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「ン、ぁ…? イ、――痛タタタタタ…ッ!」
 何かの音に覚醒を促され目覚めたが、体を動かした途端引きつる腕や背中に、危うくブラックアウト仕掛ける。痛いなんてものじゃない。筋が切れそうだ。息が詰まる。死ぬ…。
「……痛ッてぇ…」
 なんて痛さなんだと、俺は一体どうなったんだと焦りながら、ゆっくり動いてみる。油がきれたブリキのようだ。頭の下敷きを逃れた腕の血行が巡り始めたのか、手が痺れる。血管で虫が這い回っているようで気持ちが悪いと、テーブルに額を押しつけたまま呻き、手首を回し軽く振る。
 何かに、触れた。
「大丈夫か?」
「――イ…あ、え…?」
 奇跡的にも寝起きの頭でこの声は水木だ!と気付き勢い良く振り向くと、目の前に整った顔があった。
「ア……お、お、」
 数日振りの御対面だとしても、犬や猫ではないのだから、この近さはないだろう。だが、首や肩や背中やらの痛みに、正しい距離についてなど構ってはいられず、体を引く事さえ出来ない。しかし、それでも。低いテーブルに無理やり突っ伏し寝たが故の痛みに襲われ息を飲みつつも、気付いたからにはこの人物に俺は何かを言わねばならない。それだけは、よくわかった。何より、この距離で無視は不可能だ。言うしかない。
「お、お邪魔して、マス…?」
 唇に乗りたがっている、何をしてるんだとか、いつからそこに居るんだとかは、今は後にするべきだろう。久々に会ったのだから詰め寄るよりも前に、おはようございますとか、お帰りなさいとか挨拶するべきではないのだろうか。普通はそうだよな?その方がいいよな?と、奇妙な声を押し出すばかりの口を叱責し、俺が水木に向けて紡ぎ出した言葉は――あろう事か何故だかわからないが「お邪魔しています」。考えていたのとは、全然違う。「お」しか合っていない。頭の中と言動がリンクしていない。
「……あ、……」
 ……お、お邪魔していますって、何だ。自分で自分の中身を疑う。寝起きにしても、酷過ぎる。意味がわからない。
 だが。
「ああ、そうだな」
「…………」
 己の失態に青くなりかけていた俺を目で笑い、水木はごく普通に頷いた。崩れて額にかかった髪が、小さく揺れる。まるで、「いい天気だね」に対しての頷きのような軽さだ。余りの自然さに、そうなのか?そうなんだ?と、間違ってはいないかのように錯覚してしまいそうになってしまう。
 しかし、どう考えてもそうじゃないだろう。全く、違う。
 この男は何を頷いているのか、訳がわからない。今のは「何をボケているんだ」と、そう突っ込むべき箇所だろう。関西人が相手なら頭を叩かれているところだ。ボケにボケで返すとは、それをこの男がするとは。有り得ない切り返し。会わない間に戸川さんや若林さんのお陰で美化しかけていた水木節が、俺に本質を思い出させるよう、早くも炸裂する。やはり、この男は摩訶不思議。話す言葉は異国語よりもわからない。宇宙人よ、星へ帰れ。
「……いや、あの。ど、どういう意味デスカ…?」
 パチパチと目を瞬いたのは、当たり前だが眠さのせいではない。眠気など、男の顔を間近に見た瞬間に飛び去っている。そう、加えて。出来るのならばその時、意識も遠くへと行っていれば良かったのかもしれない。ならば、こんな事態にはならなかったのだろうに。
 しかし、今更何を願ってもどうにもならないというもので。無視すればいいようにも思うが、俺は自分が映る黒目を見ながら問い掛けをむけた。流すのが最適だとしても、わからないままはというのもまた、なかなか怖いものだ。ならば、問うしかない。問わねばならない。苦渋の選択。
 だが、水木には俺のそんな複雑な心情はわからないようで。
「何だ」
「……」
 ……何だ、ではない。それこそ、俺の方が何だその態度はと言いたいところだ。無暗に眉を寄せ凄むなよ、クソ。
 胸中で悪態を吐きつつ、俺は痺れる腕をテーブルにつき力を入れ体重を移動する。尻を床に擦るようにモゾモゾと少し後退しながら、距離を稼ぎつつ言葉を重ねる。
「…ナニって、いや、だから、さ。そうだな、って言うのはさ。その、あの、どういう意味なのかなと……」
「……」
「…………」
 ……この距離で、無視ですか? オイ?
