31


 マンションに着き、またもや誰にも会わずに部屋へと到着する。ヘトヘトで、クタクタで、頭が全然働かない。鞄を部屋に置き、風呂場へと直行。給湯のスイッチを押し、洗濯機の中の物を取り出し、新たに着ていた服を放り込み浴室へ。
 数日過ごしただけで身に付けた、一連の動作。当然のように風呂に入る自分を、俺は容認しているのか。今夜は、扉を開ける事も躊躇わなかった。慣れとはなんて恐ろしいのだろう。
 だが、今は、それについては考えまい。
 いや、もう悩むのにはホトホト疲れてしまい、考えようにも考えられない。水木が居ないのだから、もう何でもいいかと。風呂くらい良いじゃないかと思えてしまう。縮こまって部屋の隅で寝ようと、堂々と大の字でベッドを占拠しようと、目撃者が居なければ何の意味もない。何をどうしようが、何も変わりはしないのだ。
 お湯が溜まる間に身体と髪を洗い、「森のくまさん」を聞いてから湯船に浸かる。腹が立つ事に、頭をバスタブの縁に乗せ背中から腰を側面にぴたりと付けると、どんなに頑張っても足は対面の縁には届かない。尻を浮かせれば可能だがなと、腕で身体を支えるが、いくら浮力があろうと維持するには限界があるし、アホらしい。それでも、座る位置を変え顎まで湯に浸かり、足を延ばして爪先をどうにか縁にかける。多分きっと水木ならば、余裕で踵が乗るのだろう。俺と水木は身長差よりも、脚長差の方が大きそうだ。
 一度だけ見た、無意味な程にバランスの良い水木の裸体を思い出し、止めればいいのに俺は湯の中の身体に視線を落とす。水面の屈折と波紋により歪む身体は、悪くはないのだろうが、別段パッとしない。当たり前だが、あの男とは全然違う。だが、だからと言って、悔しさは浮かばない。焦燥を感じるのは、昔の己の身体に対してだ。
 定番の台詞だが。あの頃は、若かった。
 医大に入ってからは余り運動しなくなったので筋肉が落ち、適度に引き締まっていた身体が緩んだ。見た目はさほど変わらずとも重い筋肉が減った分、二年になるまでにも体重は少しずつ減っていっていたが、退学を決めるあたりからは過度のストレスにより、脂肪までもが激減した。兄や叔母が側に居てくれたお陰で、身体を壊すまでには至らなかったが、その名残は今もまだ残っている。極端なほど痩せているわけではないが、一時に比べれば身体は細く弱くなった。女の子ほどではないし、二十歳の男としてみすぼらしく見えるほどでもないが、それでも痩せている部類に入るだろう。体重は、ベスト時よりもまだ5キロほど軽い。
 全てが受験に染まる前の時が、17歳の頃が俺の肉体のピークだった。同じく、精神面も今よりタフだったように思う。
 あの頃ならば、いくら慌てていようが、初めての二日酔いに見舞われていようが、ドアに引っ張られる事なくきちんと止められていただろう。例え同じ結果であっても、何も思い悩みはしなかっただろう。情けないなと右腕を上げ、俺は手首を睨む。温まり血行が良くなったおかげでジクジク痛いのが、また腹立たしい。
 肘を曲げ延ばしし、腕に力を入れてみる。力瘤は小さく、堅さはイマイチだ。これでは挟まれても当然だと、濡れた俺の唇から勝手に溜息が零れ落ちる。
 週一のテニスサークルでは、筋力は余り付かないだろう。必要以上に身体を鍛え上げたいわけではないが、大事な時に思うように動けなければ、子供の頃から習得してきた技術が無駄だ。意味がない。水木に捕まったあの時、俺はもしかしたら、本気で抵抗していたとしても逃げられなかったのではないだろうか。腫れた腕を見ていると、そんな気がしてくる。護身だけならば力はそう要らないが、緊急時に動く為には、日頃からの鍛練が不可欠だろう。自分は大丈夫、自分は出来ると己で信じられる程度には、力が欲しい。最低限の自信がなければ、何も出来ない。ビクつき、マゴマゴしている間に終わりだ。
