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『勝手に振り回し、貴方をそんなにも悩ませるとは。水木は悪い男ですね』
 …………あの、ちょっと。その言い方、妙に引っかかるんですが。若い娘の気を引こうとする好事家爺を思い描いてしまうのは、俺が悪いのか?
「……悪いというか――俺にはホント、よくわからない方です」
 加えて、貴方もわからなくなってきているんですが?――とは、流石に言えないので胸にしまっておく。良い人だと心の底から信じ信用している訳ではないが、それなりに敬意を示せる相手だと感謝していたのに。何だか、良くわからなくなってきた。話がわかる人だと思っていたのに、水木ほどではないが、若干ずれてしまっている会話に不安を覚える。
 だが、それでも、戸川さんが俺にとって貴重な人物である事に変わりはない。
 だから、あまりからかわないで下さいと、胸中で俺は懇願してみたりする。真剣水木と違い、あなたのそれはワザとでしょ?と念押ししてみたりする。自分で言うのもなんだが、健気過ぎて涙が出そうだ。こうして突っ込まれ探られ遊ばれるのは勘弁願いたいが、水木のようにグサグサえぐるよりは、イライラさせられるよりは断然良い。居候させてくれるのが戸川さんだったら良かったのに…なんて思っている自分は、ちょっと乙女が入ってしまっている感じだ。そんな選り好みを、俺が出来る訳もないのに。
『水木はそう難しい奴ではないのですが、変わっていますからね。付き合いの長い私でも、時に摩訶不思議な行動を取られ、驚かされています。しかし、それが楽しくもあるんです』
「楽しい、ですか」
 楽しいとは、これまた凄い。奇特な感想だ。水木を極めた者だからこそ、言える言葉なのだろう。俺には無理だ。見習う気も起きない。それでも。
 何となく、戸川さんのその言葉は、わかるような気もする。楽しいかどうかは兎も角、水木瑛慈は確かに、嵌ってしまう程の何かを持っている者なのだろう。異性ならば、その容姿に。同僚ならば、その力に。しかし、俺には、それがない。親切心だとか、包容力だとか、そういうものはあるのだろうが。与えられるのはそれだけではないので、感謝だけとはいかない。もしも、水木の態度や物言いに慣れ、それが気にならなくなったならば。俺も、彼の摩訶不思議さを楽しいと思うのだろうかと考えて見るが、上手く想像出来ない。俺にとっての水木は、アレでしかない。
 戸川さんがどう言おうと、教えてこようと、この先も同調は出来ないのだろう。多分。
「水木さんとは、どのくらいの付き合いになるんですか?」
『そうですね、えぇっと――二十年、になりますかね』
 何となく話の流れで聞いてみたのだが、少し考え伝えられたその長さに、俺は驚き声を荒げた。
「二十年!」
 そんなにも長い間あの男と居るとは、尊敬に値する。何より、今の水木が強烈過ぎて二十年前の姿が思い描けず、その道程も簡単に想像出来ない。今の俺よりも若い水木をこの人は知っているのだと思うと、意味もなく興奮が湧き起こる。
「凄い、ですね…」
 戸川さんは兎も角、水木に少年時代があったとは。ない訳がないのだが、俺にはそこからして何だか信じられない。頭も心も追いつかない。あの男も、普通の人間だったのかと、本人には知られてはならない馬鹿な事をしみじみと思ってしまう。
「二十年と言う事は、俺が今まで生きて来たのと同じ分だけ一緒にいるんですよね。ホント凄い」
『改めてそう言われると、確かに長いですね。生まれたばかりの赤ん坊が、成人するくらいですからねぇ。ですが、別に凄くはないんですよ。ただの腐れ縁ですから』
「それでも、やっぱ凄いですよ。俺には、そんな長く付き合っている奴なんていないし。中高の友達とは、もう、あまり…」
 愚痴ではなく、ただ事実として。そんな言葉を繋ぎ、改めて思い知る。数年前は友達で、毎日顔を合わせていた彼らが、今はもう他人のように遠いなと。卒業をして道が分かれたのならば当然だけれど、今の俺は多分、再会しても上手くふざけ合えないような気がする。余所余所しくなってしまいそうな気がする。
 あの頃、俺はどんな風に笑っていたのか。教室で、街中で、友達の前で、どんな顔をしていたのだろう。あの時、数年後にこんな風になっている自分の姿を微塵も想像出来なかったように。今の俺には、数年前の自分をよく思い出す事が出来ないようだ。
『まだ学生ですから、それが当たり前でしょう。千束さんも、社会に出て歳を重ねれば、長い付き合いになる者も出てきますよ。きっと、今のお友達の中にも、十年後も二十年後も連絡を取り合っている者が居るはずです。人の縁はそう切れませんし、大丈夫ですよ』
「…はい。――って、俺の話はいいですよね、すみません。いや、なんか、二十年なんて言ったら、俺の人生そのままだから、驚いちゃって……ホントすみません」
『そんなに何度も言われると、尻がむず痒くなりますね。本当に、そう大層なものではないんですよ。何より、告白しますとね、千束さん。私は、帰る場所のない少年だった水木を、二十年前にノリで拾ったんですよ。気まぐれで』
「ノリ…ですか?」
『ええ、あの頃はまだ私も若かったですから、無謀な事が出来たのでしょう。今なら、今よりももっと可愛げのないあんな男になど、子供とはいえ見向きもしないのでしょうけどねぇ。いやぁ、ホントあの頃は若かった。私も水木も』
「……はぁ」
 …って。ちょっと待て、コラ。
 若いかどうかの話ではないだろう。ノリで拾ったとは、どういう事だ。戸川さんは水木の飼い主なのか? 逆なんだろう? 戸川さんよりも水木の方が、立場は偉いようだと思っていたのだが? ……いや、確かに自分が部下だと、彼が上司だと言っていた。ならば、これは所謂、下克上なのだろうか?