 この状況で、これはない。言葉を紡いでいる自分が馬鹿らしくなる。だから、何でこいつはこうなのだと、一気に嫌気が増す。しかし、現状を理解し始めた頭は、とりあえずはと逃げを打つ。意味なく視線を部屋へと泳がせながら、ゆっくり動く。
「あー、あの…」
 離れて漸く気付いたが、水木はネクタイを少し緩めたスーツ姿だ。今から出て行くのか、それとも帰って来たばかりなのか。俺の問いは聞こえていないかのような表情の中には、その答えは見えない。だが、疲れ気味なのだろう、若干肌がくすんでいるのはわかった。尤も、三十路を過ぎた男の血色なんて、良くはないのが当然なのかもしれないが。
「あの、別に、考えてまで答えて貰うようなものでもないから…、もういいです。出掛けるのなら俺に構わず――」
「居て良かったと言う意味だ」
 沈黙を続けるので妥協してやろうかと引きかけたところに、水木弾が落ちて来た。目の前で炸裂したそれに、暫し俺の思考は停止する。
「――はい…?」
 良かったって、何だ?
「えっ?」
「他に何がある?」
「…………」
 …ンなこと聞かれても、知るかよオイ。普通はそれも無い事だろう。好き勝手に自宅に居座る輩が今なお居たら、普通は溜息ものだろう。そこで喜ぶのはどうかと思う。それとも、俺がここに居る事で、何らかの利点が水木に生まれているのだとでも言うのか。そう、なのか…?
「あの、さ。良かったって事は、何かあるの…?」
「何がだ」
「……俺がここにいる間に、俺の実家や萩森の料亭に悪さをするとか、しているとか…言ったりしないよな?」
「……何を言っている」
「何って、俺はただ、考えられる可能性を――って、あ、いや、その……」
 俺を材料に、どこかに脅しをかけているのならば、そりゃ居て良かっただ。居なきゃ困るだよな、と。深くは考えずにその思い付きを口にしたが、相手の表情の変化に気付き、それは途中で切れてしまう。
「…………」
 水木の眉間に、くっきりと皺が浮かんでいた。どうやら言い過ぎたらしい。
 だが、確かに面と向かって口にするような言葉ではないが、口にしなければやっていられなかった俺の心境を理解して欲しいくもある。しかし、相手が水木ならば、願うだけ無駄というものでもあろう。腹立ちと諦めが載った天秤はバランスを取りかけたが、ゆっくりと片方へと傾いていき、俺は妥協を選択する。
「あぁ、いや、俺、何言ってんだろ? 寝ぼけているのかなぁ、なんて…。……冗談です、済みません。言葉が過ぎました…」
 警戒して何が悪い、疑われるアンタが悪いんだと、正直言ってやりたかったが。まだ痺れている手と、固まったままの体の持ち主としては、1メートル程しか距離をあけられていないヤクザに喧嘩など売れるはずがない。無難に穏便に済ます為、無理やり軽く俺は笑い逃げを打つ。
 けれど、相手は些細な幸福を求めるだけの俺を、簡単には解放しない。逃げさせてくれない。
「お前が居て良かったは、良かっただろう。それ以外にはない。考えすぎだ」
「……」
 この男、悪魔だ。
 誰だよ、こんな危険な奴を野放しにしたのはと。数時間前に話した戸川さんを脳裏に描き、俺は顔を顰める。あの時貴方がコイツを拾わなければ俺は今困っていなかった筈だと、何年も前の事を恨めしく思ってしまう。
 コンチクショウ、考えすぎときたか。クソッ。だが、俺のそれよりも、自分の事を心配しろというものだ。お前は間違いなく、考えがなさすぎだっつーの!