「…………」
 思っていたよりも怪我をした事がショックだったのだろうか。俺は湯気でけむる浴室と同じようにぼんやりと霞む頭で、そんな事を考えた。身体を逞しくしたところで、心が強くなるわけではないのに、だ。
 やるせないとは、こういう時にも使う言葉なのだろうか。…いや、情けないが適切か。
 両手で湯を掬い、顔にかける。のぼせかけているのか、耳の奥でトクトクと血流が鳴るのを聞く。自分は、有意義だったあの頃が懐かしいのか。それとも、こんなところで世話になっているが故に、無意識に危険を回避しようと力を欲しているのか。はたまた、ひと昔ふた昔前のスポ根のように、体力を付ければ何もかもが解決するとでも思っているのか。
「……。…暑ィ」
 どれもこれも馬鹿らしいと、直ぐに否定しながら俺は立ち上がり浴槽から出た。心音が早く、軽い目眩も覚えたので、冷たいシャワーを足下にかけ息が整うのを待つ。身体を流れるのは、湯ではなく汗なのだろう。
 軽い酸欠状態が治まってから、もう一度身体に微温湯を掛け、漸く長風呂を終える。40〜50分入っていただろうか、茹で上がって当然だ。指先の皮はふやけ、皺が寄っている。自分の肌であっても気味が悪い。加えて、右手の変色。不気味だ。
 湯気の出る身体に下着だけを着け、タオルを首に掛け部屋に向かう。寝間着代わりのハーフパンツとTシャツを着て、携帯電話を鞄から漁り取り出すと、着信ランプが点滅していた。サークルの先輩からのメールと、戸川さんからの電話だ。電話の着信時刻は11時過ぎ。丁度、風呂に入った頃か。
「どうするかな…」
 日付が変わろうとしている時刻に掛け直して良いものなのかどうなのか。寝てはいないだろうが、仕事が仕事であるし、その邪魔は色んな意味で遠慮したいなと。不意打ちな連絡の対処に悩みながら、とりあえず、先輩のメールに返事をしておく。
 残念ながら、今の俺にはどこのお嬢様が相手だろうと、合コンをしている余裕はない。命令でも行けません、だ。クラブではなく、ただのサークルなのだ。体育会系のノリに付き合う気はないので、はっきりきっぱり断っておく。これで先輩風を吹かせ強要するならば辞めてやるからなと、メールに無言の念を加えてみるが、相手に効くかどうかは微妙だ。上には上の考え方があるのだろう。
 ガシガシと髪を拭きながらケータイを操作し、リビングへ向かう。途中、待ち惚けをくらい中のイヌに出くわすが、足を通し掛け止める。悪いが、暑い。湯上がりに履くのはキツい。蒸れそうだ。水虫になったら困る。
 ペタペタと裸足で歩き、キッチンで水分補給し、俺はリビングを抜けベランダへと出た。サンダルを突っ掛け、夜景を見下ろし見渡すが、心にまでは届かない。綺麗だが、鬱陶しい考えの前では、ただの明かりでしかない。
 意を決し、手の中でケータイを光らせ、着信履歴から戸川さんに電話を掛ける。落ち着き始めた身体の中で、心臓だけがまた踊り始める。ドキドキと高鳴る心音と、トゥルルと響く呼び出し音が、高層の夜風にとける。
 しかし。
 ふいにその融合が崩壊した。ピッと小さな音が上がり、不通音に変わる。――留守電に繋げられる事もなく、拒否られてしまったようだ。
「…………」
