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「千束、大丈夫か?」
「…あぁ」
「ねぇ、自転車だと危なくない?」
「…………へーき」
 全く平気そうでは無い声を零す自分の本体が、物凄く遠くにあるような感覚が何とも言えない。遠隔操作をしているような感じで、自力で立っていられずに植え込みの縁に座る。しかし、腰掛けようとしたそれは俺を避けたのか。尻が付いたのは地面であり、花壇の煉瓦は背中にあった。首筋にチクチクと植木の葉が刺さる。だが、避ける事が出来ない。
 下西のお呼びにより、居酒屋での夕食にありつけたのは良かったが、メンバーが頂けなかった。パチンコで勝利しハイテンションなバカ供と上手く付き合うには、自分も同じようにはじけるしかなく。初めは大人しくしろと制していたのだが、酒が入るにつれそれも億劫になり、彼らにしたいようにさせ、自分もしたいようにしてしまった。注がれるままに、酎ハイに日本酒にビールにと好みに関係なく呑み、その結果が、コレだ。
 情けない。
「おいおい千束、全然駄目じゃないか」
「…大丈夫だ、……ちょっとだけ、休憩…」
 少し休めば動けると、何の根拠もないその言葉を吐きながら俯くと、後頭部に幾つもの視線と溜息を受けた。頭皮から入り込んだそれが、頭の中を汚す。気持ちが悪い。
「お前ら、飲ませすぎだ」
 猪口が呆れる。
「ちげーよ、俺じゃねぇ。原田だろ」
 立原が嘯く。
「なに!?狡いぞ立原ッ!お前じゃないなら、俺でもねぇーゾ!」
 原田が喚く。
「ナニ吐かしてんだ、あぁ?お前が次から次へと勧めたんだろうが」
「それは、だって、千束が…!」
「……うるせぇ、黙れ原田」
 フワフワを通り越し、頭がクラクラする。そこに馬鹿でかい原田の声が交じるお陰で、体を巡る血が揺れる。その振動を止める為に原田を注意すると、額に冷たいものが押し当てられた。これは、気持ちがいい。
「千束…?」
 いつの間にか落としていた瞼と顔を上げると、目の前に心配げな表情をした下西が居た。額におかれたのが彼の手だと気付き、何て細くて冷たいのかと、女みたいだなと俺は考える。だが、実際には自分の体が熱を持っているからなのだと、感覚が麻痺しているからなのだと、考えを訂正する考えが直ぐに浮かぶ。そして、そんなところとは別の一角で、全然何も考えていない自分がボケッと立っている。
 頭の中が、バラバラだ。これが、酔うと表現するものならば、まさに俺は酔っている。酔っ払っている。見事に、酒に飲まれている。こんな風になるのは、初めてかもしれない。いつもはそれなりに節制しているし、羽目を外す時もテンションが上がるくらいで、思うように動けなくなる事などないし。気持ち悪くなるほど飲むなど馬鹿だとしか思わないのに、そうなっている今の自分はどんなに馬鹿なのだろう。
 ひんやりとした冷たさが、俺の熱により消えていくのを惜しみつつ、自分は酔っているのだとわかりきった事を頻りに考える。考える中で、手の持ち主の事を思う。
「タクシーにしよう。やっぱり自転車は危ないから、ね」
「……下西」
「ン、なに?」
「あのな、オレ、酔っちまったみたいだ…ゴメン」
 重大な告白をするよう、勿体つけて落とした俺の言葉に、少年が喉で笑う。
「うん、そうみたいだね。千束も酔っ払うんだ」
「みたいだな…」
「みたい、って。自分のことだよ?」
「だって、こんなに呑んだ事ないからさ。もう当分は酒は呑みたくない、ってなくらい飲んだ。ホントに、さ。もう呑まない、呑まないよ」
「千束があんなに飲めるだなんて、知らなかったからビックリしたよ」
「悪ぃ…ゴメンなホント。でも、さ。全然、下西のせいじゃないから」