 俺の前ではイマイチな男が、拾ってくれた人よりも上を目指すような野心家だとは、俄に信じ難い。相手がこの戸川さんなら特に、態々その上にあがってやろうとはしないだろうと思うのに。ヤクザな世界はわからないが、一般的な会社で言えば、水木は総務や経理でソツなく仕事をしているタイプであり、営業でバリバリやっているのは戸川さんの方でありそうなのに。どうやらそう思う俺の考えは、大きく間違っていたらしい。水木が、戸川さんを追いこしたのだとは、驚きだ。
 組長さんの婿養子という立場は、そんなに凄いのか。拾ってくれた男を部下にするくらいに偉いのか。だったらやはり、水木は野望があるからこそ婿になったというわけか。しかし、あの水木がなぁ…と考え、どの水木だと俺は自身に呆れる。自分はヤクザの水木など全然知らないのだから、何も言えやしないではないか。ヤクザだと考えれば、野心があろうとなかろうと、不思議でも何でもないの話なのに。何を勝手にヤクザ水木を想像し、思い込んでいたのか。バカだ。恥ずかしい。
 それよりも。ノリとは言えどうすれば水木みたいな奴を拾えるのか、ツッこむならそこだろう。二人の立場や関係ではない。二十年前と言うならば、戸川さんも水木も、まだ子供だ。未成年が未成年を拾うだなんて有り得ない。誇張しているのか、またこの人は俺をからかっているのか。何にしろ、あまり追及しない方がイイのだろう。スルーが一番な内容だ。怖くて突付けない。
『似いてるとは言いませんが』
「はい…?」
 思わぬ告白に、真剣に思い悩みかけていた思考を中断し、俺は戸川さんの耳に意識を戻す。
『だからこそ、水木ならば千束さんの気持ちが、少しはわかるのかもしれませんね。彼と貴方は境遇も時代も何もかもが違いますが、それでも自分の居場所を探す気持ちや、誰かの世話になる忍びなさや、そんな中で人と付き合う難しさなど。千束さんの苦しさや迷いは、水木にとって多少は覚えのあるものなのでしょう。彼が貴方を放っておけないのは、昔の自分は放っておかれなかったからなのかもしれません』
 だったら、あの頃アイツを構っていた自分が今の水木を作ったのかもしれないと、戸川さんは柔らかい苦笑を落とした。だが、耳には届いたが、その内容に俺は直ぐには何も答えられず沈黙を作ってしまう。
「…………」
 帰る場所がなかったという水木は、戸川さんに拾われ、救われたのだろうか。だから、昔の己と同じような奴を拾い、救いたくなったのか?
 それはそれで悪い事ではないのだろうが、素直に褒められる行為ではないように思う。少なくとも、そんな話を聞いても俺は安心しないし、感心もしない。むしろ、不快さが滲む。いや、酷く、落胆している。
 惚れたと言ったが、やはりそれはただの錯覚で、本当は過去の自分に優しくしてみたかっただけじゃないのか…?
