30


 最悪な目覚めだった。
 尿意を催し覚醒すると同時に、俺の全てが悲鳴を上げた。酒は勿論、床で寝るのは、あまり賢くはない。体が芯からガクガクだ。脳味噌が圧迫されながら揺れる。個人的な直下型地震に襲われ、思わず腕に触れるものにしがみ付く。だが、抱いたものは頼りなく、グニャリと潰れた。クッションだ。
「……ンぁ」
 瞼を押し上げ、ぐるりと眼球を動かす。部屋が暗いのは、窓がないからだ。夜ではない。弱い明かりが入り込んでくる足下に顔を向けると、廊下に続くドアが大きく開けられていた。多分、俺が単純に閉め忘れたのだろう。
 今は……何時だ?
「うぅ…」
 顔を顰めながら体を起こすと、無意識に声が零れた。ゾンビの呻きだと思った途端、息が止まるような鋭い痛みが頭を襲う。痛いというものではない。いっそ壊してもらったほうが楽なのかもしれないそれに、息が詰まる。これは間違いなく、二日酔いと寝不足によるものだろう。ならば、このままもう一度寝たいと思ったが、そういう訳にはいかない。
「サイアク…」
 最低な体調に悪態を零すが、休む余裕はない。早急に対処しないと、漏らしてしまう。夕食時の酒は殆ど吐いた、酔ってうろついている間にも沢山の汗をかいた、その後は泣き通しだった。なのに、何故こうも膀胱が膨れているんだと、怒っても仕方がない事を忌々しく思う。玄関に転がる鞄さえも拾えずに、俺は痛い頭を騙しながら進み、トイレへ向かった。用を足し、玄関へととってかえす動きもスローだ。
 鞄を持ち上げ、転がった携帯を拾い上げると、バッテリーが切れていた。深い息ばかりを吐きながら部屋に戻り、充電器を繋げ、携帯を立ち上げる。
「…ウソ、だろ?」
 マジかよと、画面の隅の時計をマジマジと見つめてしまった。信じられず、居間に向かいかけ、ここにもテレビはあったと思い出し慌ててリモコンを探し掴む。映し出された画面も、今の時刻が八時半であるのを伝えていた。
 この体調で、睡眠を貪らなかったのは、自分で自分を褒めたいが。それでも、遅い。遅すぎる。もっと早く起きなきゃいけなかったのに…! 語学を休むのは自殺行為なんだと、厳しい独語の講義を考え、俺はパニくる。こんな事はしていられないと、慌てて部屋を飛び出す。しかし、身体は思うように動かず、数メートルの距離で力尽きた。頭が痛い。身体がダルい。
 何故、どうして、こんなになってしまう程も酒を飲んだのだろうか。昨晩の俺を、俺は恨む。翌日に響くような飲み方をしたのは、本当に久し振りだ。ココまで酷いのは、始めただろう。昨日の俺は、どうかしていた。だが、それもまた確かな自分であるので、やはり恨みは収まらない。酒に酔い警察で遊ぶバカなど、クソくらえだッ!
 壁に片手を添え身体を支えながら、ブツブツ胸中で己の不甲斐なさを蹴散らす。だが、そんなもので発散など出来る筈もなく、更なる疲れを覚えるだけだ。ダルい身体が重さを増し、キッチンへのドアはノブを少し回しただけで、簡単に開いた。己の重みを利用して開けたドアから身を離し、冷蔵庫に向かう。誰も居ないのを知りつつ、失礼しますと小声で断り、俺は目の前のグレイの扉を開けた。
「……あった」
 ヤクザか何かは知らないが、三十路を過ぎた男ならば世話になっているはずだと。大した理由もないくせに、勝手に決め付け覗いたそこには、けれども俺の予想通り求めた茶色の小瓶があった。ファイト一発の文字が、TVCMのムキムキ男よりも眩しく心強い。見付けた栄養ドリンクを一本頂戴し、パキパキ音を鳴らしながらアルミの蓋を毟り取る。二日酔いでこんなものに頼る自分は少し情けないが、そんな事に気をかけている暇はない。あのスカした水木も二日酔いになったりするのか、これをいつ飲むのかなどと考えている余裕も、残念ながらない。しかし、馬鹿にする事は忘れない。こんなマンションに住むのならば、庶民的なこれではなく、もうちょい高価なドリンクを買えよと軽く笑ってやる。
 あの見た目で、あの雰囲気であっても。やっぱりオヤジじゃんかと更に笑いを大きくしたくもあったが、それをするのは自殺行為なので我慢する。余裕がある時の為に温存しておこうとネタを心に書きとめ、それでも少し未練がましく思いながら、俺はシンクに空き瓶を置き風呂場を目指す。
「……酷ェ…」
 洗面台の鏡に映る顔を見て、再び寝たくなった。顔は浮腫んでいるは、目は腫れているは、クマが出来ているは、当者比五割増しの醜さだ。シャワーで少しはマシになればいいがと服を脱ぎ、歯ブラシを咥え浴室へ入る。湯船に浸かる時間が全くないのは勿論、本当はシャワーだけであっても浴びる余裕はない。だが、それでも汗を流さねばどうにもならない。もしもこのまま登校しようものならば、臭い汚いと非難をこの身に受ける事になるだろう。二日酔いにそれはきつい。からかいなど、受けている元気はない。
 時間は気になったが、背に腹は代えられないと、左手でえずかない様ゆっくり歯ブラシを動かしながら右手で体を洗い、手早く洗髪も済ませる。慣れた鼻ではわからなかったが、俺は相当臭っていたのだろう。石鹸の香りを胸に吸い込むと、ダルい身体が軽くなり、少し気分が晴れるような気がした。冷たい水で顔を洗い、パシリと両手で挟むように頬を叩く。やはり湯を浴びて良かった、スッキリだ。