 根性もなく落ちる瞼を騙し騙し開き、下西のキョトンとした顔を見る。こうして間近で見てみると、まだ幼い中にもちゃんと年相応の顔が覗いている。大人になる男の顔だ。酔っているからだろうか、今の自分が腑抜けだからか、妙に頼り甲斐のある人物に見える。
「俺が、さ。俺が飲みたかっただけだから、気にしないでくれよ。なぁ…? お前が誘ったからこうなった訳でも、立原が挑発したからこうなった訳でも、猪口が止めないからこうなった訳でも、ないよ…」
 かつて、俺もこんな風に意識する事なく生き生きとしていたのだろうか。内面からひとりの人間の成長を溢れさせていたのだろうか。そんな事を思いながら、俺はゆっくりと言葉を紡ぐ。喋れる自分に、安心する。だが、気分の悪さは相変わらずだ。視界が利かない。
 それでも、驚き困る下西の顔の向こうで、「千束、俺は?俺はどうなんだ?」と原田が手を上げているのはわかった。懲りない奴だと思いながら、真剣に考えるよう俺は唸る。
「原田かぁ、原田ねぇ…。うーん、原田がバカなのは、ちょっとカンケーあるのかもしれないなァ…たぶん」
「はぁ?何でだよッ!?」
「おいおい何故って、お前さ。全然千束を止めなかっただろうが。加害者に決まっているって。考えるまでもない」
「違うって言ってンだろ!あんな風にガブガブ呑んでいたら、誰だってザルだと思うだろうが!実際、千束は酒に強いじゃん、なぁ?そうだろう?」
 猪口のからかいに、原田が慌てて弁明を試みる。俺はその様子を見て笑った。だが、それがいけなかった。ヤバイと感じた時には、食道を逆流したものが口内にあった。酔った身には有り得ないくらいの俊敏な動きで、身体を捻る。
 店の方、この道を通る方、ごめんなさい。見苦しい真似を、済みません。溝に吐瀉物を放り込みながら、頭の中だけでは全く意味のない謝罪を、俺は念仏のように必死で繰り返す。本気で悪いと思うのならばさっさと後始末をするべきなのだが、動くのは頭だけであって、体は全然動かない。呼吸さえ、上手く出来ない。
 酸素がない。これでは俺は死ぬぞ、ヤバイんじゃないかと。自分でそう突っ込んだ時、背中をトンと少し強く叩かれ、飛ばし掛けていた意識を掴み直し俺は息を吸った。しかし、吸った息は猛烈に臭く、続けて吐いたのは二酸化炭素ではなくまた酒だった。
「うぅ……ぅッ」
 異物を飲み込んだカエルのように、胃が口から出てきそうだ。もしも本当にそんな事が起きたならば、じゃぶじゃぶと洗濯してやるのに。何ならいっその事、そのまま引き千切ってやってもいい。暴れる胃はそれ程に、憎たらしいもので。マジで死ぬかもしれないと、生理的な涙を零さない為に強く目を瞑りながら、俺は何度もえずく。
「……ぅ、ァ…ッ」
 おかしな声が零れようが、涎が垂れようが、気にしている余裕などない。
 まともに食わず、アルコールばかり摂っていたのだ。もう吐くものはない。出てきているのは酒ではなく、胃液じゃないのか?だったら最悪だ。本気で胃をどうにかしてやりたい。畜生め…。
「大丈夫か?落ち着いたのなら、口濯げよ」
「……ん、あぁ…悪ィ」
 肩で息をしながらも、背を擦ってくれた猪口に大丈夫だと手で伝えると、見計らった立原がペットボトルを差し出して来た。声を搾り出し応え、有り難くそれを受け取る。封が開けられた烏龍茶は、とても冷たく気持ちよかった。うがいをし、数度深呼吸を繰り返し、意を決して喉へと流し込む。食道を通り胃へと落ちていく感触を、しばし息を潜めて伺い、吐き気が収まった事を確かめ体の強張りを解く。……死ぬかと思った。
「ちょっと休んでろよ。タクシー止めて来るわ」
「…いや、いいよ立原」
 俺は座り直し、背中を見せる立原を言葉で止める。
「もうホント平気だから、タクシーはいい。自力で帰る」