 ……マズかったのだろうか? …確実に、マズかったのだろう。失敗したと理解した途端、張っていた緊張がプツリと切れ、一気に重圧が身体に掛かってきた。まっすぐ立っていられず、手摺に凭れ腕に顔を伏せる。……やってしまった。
 取り込み中であったのなら、何と詫びれば良いのだろうか。申し訳ない。
 はぁァと深い息を吐き、悪かったなと反省する。実際には、連絡を貰ったから掛け直しただけで、相手が何をしていようが俺は悪くはないのだが。大丈夫かな?と考えてのコレは、ただのミスだとしか思えず、自身の腑甲斐なさが際立つと言うもので。忙しいところを済みませんでしたと心で謝り、俺は忌々しい携帯電話を折りたたみサイドポケットに入れる。……ツイてない。
「はぁぁ…、もう……クソッ!」
 食らった一撃は余りにも大きくて、直ぐには立ち直れそうにない。別に、恋い焦がれる片思いの相手に拒否られたわけではないのだから、落ち込まなくとも後悔しなくともいいのだが。頭ではわかっていても、胸には堪えるのだから仕方がない。戸川さんの用は何だったのだろうか。風呂に入っていた事さえ、悔やんでしまいそうだ。まるで、冗談ではなく、俺は恋する乙女のよう。繋がらなかった電話が、苦しい。
 戸川さんは俺が今の状況に陥った原因の一端ではあるのだが、あえて比較せずとも水木とは全然違う普通に話せる相手であり、俺にとっては重要な人物だ。そんな彼からの接触の機会を棒に振ろうとしている自分は、役立たずでしかないと。間抜けだと。そんな風に、三日振りの音信は、自分がいかに戸川さんを頼りにしているのかを俺に教えてきた。
 深刻にならなくて良いのだとわかりつつ、落ち込んでしまいそうになる自分に、俺は溜息を落とす。ただタイミングが悪かっただけだろう、今夜はもう無理でも明日また改めて掛け直せばいいじゃないか。少なくとも、電話を鳴らした事により、先の着信に気付いた旨は伝えられたのだ。これで充分だと思うしかない。己を慰めるように、そんな言葉を並べ区切りを付けようと努めるが、上手くはいかない。まるで、唯一の救いを手放してしまったかのようだ。切られたのは通話ではなく、蜘蛛の糸であったかのように、情けなさが込み上げる。
 ゆっくりと風呂に入った代償がこれならば、入らなければ良かったとさえ思うが。今となっては後の祭りだ。どうしようもない。
 そう、どうしようもないのに。けれども、何ひとつ俺は諦めきれない。
 諦められない。
「でも…ダメなんだよな……」
 諦められずとも、そこにしがみ付いていたくとも。それが出来ないものは、出来ないのだ。どうしようもない事は、どうしようもないのだ。俺の気持ちで何かが変わるのならば、それは初めからどうにか出来る事であったというだけの事だ。俺一人の意地で、全てが上手く行くのならば。いつでも、どんな時でも、俺は必至で我を張ってやる。
 それで、全てが本当に上手くいくのならば。
「……なんて。それこそ、ムリってもんだ」
 世の中には、そう言う人間は居るのかもしれない。だが、自分は己の意地だけで人生を突き進んでいけるような人物ではないだろと、錯覚しかけた自身に俺は溜息を落とす。何を新たに、馬鹿な事を考えているのか。こんな事を考えるからこそ、理想と現実のギャップに苦しむはめになるのだろう。いい加減にしなければ、自分が傷付くだけだ。
 もう止めよう、考えまいと、俺は意識して電話の件を思考から外す。
 高層でも季節柄か、吹き付ける風は温い。だが、それでも、火照った身体には気持ち良い。手摺の上に置いた両手に顎を乗せ、見るともなしに空を眺める。