 腰にタオル一枚の格好で部屋に戻り、服を着ながら何となく、水木はまた帰って来ていないんだなと思い出し考える。もしかしたら昼間に戻ったのかもしれないが、キッチンにも風呂場にもどこにもその痕跡はなく、俺の酒と汗臭い着替えを放り込んだ洗濯機も空だった。
 俺としては、こんな自分の姿を見られずに済み良かったと言えるのだが、それでも何故だと思ってしまう。彼はどうしてここに来ないのか。四晩にもなれば、流石に気になる。仕事ばかりではなく本宅や他の別宅には帰っているのだろうが、ここには来ない。その理由は、やはり俺が居るからだろうか…? 水木は俺が出て行くのを、もしかして待っているのだろうか。元々、ここの使用頻度が高くはないらしいが、それでもやはり。普通は自分のテリトリーに他人を入れたのならば、様子くらいは見に来るよな?と考えてしまう。だが、考えてわかるのならば、苦労はしない。
 避けられている訳ではないんだろうが…と思いながら、講義に必要なものを詰め、辞典のせいで若干重い鞄を肩で背負う。
 靴を履き、玄関を出て鍵の在処に記憶がない事に気付き、俺は慌てて閉まりかけたドアに腕を突っ込んだ。
「――痛ッ!」
 思った以上に重かったドアを止められず、手首を挟み込んでしまった。反射的に右手を抱き込み蹲った俺は、顔を歪める程に大きく口を開け、声を出さずに絶叫する。痛いなんてものではない。息が、出来ない。
 ズキンズキンと疼くようになり、漸く呼吸を開始した時、こめかみから頬を伝い顎に向かって水滴が流れた。乾かしていない髪の水分ではなく、脂汗だろう。折れたのではないかと、握り締めた左手を離し見てみると、丁度手首にある二本の骨の上を強打しているのが、浮き出る赤く腫れた筋でわかった。明日には変色するだろうそれにやんわりと触れながら、中の骨を伺う。
「……いッ、痛ぅー!!」
 頭の痛さなど吹き飛ぶ痛みだ。だが、多分、折れてはいない。しかし、触ったくらいではヒビまではわからない。
 ゆっくり手首を回しながら立ち上がる。左手で撫でながら、目の前のドアを眺める。無駄だと知りつつ、ノブに手を掛けるが、当然ドアは1ミリも動きはしない。やってしまったと、ドアに額を押しつけ記憶を探る。
「……」
 昨晩、エントランスからここまで、部屋の鍵は手で握っていたように思う。ならば、玄関に入ってもそうだったのだろう。財布に戻しはしていない。多分、鞄にも放り込んではいないだろう。それでも念の為にと両方を漁ってみるが、やはりない。今着たばかりのパンツにも上着にも、当然ながらない。
「……マジかよ…」
 こんな形でこの部屋を失うとは思わなかったぞと、思わず天を仰ぐ。吹き抜けの屋根から降り注ぐ光が眩しいが、俺の中までは届かない。まさか、オチがこれだとは、水木も想像していなかっただろう。……なんて、茶化して馬鹿な逃避などしていられない。第一、鍵を中に入れ込んでしまったのでは、このままトンズラする事も出来ない。何とかしなければと、よろよろエレベーターに向かい、俺はパネルから管理室を呼び出した。

 時刻は九時。1コマ目の独語は、二十分以上の遅刻は欠席扱いになる。前後期合わせて欠席が許されるのは三度までであり、理由は全て、たとえサボリであっても報告せねばならない。その理由が忌引と病気の時のみ、例外にされ欠席数には入らないらしいが、証拠を提示しなければ認めては貰えない。
 テキストの内容は簡単な方であり、講義もなかなか面白いが、遅刻や欠席にはかなりウルサい。実際、このシステムゆえに単位を落としたという者が、サークル内にいた。試験はそこそこ良かったのにD判定とはやっていられないと、彼は二回生の時には別の教官を選択したらしい。その人生をも左右するタイムリミットまで、あと三十分。十分以内にここを出ないと、完璧に俺は初めてのイエローカードを貰う羽目になるのだろう。二ヶ月で遅刻一回のこの割合では、単位を無くす事になってしまう。最悪だ。
 直ぐに対応に出てくれた若い声の女性に、インキーをしてしまったのでエレベーターを動かしてくれないかと頼むと、キーナンバーに暗証番号、昨夜の帰宅時間などを問われた。本当に住人であるかどうか確かめているのだろう、「少々お待ち下さい」と待たされる。この際、鍵はもういい。諦める。だから早くここから出してくれと、俺は呻く。パネルの時計が進む度に、焦りが募る。
「あの…!」
『はい。どうされましたか?』
 我慢をする間もなく限界が訪れ、再び通話を繋ぎ声を上げたが、相手のどこまでも冷静な声に少し気が逸れる。
「…鍵は、今は別にいいんです。持って出ずとも、どうにかなると思いますから……こちらでちゃんと対処します。ですから、あの急いでいるんで、エレベーターを動かして貰えませんか?お願いします」
『申し訳ございません。もう少しお待ち下さい、只今係りの者が対応していますので』
「…………いや、あの」
 ちょっと待てよ、オイ。お待ち出来ないから言っているのに、同じ言葉を繰り返すな。確かに、中に鍵を閉じ込めた俺が悪いけれど――ムカツク!クソッ!サポート係が、住人を閉じ込めるな。本当に対応しているのか?何をしているんだ。管理人の教育は行き届いていると言っていたが、全然そんな風に思えないんですが、戸川さん。役にたたねーじゃん…!