 頭を使っていなければ、将来ボケるぞと心の中で吐きすて、いやもう既にボケ倒しているかと、自ら突っ込み俺は訂正を入れる。そう、だったらもう、何でもいいじゃないか。
 勝手に言っていればいいさと、自分にはもう相手は出来ないと、俺は匙を投げる。まだ痺れる両手擦り合わせながら、これ以上は取り合うまいと追及を放棄する。戸川さんも若林さんも、水木と話せと言うが。話そうとしてもこれなのだから、会話を深める事は出来ない。それは無理だと言うものだ。あの二人には出来たとしても、俺には出来ない。チャレンジしたくもない。
 それなのに。
「お前は何故ここに居るんだ?」
 水木は放棄する事を許さなかった。俺の表情に何を見たのか、言葉を重ねて来る。
「お前が居るのは、俺が乞うたからだろう。だったら、今なお居てくれるのを喜んで、何が悪い」
「…………」
 別に、悪くはない。俺はひと言も、悪いとは言っていない。ただ、おかしいとドン退きしているだけだ。疑うよりも何よりも、まずはソコだろう。ソコがわからなくて、俺は騒いでいるのだ。それをコイツはわかっていないのか? 自分がどんなに可笑しな事を言っているのか、自覚は微塵もないのか?
 頼むから良く考えてくれ、と。堂々と宣言するようなものではないだろう、と。俺の反応は正常だ、と。お前が以上なんだ、と。俺は無言でほぼ同じ高さにある眼を睨み、そしてふと気付く。胡座をかいている水木と、軽く膝を曲げ座っている俺との目線が同じだというのはどう言う事か。まさか、本当に座高が同じだとは言わないよな…?
「……」
 …もう、何もかもが全て面白くない。

「大学は何時からだ」
「え、大学?」
 …って、今の話はもう良いのか、オイ?
「行くんだろう?」
「ええ、まあ…」
 水木の新たな質問に、俺はソファの上に転がっていた携帯電話を手に取り、時刻を確認する。有り得ないかな、まだ七時を過ぎたところだった。こんな時間に起きたのは一体いつ以来か。しかも、起きた瞬間からこの男の相手だ。早起きは三文の得というが、これでは害以外の何ものでもない。早朝の清々しさなども皆無であり、時間的にはもう少し睡眠を取る余裕があった事を思えば、此処が何処なのかを考えても勿体無さを感じてしまう。
「行きますけど、全然大丈夫です。まだ早いから…」
 木曜は1コマ目を空にしているので、この時間では全く急ぎはしない。そもそも、朝イチ講義がある日でも、まだ動き始めていないくらいの時刻だ。早過ぎるというもの。昨夜は日付が変わって寝たのだ。マジでもう少し寝ていたかったとのにとの愚痴を飲み込みながら、問いに答える。だが、渋々吐き出したような声音がわかったのだろうか、直ぐに突っ込み返された。
「早いのはわかっている。何時だ」
「……。…今日の講義は、十一時からです。でも、十時半頃には着くようにしたいので、十時過ぎには出るつもりだけど」
 俺のスケジュールが、一体ゼンタイ、アンタにどう関係ある? 何時でもいいだろう。邪魔だというのならば今からでもすぐに出て行くさ。そう繋げたかった言葉は、けれども喉までも上がらずに腹の中で掻き消えた。
 水木が意味不明な事をまた言ったからだ。
「なら、十時に出るぞ」
「…ハィ?」
「乗っていけ、送ってやる」
「……えっと」
「まだ早いが、もう一度寝るか?」
「いや、寝ませんけど……送るって、なんで、」
「雨だ」
「雨、ですか…?」
 顎で示され振り返ると、窓の向こうでは確かに雨が降っていた。だが、だから何だと言うのか。晴れの日があれば、雨の日もあるさ。意味がわからない。
「自転車だと濡れるだろう」
「いや、だからって……。何で…?」
「他にも理由が要るのか」
「…じゃなくて。ただ、何で俺にそんな事を――」
「雨だと言っただろう」
「……言っただろ、じゃないでしょう。――って、あぁ、もうッ! アンタのそれはわざとか!?」
 埒があかない!
