳を貸さないだろう。自分が正しいと、ヤクザから兄を引き離す事に罪悪など浮かばず、何でもやってしまいそうだ。
　ならば、兄だって。俺がヤクザに関わっていると知ったのならば、間違いなくそうするのではないか。そう考えながら、ふと何かに引っ掛かり、もう一度再考して気付く。父と同じだなと。息子が間違っている、自分は正しいと、そう信じているから父は強引な手を打つ。それは、俺が仮定の中で兄に対し考えたものと変わらない。
　遅刻をした為あまり席を選べず、教壇に近い場所で、講義とは全く関係の無い事を俺は考える。ひとつの事柄でも、視点によって見え方は違うものだと。俺は兄貴が道を踏み外し掛けているのを目の当たりにしても、それを頭においておけるだろうか。普段の冷静さを維持出来るだろうか。多分、どんなに願おうと、そうするのは無理だろう。兄貴からヤクザと関わっていると聞いただけで、そんなものは一気に遠くまで吹き飛んでしまいそうな気がする。其の人物がどんなにいい人であったとしても、だ。
「…………」
　こんな事で気付く事ではないし。己の行動が原因で気付きたくもなかったが。
　父が俺に怒るのも息子に執着してくるのも、それは当然だと思ってもいたが。今までとは少し違う観点から、あの人の強引さの理由が内面の苦々しさが、少しだけだがわかるような気がした。もしも本当に、兄が歓迎出来ない者と関わっていたならば。俺は彼自身をも非難するだろう。自分の事を棚に上げ、馬鹿だと嘆くに違いない。だが、逆に兄に同じ事をされたならば、俺は大人しく彼の言葉を受け入れるだろうか。きっと、そう簡単にはいかないはずだ。居直るかのように、わかっているが仕方が無いじゃないかと、責任をどこかに転換しようとするのかもしれない。
　他人に向けては非難や否定を簡単に落とすのに、逆に自分は指摘をされても全く受け入れない。意固地に考えを変えない。反吐が出そうなくらい、俺は自分に甘いのだと気付き、視界がぶれた。軽い目眩に頭を片手で支え、肩で息を吐く。
　俺とて、悪い事をしている自覚はある。大切な者に対しての、申し訳なさもある。勿論、後ろめたさもだ。だが俺は。俺はそれでも水木に頼る自分を、否定し切れない。馬鹿だと思うし、愚かだと思う。友人から代返を請け負う下西とは全く比べ物にならないくらいの質の悪さが、そこにはあるのだとわかっている。水木がヤクザであるのを、俺は都合良く忘れている訳ではない。自分勝手に解釈し、それを信じている訳でもない。だが、それでもあの部屋に俺は居る。そんな自分が、信じられない。信用出来ない。だが、そこに縋っているのも確かなのだ。
　俺という人間は、こういういい加減なヤツなのか。だったら、父との事も、本当にただの我儘なのかもしれない。そう、誰よりも愚かなのはこんな俺なのだと思うと、夢見た未来は一瞬で霞んでしまいそうな脆いものだった。今自分がいるこの場は、憧れた夢でも希望でもなく。狡さが生んだただの時間潰しの場なのかもしれない。逃げ道にすらなっていないじゃないかと、今の自分の価値のなさに吐き気さえ覚える。
　それは今初めて知ったものではなく、何度も何度も考えた、馴染みさえある事なのに。頭に浮かべる度に、容赦無くどん底へと突き落とされる。足下が崩れる度、落ちる闇は深くなって行く。終わらないループは、けれども同じ場所をまわるのではない。確実に、巡る度に俺の闇は濃厚になっていっている。悩みや苦しみを持ったまま、自分自身を忘れてしまいそうな重さだ。
　このままでは、溺れてしまう。
　泳ぎ方を、もがき方を忘れてしまいそうだ。