 それをそのまま額面通りに取り込み、鵜呑みにして自惚れていた訳ではないが。気になると、側に居て欲しいとの言葉に縋っていた訳ではないつもりだったが。本当は、心のどこかでは、俺は喜んでいたのだろうか。安堵していたのだろうか。勘違いしていたのだろうか。だから、こんな風に。求められ、あり得ないだろうとドン引きした時以上に、心が冷えるのだろうか。
 本気ならば怖いのに、嘘ならば寂しいなんて……。
「……そう、なんだ…」
 零れたのは、溜息のような呟き。けれど、高性能の携帯電話はそれをきっちりと拾い、相手にまで送る。
『千束さん?』
「いえ、あの。俺だけじゃなく、皆、色々あるんだなと思って…」
『そうですね』
 それが、人が生きるという事ですからと。戸川さんの言葉に、俺は無言で頷く。そう、人生だ。どんな奴であれ、一人の人間がこの世界で生きていくというのは、大変な事なのだ。何の問題も悩みも持たずに、一生を終わる奴などいない。俺だけが苦しいわけではない。水木にだって、きっと戸川さんにだって、これまで色々あったはずだ。ヤクザなんてものをやっているくらいなのだから、俺なんかよりももっと大変だったはずだ。
 何故水木には帰る場所がなかったのか。その理由を知りたいとは思わないが、言い表せぬ思いが胸に浮かんでくる。急に、この広い部屋が、寂しくて。けれども、何故か優しいような。味気ないのに、暖かいような。それで居て、やるせない重さがあるような……。
 思わぬところで知ってしまった水木の過去を、俺はどう処理すればいいのかわからず動揺する。
 水木も、そして、戸川さんも。今、拾った事を、拾われた事をどう思っているのだろう。ヤクザなんてものになり、過去を悔やむ事はないのだろうか。満足、しているのだろうか。幸せ、なのだろうか。
『千束さん、例えばですが』
 俺の沈黙を破った戸川さんのその声は、とても柔らかく、強いものだった。後悔などしていないような、例えしていてもこれから未来を切り開くような、はっきりとした声。「…はい」と答える俺の声は逆に、煮え切らない覇気のない声。この違いは、どこからくるのか。経験か、年齢か。だったら、敵う事など一生ないのか。比べるのは、不毛なのか。
『水木が家賃を徴収すれば、貴方は今のような後ろめたさを感じないのでしょうか? 金銭契約を結べば、安心しますか?』
「…………そうなのかも知れません」
 何を問われたのか、きちんと脳で処理しないまま、勝手に口が答えを紡ぐ。だが、それもちょっと違うのかもしれないと、直ぐに違和感を覚える。お金の問題もあるが、お金だけの問題でもない。
「ですが、俺は――」
『ですが、家賃を払うのならば、他の部屋を自分で借りる――ですね? ま、確かにそうです。金が掛かるのならば、そこに居るメリットは殆どないのでしょう。けれど、大学の近場では、1Kもそれなりにしますよ。築30年以上の風呂なしでも、軽く5万はするんじゃないですか?』
「……もう少し高いと思いますけど…」
 とてもではないが、学生寮に空きがない限りは、自転車で通学出来る範囲内には住めないだろう。今のままでは、月に5万円を住居費にあてるのはとても無理だ。はっきり言って、貧困の前では確かに、俺の心苦しさなど考慮してはいられない。けれど、それでもこれは譲ってはならない一線でもある。自立出来ないからここに住むと言うのは、やはりおかしい。その理由だけでは、公園や駅を占拠する者達と何ら変わらない。
 言いたい思いはあるが、上手く言葉に出来ない。何を言っても弱音でしかないと、言葉を詰まらせれば話の主導権は相手に奪われ、誘導されるように会話は進む。
『それだと、生活は厳しいでしょう?』
「キツいです。多分、そんなに長くは保たないでしょうね」
 情けなくも正直に答えると、戸川さんは、ならばその部屋で手を打てば良いのにと笑った。けれど、俺は笑えない。笑えるわけがない。打てる手はここだけしかないのか?他にもあるんじゃないか?と、まだ決められないでいる。往生際が悪いとわかってはいるが、今ここで足掻かなければいつ足掻くというのだろう。流されるのではなく、自分自身で決断しなければ、俺はもう二度と何にも立ち向かえない気がする。
 何よりも。
 先に言われた事情をどう受け取ればいいのか、俺はまだ決められていない。水木は、ここには余り帰らない事を。水木が、俺自身をそう見ていない事を。水木が、水木が――
 ――水木は、俺にとって何なのだろう…?

『遠慮するほども、狭い部屋ではないでしょう』
「広すぎですよ」
『学生なんて、金がないのが当前です。邪魔だと追い出されるまで、入り浸ればいいんですよ。水木に追い出されたら、次は私のところへどうぞ。そこ程も広くはありませんが、一人増えたくらいで狭くなる家でもありませんので』
「戸川さん、それは…」
『但し、水木に追い出されたら、が条件ですよ。他人の恋路を邪魔して、馬に蹴られたくはありませんのでね』
「……俺、今で一杯いっぱいなんで、あまりからわかないで下さい」
 自分が水木をどう位置づけているのか。それがわかれば苦労はないのかもしれないなと、胸中で吐いた溜息を誤魔化すよう、俺は軽く笑い戸川さんの言葉に応えた。この人の言う通り、水木の事は考えても仕方がないのかもしれない。だけど、俺は。俺は、俺自身の事を考えねばならないのだ。そして、ここにいる限りは、そこに水木を組み込まないわけにはいかない。