「ホント何だっていうんだ!」
 押さえられずに声を荒げ、両足で床を力強く踏み付けながら立ち上がり、俺は水木を見下ろす。起きた瞬間から始まった、訳のわからない不毛なやり取りにキレるのは当然だろう。今までの遣り取りを考えれば、頑張った方だ。ここまで耐えたのだからもう爆発しても、はっきり言ってやってもいいんじゃないか。そう自分に許可を出すと同時に思いが勝手に溢れ出し、それでも何処かで拙いとわかりつつも、言葉が止まらなくなる。
「雨が降っているのは、わかった。自転車だと濡れるのも、知っている。でも、それがどうしたって言うんだ。俺の問題であって、アンタには関係ないだろ? なのにどうして送るだなんて発想が出て来るんだよ、俺にはそこが理解出来ない。だから、俺は訊いているんだ、誤魔化すな! もしかしてアンタは、俺を拾ったとでも思っているのか?俺は犬や猫か?そこまで世話をしないと、気がすまないのかよ!? 俺はアンタのペットでもなければ、能のない小さなガキでもない。雨でも嵐でも、自分で考えて対策して出掛けられる程度には大人なつもりだ! 送ってくれと、誰が言った。雨だ困ったと俺が言ったか? 俺は一言も、ンな事は言ってないだろッ!」
「……どうした、変だぞ」
「どこがッ!?」
 何が変だと、おかしいお前に変だと言われたくはないと、俺は歯を剥き肩を怒らせる。噛み付くなと昨夜戸川さんに言われ約束させられたばかりだが、この苛立ちは我慢出来るレベルのものではなかった。俺が乞うたのならばいざ知らず、夜にまで出掛けるほど忙しいらしい様子を伺わせる水木が送ると言い出すなんて、俺を馬鹿にしているとしか思えない。一人では学校へ行けない餓鬼だと判断されているようで、情けなさが込み上げる。この状態で悔しさを隠し、水木に笑い顔を向けるなど絶対に無理だ。戸川さんは簡単に言ってくれたが、死んでも出来ない。
「寝起きはご機嫌斜めか」
「……」
 寝起きだからじゃない。相手がお前だからだ、宇宙人。ナニサマのつもりだ、クソッタレ!
「お前は車を持っていない。だが、俺は持っている。雨だから送ろうと言うのは、普通じゃないのか?」
「…………」
 俺のこの苛立ちが見えていないのか、言うほども気にはかけていない顔と声で、水木はまるで頑固な子供を諭すような質問をしてきた。普通じゃないか?なんて、普通じゃない奴が言っても何ら説得力がない。だが、水木の言うそれは尤もでもある。確かに、普通はそうだろう。親兄弟なら、当然の対応だ。実際、先月の雨の日には、俺は義叔父に大学まで送ってもらった。しかし、義叔父と水木とでは、決定的な違いがある。義叔父のそれが  は気配りによる親切であり、水木の判断とは全く違う。水木は家族でもなければ、そんな知人でもない。ましてや、俺とてそれを受けるかどうかは、相手を見てすると言うものだ。「ラッキー!送ってくれるんだ、嬉しい!」と、この男相手に手放しで喜べはしないし、嘘でも言えやしない。本気でもパフォーマンスでも、ヤクザ男に向かってそう言える奴がいるのならば見てみたいものだ。それくらいに、有り得ない。
 水木がどう言おうが、異常は異常。他にはない。常識を示されたからといって、誤魔化される気はない。その一部分など、取るに足らないそれだ。これって、性質の悪い誘導尋問じゃないか。
「……全然、普通じゃないですよ。だって貴方は、休む為に帰って来たんでしょう? 俺の事など気にせず、さっさと寝て下さい。それとも今から仕事ですか? ならば、俺に構わずどうぞ出掛けて下さい」
「お前を大学へ送って、仕事に向かう」
「だからッ。それは必要ないと俺は言っているンです。バイクが駄目なら、電車で行けばいいだけの事なんだから、貴方の手を煩わす事はしません。したくもない」
「誰も、面倒だとは思っていない」