 親切心で言ってくれているのだろうが、この状態でタクシーに乗ったら確実に酔いそうだ。もう、吐きたくはない。というか、吐くものはない。
「酔っ払いは頑固だな」
「千束はいつでも頑固さ」
「酷いね、意思が強いって言いなよ。なぁ千束?」
 もう何でもいいさと苦笑で流し立ち上がろうとすると、猪口が手を貸してくれた。腕を掴まれ引かれるようにして腰を上げ、背中を伸ばし空気を肺に送り込む。そんなに長い間座り込んでいたわけではないのに、尻が痺れている。それ以上に、身体が弛んでいる。上手く力が入らない。
 それでも意地だけで体を保ち、俺は口の端を上げる。
「吐いたら、スッキリした」
「だとしても、吸収された分はまだ体内にあるだろ。無理すんなよ」
「ああ、でも大丈夫だから」
 そう応え、下西から自分の鞄を受け取ろうと手を伸ばすが、僕が持つからと簡単に逃げられた。しかし、それ以上の説得は諦めたのか、「なら、行くか。のんびり帰るべ」と、皆揃ってゆっくりと歩きだす。マウンテンバイクは立原が押してくれたので、俺はといえば猪口と仲良く腕を組む羽目に。背中には、下西の細い手。
「……」
 何だかとても変な感じだ。今まで介抱させられる役回りだったので、気遣われているのがこそばゆいと言うか何と言うか…微妙だ。支えられている感じが、どこか落ち着かない。気持ち悪い。アルコールとはまた別に、頭の芯が痺れて腐りそうだ。
「……ヌルい、な」
「ん?何?」
 無意識に零した言葉に反応してきた下西を眺め、「生温いんだ、そう思わないか?」と俺は唇を歪める。背中の手も、左腕の温もりも、後ろからの視線も。全てが緩い、温い、湿っぽい。酔いながらも、妙にクリアな頭の片隅が、今の俺の状態をそう判断していた。一気に不快感が強く沸き上がって来る。
「六月に入ったからな。もう夏だ」
「ああ、うん。直ぐに梅雨にもなるしね」
 立原の言葉に、下西は疑いもなくそう応えた。だが、そのタイミングを思えば、立原は俺の中の闇に気付いての事だったのだろう。酔っ払いの戯言と思ったのか、相手にはしいという意思表示か。わかっているからこそ、俺をあっさりと流す。その態度に、大人気ないのをわかりつつも俺はムカついた。だが、後ろを振り返る勇気はなかった。噛み付く気力も。
 俺を心配する下西と鈍い原田と別れると、残る三人の間には微妙な空気が溜まる。それは、ひとえに俺のせいなのだとわかっていても、軽く振る舞う気にはなれなかった。不貞腐れた子供のように、または、無気力な大人のように。ただ歩く。このまま死ぬまで歩き続けるような錯覚に囚われたのは、酒の酔いではなく、漂う雰囲気からだった。

 泊まっていけよと誘う立原を避け、ならば送って行くという猪口を断り、俺は大丈夫だと譲らず無理やり気味に家路を選んだ。しかし、家路と言っても、本当の家ではない。他人の家に向かう足は、当然のように段々と遅くなり、やがて止まる。
 どうして俺は水木家に帰るのか。自己嫌悪に陥りながら、何故あの部屋を選ぶのか。一番選んではならないものを選択し、悩やみを増やす自分がわからない。俺は苦しいからこそ、更に苦痛を求めているのだろうか。自身を追い込み、落とし、本来の問題から目を反らしたいのか。軽視したいのか。自分が水木のところに居続けているのは、雨風を凌げるからだけではない筈だ。
「……ゥ」
 予告もなく、それはやってきた。また吐きそうだと、片手で口を覆い、息を潜め様子を窺う。胃を庇う様に体をくの字に折り曲げた状態でそっとバイクを停めた途端、胃から逆流したものが口から零れた。しゃがみ込み、数度えずく。出たのは多分、感触からして烏龍茶だろう。鼻に突く臭いはきつくないので、胃液はあまり混ざっていないように思う。もしかして、先程の嘔吐で胃の中はマジで空っぽになったのだろうか…?