 そう胸中で口汚く詰り、腹立ちに舌打ちをしかけた時。俺のそれを咎めるように、頭がズキンと疼いた。クゥーと泣くように背中を丸め、額に掌を押し当てる。だが、力を入れ重みを掛けると、挟んだ手首が冗談にならないくらいに痛い。もしかしたら、頭の骨も手首の骨も、このまま割れて砕け散るのかもしれないと本気で思ってしまうほどにだ。
「……絶対、死ぬ」
 左腕で抱え込むように頭を押さえ、右手首を腹に挟みしゃがみ込む。口から出るのは、呪いのみだ。今、この現実が恨めしい。一度眠ればこの悪夢は覚めるというのならば、この場で直ぐに爆睡してやるのに。くそッ。
 深呼吸を繰り返し痛みが少し和らぐと、別の意味で頭痛を覚える想像が頭に浮かんだ。まさか彼女は、部屋の契約者である水木に俺の確認をとっているんじゃないのだろうか? と。
 もしもそうなら一体どうしたものかと、今になって焦りが沸き起こってきた俺の前で、前触れもなく静かにエレベーターの扉が左右に開いた。降りて来た壮年の男に、「おはようございます、お待たせ致しました」と頭を下げられるが、驚きばかりで何が何だかわからない。突然何だ?
「……。……あの、どちら様ですか…?」
「スタッフの白崎と申します」
「あぁ、はい…どうも」
 待ちに待ったスタッフさんかと頷きながらも、頭の中までは上手くそれが伝わってこない。これで出掛けられると言う安堵感もなく、ただ反射的に身体を伸ばす。間抜けな面を晒しながら、このマンションで初めて出会った人物を、俺は上から下へと眺めた。少し銀色の髪が混じる男は、管理人と言うよりも、ここに住んでいそうな品のある人物だ。だが、ブラックスーツの胸には、確かに「STAFF白崎」のネームプレートが付けられてある。本物だろう。ならば、この人こそが、彼女が言っていた「対応」か。成る程、ふーん。
「お急ぎのところ済みませんが、キーをお持ちになってお出掛け下さい。どうぞ、ロックを解除致しますので」
「え、あ、はい」
 済みませんと頭を下げながら促されて足を進めると、男は静かに後を付いて来た。漸く実感し理解し始めた心は、男のホテルマンのような洗練された雰囲気に圧倒され、萎縮してしまいそうになる。このマンションでこんな人物なのだから、管理人というよりもコンシェルジュと言う方が似合うのだろう、洒落た感じだ。マスターキーなのか何なのか、機械にカードを潜らせる仕草さえ決まっており、現状を忘れ感嘆しかける。
 思わぬ人物の出現に、俺の頭からは完全に遅刻の事は飛び去っており、再びキーナンバーと暗証番号を聞かれ素直に答え従ってしまう。すんなりと染み込んでくるそれは、支配されているのは同じでも水木の威圧感とは真逆のものだ。もっとバタバタするのだろうと思い苛立っていたのに、あまりのスマートさに一気に気分が萎えた。調子が狂う。自分が悪いのに女性スタッフに対し逆ギレしてしまた事実が、ただ恥ずかしい。
「お待たせ致しました」
「あ、ありがとうございます…済みません」
 鍵を外しドアを大きく開けた男は、俺を中へ促すと、「それでは失礼します」と早々に腰を折った。スラリと伸びた背中が眼下に広がり、かっこいいと思わず思う。だが、そんな仕草に見とれているわけにはいかない。
「え、あ、いや、その。ちょ、ちょっと待って下さい」
 我に返り、どもりながらも、どうにか俺は男を引き止める言葉を吐き出す。だが。
「あの、えっと…。…お手数をお掛けして、済みませんでした。これからは、その…もっと気を付けます。……態々、ありがとうございました」
 忙しくないのなら、直ぐに鍵を取ってきますから、待っていてくれませんか? 貴方が降りたエレベーターを再び呼ぶのは時間がかかってしまうと思うので、出来るのならば一緒に乗って降りたいのですが…?