「嘘だ。疲れた顔で言っても説得力はないね。第一、それがもしも親切心での提案であったとしても、俺が傘を持っていないのを貴方は知っているんですから、雨には必要だろうとそれを貸してくれればいいんです。雨なんて、珍しくとも何ともない。どう考えても、気を付けろよとただ送り出せばいいだけの事でしょう。それ以上は過剰だ。違いますか?」
「……」
「……」
 何故こんなにも、俺は苛立っているのだろう。自分でもわからず、わからない事が更に腹立たしくて重ねた言葉は、空中に混ざり空気を濁らせた。水木に吸われなかったそれは俺の中へと戻り、腐敗する。間違った事は言っていないつもりだが、とてもではないが飲み込めない不味さが口腔に広がる。最悪だ。
 やはり水木は苦手だ、と。それに加え、寝起きにこれで嫌悪が倍増しているな、と。睡眠不足のせいで脳はひとつの事しか考えられないのか、水木否定にしか動かない思考に頭を犯されながら、彫刻のような顔を俺は見下ろす。
 芸術家が夢想を忠実に再現にしたかのような、揺るぎない「美」だ。ひとつひとつのパーツが整っていて、バランスが最適で、有り得ないと笑ってしまいそうになる。喩えるなら、ブタが空を飛んでいるのに遭遇した時や、朝目覚めたら蜘蛛人間になっていた時などと同じか。この世の中で、この日本で、この東京の一角で対峙している、非現実的な現実。笑うしかない、笑うしか出来ない、まさにそれ。
 しかも。人間であるのに、自分と同じとは思えない、思ってはならないような明らかな差。それは命の価値というよりも、存在の意味そのものの差だ。俺が居無くなっても世界は変わらないが、この男が居無くなるのは損害だ。馬鹿らしいが、本気でそう感じる。俺が今見ているのは、目の前に居るのは、そんな者だ。
 だが、目を閉じれば、それも無くなる。
 姿形がどうであれ、見えなければそれに意味はない。そして、それがなくなった水木は、その中身は、笑ってはいられない害あるものだ。外見と中身の差が大きすぎて、考える事を止めてしまいたくなる。この男は…と、分析するのも拒絶したくなる。この、神の子かと見紛う姿を持つ人間に存在する理不尽さが、俺には飲み込めない。どんなに時間をかけようが、噛み砕く事も出来ないだろう。人を魅了する面と、人を不快にする面を合わせ持つ水木は、俺の手には余る。
「…………」
 疲れたと思った途端、立っていられなくなった。体が思うように動かない老人みたいに、ヨロヨロとソファに腰を下ろし、深く重い息を吐く。水木の視線を振り払う気力もなく、背を丸めて膝に肘を付き、合わせた手に額を乗せる。痺れがとれ、改めて手首の痛みに気付くが、反応するのも面倒だ。折れていないのならもう何だってイイと、投げ遣りな気分しか持てない。
「これが戸川なら、お前は大人しく送られるんだろう」
 実際には数分なのだろうが、このまま日が暮れ夜になるんじゃないかと感じてしまうくらいに重い沈黙を破り、水木が言った。ボヤキか非難か。抑揚のない声でわかり難いが、そこに好意がないのは明らかだ。
「…………。…それが、ナニ? 貴方と戸川さんは違う人間だ。対応が変わるのは当たり前でしょう」
「……」
「…第一さ、そんな事を指摘して、どうするんですか? だから自分の時も素直に頷けと、そう命令でもするつもり? 馬鹿らしい」
「……」
「…………何か言えよ」
「何をカリカリしているんだ」
「…カリカリなんて、していない」
「俺が来たのが、気に入らないのか?」
「そんな事、言ってないだろ」
「なら、生理か」
「…………アンタ最低だな」
 俺は男だッ、生理があって堪るかッ!と突っ込む気にもならず、瞼だけを上げ軽蔑しきった眼を向けると、「隆雅が保育園で覚えて来た」と水木は真面目な顔で説明をした。
「機嫌の悪い母親に、生理だなと父親が漏らした愚痴を子供が聞きとり、保育園で使ったらしい。声を荒げた保母に、『先生も生理なの?』と言ったようだな」
「……」
「オヤジに向かって生理なのかと隆雅が言っているのを聞いた時は、コイツの頭は大丈夫なのかと心配になったが、何て事はない。理由はそれだ」