『失礼、千束さんとお喋りするのは楽しくて、つい言い過ぎました。申し訳ない。ですが、真面目なところ。今の貴方の経済力で住める部屋というのは、あまりないのでは?』
「それは……。……だから、俺はここに居るんじゃないですか…」
 子供が拗ねるよう、軽口を装いながらも内心本気で唇を尖らせながら抗議をすると、『よくお判りで』と、痛いしっぺ返しが来た。それにはもう、仰るとおりでございますと頭を下げるしかなく、俺はそのまま横に倒れソファに寝転がる。このままでは再起不能になるかもしれない。電話を受けた事に後悔はないが、耳が痛くて泣きそうだ。疲れた夜中に交わす会話は、悪夢よりも苦しい。
 だけど。
『そうですねぇ。もしも、ですが』
 だけど、寝転んで話は出来ないと、休息を欲しがる体を起こし、戸川さんの言葉を聞く。この人は、他の誰でもない俺の事を考え、こうして付き合ってくれているのだ。見えないとは言え、寝ながら聞けない。不義理な対応はしたくないと、俺は居ず舞いを正す。
『千束さんがこのままそこに住み続ける事になったのならば、可能な範囲で家賃を払うのもいいかもしれません。5千円でも1万円でも、貴方の気が済むのならば、水木はそれを受け取るべきですね。しかし、あくまでも今は、緊急時の避難なのでしょう? そこで暮らすと決めたわけではない――違いますか?』
「…ええ、そうです」
『でしたら、家賃は必要ないでしょう。水木の親切を金に換えるのは失礼じゃないですか? 貴方は困っていて、手を差し延べたのは水木だったわけですが。それはただの偶然であっても、誤りではないはずです。何だかんだ言え、人は支えあうもの。たとえ水木を気に入らずとも、貴方はひとりで耐える為の練習をしているわけではないんですから、下手な遠慮ははっきり言って無駄ですよ。無意味です。慎み深いのは結構ですが、困っている時に向けられた手助けを、悪いからと気にして遠慮しても意味がありません。他人に助けられるのは、恥でも何でもないでしょう? ですから、ねえ、千束さん。今はそのままでいいのではないですか?』
「いや、でも……」
 戸川さんの言う事は、よくわかる。この人はどんな事でも前向きというか、包容力があるというか何というか。俺の行為を全て肯定してくれている。それは有り難い。普通ならば、上司の奇行に便乗することなく、闖入者を排除しようとするものだろう。それを思えば、その優しさに甘えてみたくなる。本当に、このままでいいんじゃないかと思えてくる。それくらいに、偽善だと、勝手な解釈だと、自分が描けば恥じたくなるような理想論も、こうして他人に示されると間違っていないように思えてしまう。だけど、だからと言ってそれが正しいとは、やはり限らないのだ。
 例えそれが正論であろうと、俺には頷けない、頷いてはならない話じゃないか…?
 戸川さんの、そして水木の優しさに。それに騙される為に必要なものが、俺にはない。俺はヤクザである二人を、心底から信用していない。疑いを持ちながら騙されようとするなど、都合が良すぎる。
「…この部屋の家賃を折半するのは、確かに日割りであったとしても、とても出来ません。気持ち程度の宿代ならば可能ですが……勿論、そんな端のお金なんて俺から貰っても、何の足しにもならないでしょう。無駄であるのは、わかっています。水木さんには迷惑なだけである事も。ですが、そんな事じゃなくて…、こんなのは悪いというか、俺が何かしたいというか…。……そう言う意味で、礼は必要だなと思うんです。俺が助かったのは事実ですから。でも、ただの学生である自分が出来る礼などあまりなくて…だから、世話になるのならば、わかりやすい家賃がいいというか、何て言うか……。徴収してもらえたならばという思いは、確かにあります。だけど、それは…」
 そう、それは建前としてであり、実際にはただの詭弁だ。水木に家賃を納めるのは決して礼などではないと、言葉を紡ぐうちにはっきりと自覚する。確かに、戸川さんの言うように、住む事になった場合はそれもありだろう。だが、少なくとも、今の俺にはそうする事で示す感謝などない。金を払ったところで、俺も、また水木も、空しさしか味わわないだろう。
 そういう意味で言えば。今の俺にはもう、素直に水木の善意を受け入れるしかない。こんな気持ちのままでは、戸川さんの言うように、金を出すなどもってのほかだ。
「俺のそれは、多分。罪悪感を紛らわせる為にだとか、自分の正当性を誇示する為にだとか……。済みません、上手く言えませんが、そんなようなものなんです。礼とか何とかわかったような事を言いかけましたが、結局はただの自己満足なんです。ホントは、戸川さんに気を遣ってもらうようなことでも、水木さんに付き合ってもらうようなものでもないんです…」
 本心を吐露し、後悔も羞恥も覚えなかったのは、きっと自分でも驚いたからなのだろう。自身のその性悪さにではなく、こうして自身でさえ嫌な部分を他人に向けて静かに語っている己を意外に思ったからだろう。改めて思い起こせばと、俺は戸川さんの沈黙を聞きながら、自分を振り返る。