 引き止めたのはそう言いたかったからであるが、本気で急いでいるからといって、流石にそこまでの事は出来やしない。第一、待って貰えたとしても、鍵が直ぐに見つかるとは限らないのだ。最早、ここは大人しく鍵を探し、俺は一から出発の動作をせねばならないと言う事なのだろう。全てが、自業自得だ。
 しかし、それをわかりつつも、往生際悪く俺は考えてしまう。セキュリティの観点からこうなるのだろうが、それなら逆もあるだろう。部屋に入れてくれるのではなく、ここから排除して欲しかったと思いながら、「お世話になりました」と俺はペコリと頭を下げた。
 そうしてそのまま、下へと向けた目で玄関に鍵が落ちていないかと隅まで視線をと飛ばすが、どこにもその影はない。やはり、そう上手く事は運ばないようだ。畜生。
「いえ大丈夫です。また何かありましたら、お気軽にお申し付け下さい」
 柔らかい笑顔に、一瞬癒された。だが、白崎さんを見送り鍵を探し始めると、直ぐに苛立ちに支配される。玄関にない、廊下にない、部屋にない、着替えた服にもない。一体どういう事だ!? 取り出したパンツをもう一度洗濯機に放り込み、俺は舌を打つ。どこへ行ったのか考えながら洗濯乾燥をセットし、勢い良く蓋を閉め、キッチンへ。しかし、そこにもない。どこにも、ない。
「嘘だろ、オイ。ふざけんなよ…」
 このままでは、今日中に大学へ行くのは無理なのかもしれない。部屋からエレベーターを呼び出し出掛ける手はあるが、帰りはどうする。戸川さんに電話をするか?鍵を失ったのだと、泣き付くのか…?
 今直ぐ飛び出したいのならばそれしかないなと考えるが、流石に意図的に実行出来るものではない。何より、預かった鍵を無くしたままにも出来ない。これ以上、恥は出来るだけかきたくない。ならば、やはり探すしかない。
 これだからカードキーは嫌いだと、今更ツッコミを入れても空しいだけだというのに、俺は悪態を吐く。見付けた暁には、パンチで穴を開け首からぶら提げてやろうか、大きなキーホルダーを付けてやろうか。しかし、当然だが、水木に返却するという手もあったりもする。それを一番に思いつかない自分が、また腹立たしい。
 何にせよ、鍵を見付けない事にはどうにもならない。本気でこのままバックレてやろうかと考えてみるが、白崎氏が報告するかもしれず、隠し切れないのなら逃げる意味もなくなる。逃走するだけなら、猿でも出来る。ヤクザから逃げるのなら、逃げ切るが絶対であり、捕獲されたら終わりだ。尤も、鍵を持ち逃げするのなら兎も角、無くして逃げるのならば追いかけては来ないのだろう。
 どうせ実行する勇気はないくせに、考えても仕方がない事を考え、自身で呆れる。想像して遊んでいる場合ではないと、探索を再開する。昨晩は自力で入ったのだから、絶対にこの部屋のどこかにあるはずだ。部屋自体は広くとも、俺が動いた範囲は狭いのだから見付けられないわけがないと、今確かめたところをもう一度よく見ながら今度は逆に進んでみる。
 だが、ない。
 まさか、トイレに流してしまったんじゃないよな?と。確率は低くとも有り得ないとも言い切れない想像に、俺は窓のない部屋で思わず足下のクッションを蹴った。中身が半分程しか詰まっていないそれは、ボフンと低く小さな音を上げる。そのまま、猫を掴むかのよう片手でそれを持ち上げ、鍵が隠れていないかと再度下を確かめるが、当然先程なかったものが現れる魔法は起きていない。実は握って寝ていて、その辺に放っていると言うのが、可能性としては一番高いんじゃないかと期待したのだが――ない。ないないない。
 もう一度、よーく考えよー。カードキーは大事だよー。などと、歌って踊れば出てくるのであれば、あのCMの子役のように腕を胸に合わせ踊ってやるのだが。都合良くそんな事が起こるはずがないので、馬鹿な真似はせず、室内を見回しながら考査する。昨晩は玄関から直接この部屋に来たのだ。情けなくも、這って。――這って…? そう、這って、だ!