 暫くそのままの姿勢でいたが、丸めた背中が痛くなったので身体を伸ばすと、肩にかけていたタオルが落ちた。拾いあげ、乾ききっていない髪を覆い、頭に縛りつける。そろそろ寝なければなと思うが、眩い光を見下ろし瞬く人工の星を視線で繋げ線を描く事を止められない。薄闇の空に浮かぶ雲の数をかぞえ、流れるそれを追い、俺は無駄にその場に佇み続ける。疲れているし、それなりに眠いのだが、何だか寝る気にはなれない。起きているのならば、こんな風に惚けていずに語学の予習でもするべきなのだろうが、そういう気分にもならない。
 地上と天空を飽きずに俺は眺め、夜だなと改めて思う。街は眠らないのだなと、呆れながらも感心する。
 喧騒の中では捉えられない、何とも言えない感覚が今この場にはあった。どこか現実と切り離されたようだが、確かな時の流れを身体の中で感じる。深まる夜、近付く明日、訪れる夜明け。理屈でも理由でもなく、当然としての未来が、直ぐそこにある。
 しかし、俺の明日は。俺の未来は――。
「……寝よ」
 訳のわからない解釈からの飛躍に、自分自身で呆れてしまう。疲れが原因なのだと強引に終止符を打ち、俺は都会の夜景に別れを告げた。部屋に入り、窓の鍵を閉める。
 予告も予感もなく。唐突に、軽快な着信音が辺りに鳴り響いた。
「…………」
 気持ちを切り換えたら、これだ。俺をグルグルと振り回して遊んでいるんじゃないよな?と疑いながら、携帯を取り出す。
 予想通り、相手は戸川さんだった。

『今晩は、戸川です。千束さん、今どちらに居られます?』
 俺はいつも居場所を訊かれているんじゃないかと思いつつも答えると、少しいいですかと時間を求められた。
「ええ、大丈夫です」
 こうして戸川さんが電話を掛けなおしてくれた事に、安堵する。だが、同時に足元からじわりと緊張が這い上がってくる。一体、何を言われるのか。今の自分には指摘される事が多過ぎて、思い当たるその節に憂鬱が顔を覗かせる。
『悪いですね、こんな時間に。もっと早く連絡出来れば良かったのですが、なかなか手が空かなくて。ああ、先程は折角下さった電話を切ってしまい済みません。ちょっと取り込んでいましてね、申し訳ありませんでした』
「いえ、そんな。先に俺が受け取れなくて悪かったんですから、気にしないで下さい」
『今日は確か、家庭教師のアルバイトでしたよね? お邪魔をしてしまいましたか?』
「いえ、バイトは十時過ぎに終わったので、大丈夫です。電話を貰ったのは丁度帰って来た頃で、その…風呂を頂いていました。済みません」
 ソファに座りながら正直に告白すると、戸川さんが喉の奥で軽く笑った。確かに、今なお部屋に居着いておきながら、今更風呂如きで詫びるのは自分でも少しおかしく思う。笑われて当然なのかもしれない。
『別に謝る必要はありませんよ。それより、どうですか。そこでの暮らしは、如何です?不便なところはありませんか?』
「いえ、そんな不便だなんて…」
 俺はあくまでも居候でしかないなのに、仕事が忙しいにもかかわらず、とばっちりを受けた戸川さんにそんな気遣いをされると、申し訳なさが一気に募る。俺と水木のせいで余分な仕事が増えたのだろうに、優しく配慮出来る戸川さんが、とても大きな存在に思えた。おかしな事になった俺を笑って楽しんでいるんじゃないのか?と、突っ込める箇所はある事にはあるのだが、それを帳消し出来るくらいにその柔らかい言葉が俺の胸に染みる。