 子供は時に、返答に困る事を言う。あの純粋さには、負けるしかない。
 水木は平坦な声で、そんな馬鹿な話をした。リュウの子供らしい誤解や愛らしさは兎も角。この雰囲気でのこの話では、どこを探そうが純粋さはない。何が生理だ、悪質だ。これは、俺がそんな風な、物も知らずに大人の言葉を真似する子供みたいだと、そう揶揄っているのだろうか? 遠回りの嫌味か? 何であれ、最低なセンスに変わりはない。
 だが、俺の方に行き過ぎた面があったのも確かだろう。指摘通り俺のこの苛立ちは、水木が居るからだ。けれど、帰って来た事に怒っているのではなく、紡ぎ出される発言が許容出来る範囲にないからだ。水木そのものに、むかついている。しかし、腹を立てる権利が俺にあるのかどうかを考えれば、これ以上続けるのは難しい。
「……済みません。ちょっと、驚いて……。確かに、貴方は間違った事は言ってない。俺がその親切を、捩じ曲げて捉えたんです。申し訳ありませんでした」
 曲げてしまう要因が水木自身にあるのだが、これ以上言い合っても、どうしようもない。非は俺にある。認識はどうであれ、雨だから送ると水木は発言しただけなのだ。手のかかる奴だと、口に出して非難されたわけではない。それなのに、喰って掛かっていったのは俺だ。話を湾曲し、縺れさせたのは、自分だ。
 そう自分に言い聞かせる事で納得し紡いだ言葉は、けれども聞きようによっては無難な対処法でしかなく、漂う沈黙に気まずさを味わう。
「…………」
「……飯にするか。食べるだろう?」
 謝罪の余韻が消え停止した空気を掻き混ぜるように、水木が立ち上がり言った。再び動き始めた時間に、俺はいつの間にか止めていた息をそっと吐き出す。漸く、拷問からの解放だ。
「用意する。顔、洗ってこい」
「……はい」

 キッチンに向かう背中に手伝うとの声は掛けられず、俺はゆっくりとした動きでリビングを出た。真っ直ぐ廊下を進んだが、数歩の距離で力尽き、足を止め半身を壁に預ける。
 今更だが、体が震えた。自分が水木に何を向けたのかを考えると、震えは止まらなくなり、心臓まで踊りだす。何故か極度の緊張に襲われ、膝が笑い、視界が曇った。蹲り、腕に顔を伏せる。
 悔しさでも、苛立ちでもない。だが、それはわかるが、この震えが何なのかはわからない。思わぬ接見の間に、緊張の糸がじわりじわりと張っていき、今まさにピークに達しているような感じだ。切れる前に話を終えてしまい、どうにもならなかったそれが飽和状態で、俺の体の中で存在を主張する。
 後から怖さがやって来るだなんて。これでよく水木に対峙出来たなと、俺は根性で立ち上がりながら自分自身に呆れた。非常事態を訳もわからず乗り越え、落ち着いて漸くその危険度の高さに気付き、体が震えるとは。情けない。危なっかしい。愚かだ。
 それでも、洗面台で項垂れているうちに少しは落ち着きを取り戻せ、仕方がないかなとも思えてくる。寝覚めが悪いわけではないが、ここ数日の疲労と睡眠不足を考えれば、まだ会話をしただけでもマシだったのかもしれない。起こされても、ウルサい眠いと、俺は水木を気にも掛けずに二度寝をしていたかもしれないのだ。それを思えば、結果はどうであれ、相手をしたのは間違っていなかったはず。噛み付いたのは確かに拙かったのだろうが、既にやってしまった事は仕方がない。取り返しはつかないし、ついたとしても、態度を変えるつもりは余りない。
 特に水木自身は怒っていなかったようだし、苛立つ俺など、どうでも良さそうな感じであったし、多分あれで大丈夫なのだろう。朝食を用意してくれるくらいなのだから、騒いだ俺の何一つ聞いていないのかもしれない。わかっていないのかもしれない。そう、思い返してみれば、水木はどちらかといえば機嫌が良さそうだったような気がする。それを証明するように、内容は兎も角、無言よりも喋る事の方が多かったような――。
「…………」
 ふと、水木はお喋りだと言っていた若林さんの言葉が頭に蘇る。あの男は、本当にお喋りなのだろうか…?