　講義終了のベルが、嘲笑に聞こえた。笑っているのは、他でもない、自分。医者になるつもりだった頃の過去の俺が、何もかもを見失いかけている今の俺を、馬鹿だと愚かだと鼻で笑っている。逃げ出しただけの奴が、何を掴めるというんだ。この世の中はそんなに優しくも甘くもないぞ。お前はそれを知らなかったから、夢を見たんだ。見る事が出来たんだ。なぁ、そうだろう？　現実は厳しいと、独りで生きて行く力は自分には無いと正しく把握していたのならば、今もあそこに居たんじゃないのか。居続けたくはなくても、居続けられないわけではなかっただろう。そうして、過ぎて行く日々の中で疑問などなくし、苦痛にも慣れ、平坦に生きる道を得ていたんだろう。嫌だとか合わないだとかではなく、あのまま続けていたらいたで、それなりに納まるべきところに納まっていたはずだ。違うか？　少なくとも、ヤクザになど関わらなかったはずだ。家族や周囲を、振り回しはしなかったはずだ。誰も傷付けずに済んだはずだ。
　なあ、大和。本当に、逃げだす程の事だったのか？　いや、お前はさ、一体何から逃げたんだ？医学からか、父親からか。それとも、中に何も持たない、面白くない自分からか？己を変えたかったのか？
　だったら、とんだ間抜けだというものだ。大学を辞めても、父親から離れても。お前は何も変わってはいない。今のままでは、何ひとつ変えられない。お前は一生、そのままだ。

　他の生徒が去り、教室にひとりになっても。
　俺は、頭をまわるそんな言葉に支配され、動けなかった。


　４コマが終了する間際、立原にケータイを鳴らされた。その場では速攻で着信を切ったが、放課後に入り掛け直す俺は、下西に言えないくらいのバカなのかもしれない。鬱々とした気分の中で、将来の不安などないようなパチンコに励む学生を構う必要はないのに。それでも、繋がりを切れないのは俺が弱いからなのか。狡いからなのか。気楽な同期生を妬みながらも、彼らの柔軟さに憧れ、縋りついては支えにしている。…我ながら、嫌な奴だ。
『おう千束、まだ授業中だったのか、悪かったな。まあ、ンな事よりさ、お前、今日はバイト無いんだろ？』
「だったら何だ」
『金欠魔、喜べ。パチンコで勝ったからさ、晩飯奢ってやるよ。その変わりと言っちゃ何だが、下西も一緒に連れて来てくれ。な、頼むぜ』
　律儀に連絡を入れた俺を、立原はそんな言葉で夕食へと誘った。いや、交換条件があると言う事は、命令なのだろうか。話がよく見えない。
「下西って…、何で俺が？」
　迷惑を掛けた下西だけならば兎も角、何故俺をと眉を寄せ低い声を落としたが、立原はあいつの指名だからとだけ言い通話を切った。どうやら下西が直々に俺の名を上げたらしい。ならばそうなると、バカ供とは違い余り無下にはしたくない相手なので、伝えられた待ち合わせ場所に向かうしかない。
　学生会館の前で待っていた下西は、俺を見止めた途端、付き合わせてゴメンと速攻で謝ってきた。
「もしかして、他に用があったりする…？」
「いや、大丈夫。何もないよ」
「ホント？」
「下西のお陰で俺はただ酒が飲めるみたいだし、気にするな」
「でも、やっぱり勝手にゴメン。……あの、さ。チョコはまだ良いんだけど、ね。立原と原田に捕まったら、僕は確実に病院の世話になりそうなんだよ…。特に、原田はちょっと酷いから。千束お願い、その時は助けてよ」
　この通りだと、神を拝むように手を合わせ頭を下げる少年に、俺は体から力を抜き笑った。昼間から心に広がっていた靄が、少し晴れる。下西が俺を指名したのは、馬鹿供のストッパーを欲しての事だったのだ。
　確かに、原田は自分がアルコールに強い体質なので、相手の限度など考えもせずに酒を勧めてくる。気合いで飲めと、無茶な事を言って強要する。自己主張が弱いと言うよりも平和主義者なのであろう下西は、馬鹿騒ぎをメインにした酒の席ではターゲットに最適であり、いつも沈められている。警戒するのも当然だろう。だが、見た目は少年でしかないとはいえ、下西とて18才の男だ。未成年とは言え酒に興味はあるだろうし、嫌いでも無いはずだ。毎回のように潰され、翌日には半死に状態に陥っていては嫌気もさすだろうが、酒を絶つ歳でもない。学生間でも付き合いというものは存在するし、苦手なら参加するなよとまでは言えない。
　代返の見返りの夕食に警戒をして行かねばならない下西を、単純に哀れに思った。頼ってくるこの手を、振り払う事は出来ない。ならば、答えはひとつだ。
「オーケイ、原田の相手は俺がするよ」
　俺は依頼を請負、食事に付き合う事にした。