 唐突にひらめいた。もしかして!?と、入口ドアに面する場所の絨毯をガバリと捲る。
 焦茶色のフローリングの上で輝きを放つように、小さな銀のプレートがそこに鎮座していた。
「…クソッ!」
 喜びよりも、苛立ちの方が先にやって来る。
 ナンバー05、お前はこんなところに居たのかと盛大に顔を顰め、馬鹿にしやがって!からかったな!と悪態を吐く。だが、恨むのならば隠れていた鍵でも、直ぐに見付けられなかった今の自分でもなく。這って進む途中で、絨毯の下に挟み込んでしまった間抜けな昨晩の己を恨むべきだろう。悔やんでも悔やみきれない。酒に酔い後悔した事は今までにもあったが、ここまで馬鹿をしでかすのは初めてだ。
 これを教訓に、アルコールに逃げるのは止めよう。そうでなければ、体が保たない。ひとつひとつは些細な事であるのだとしても、酔い潰れる度にこんな事態に襲われていては、穏やかな気持ちを忘れてしまいそうだ。腐る事は間違いない。
 とりあえず、暫くは禁酒だ。ただ酒でも遠慮しよう。そう心に近いながら、脱力しかける体に活を入れ、今度こそ鍵を持ち俺は部屋を後にする。
 意外な事に、エレベーターは呼び出すと同時にその扉を開けた。偶々なのか、先程の白崎氏が気を利かせ待機させてくれていたのか。驚きつつも有り難く乗り込み、恋い焦がれる程に求めた地上を目指す。
 時間を有効活用し、騒いだお陰で身体が熱いと着ていた上着を脱ぎ、俺は適当にたたみ鞄に詰め込んだ。半袖Tシャツから伸びる腕の内側が、異様に白い。今年はまだ、殆ど焼けていないよなと、若干柔らかい肉を摘む。このままサークルを続ければ、夏が終わる頃には真っ黒なのかもしれないが……どうだろう。夏の合宿など、参加出来るかどうか怪しいものだ。夏は多分バイト優先の、仕事一色だろう、きっと。
 そう思い、ふと何を自然にそんな想像をしているのかと自分に呆れる。俺としては確かに大学を辞める気はないが、父との問題が解決済みだと考えているわけでもない。サークル以前の重要な事柄が目の前にあるのに、俺は何をしているのか。ホント馬鹿だと溜息を吐き、まだ酔っているのかと情けなく思う。残った酒は、しぶとく俺を愚かにする。
 それでも、今は嘆いている暇はないと、エレベーターが一階に到着すると同時に掛け出し、俺は足早にエントランスを抜けた。
 流石、高級マンションだ。鍵を掛けずに置いていたマウンテンバイクは、盗まれる事も悪戯される事もなく、無事だった。


 栄養ドリンクのお陰か、途中で倒れる失態は犯さずに辿り着いた教室は、何て無情な事なのだろうか鍵が閉まっていた。どうしたものかと思案をしていると、中からドアが開き、まだ三十程の年齢だろう若い教官が現れる。
「抜き打ちテストをしているから、鍵をかけたんだ。始めたところなんだが、受けるかい?」
「遅れて済みません。受けさせて頂けるのなら、是非お願いします」
「いいよ。けど、遅刻はオマケしないから。マイナス1」
「はい、以後気を付けます」
「入りなさい」
 ありがとうございますと、教官に続き教室へと入り、小テストを受け取る。教卓に近い席につき、終了の合図があるまで、集中力は全くなかったが、俺はとにかくマスを埋めていった。...の上は、auf。...の中は、in。...の下は、unter。なら、...の間だは何だっけ…?ド忘れだ。英語ならばと考え、zwischenだと思い出す。二年半やっていて、これはない。ボケボケだ。
 冷房の中でも直ぐには体温は下がらず、ポタリと顎から落ちた汗が、テスト用紙に染みを作る。鞄からタオルを引っ張り出し、汗を拭い頭に巻くと、後ろから軽くクイッとそれを引っ張られた。教官の目を盗み振り向くと、斜め後ろの席に草川がいた。ミニ扇子を差し出し、いる?と声は出さずに問い掛けて来る。草川と顔を合わすのは、一昨日のあの時以来だ。
「…ああ、サンキュ」
 小声で礼を伸べ、扇子を受け取る。捻った体を戻し、再び試験に向かいながら、俺は左手で扇子を扇いだ。起こる風が、心地良い。だが、ちょっと居心地が悪い。独語が草川と一緒なのを失念していた。とは言っても、別に避けているわけではないのだから、気まずさを覚える必要はない。だが、それでも。あんな事があった後で漸く顔を合わせたかと思えば、俺の方は二日酔い。ちょっとかっこ悪い。顔の浮腫みは、目の腫れは取れているのだろうか? 情けない。
 小テストを終えた後は、いつも通りの講義を受け、終了後に教官のもとへ。遅刻の理由を聞かれ、正直に鍵を閉じ込めてしまったのだと話すと、軽く笑われた。
「それは災難だったが、自業自得でもあるな。進級したければ、今後は気を付けなさい」
「はい。済みませんでした」
「それより。それはどうしたんだ?」
 名簿に俺の遅刻を記した教官が、ペンの頭で俺の右手首を指した。
「出掛けに玄関ドアで挟んでしまって」
「痛いだろ?」
「えぇ、まぁ、でも大丈夫です」