 それはちょっと違うだろうとあの時は思ったが、もしかしたら違わないのかもしれない。無関心で無口な男が、普通「生理か?」なんてボケはかまさないだろう。家族でも友人でもない間柄であれはないのに、それでも実際に起こり得たのは、水木がそうであるからなのかもしれない、と。一気に、若林さんの発言が真実味を帯びはじめる。そう言えば、先日は童貞かと訊かれた。向けられたその言葉の強烈さに、なんて奴だと心底嫌悪してしまうが。あの姿形を考慮しなければ、何て事はない発言であるのかもしれない。そう、言うなればデリカシーの無いオヤジと同等のものだ。腹の出た中年親父が下ネタで部下をからかうのと同じで、水木にも悪気はないのかもしれない。
 とは言え。悪気はなくとも、最低な行為は最低であるのに変わりはないのだが。
「……変なヤツ」
 あれはオヤジの他愛ないセクハラみたいなものかと、発覚した事実に若干前とは違うニュアンスで俺は呟き、歯ブラシを咥える。水木が変なのは、前から知っている。だが、そのおかしさに、面白さなどひとつもなかった。病的とまでは言わないが、常識人には行けないところまでイった、頭がイカれた変人だった。それが、どうだ。水木が下手な喋り人だと思うと、中年オヤジに片足を突っ込んだ低俗な部分を垣間見ると、ドン引きしていた部分がただの呆れに変わっていく。許せない部分はやはり譲れないが、諦める事なら出来そうな気になってくる。
 何て言えばいいのだろうか、上手くは言えないが。恐れを隠して立ち向かい睨み合った敵が、実は外見だけのヘボキャラだったような。どうしようもないヘタレで、レベルが上るとしても仲間に入れるのは悩んでしまうような、そんな脱力感に似た感覚に襲われる。もしも、これで見た目に愛嬌があれば。水木は世に言う「不思議キャラ」に位置付けられるのかもしれない。発言や行動をまともに取り合う必要はない人種なのかもしれない。そんな事を思いながら、俺はミント臭い大きな息を吐いた。もしこの想像が当たっていたら、水木との接見は程々にしておかないと、自分だけが疲れを見る事になるのだろう。
 だが、そうだとわかったからと言って、どうにも出来ない。しかしそれでも、少しは苛立ちを押さえられるかもなと思うと、ちょこっとだけだが気持ちが軽くなり落ち着くような気がした。きちんと磨ききれたのかどうなのかわからない歯磨きを終え、顔を洗う。冷たい水で目を覚まし、ついでに頭の中も洗い熱を冷ましたいと思うが、さすがにそれは無理なので顔のツボを押さえる。圧迫したこめかみから、じんわりと何かが脳に染み出しているような感じがした。
 石鹸ではなく、トワレかアロマオイルか。微かに柔らかな香りが染みるタオルで顔を拭き、大きく息を吸い込む。考えてみれば、水木の持ち物に煙草の臭いがしないのはおかしい。だが、違和感はあまりない。それは何故かと考え、部屋全体がそうだからだと気付く。戸川さんの、煙草の臭いが染みる程も水木はここでは過ごしていというのは、本当なのだろう。
 他人の、まして水木の家庭に口を挟む気はないが。この部屋にいないのならば、あの男は常は何処にいるのか。きちんと本宅に帰っているのならば良いのにと、俺は余計な世話だとわかりつつも思う。紫煙を嗅いでいるのは奥さんであればいいのにと思う。水木が家庭を大事にする男であると知る事が出来たならば、俺の感情は少しは騒ぐのをやめるかもしれない。