 友人達の前では、常に俺は高位置をキープしていた。兄や親族の前では、賢く甘えていた。けれど、どうしてだろうか。戸川さんの前でも、水木の前でも、俺は自分の暗部を進んで曝しているように思う。まるで傷つきたいかのように、責めてくれよと見せ付けている感じだ。特に水木相手には、取り澄まし繕う事はあまりなく、暴言を吐き悪態を吐いている。
 俺は、二人に嫌われたいのだろうか。そうしないと、離れがたくなっているのか。そうして、ここを出る理由を貰いたがっているのか。
 思い付くそれが当たっているのかどうなのかわからないが、そうとも取れる己の行為に情けなさを覚える。そうして漸く、馬鹿な事を言ってしまったと己の発言を悔いる。俺はかなりまいっているなと、このままでは危ないなと、純粋な恐怖がじわりと湧き上がってくる。
「あの、戸川さん。俺は、何か出来るでしょうか?」
 自分でそう尋ねつつも、おかしな聞き方だと思った。だが、相手の沈黙が重くなりとっさに出たその言葉は、口先ばかりのものではなく切実な問いでもあった。
 何が出来るかどうか、他人に訊かねばわからない自分が情けない。けれど、このままでは駄目なのだ。少しでも可能性があるのならば、俺はその努力をしなければならない。そうでなければ、俺は自分をとことん落として、また前のようになってしまうかもしれない。
 思い出した過去のその感覚を振り払いたくて、自分の存在価値を上げたくて、ここに居る理由を作りたくて。何でもいいから、小さな欠片でもいいから、きっかけが欲しいと俺は言葉を続ける。
「お金じゃなくて、違う何かで、俺は、その…」
『その?』
「その、えっと、何ていうか……」
 やはり上手い言葉は浮かばないと俺は唸りながらも、段々と自身の気持ちが形になってきているようにも感じた。多分俺は、水木の好意に恐縮しているのではなく、心底では確かに感謝しているのだ。だが、それは当然100パーセントではない。心には常に疑心がある。そんな状態で礼を言葉で伝えても、違和感が付きまとうだけだろう。だけど、だからこそ、余計に何かを返したいと思えてくるのだ。ヤクザだから後が怖いと、損得からの不安でこんな事を考えているわけではない。本気で、水木に礼をしたいのだ。心は変えられないから、せめて何か、別な誠意をと。その簡単な例が家賃であるならと、戸川さんの言葉に感化されそう思っただけで、他の何かであっても、それはそれで構わない。
 けれど、その何かが思い付かない。だが、その何かがあるのだとすればと考えると、若干、胸のつかえが和らぐ気もする。現金なものだ。
「さっきも言いましたが。俺はホントに、こうして世話になっている事には感謝しているから。戸川さんが、俺を気に掛けてくれるのを有り難く思っているから。家出学生なだけの俺に出来る事なんて殆どないけど、」
『千束さん』
「はい」
『貴方は、1万や2万で自分の心を売れますか?』
「……え?」
 要領を得ない話であるのは自覚していたので、呼びかけに直ぐさま返事をすると、俺のそれ以上に良くわからない言葉を向けられた。何が1万2万だと、素で怪訝な声を落としてしまう。
「何て…?」
『たったそれだけでは無理でしょう? それが普通です。ならば10万や20万で、心ではなく言葉ならどうですか?』
「……」
 いきなり、何を言っているのだろう。話の繋がりが見えないんですが…?
「…すみません。よく、わかりません」
 勿論、言っている意味がという意味でそう伝えたのだが、それを質問の答えだと思ったらしい戸川さんが喉で軽く笑う。
『私はね、千束さん。お金ではなく別の対価を既に払っているからこそ、正当な報酬として貴方がそこに居るのだと思っています。貴方の今は、貴方が勝ち取ったものなのだと、ね。家賃の話をしましたが、本当は全然、この先もそんな必要はないと思っているんですよ』
「……どうして、ですか? 報酬って、なんですか…?」
『千束さんの言分は尤もです。尽されても困るのはわかります。後ろめたさを覚えるのも当然でしょう。ですが、それこそ相手の思惑に嵌っているのだと思いませんか?』
「思惑…ですか?」
『貴方は水木の望みを聞く変わりに、衣食住の住を手に入れた。つまり、貴方自身は決して水木の側に居たいと願ったわけではない。住む場所が欲しいから、バカな男に頷いた。違いますか?』
「……」
 間違ってはいないが…、それに頷けるだけの元気が俺にはない。なんて言い方をするのか、この人は。仮にも、水木は上司であり、貴方はその彼の奇行に協力している立場ではないのか? それとも、バカな男の言葉に乗った俺の方がバカだと、自業自得だと言いたいのか?
『ああ、別に非難しているわけではないですよ。何のメリットもなくヤクザ男に付き合う方が問題であり、千束さんは間違っていません。貴方は住居を、そして、水木は貴方を望んだ。ならば、水木と貴方は対等でしょう。違いますか? だから、千束さん。その部屋が豪華だろうとなんだろうと、気にする事はないんです。貴方はすでにそこに居るのだから、それ以上のものを水木に与える必要はない。気を使えば使うだけ、水木をつけ上がらせてしまいます。対等であるというのに、自分をそんな風に下げてしまっては、逆に漬け込まれますよ』
「まさか、そんな事…」