「保健管に行った方がいい。僕も年末に車のドアで指を強打したんだが、今も痛い。半年経っても時たま疼く。こういうのは完治し難い」
「ですよね…」
 見事にぷっくりと太ったミミズのように腫れた手首を目の前に持ち上げて眺め、俺は溜息を吐く。内出血による変色が、気持ち悪い。赤と黒と緑と紫の混合はグロテスクだ。
「湿布を張って貰って、ちゃんと冷やしておきなさい」
「はい、そうします」
 そう応えはしたが、教科書を拡げたままの席に戻り携帯で時間を確認すると、休憩時間は残り五分を切っていた。保健管理センターに行っていては、次の講義でも遅刻をしてしまう。行くのならば昼休みだと早々に諦め、教科書と筆入れを鞄に詰めたところで、草川に扇子を返しそびれたのに気付いた。
 辺りを見回し、その姿が既にないのを悟り、俺は小さく溜息を吐く。2コマ目は、俺は4階、草川は3階なので、大抵一緒に階段を上っていたのだが、今日は避けられたらしい。教室は知っているので返しに行くかと階段に向かう途中、探した少女に後ろから呼ばれた。
「大和くん」
「ああ、草川。良かった、探していたんだ。これ、ありがとな」
「あげるよ」
 逃げられたわけではなかったようで、普通に隣に並んできた草川に扇子を向けると、受け取らずに鞄を開けながらそう言った。トートバッグに片手を入れ、いつものように笑う。
「それ、今朝駅前で貰ったんだけどね――と、あった。ほら、まだあるのよ」
 もうひとつあげようか?と同じような二本の小さい扇子を取り出し、草川はそれを拡げた。金魚と蜻蛉の柄のそれには、それぞれ社名が入っている。借りたものを拡げよく見てみると、これにも隅に消費者金融の名前。扇子は扇子であり、それ以上もそれ以下もないが、何だか一気に価値がなくなったような錯覚に陥ってしまう。
「最近はティッシュよりも、他の小物が多いみたいだよ。あ、団扇もあるの、ほら」
 扇子を鞄に放り込んだ手で、草川は柄のない丸い団扇を取り出し、パタパタと仰いだ。何の広告かはわからないが、水色のサルが描かれている。愛嬌たっぷりだ。
「だから、お裾分けね。貰って?」
「そう?じゃ有り難く頂くよ、サンキュー」
「どういたしまして。ね、それより大和くんが遅刻するなんて、珍しいよね。もしかして、二日酔い、とか…?」
「……臭う? 悪い」
 小さく首を傾けた草川に対し、反射的に口元を押さえるが、直ぐにそれは大丈夫だと否定された。ならば、そう問う理由は――
「――立原か…?」
「まぁ、そんなところカナ」
 そんなところも、こんなところも、何もない。昨日の今日で話を聞けるのは、立原からくらいのものだろう。下西も猪口も、そう無闇には話さないだろうし、草川が少し苦手な原田は態々教えにいかないだろう。この場合、立原しかいない。立原なら、電話を掛けてでも草川に面白可笑しく報告していそうだ。
「……お前ら、仲いいよな」
 全くあの男はと、溜息を飲み込み落とした声は、まるで嫉妬するかのような不満気なものだった。呆れよりも、恨みの方が大きい。だが、俺のそれには気付かずに、草川は軽く握った右手を顎の下にあてる。
「うーん、そうかな? そうでもないんだけど…、確かに最近は、ちょっとつるんでいるかなぁ。言う程でもないと思うけど……ほら、ねぇ。立原くんって、あれで意外にも結構な世話焼きでしょ? だからね、きっと、放っておけないのよ。立原くん、大和くんの事がお気に入りだもん。だからだよ」
 だからって、何だ? 立原が俺を気に入っているのと、草川との仲が良いのと、どう繋がる? それを言うのなら、立原くんは私を気に入っているから、だろ。日本語がおかしい。
「俺じゃなく、草川を、だろ。妙なところで間違えるなよ」
「ぶっぶー、違うよ。私じゃない、私はただのオマケ。わかってないわね、大和くん。立原くんは、友情に熱いのよ」
「お前も友達だろ。オマケで立原は他人の世話は焼かないさ」
 俺の反論に、ふふっと草川が笑う。何故に立原をネタに語り合っているのかと、俺も可笑しくなり笑った。
「ねぇ。それで、どうなの?気分、大丈夫?」
「ああ、平気」
 階段を上りきり、三階で足を止めて応えると、正面に回り込んだ草川が下から見上げてくる。襟の開いた服の胸元が、若干際どい。半歩後ろに足を引き、体重を移動する。肩に防火シャッターのパイプが当たった。
「ホント?」
「大丈夫だって」
「でも、暑いしあんまり無理しないでね。あと…あのね、この前の事だけど」
「ああ、うん…」
 不意に始まった話しに、俺は斜めにしていた身体を起こす。
「気持ちは、変わらない。直ぐには無理だから、それは許して欲しい。でも、だからって大和くんに無理を強いるような事はしたくないから、迷惑な時はちゃんと言って?」
「……草川」
「今まで通り元には戻らないのかもしれないけど、今までと同じように仲良くしていたいから…って言うのは、ダメかなぁ?」