 酔っ払い暴走した事が、二日酔いでバカをやった事が、取り消してしまいたいくらいに恥ずかしい。こんな風に、こうしてここに今の自分を認識してくれる人物が居るのに、父との対立で腐りかけていた自分が情けない。俺と言う人間は、今ここに居る者なのに、それを忘れかけていた気がする。
 でも、だからと言って――
『遠慮せずに、何でも言って下さい。叶えられるかどうかはわかりませんが、言うだけならタダですからね。何も気にされる事はないですよ』
 ――だからと言って、それに浸かる事は出来ない。浸かってはならない。
「いえ、あの、ホント俺にはもう充分すぎるくらい充分ですから、全然問題はありません。むしろ、こんな豪華な部屋に自分が泊めてもらっているだなんて、勿体ないというか、申し訳ないというか…。これ以上のものは受けられませんよ」
『千束さん。そう、硬くならないで下さい。豪華と言いましても、そこは面白みも何もない部屋でしょう?褒められるのは、夜景くらいですかね。それも別に、驚くほど綺麗なものでもない。まぁそれでも、貴方に気に入って頂ければ意味も出てくるのでしょうけどね』
 さて、どうですか?との問いに、俺はハァと生返事をする。ここは水木の部屋であり、俺はただの短期間の居候だ。気に入るとか何だとかではないのだが。
 そう言えば。初めてこの部屋に来た時、水木もそんなニュアンスの事を言っていたような気がする。気に入ったら住め、気に入らなければ他に用意するとか何とか、と。アレはどういう意味だったのだろうか。気にいるも何も、こうして半ば強制的に俺をここへと連れ込んだのだから、アレは俺の好みに気を配ろうとしたものではないだろう。一体、何だったのだろう?
 しかし、それにしても。俺が思う程も、二人はこの部屋に価値を置いていないのかもしれない。少なくとも、気になったが良くは知らない他人に貸せるくらいの扱いなのだ。それに疑問を持たない程度の、軽い認識なのだ。税金対策か何なのか、ここは沢山ある部屋のうちのひとつなのだろう。もっと豪華で、もっと住みやすく、もっと夜景の綺麗な別の部屋が水木にはあるのかもしれない。
 だが、だから俺を放置しても構わないとは、普通はそうはいかないものだ。別宅でも、自室のひとつだろう。気遣う前に、警戒するべきなんじゃないのか戸川さんと、俺は眉を寄せる。
 俺が悪さをしたら、一体どうするのだろう? この人は、水木を間抜けだと笑うのだろうか。それとも、水木に申し訳ないと頭を下げるのだろうか。もしも後者ならば、俺は余り下手な事は出来ないなと改めて思う。戸川さんには、そんな迷惑は掛けたくない。
『寂しいですか?』
「…ハィ?」
 寂しいと、言ったよな? でも、寂しいって何だ? 誰が、寂しい…?
 考え事をしていたところにやって来た唐突なその言葉を俺は上手く理解する事が出来ず、恥ずかしいかな素っ頓狂な声を上げてしまう。その声で、俺の頭にクエスチョンマークが飛び交っている事を察した戸川さんは、別な言葉で質問を繰り返した。
『馴れない場所に一人で居るのは、心細いですか?』
「え、あ……それは、つまり。俺が寂しがっているんじゃないかと言う事ですか…?」
『ええ、どうですか?』
「……」
 返されたその声に、悪意は感じられなかった。からかっているようでもなければ、心配しているようでもなく。純粋に、どうなのかと疑問を向けている。そんな感じだ。しかし。アッサリとしたそれでも、訊かれる方は複雑である。
「……俺って、そんな風に見えるんですね」
 思わず出たのは、卑屈な言葉だった。寂しがっていると思われるのも情けないが、こんな反応をしてしまう自分も情けない。
 だが。俺と違い、戸川さんは遥かに大人だ。