 想像もしていなかったそれに首を振りかけ、それでも水木はヤクザだと思い出し言葉を詰まらす。ない、とは言い切れない。実際、そういう可能性はゼロではないのだ。水木が付け込むような性格かどうかは兎も角。確かに、そんな関係にならない為にも、俺自身、気持ちをしっかりと持っていなければならないのだろう。
『慎み深いのも結構ですが。千束さんは少し大人しすぎますね』
「いや、そんな事はないと思いますけど…」
『私から見れば、丁寧すぎて、逆に危うい。スミマセン、をそう安売りしては駄目ですよ。隙になりますから、程々に』
「あ、はい」
 気を付けます、と答えながらも、唐突に何の話だと頭に疑問符が飛びまくる。だが、先の忠告を思えば、つけ込まれる要因はそこだと言う事なのだろう。安売りをしているなんて事はないが、確かに挨拶のようにその言葉を俺は使っているのかもしれない。さほど気持ちはそこに込めていなくとも、何度も謝っていれば刷り込まれてしまい、相手も自分自身も誤解してしまうような状況にならないとも限らない。そういう点では確かに、戸川さんの言うように、謝罪となるそれは安売りしてはならない言葉か。
 日本語とは、難しいものだ。

『さて、そんな訳ですが。まだ、水木に対し申し訳なく思いますか?』
「それは、その……はい」
『まあ、直ぐには無理ですね』
「…済みません」
 対等と説明されても、直ぐにはそんな事は思えない。第一、水木のそれは、俺のそれのように切実なものではないのだ。借りが発生するのならば、やはり俺だろう。戸川さんの見解は俺にとっては有り難いけれどと、無意識に発した応えは注意されたばかりのそれで。案の定、また笑われる。そして、また、同じ言葉を俺は口に乗せようとしてしまう。
「あ、スミマ…じゃない。えっと、あの、……あぁ、もう…!」
『便利な、使い勝手の良い言葉ですからね。それも、直ぐには無理ですよ。ゆっくりどうぞ。それより、千束さんに何が出来るか、ですが。ひとつ提案して宜しいですか?』
「あ、はい」
『これもまた直ぐには難しいかも知れませんが。少しだけ、水木に対する言葉や態度を変えてみてはどうでしょう』
「え? 俺の、ですか?」
『そう、貴方だからこそ出来る事です。ムカツク時も少し我慢して、馬鹿な男の相手をしてみて下さい。好きだ愛しているだなんて、大層な事は言わなくてもいいんです。ただ少し、アンタのおかしさには付き合えないけれど、感謝はしているとか、嫌いじゃないとか、そういうのをちょっとだけでいいので、態度に混ぜて示してみてはどうでしょう。演技ではなく、ちょっとした気遣い程度で良いんです。無理でしょうか?』
「……俺には、ちょっと難しいかと…」
『それならば仕方ありませんね。そもそも、貴方は与えられるものばかりを見ているようですが、私に言わせれば、今の時点でも十二分に水木は多くのものを貴方から得ているのでしょうからね。これ以上のことは、敢えてしなくともいいでしょう。千束さんは今の時点で、超過料金を請求してもいいくらいです。何なら、私が貴方に手当てを払ってもいい。千束さんが居てくれて、私は助かっています。もしもこの先そこに住んで下さるのならば、給料を出しましょうか。水木との付き合い料をね。どうですか?』
「給料って、戸川さん…」
 また何をと呆れると、本気ですよと真面目な声が返る。
『それくらい当然ですよ。私だって、それで給料を貰っているようなものですから』
「はぁ」
『ま、お金の話は兎も角。水木の機嫌を取って損はないはずです。ホンの少し、笑ってやるだけでいいんです。苦手とはいえ、それくらい大丈夫でしょう? 水木に軽いサービスをしてやる事で、貴方の方も遠慮が減るのでは?』
「……いや、あの……そんな援助交際みたいな事は出来ませんよ、やっぱり」
『――クッ、ハハハッ!』
「…………え?」
 真面目にきっぱり拒否した俺の発言を、戸川さんは数拍の空白を作った後、唐突に声を上げて笑いだした。その声に驚き、俺は思わず肩をびくつかせ、ケータイを耳から遠ざけてしまう。
『援助交際、ですか。アハハ』
「…戸川さん」
 どうやら俺のその表現がツボに入ったらしく、戸川さんはいつまでもクツクツと喉を鳴らす。笑い上戸か、この人は。想像力が逞しいのか。ただそう言い表してみただけなのに、そこまで笑う事もないだろう。まさか、俺と水木のそれを思い描いていないよな?
 戸川さんの笑い声を聞きながら、俺はそっと溜息を落とす。
 俺は確かに、出来る事はしたいと思うけれど。しかし、戸川さんの提案はちょっと違うだろう。援助交際的であるのかどうかは別として。その行為は全然礼にはならず、むしろ失礼と言うか何というか、恩を仇で返す感じじゃないだろうか。ならば、たとえ俺に演技力が備わっていたとしても、騙すような事は出来ない。したくない。イカれていると感じながら、それでも「ありがとうございます」と水木に微笑む自分を想像し、絶対にそんな事は無理だと俺は頭を振る。思い描いただけで、気持ち悪い。
 戸川さん。考えてくれるのは嬉しいが、キャラを見て提案してくれ…。それとも貴方には、俺はそんな奴に見えているのでしょうか…? 同じく、水木はそんな上っ面な態度に気付かないような男なんですか? 違うでしょ?