 お昼はパスタが食べたいの、あの店に行こうよ、ダメかな? ――そんな風に、深刻さはどこにも滲まないそれに、俺は思わずいいよと笑いそうになり引っ込める。何でもないように装っていても、実際には全然簡単なわけがないのだから、俺が手放しで喜んではならないのだろう。
「ね、大和くん」
「……。駄目じゃない。だけど…草川はそれでいいのかよ?」
「うん…、今のところはそれがベストかなと思うの。……私もね、大和くんと似たような時があったから。自分の事で一杯いっぱいで、他人の気持ちなんて慮っていられなくて、酷い事をしちゃったりした時もあった。その自分を思い出したら、大和くんは全然私みたいに意地悪じゃなくて、ちゃんと誠実でね、なんか比べたら恥ずかしくて恥ずかしくて…笑っちゃう。ごめんね、煩わしちゃって」
「そんな事は言うなよ。草川は間違っていない、悪くない。俺は感謝しているよ。嬉しかった、ありがとう」
「……大和くん、やっぱりちょっと変」
 褒められて有頂天になったわけではなく、心からの感謝を込めて伝えた気持ちに、草川は訝るような表情を作る。オイオイ、それはないんじゃないか。 「何だよ」
「あのね、もう。そんな気は使わなくていいの。必要なし! わかった?」
「……了解」
「うん、わかればよろしい。それよりも、体調良くないのに無理しちゃ駄目だからね」
「あぁ、そうだな」
「うん、そうだよ。自分を大事にしないと、何も出来ない――って、立原くんが言っていたよ」
「…言ったのが立原だとすると、違う意味に聞こえるな。ただの自己チューだろ、それ」
 顔を顰めそう感想を述べると、ヒドいねと草川は否定しつつも、感じるところはあるのか苦笑した。その時。突然ドンッと、俺の身体に衝撃がやってくる。
「お二人さん、チャイムなったよ、余裕だね。千束、行かないの?」
 振り向くと、名倉が俺の鞄にくっついていた。小泣きジジイだろうか、コイツは、ったく…。
「……重い」
「失礼だなァ。自慢じゃないけどね、健康診断の結果は痩せ過ぎだったんだよ。その僕を掴まえて、重いだなんて…千束弱過ぎ。意外と虚弱体質なんだね」
「……」
 ホントに全然、自慢にならない恥だなと肘で脇腹を突いてやると、名倉は笑いながら離れた。草川が腕時計を見て、「じゃ、私も行くね」と手を振る。去って行く草川に名倉が手を振り返すが、促した奴が何を悠長にしているのだろうかと、俺は再び肘で小突いてやった。
「ンな事している場合かよ、行くぞ」
「うん。でも、実はあんまり行きたくないんだよね。予習していないんだ。こういう日って絶対に当たる。ね、そう思わない?」
「だったら、俺もヤバイな」
「予習していないの?珍しい」
「でも、さっきの独語もそうだったけど、当たらなかったぞ?」
「へぇ、凄い。運がいいね。是非あやかりたいよ」
 本当はただ単に、遅刻をしたのと小テストがあったからこそ、講義が短く当たる間がなかっただけなのだが、そこまでは詳しくは語るまい。騒がれ遊ばれるだけだ。
 名倉と共に教室に入った時は、始業ベルから五分程過ぎていたが、教官はまだ来ていなかった。それから十分後。遅れてやって来たのは教官ではなく事務員で、無言で黒板の前に立ち「2コマ山中英語T休講」と記すと、そのまま出て行った。休講になりましたと、声を出して伝えない手抜き事務員に思う事は多々あるが、教務の愛想なさは今更の事。不親切極まりないのは、学部の常識。それよりも、もしかして俺のツキが回復し始めたのかもしれない事の方が重要だった。
 ラッキーと喜ぶ名倉に素直に同意し、席を立つ。
「行くか」
「うん。でも、どうしようか。早いけどお昼にする?」
「ああ、そうだな」
 そういえば腹が空いたなと、言われて気付く。思った程も胃は荒れていないのか、二日酔いによるムカつきはない。身体は若干ダルいし頭も重いが、起きた時よりは断然マシだ。ドリンク剤が効いたのだろう。
 だが、右手首は変わらずジクジクと痛い。折れてはいないと確信しているが、それでも見た目と痛みに脅され不安になる。まずはこれを何とかしなければ。

 食堂に向かう前に保健管に寄り、貼れた手首を貼り薬で冷やして貰った。替えの湿布を一袋渡され、痛みが取れなければ病院へ行くようにと言われた。もしかしたら、小さなヒビが入っているかもしれないと。しかし、カモならば、とりあえずはこのままでいる外ない。更に不安を覚えつつも、冷やすと治まる痛みに、重要度を下げる事にする。気にしても、痛いだけだ。
 だが。包帯を巻かれた腕は、自身のそんな考えに反し、大袈裟に目立ってしまうものだった。脱いでいたシャツを羽織るが、袖のボタンは留められず、結局は周囲の知る事となる。会う奴会う奴にどうしたんだと聞かれるのには、辟易した。ドアに挟んだと言うのはダサく、ちょっと捻ったんだと適当に答えて流す。しかし、その応えには別の落とし穴があり、午後から顔を合わせた下西は「やっぱり送って行けば良かったんだよね…」と表情を曇らせた。昨夜、俺はこの少年を相当不安にさせたらしい。