 もう吐くものはないと改めて確信すると、単純なもので若干不快感が消え、上手く息が吸えるようになった。身体を襲う脱力感に座りたくなったが、ここで止まったら動けなくもなりそうなので、最後の根性を出し足を運ぶ。正常ならば、とりあえず休めよと思ったのかもしれないが、今の俺を抑える人物は周りに居なかった。
 阿呆のように、ひたすら歩く。だが、進む速度は亀より遅い。
 こんな俺でも天に見放されていないのか。力尽きる前に、俺の前に小さな公園が現れた。躊躇いもせずに入り込む。時間が時間であり、園内には誰もいなかったが、トイレの近くにある自動販売機は皓々と輝いていた。のろりと財布を取り出し、効果を投入する。求めたものを手に入れた安堵から、今度は我慢出来ずに俺はその場で座り込んだ。自販機の稼働熱が背中を伝い、じわりと俺の中に流れ込んでくる。
 温かさが気持ち良く、しばし買ったお茶缶を手に握ったまま目を閉じまどろむ。眠いわけではなく、ただ何も考えたくはなかった。このまま、静かにじっとしていたかった。だが、逃避しようにも息をする度に臭う口内の気持ち悪さに堪えられず、プルトップを開け緑茶で口を濯ぎ地面に吐き捨てる。数回繰り返し、半分程中身が残った缶を手にしたまま、俺は立てた膝に額を押し当てるよう顔を埋めた。
 しんどい、だるい。だが、頭の隅が異常に熱い。ハイなのだ。主人に断りもなく勝手に盛り上がっている事が、腹立たしい。だが、それ以上に、他の部分が鬱陶しい。原田でさえ退く程に酒を飲んだのに、何故俺はもっと動けないほどに潰れていないのだろう。予定では、今ごろどこかで転がって、鼾をかいている筈だったのに。どうして吐くかな、俺。根性で胃にそれをとどめていたのならば、もっとアルコールが身体にまわっていたのだろうに。勿体ない。これでは馬鹿みたいに呑んだ意味がないじゃないか。
 別段、それを狙って呑んだわけではないのに、確信犯であるような事を考える。しかし、その実。本当は腹の奥底ではそれを狙っていたのかもしれないと、自分を疑う。何にしろ、今はいただけない。この中途半端さは、一番悪い。一部分は妙に興奮しているのに、一部分はありえないくらいに沈んでいる。そのバランスを取るように存在するかのような現実の自分は、それぞれに傾き引っ張られ、結局立っていられずに扱けている。意味がわからない。
 ……だから、何も考えたくはないのに。だから、酒を飲んだのに。だから、独りではなく誰かと居る事を望んだのに。だから――だから、何だ。鬱陶しい。いい加減にしろよ、俺。
 無意味に、無駄に。まるで睡眠に落ちる一歩手前の浮遊感の中で暴れるように、ジタバタとアホなことを考え、必要な事をせずに居たのは、多分、五分にも満たない時間だっただろう。俺の感覚ではただ、頭は騒がしくとも身体が落ち着くのを少し待っていただけなのだから、そう長い間でもない。だが。
「ちょっとお父さん、どうしたの?」
 不意に、声をかけられた。人が近付いてきているのをそれで漸く悟り、俺は散漫していた意識を寄せ集める。何事だと顔を上げると、暗闇の中に警官が居た。顔を見て歳を間違えた事に気付いたのか、近付いて来る二人の巡査は「お兄さん」と呼び掛けを変える。しかし、そんな事はどうでもよい。俺としてはホームレスや不審者に疑われたらしい事の方が断然面白くなかった。
 自販機の前にただ座っていただけで、怪しい素振りも何もしていないのだ。体調不良なだけの俺なんかを気にかけるその意味がわからない。表通りに行けば、座り込んだ若者も、酔っ払いもごまんと居るだろうに、何故敢えて俺なのだ。それともどこかに、プロのセンサーにかかるような臭いや何かが、俺にはくっついているとでもいうのか…?