『ああ、可笑しい。こんなに笑わせていただいたのは、久し振りです。いや、千束さんはホント面白い事を言いますね』
「そんな事はないですよ」
『しかし、援助交際は言い過ぎです。私は、嘘を吐けとまでは言っていませんよ』
「……」
『ねえ、千束さん。ふてぶてしい大型犬も、慣れたら可愛く思えるところがありませんか? 無理してでも遊んでやってくれとは申しません。ただ、適当に頭を撫でてやるだけでオーケーなんです。本当にそれだけの事ですから、一度やってみて下さいよ』
 案外、思うよりも簡単ですよ、と。小型犬ではなく、貴方はちゃんと人間ですから大丈夫、きちんと犬を扱えますよ、と。懲りずにからかってくる戸川さんに、気付けば俺は、無暗に水木には噛み付かないよう努力するとの約束を結んでいた。何て馬鹿げた誓いだと溜息を吐けたのは、通話を終えてからだ。
「……努力って…」
 今更言われずとも、それは既に発動しているものだ。水木と話すのに、努力は不可欠だろう。ただ、頑張っても出来ない事はあると言うもので。俺は今までもちゃんと、相手をヤクザだと認識し、感情を抑えようと努力をしていた。だが、けれどもそれ以上に水木は理不尽で、噛み付かずにはいられないのだ。限界を超えてしまうのは俺の忍耐のなさが原因ではなく、ひとえに水木のせいである。
 噛み付くなと言う前に、噛み付かせないようにして欲しい。貴方がどうにかしてくれよ、戸川さん。何故に貴方は俺を宥め、俺に水木をどうにかさせようとするのか。貴方自身は、直接彼を説得する気はないのか?俺が困っている事を、水木に言ってはくれないのか?
 面倒見は良いが、親切であるのかどうかは、やはり疑問だ。戸川さん、俺は今、貴方にへこまされています…。
 キッチンで水分補給しリビングへ戻り、背中をソファに預けるよう床に座る。疲れたと、そういえば電話を受ける前から自分は疲れていたんだと、それを思い出した途端に体の重みが増す。
 戸川さんとの会話は、いつもこうだ。水木とはまた違った意味で疲れさせられる。あまりにもあれこれと手を使い、宥め込み丸め込みにくるので、自分を見失っているうちに洗脳されてしまうのだ。俺は餓鬼なのかと、戸川さんの意見が大人に思えてしまい、複雑になる。今の事でもよく考えれば、やはり提示された水木に対しての対応策はおかしいのに、俺は出来もしない約束をそれでもきっかり取り付けられてしまっている。不甲斐無い。
 何だか、騙されたような気分だ。
 ヤクザに騙されていては、幾つ命があっても足りないのが現実だろう。戸川さんもその通説に倣い、いつか俺を殺すんじゃないか?
 そんな馬鹿げた事を考え、あながち間違いでもないのかもしれないと思う。実際に俺は今、精神的に死にかけている。悶え苦しんでいる。
 だから何故、どうして、水木の機嫌を敢えて俺がとるんだよ…?
「……ヤられたぜ」
 助言を受けたと言うよりも、押しつけられたような気分だ。俺になんて頼まず、戸川さんは自分で奴を更生させれば良いのだ。たとえ水木に俺を追い出せと説いたとしても、強制したとしても、俺は全然怒りはしないのに。恨みはしないのに。
「……だから、調教は自分でしてくれよ…」
 ハァーと溜息を吐き、俺は頭をソファの座面に置き天井を見る。白熱灯が疲労した眼には眩しすぎて、涙が出そうだ。けれど、頭の中がモヤモヤで、真っ白な光が羨ましくもある。
 考える事が一杯で、満杯のゴミ箱のようにごちゃごちゃ詰まった頭が思考力を麻痺させる。考える隙間がなく、考えねばならない事を知りながら、考えられない。答えも未来も見付けられないまま、時だけが過ぎて行く。今日が終わって行く。ひとりで悩み堂々巡りを繰り返し、時に与えられる外からの刺激は、何の役にも立たない。問題を増やすばかりだ。戸川さんは勿論、水木も同期生もバイトの面々も。皆が俺から、貴重な時間を奪い、惑わせる。
 疲れて当然。疲れる俺が弱いわけではないよなと、自分を慰めながら体を戻し、何となくテレビのスイッチを押す。静かだった部屋に、笑い声が響いた。若手芸人が、学生時代の恋愛歴を語っている。彼女に変質者と間違われ警察に通報された話が、果たして笑えるネタなのかどうなのか疑問だが、番組は決められたように進んで行く。メインはその芸人ではなくグラビアアイドルのようで、司会者が彼女に話を振り始めると、内容が過激になっていく。エロトークはしないまでも、清純派で売るアイドルが初体験はいつだったのかを語るのはどうなのだろうか。慎みがなさ過ぎる気がする。
 ――なんて言いはしても、胸だけの女など、何がどうでも良い、と。勝手にやってくれと俺はチャンネルを変える。こうしてテレビを見ている今も続いている戦争の映像を眺め、真夜中の料理番組を素通りし、マジックショーの特番に掴まる。
 派手なパフォーマンスが繰り広げられる舞台。子猫がライオンに、鳩が鷲に、トカゲが大蛇に姿を変える。剣を突き刺されたボックスから、美女が無傷で出てくる。体を鎖で固定されながらも水中から一瞬で消えたマジシャンが、観客に紛れ込み客席に現れる。