「オイオイ、別にあれから転んだわけじゃないぞ。昨晩はちゃんと帰って寝たんだ、勝手に酔っ払いにするなよ。これは今朝、出掛けにやったんだ」
 まさかそんな風に気にされるとは思わず、俺は少し焦って言葉を並べた。だが、そんな俺を助け上げるのか、蹴り落とすのか。話を聞いていた立原が「何にしろ自業自得って事さ。下西、お前は気にするな。放っておけ」とさっさと後方へ思いきり投げてくれる。
「…・・・」
 確かに、俺が悪い。下西は気にしなくていい。だが、お前に言われるのは少し面白くないぞと視線を向けると、立原は気付かない振りをし、寝る態勢に入った。
 そんな彼に同調し、俺もまた4コマ目はお昼寝タイムに費やした。激眠だった3コマは、気を抜く事も出来ない基礎演習だったので、その反動が来たかのように本気で睡眠を貪った。
 起きた時には、講義は終了していた。優しい下西が起こしてくれなければ、そのまま寝続けたのだろう。携帯の呼び出しで起きると同時に颯爽と自主早退したらしい立原とは、やはり全然違う。本当にいい奴だ。
「疲れているみたいだね、帰って寝なよ」
「ン…、そうしたいけど、バイトだからなぁ」
「何時から?」
「七時半から九時」
 大変だね、頑張ってと下西は励ましてくれた。けれど、一番この苦労を理解して頂きたい雇主は、俺をいいように使ってくれた。
 八時から一時間、役員会の集まりがあるので家を出なければならない。九時過ぎには戻って来るので、息子と一緒に居てくれないか。――理不尽を感じようとも、家庭教師に断る術はない。
 ゲームでもして仲良くね、と息子に言い置いた時点で、俺の無給奉仕が決まった。教師を目指す端くれだ、子供の面倒をみるのは嫌いではない。だが、お母さん。あなたの息子は中学二年生ですよ?一人で留守番出来る歳でしょう。それでも心配ならば、寄り合いだろうと何だろうと、夜に外出をするな。言っておくが、俺は家庭教師であろうとも、何の繋がりもない赤の他人。いいのか、オイ。危機管理がなっていないぞ。
「センセ、アイス」
「俺はアイスじゃなく、人間だ」
「何それ?――あ!ヤバッ死ぬ!」
「……」
 あの親にして、この子あり、だ。だが、ヤバイのはお前の頭だよと思いながらも、テレビ画面を見ながらアイスアイスと五月蠅いので、仕方なく余所様宅の台所に入り生徒殿の所望の品を持ってくる俺。ちょっと、虚しい。情けない。しかし、こうして甘やかせるが故に、この少年がアホな大人になったとしても。多分、俺に責任はないだろう。なので、考えそうになる事は、考えないように努める。
 対戦ゲームをしながら器用にカップアイスを食べる少年をぼんやり見つつ、俺は母上様の帰りを待つ。
「…………」
 ……なんて、時間を無駄にしているのだろうか。勿体ない。今夜は英語の予習をせねばならないのに、俺はいつ帰れるのか。今日独語で当たらなかったのは偶々だ、明日の英語は絶対当たる。日付と学籍番号の末尾が同じなのだ、間違いない。
「センセ、する?」
「ん…?」
「難しくないよ?」
「いや、俺はいいから。続けて」
 気を使ってくれたのかコントローラーを差し出されるが、力なく首を振る。いつも菓子を食べながら遊んでいるのだろうそれは、蛍光灯の下でよくテカっており、持つ気にはならない。何より、仲良くゲームを楽しむ場合でもない。俺はただ、一分でも早く暇が欲しいのだ。さっさと帰りたい。
 だけど、帰ると言っても水木の部屋なんだよなぁ…と。ここ数日毎日何回もしている突っ込みを再び胸中で重ね、溜息を吐く。利用させて頂いてはいるが、あの部屋は相変わらず重い。溜息のひとつやふたつは落ちるというものだ。だが、俺のそれは少し大き過ぎたのか、聞こえたらしい少年が「センセも大変だね」と平坦な声で言った。
「ママはまだまだ帰って来ないよ」
「え、でももう九時半過ぎたよ。そろそろ戻られるんじゃないのか?」
「多分、ファミレスでお茶でもしてるんだよ。そういう人なの」
「…そう?」
「絶対パパの方が先に帰って来るだろうね。ボクの勘はそう言ってる」
「……。…お父さんは、いつ戻るの?」
「さぁ…いつも12時くらいなんじゃないかなぁ。寝てるから、よく知らない」
「…………」
 まさか、いや。いくらなんでもそれはないだろう。そう信じたくて否定の言葉を探すが、息子である彼の推測を覆せるだけのものは俺にはなかった。
 結局、十時まで待ったが母親は帰って来ず、連絡を取ろうにも息子は携帯番号を知らないと言うので、父親に話を付ける羽目になった。初めて話す徳間氏は、家庭を伺う限り仕事一辺倒な男だろうと密かに思っていたのだが実際はそうでもなく、話した感じでは柔和な優しい人だった。妻の不手際を詫びつつも、息子の様子を伺ってくるところは、イイ父親でしかない。
「ショウはお父さん似だな」
 電話を終え、確信を持ってそんな言葉を繋ぐと、少年は照れながらも嬉しそうに笑った。その笑顔は、少しだけ俺の疲れを軽くするもので、ささくれかけていた心が癒された。


2007/02/04