 一応名前を教えてくれと言うので適当に答えると、学校はどこだと追加で聞かれる。全然「一応」なんてものじゃなく、しっかりチェックしているんじゃないかと不快に思いながらも、こんな事で目をつけられたくはないのでコンビニの店員だと俺は無難な回答を選んでおいた。世間話のような身元調査にも素直に応じていると、いつの間にか俺は高校卒業後に田舎から出て来たフリーターになっており、親身な声で「頑張れよ」と言われると笑いだしてしまいそうになる。だが、実際には全然笑えない。今は知り合いの家に世話になっていますだなんて、真実ではないか。気をつけなければ水木の事を話してしまいそうだと、ふと頭にあの男を思い出した途端、急に後ろめたさが襲って来た。ヤクザと付き合いながら、警官の前で嘘を並べられる程、俺の神経は太くはない。
 からかうつもりはないが、無難な方法を選び適当に相手をしていたが。己の全ての状況を思い出すと、一気に焦りが沸き起こる。水木との関係がバレては、俺は終わりだ。余裕がなくなり、頭がパニックを起こす。とりあえず、何よりもまず、ここはさっさと退散しなければ…!
 焦った人間は、考えも何もかもが吹っ飛んだ結果として、逃げをうつのかもしれない。今さっきまで、これ以上不審がられないようにと思っていたはずなのに、そんな事は考えられなくなってしまう。疑わしく思われようと、一秒でも早くここを去らねばならないと思えてくる。焦りが膨らむたび、足が勝手に動こうとする。
 逃げようと決断すると共にバイクに跨った俺に、父と同年代に見える警官が運転出来るのか?酒は抜けているのか?と気にかけ、事故を起こしては大変だから押して帰りなさいと忠告してきた。俺はペダルをこいだ瞬間に飲酒運転で捕まってしまうのだろうか?と、馬鹿みたいにも慌てて飛び下りわかりましたと背筋を伸ばす。急にカクカクになった俺を、酔いが覚めたと思ったのか、もう一方の若い警官は真っ直ぐ帰れるよな?と柔らかい笑顔で確認してきた。いやいや、帰れなくとも帰ると言うものだ。
 これ以上、貴方達には付き合えない。はい大丈夫です、ありがとうございます。お仕事お疲れ様です、失礼します、おやすみなさい。パクパクとアテレコされているかのような感じでそんな言葉を落とし、俺はそそくさと公園を後にする。黙々と、走るような勢いで歩き、幾つかの角を無駄に曲がったところでサドルに跨りバイクを飛ばした。
 自分は何をしたのか。思い出すと、カッと顔は熱くなり、直ぐに血の気は下がる。警察官に、なんて馬鹿な事をしたのだろう。嘘がバレなくて本当に良かったと、ホッと胸を撫で下ろせるようになるまで、俺は身体を駆け巡る衝動と頭の混乱に任せて走り続けた。

 漸く落ち着き、周りを眺められるようになって初めて、現在地を見失っている事に気付く。
「…何処だよ、ココ……」
 もしかしたら、昼間ならばわかるのかもしれないが…。夜中にそんな事を思っても仕方がない、迷子は迷子だ。闇雲に進んだのだからこれは当然の結果だと、己が迷子なのを俺は素直に受け入れた。だが、道に迷ったからと言って不安はない。民家は勿論、外灯も少ない田舎なら兎も角。朝日が昇るまで明るく輝く一角が存在する都会の街では、一時道を見失おうとも、迷いつくす事はそうないだろう。遭難はしないハズ。
「……違う意味で、遭難、してるけどなぁ」
 まだ酔っているのか、独り言を大きな声で俺は呟き、溜息を落とす。自分この迷いもこんな風に簡単に見付かるところに答えがあればなと、五分もうろつかない内に発見したコンビニに向かいながらしみじみと思う。RPGのように、ゴールまで導いてくれる者がいればどんなに楽だろう。実際にはその手のゲームのそれが面倒で嫌いであるのに、俺は3Dポリゴンを頭に浮かべながら切実に思った。頼りになる仲間や強いアイテムが欲しいとまでは言わないから、些細なものでもいい、誰か俺の未来に役立つ情報をくれ。