『他人の部屋に放って置かれたら、不安になるのが当然でしょう。私が感じたのは、それだけです。他意はありません。慣れない広い部屋に独りぼっちならば、誰だって人恋しくなるものですよ』
 自分がその部屋を勧めておきながら今まで連絡も出来ずに済みませんでしたと、戸川さんは対応が遅れた事を改めて詫びてきた。それは確かにそうだとも言えるけれど、そこまでこの人に求めるのはやはりおかしく、全ての対処は元凶である水木が行うのが当然なのではないだろうかと俺は思う。戸川さんが俺に謝るのは、やはり変だ。厄介になってみてはとの提案を受けはしたが、最終的に決断し水木の誘いに了承したのは俺であるのだから、この事は俺と水木の問題でしかない。
 そう、俺は別に。戸川さんの為に、ここに居る訳ではない。
『不都合は色々おありでしょうが、不便はありませんか?』
「若林さんが色々説明してくれましたから、ホント大丈夫です」
『そうですか、それは何よりです』
「あの、一昨日、戸川さんも待っていてくれていたんですよね? 俺、全然そんな事考えもしなくて、バイト先でゆっくりしていて…。どうも済みませんでした」
『いいえ。千束さんの事は仕事と言うよりも、好きでやっているようなものですから。本当に気にしないで下さい。それより、やはり居心地が良くないようですし、一度お邪魔させて頂きましょうか。電話でよりも、その方がいいでしょう。そこは一人で暮らすには確かに広過ぎますからね、気が滅入る前にお伺いします』
「え? いや、そんな。忙しいのに、悪いです。俺は大丈夫ですよ…?」
 っていうか。俺の持ち部屋であるかのような、曖昧なその発言は――なんて居心地が悪いものなのか。身体が内側から痒くなる。何より、一人って、なんだ。どういう解釈だよ、オイ。ここは水木の部屋だろう、その言い方はおかしいぞ、変だぞ。それとも、水木が当分ここに帰らない事は、既にもう決定しているのか…?
 何故?と考え、俺しかないだろうと自身で即答する。そう、理由はこの俺だ。多分。
「あの俺、やっぱ…迷惑なんですね」
『どうしてです?』
 閃きと同時に落とした言葉に、戸川さんが優しい声で俺にその先を促してきた。
「いや、だって。戸川さんの手を煩わせていますし、若林さんの手だって…。それに、その、あの、…水木さんが全然帰って来ないのは、俺が居るからなんでしょう…?だったら、俺はもう…ここには――」
『違いますよ。水木がそこに帰らないのは、貴方が居るからではありません』
 居られない。と言うか、居てはいけないだろうと続けたかった言葉は、途中で遮られ掻き消されてしまう。
「でも…」
 俺が嫌ならば水木はここには来ないと、そんな感じの事を前に言ってなかったか? 実際、俺は水木に帰って来て欲しくないと思っているし、一緒に住みたくないと言うような言葉を直接向けたりもした。だから、普通は気にして帰って来るのだろうところを、それでも頑に顔を見せないと言う事は。水木がそう言う意味で、俺に気を使っているという事ではないのだろうか…?
 別宅だろうとなんだろうと、ここは水木の家なのだろう。ならば自宅に他人が居る場合、気になって気になって仕方がないものじゃないか。だからこそ、戸川さんや若林さんに俺の様子を見させているのだろう。それなのに、何故本人は来ない。仕事だと言っても、寝ていないわけじゃないはず。一体水木は、どこに居るんだ、帰っているんだ。もしかして、ここに帰る方が便利でも、別の家に帰っている――なんて事も有り得るんじゃないか…?