 魔法でなくていい。種のあるマジックでいいから、俺の今をパッと変えて欲しい。新しくして欲しい。
 テーブルに肘を突きぼんやりとショーを見ながら、俺は頭の片隅でそんな事を思った。
 そして。


 いつの間にか眠ってしまった俺は、夢を見た。
 おかしな夢だ。
 夢と現の間で、変なものを見るなよと自分で突っ込みを入れたくらい、イカレた夢。正気であったのならそんな夢を見る自分を疑ったものだが、眠る俺にはなす術もなく、受け入れるしかない。
 それがどんなに有り得ない事でも、だ。
 夢とは、そういうものなのだから、仕方がない。仕方がないが、けれどもおかし過ぎるのにも変わりはない。
 夢の中で、何故か水木は子ギツネだった。昔テレビで見た事がある、愛らしいキタキツネそのままの姿だ。しかし、その子供のキツネがどうしてなのか俺には水木だとわかるのだから、ある意味それはそれでかなりやばい気がする。だが、そんな突っ込みは夢なのだからと置いておき。兎にも角にも、水木は意味不明にも子ギツネであり、その小さな姿のまま、人間である俺を苛めていた。そう、俺は苛められていたのだ。子ギツネ水木は、それとなく、そこはかに。けれども、ねちねちジワジワと。堂々と陰険に、俺をいたぶる。
 はっきり言って、それは現実と何ら変わりない。だが、流石に夢の中の俺は人間としてのプライドから、キツネなんかにからかわれてなるものかと対抗し、精一杯の奮闘をする。しかし、水木はスルリとそれを躱し、優雅に尻尾を振るのだ。堪らなく、腹立たしい。ムカツク。俺は悔しくて、怒りに燃えて、どうにかこうにか意地だけで水木を追い詰めようと追いかける。けれど、掴まりはしない。子ギツネはまるで魔術師のように、消えては現れ、シニカルな笑いを見せる。
 キツネの表情など見分けられる訳がないのに、何故かわかる。それが余計に頭にくる。真っ黒な瞳に映る自分さえ、潰してしまいたくなる程だ。笑うキツネに俺は歯を剥き、口汚く罵る、喚く。負けた子供みたいに、だ。かっこ悪い事この上ない。
 だが、そうこうしている内に、俺にチャンスが巡ってきた。これを逃しては人間の沽券に関わると、底力を発揮し、背中を見せた水木に足を伸ばす。目指す先には、ふわふわの尻尾。秋に咲いたススキのように、ゆらゆらと左右に揺れるそれに狙いを定め、俺は手加減せずに勢いよく足を下ろす。
 それは、思ったよりも質量を感じさせた。だが、女の肌よりも柔らかかった。
 踏み付ける瞬間、これで水木は死ぬのだと、不思議な事に俺は確信していた。悟っていた。だが、止める気もなくそのまま足を下ろした結果、子ギツネ水木はパタリと死んだ。通り風に舞い踊った枯れ葉が、地面に寝転ぶように、ゆったりと倒れる。何て、あっけないのか。
 横たわるその姿を見つめても、満足感はやって来ない。段々と、俺は言い表せぬ喪失感に襲われる。迷惑だったのに、鬱陶しかったのに、その五月蠅さが無くしてはならない、本当はとても大切なものだったのだと俺は気付き、震えが起こる。それは、夢でなければ有り得ない心情だ。けれど夢の中の俺は何の疑問も持たず、跪きキツネの亡骸を抱き締めた。そして。
 何をどうやったのか。気付けば、俺の足にはキツネがいた。若干リアルなアニマルスリッパ。しかも、当然のようにキツネは両足分、左右2匹になっているのだから、奇妙を通り越し奇怪だ。それなのに俺は、夏にもかかわらず、足下の温かさに癒される。お前はこんなに軟らかい温もりを持っていたんだな、と。全然気が付かなくて悪かったな、ごめんなと謝罪を繰り返す。たとえ夢であっても、やってられない内容だ。けれど、夢の中の俺は水木キツネの温もりに、深い幸福を感じていた。
 なんて趣味の悪い夢だろう。想いに更ける自分に言い聞かせるよう、両足のキツネを見下ろしながら俺は思う。そう思う俺は夢を見ている現実の俺で、キツネを愛おしむのは夢の中の俺。どっちの俺が正しいかどうかは兎も角、スリッパになった子ギツネ水木にとっては、命をなくしても愛でてくれる存在の方がいいよなと。キツネを見ていると、ちょっとだけだが悪夢と思った事に罪悪感を覚えたりもする。
 夢。たかが夢。けれども眠っている俺には本物で、焦燥が胸に浮かぶ。殺して悪かった、ごめんなさい。俺は指先でキツネに触れ、掌で小さな頭を撫でる。無心に撫でていると、いつの間にかキツネがパグになっていた。
 戸川さんにスリッパの礼を言わなかったなと思った途端、子ギツネ水木の事は頭の中から消え去った。
 今度戸川さんと話した時は、正直嬉しいプレゼントではないのだが、貰ったからには礼を言わねばなと思う。水木ばかりではなく、彼にも何らかの形で感謝を示さねばなと、俺は眠りの中で考える。考えるが水木同様、あの人に俺が出来る事などないよなぁと思っているうちに、戸川さんの事も他の事も全てが消え去った。
 再び深い眠りに落ちる寸前、耳に届いた音に、テレビを点けたままだと気付いたが。
 浮上し覚醒に戻る事は出来なかった。


2007/02/27