 心底から求めるのは、己の人生についての助言であるのだが。コンビニのアルバイト店員にそんなものを強請っては酷だと言うものなので、地理を求めてガラスの扉を押しやる。俺を迎えてくれた涼しい空気に、自分の中にある熱を思い出した。思い出すと同時に、喉が渇きを訴えてくる。
 冷蔵庫から迷う事なく取り出したのは、レモンの缶酎ハイ。馬鹿だと言われようが、呆れられようが、今はアルコール以外の選択肢はない。お茶ばかり飲めないと言うものだ。
 135円の買い物で得た情報は、少し笑ってしまうものだった。無意識の中でも、俺とあの部屋との繋がりは切れないらしい。教えられた現在地は、水木のマンションへ続く道だった。猪口達と別れた駅からの道順を考えれば、少々遠回りな道程になっているが、それでも間違った部類にも入らない程度のものだ。
 コンビニを出て、歩道に停めていたバイクに軽く凭れながら、辺りを見回す。手元は見ずに缶を開け、俺は中味を喉へと流し込んだ。弾ける炭酸が、直ぐに身体の熱を呼ぶ。中身が半分程になった缶を片手に、俺はしゃがみ込み息を吐いた。
 ヤクザの部屋へと続くこの道を、俺は歩くのか? 本気で向かうのか?
 目の前を走り抜けて行く車の数を、何気なく数える。一台、二台とカウントしながら、十台になったら腰を上げようと考える。けれど、その十台目の車には、十一台目の車が続いており、立ち上がるタイミングを逃し気分が逸れてしまう。ならば二十台目を見てからと決め直せば、俺をからかうように十七台目から先に進まない。そうこうしているうちに、反対車線ばかりを通り過ぎる車をぼんやり眺めていると、カウントを忘れて車を見送ってしまう。仕方がない、一から始めよう。そう振り出しに戻り、一台二台、三台と数え、何がどう仕方がないんだ?とおかしな事になっているのに気付く。
 俺は何をしているんだと。いつの間にか座り込み伸ばした脚の間に置いていた缶を取りあげ、残りの酎ハイを煽る。中身は微炭酸に変わり、甘みが増し生温くなっていたが、身体に追加されていくアルコールはよくわかった。芯から力が抜けるような、強制的な脱力感が、万全ではない体を駆け回り不調を教えて来る。やはり、追加で酒を入れるのは拙かったのかもしれない。
 もしも今、酒を片手にここに座って居るのが他人で、自分がそれを目撃したのならば。俺は顔を顰め、不愉快だと立ち去るのだろう。それが友人ならば、何をしているんだと、不機嫌に詰り呆れながら、無理やり立ち上がらせるのかもしれない。だが、それでも不様だと否定こそすれ、理解は示さないだろう。あくまでも、己の不快を和らげる為に、座り込みをやめさせるだけである。そこには、人を慮る気持ちはない。
 こんなところに座り込みながらも、俺は俺を理解していないのだと気付くと、今の自分の愚行加減に泣きたくなった。仕方がないと思いながらも開き直れず、こんなところまで優柔不断な自分が嫌になる。意味がない事を誰よりも知りつつ、一体何をしているのだろうか。堪らない。
 それでも、座っていてもどうにもならないのだと。強制的に立ち上がり、空き缶をゴミ箱に入れ、俺は自転車のハンドルを握った。こんな状態でも向かうのがヤクザの部屋しかない自分が、辛い。だが、躓き地面に座った俺を引っ張り立ち上がらせるのは、不本意だが今のところ水木だけなのだ。あの部屋でなければ、俺は立ち上がらずに座り続けているのだろう。俺自身ではもう、どうにも出来ないのだ。