 いや、それが例えば一番大事な愛人宅だとか、家族の居る家庭だとか、理由の有る場所に帰っているのならば問題は何もない。むしろ、本当にそうだと言うのならば、俺も幾らか気が楽になるだろう。喜ばしい事だ。
 だが。
 どうしてだろう。俺は彼をヤクザだと意識し過ぎているのだろうか、三十路を過ぎた既婚者であるとわかりつつも水木の家庭を想像する事が出来ない。リュウと接する姿を見た時は、似合っていると確かに思ったのに。改めて、いま一度想像しようとしてみるが、頭に浮かべる男に生活感はなく、本宅に帰って家族団欒の図は思い描けない。逆に、愛人宅は有り得そうな話でもあるのだが、それも連日ともなれば霞んでしまうものでもある。女性にとっては放っておけない極上男なのかもしれないが、水木自身は女を放っておきそうなタイプだ。年齢的に考えれば淡泊なわけがないだろうが、愛人達の間を渡り歩いているとは、ちょっと考え難い。そもそも、気になる程度で男に惚れたと吐かすヤツだ、色恋には強くないだろう。
「…………」
 考えれば考えるだけ、水木がここに居ない理由が、自分でしかないように思えてくる。
 本気に本気で、プライドを捨てただの男子学生に傍にいてくれと頭を下げていたのであれば。もしも、水木の「惚れた」が、草川の「好き」と同じ想いのものであったのならば。水木は帰ってくるだろう。俺ならば、好きな相手がそこにいるのなら、絶対に帰る。誰だってそうだろう。だから。
 だから、俺への気持ちはその程度であり、だからこそ姿を見せないのだという解釈は間違っていないように思う。気遣われる程には想われているのかもしれないが、必至になるほど惚れられている訳でもないのだろう。それを理解した上での、水木の思いは、態度は、やはり猫や犬と変わりないもので。良くしてやろうかと、気紛れで扱われているだけのような気がする。
 そう。だったら、もう、好きにさせておけば良いと思う。帰ってこようがこまいが、俺には関係ないと思う。だが、それ以上に。その些細な、ほんの少しの、気を使われているのかもしれない事実が、かえって重い。俺は、水木だからといって、進んで迷惑を掛けたいわけじゃない。出来るだけ、誰にもそれを掛けたくはないのだ。だから、小さな事でも何でも、気になって仕方がない。
「……あの、今まで水木さんはこの部屋を使っていたんですよね?」
『えぇ、まあそうですね。私や若林、他の者も時たま泊まりもしましたが、そこは水木の部屋なので』
「だったら、どうして? これからも、水木さんは来ないんですか?」
『そうですね。そこを利用するのは、そう多くはないでしょう』
「それは、俺が居るから?」
『関係ないとは言えません。ですが、それは水木の問題であって、千束さんのせいではない。気にしないで、ね』
「でも…俺が居るから水木さんがここに来難いんだったら……申し訳なさすぎます。確かに俺は、自分が迷惑をかけるのをわかっていながら、こちらにお邪魔しました。だけど、だからと言って、水木さんを追い出すつもりなんて全然ないんです…」
『気を回し過ぎですよ、千束さん。乞われてそこに居る貴方が、そんな事まで考え、思い詰めなくともいいんです。もっと気楽にいきましょう』
「……」
 戸川さんの言う事は、尤もだ。だが、現に水木は帰って来なくて。その代わりのように、戸川さんが俺を窺うのだ。この中で気にせずにいるのは無理だろう。コレが普通だとそれでも言うのならば、戸川さんも俺に構わなければいいのに…。
『千束さん』
「…はい」
『あのですね。前にも言ったと思いますが、水木は他にも部屋を持っています。その日によって、帰る場所は違うんです。それはもう、習慣ですよ。貴方が居る居ないは関係ない。それに、ここ数日の事で言えば、千束さんが居られずとも水木はそちらには戻っていないでしょう。実は、その部屋の稼働率は、元々そう高くはないんですよ』
「え…。そう、なんですか…?」
『ええ。煙草の匂い、そんなに染み付いていないでしょう?』
「……そう、ですね」
 言われてみれば、そうだ。普通に水木がここで生活をしていたのならば、もっとヤニ臭いものなのかもしれない。