 きっと、俺が蹲っている事を知れば、友人知人は助けてくれるだろう。手を伸ばしてくれるだろう。それこそ草川だって、俺を引っ張ってくれるのかもしれない。だが、それよりも早く、水木は俺を見付ける。いや、見付けると言うよりも。水木がいるからこそ、俺はパフォーマンスのように座ってしまうのかもしれない。引いてくれる手が彼のものだからこそ、俺はこんなにも愚かな面を曝け出しているのだろう。友人達には簡単に弱さも汚さも見せられはしない。
 ヤクザになど何をどう思われようと構わない。俺が最低だとしても何でも、ヤクザな彼よりも断然マシだ。人として真っ当だ。そう思う反面、ヤクザでもしっかり生きている姿に、敵わないとも思う。やりたいかどうかは兎も角、水木と同じ仕事をしろと言われても、俺にはあんな風に精力的に動く根性も能力もない。多分、ヤクザというのも、生半可な気持ちで務まるものではないのだろう。しかし、だからと言って、非道な行いをしているのかもしれないそれを尊敬する事は死んでも出来ない。認める事も。それは何度も考えた事であり、良いところがあっても犯した罪が消える訳ではないのは、理解している。ヤクザである限り、彼はどうであれ、悪なのだ。
 だが、それでもそんな理屈を抜きにして、水木は俺なんかよりもずっと確かにこの世で生きているのだと感じてしまう。何かをしなければならないのに、何をすれば良いのか。決められずに時を無駄に送る俺は、昼も夜も無く働いているらしい水木を意識すると、自分は生きている意味がないような気にさえなってくる。意味がないのならば死を選ぼうかとは、流石に思いはしないけれど。自分でわからないのならば、わかる人の言う事を聞くべきなのかもしれないと、張り通したい意地さえ消えかけてしまう。ヤクザを認める気はないが、水木の存在は、目を反らせられない程大きい。
 ヤクザなんてしていながら、人として強く見える彼の前では、俺などただの餓鬼だ。そう思うと、ただの餓鬼で居られる安心感よりも、敵わない悔しさよりも、大きな違いに虚しさが広がる。
 真夜中よりも暗い己の心に、寒気がした。頭が痛い、気持ちが悪い。だが、吐く程ではない。動いたからか、急に脚にきた酔いに、よろけてバイク諸共転げかける。何とか踏み止まれたのは、前輪がガードレールに突っ込んだからだ。ぶつかっていなければ、確実に横転していただろう。
 酒が身体に回っている。けれども、頭は冴えている。騙し騙し、歩き始めた子供のような動きで、ゆっくりと進む。転ばないよう、身体に負担にならないよう、慎重に足を運ぶ。そうしながら、頭では沢山の事をぐるぐる掻き混ぜる。今の自分を否定したいのか、肯定したいのか。自身でもわからないものに、答えなど出る筈がない。けれど、何も考えずに居る事は出来ず、この道を歩く言い訳のように苦しみを味わう。だが、噛み締めるこの苦さも、俺の場合はただのエゴなのかもしれない。
 俺は、水木に何を求めているのだろう。彼に頼りたいのか、彼を踏み台にしたいのか。
 あの部屋を、俺はどう位置付けたいのだろう。帰りたいのか、帰りたくないのか。
 顔が痒いと片手で頬を擦ると、掌が濡れた。何故だと考え、暫く思いを廻らせた後で、自分の涙だと気付く。息をするよう静かに溢れるそれに、思うところは何もなかった。水分を取り過ぎたのだと考えれば、恥ずかしさすらなく、流れるままに放置する。尤も、こんな時間に泣きながら歩こうと、誰かの目を引くわけでもなく、気にする必要もない。
 視界はぼやけているのだろうが、夜中の道では気付きようもなく、変わりなく転ばぬように進む。瞬きをすると、温もりが目から零れ、頬を伝う。時折、指の背で頬や顎を拭いながら、俺は黙々と歩きマンションを目指した。
 駐輪場にバイクを停め、エントランスへ続くスロープを辿りながら、鞄を漁り携帯を取り出す。無視していた着信を確認すると、今夜のメンバーからの心配の声が届いていた。大丈夫かと、別れた後も気にしてメールを入れてくる彼等に、頭の芯が痺れる。彼等と違い、俺は何をしているのだろう。
 時刻は25時を回っている。夕方の内に食事を始めたのと、誰も終電の心配をしていなかったのとを考えると、飲み会は早い時刻にお開きになっていたのだろう。俺はかなり一人でうろついていたようだ。もう一度、それぞれのメールを呼び出し見直す。最後に入った猪口のもので、11時前だ。最低でも二時間半は、彷徨っていた事になるのだろう。
 時間を掴むと同時に、また涙が零れた。操作パネルの前に立ち、広げた片手で顔を擦る。逆の手で鍵を取り出し、入口を開ける。真夜中だからか、エントランスの灯は若干絞られていた。相も変わらず、誰にも会う事なくエレベーターに乗り込む。機械的な動作。身体がキコキコ軋んでいる。関節に油が必要だ。明日には錆び付いて動かなくなっているのかもしれない。
 そんな心配をしながら階数表示を眺めている内に、だんだんと身体が傾いていったのだろうか。何故天井が見えるんだ?と疑問に思った時には、俺は床に倒れていた。壁にぶつけた背中と、床を滑った掌が痛いと感じたのは21階に着いてからだ。
「…………」
 開いた扉の向こうをじっと眺め、このままでは拙いなと気付き起き上がる。最近のマンションは大抵、エレベーターには監視カメラを付けているものだ。こんなところで寝転がっていては、また不審者とみなされてしまうかもしれない。警察はもういいと、俺はだらだらとだが前へ進み、玄関へ向かう。自分の身体を、中身が無理やり引き摺っているような感覚だ。何だか、よくわからない。やはり、酒はやめておくべきだった。涙が止まらない。神経がアルコールを侵し、涙腺が壊れたのだろうか。いや、脳神経が死んだのかもしれない。俺がロボットならば、頭から煙が出ている事だろう。
 玄関のロックを解除した瞬間、ここには他人が居るかもしれない可能性を思い出したが、気にせずそのままドアを引く。どうでもいいと開き直った俺を笑うように、三和土に靴はなかった。上がり框には、主人の帰りを大人しく待つ犬が二匹。水木は居ない、若林さんも居ない。誰も居ない。けれど、皓々と点く明かり。出掛けた時と変わりがないのを確かめ、中に足を踏み入れる。ドアは閉まると同時に、静かに鍵がかかった。暫くそれに凭れ、考える。上がり込んで良いのだろうか…?
 壁と天井の合わせ目を見つめ、悩む。悩むが、ここまで来て良いも悪いもないだろうとも思う。だが、悪い事であるのは、やはり明白だ。考えていたのに、答えを出すはずだったのに、何故俺はそれをせずにここまで来たんだろう。どうしようか、どうしたらいいんだろうかと不安定な空白を漂っていると、急に三和土が目の前に迫って来た。膝が崩れたのだと、四つん這いの姿勢になって悟る。掌が触れた床が冷たく、思わず肘を折る。
 頬が床に触れた途端、現実逃避のような急激な眠気が襲って来た。もしかしたら、ここには睡眠剤でも充満しているのかもしれない。重い瞼を瞬かせながらそう思う。だからこんなに眠いんだと。だったらこれに逆らうのは無理だと、身を捩り身体を丸める。
 そのまま俺は、数瞬意識を飛ばした。だが、ハッと気付き現状を再確認し、ここでは寝むれないと床を突っ撥ねる。腕立て伏せをするように体を起こし、赤ん坊のように四本の手足で這う。
 足を擦り合わせて靴を脱ぎ、そのまま膝で歩き、俺は上がって直ぐ横の部屋に転がり込んだ。降ろす必要もなく、いつの間にか鞄が肩から消えていたが、探しに戻る気力はない。
 大きなクッションを抱き込むように寝転がり、俺は静かに泣きながら眠りに落ちた。


2007/01/07