 ふと、頭の中に差し込んだ光りに、俺の気分が若干上がる。だが。
『しかし、今後はどうなるのか、私にはわかりません。だが、だからこそ、千束さん。今の内に羽を伸ばしてみては如何ですか? 何も気にせず、ゆっくりして下さい。こういう言い方は失礼でしょうが、貴方ひとりが何をしようと、どうとでもなるものです。例えそこで暴れたとしても、水木にも私にも、害はありません。それこそ、そこが水木瑛慈の部屋だと言い触らしたとしても、困るのは貴方だけでしょう。ヤクザ者の部屋だと、大層に考える事はありませんよ、本当に。好き勝手して下さい。第一、帰らない事を気にされていますが、水木が毎夜そちらに帰り始めたらどうしますか?』
「え?」
 なんだそうかと安心しかけたところに、戸川さんが新たな不安材料を投入してきた。
「毎日、帰ってくるんですか…?」
『さて、どうでしょう。貴方を困惑させないため、自由にさせるのか。それとも、自分の感情を優先して、貴方の顔を見に帰るのか。どうなるんでしょうねェ』
「と、戸川さん…?」
『つまりは、私にも全くわからないという事です。いつ何がどうなるのかなんて、わかりません。ですから、彼に関しては余り考えない方がいい、考えても無駄です。今の水木は、予測不可能ですよ』
「それって、どういう意味ですか…?」
 散々解説しておいて、安心させておいて、そのオチはなんですか、わからないって、何だ、オイ。どうなるというんだ、コラ。サラリと流してくれる戸川さんの言葉を捕まえ、俺は唸る。
『特に意味はありませんよ。ただ単に、私なりの対処法をお教えしただけです』
「考えない事が、対処法、ですか…?」
『根は単純ですが、少々複雑怪奇な男ですからね。想像の範囲内では収まりません。そんな厄介な奴の行動を読もうとするのは、時間も労力も無駄ですよ。そうでしょう? 何よりも。大事なのは貴方ですからね、千束さん。心地良く暮らす為に、自分の事を一番に考えて下さい。帰らない水木など、どうでもいいんですよ。放っておいて下さい。何なら、忘れてしまえばいい。私が許します』
「…………」
 …いや、ンな事を許されても、どうしようもない。むしろ、困る。第一、どうでも良くはないんじゃないか?俺にとってはおかしな知り合いでしかないが、貴方にとっては上司でしょう。こんないい加減な事を言っていて、貴方は大丈夫なんですか…?
 そもそも、なんでこんな風な話になる? 俺は当然として、水木の状況を気にしただけであり、何も帰らない事を怒っているわけではない。申し訳なさから今の待遇を遠慮したいと感じるのであって、不快だと嘆いているわけでもない。水木を放って、何になる? 別に何にもならないだろう。無視る意味がない。いや、無視できるのならばしたいが、放置は逆に危険じゃないか…?
『気遣われるのは気が引けるようですが、思う存分気にさせてやればいいんですよ。貴方には、それだけの権利があるでしょう。正当なものです、それは。顎で使うくらいの事をしてやればいいんです』
「…はァ、……いや、あの、良くわからないんですが…?」
 俺のどこに、水木を顎で使う権利なんてもがあると言うのか。どんどん話が予想しなかった方へ流れて行っている気がしてならないんだが、どうしてだ。俺はただ、当たり前に、自分の立場を考えただけなのに。何を、訥々と説得されているのか。意味がわからない。
 これは、まさか、からかわれていると言う事なのか?戸川さんは俺を戸惑わせて楽しんでいるのか? 漸くその可能性に気付き、思わず息を吐く。その溜息を、戸川さんは自分に向けられたものだとは気付かなかったらしく、お疲れですねと笑った。
 確かに疲れた、疲れている。だが、理由があるのだとすれば、それは話題に上るあの男ではなく。戸川さん、貴方にあるのだと俺は思うのですが。どうです、そうは思いませんか?と胸中で尋ねながら、俺は空いている片腕で膝を抱く。ソファに上げた足の爪を見て、いつ切ったかなと、どうでも良い事を頭の隅で考える。
 そう言えば。この前も、水木と話している時に長い爪を俺は気にしていなかったか。…いや、あれは手だったか?うーん。
 いや、ホント、どうでもいい事なんだけど。


2007/02/12