 多分、俺が水木にムカツクのは。纏う空気や態度が父のそれと似た部分があるからだ。戸川さんに懐いてしまうのも、だからこそなのだろう。水木に対しては確かに卑屈になっている部分もあるのだろうが、それを差し引いても見下されているその感じが、俺は許容出来ない。故に、いつも反論し、反抗してしまうのだ。だから、少しでも父との違いを見つけられるのならば、それにこした事はないような気がする。たとえそれが阿呆でも馬鹿でも、不思議系でも。父とは似ても似つかない水木を知るのは、俺にとってはいい事であるはずなのだ。
 尊敬したいわけではないので、理想まで押しつける気はない。水木は水木なのだと、父を思い出さない程度にまで知る事が出来れば、それでいいのではないか。そうなれば、逆に。似た態度を取られようが、それは水木だともっと認識出来るんじゃないだろうか。嫌いなタイプであるとは言え、俺はきちんと、水木と父親を別けて対応するべきじゃないのか。
 改めて考えると、水木に怒りを向けるのはただの八つ当たりでしかないような気がして、申し訳ない。勝手すぎる、ガキだ、我儘だと情けなくなる。水木は父ではないのに、その理不尽さを無意識に重ね合わせてしまっているらしい自分を、虚しく思う。余裕がないと言うよりも、心が腐っている感じで、嫌だ。俺はどれだけ、父に捕まっているのだろうと、沈んでいた頃を思い出してしまう。
 確かに参ってしまうような状況ではあるけれど。だからって世話になっている相手に噛み付くのは、最低だ。戸川さんの戯言ではなく、俺は人としてそう思い、自身に喝を入れた。気持ちを切り換えようと、パシンと両頬を叩き、乾燥された衣服を持って部屋に向かう。着替えを済ませキッチンへと向かいかけ、足を戻し待機中の犬を従える。
 よし、行くぞ!!
 足元の二匹に心の中で声を掛け、パグを伴いいざ水木のもとへ。コーヒーの香りが漂うキッチンへと入った俺は、少し緊張しながら、シンクの前に立つ水木に近寄った。
 たとえ嫌味を言われたとしても、我慢だ。我慢。ただの水木弁として、今は軽く流そう。もう、揉めまい、噛み付きはしまい。そう自分に言い聞かせ口を開きかけると、「ひとつでいいか?」と振り向きもせずに尋ねられた。側に寄り手元を覗くと、水木はベーグルを切っていた。
「足りないか?」
「……いえ、足ります…はい…」
「持ってろ」
「……」
 半分に切られたベーグルがふたつ乗せられた皿を渡され、思わず両手で恭しく受け取る。シンクを離れトースターの扉を開け中から小鉢を取り出した水木が、布巾を持ったままの右手でこちらに来いと動作で俺を呼んだ。くいくいと動いた人差し指に引っ張られ、釣り上げられた魚よろしく、跳ねるように足を踏み出す。数歩の距離を走り近付くと、大きな手が皿からベーグルを掴み上げ、開いた小さな扉の中へとそれを押し込んだ。
「熱いから気をつけろ」
「あ、うん…」
 空になった皿と、ふたつの小鉢が乗った皿を取り換えられ、俺は手の中の重みをマジマジと見つめる。鉢の中には、玉子。白味の中から、ミックスベジタブルやソーセージが顔を覗かせている。ココットだと気付くと同時に、美味しそうな匂いが鼻から体の中へと入り込んで来るが、可愛らしい鮮やかな料理がどうやって出来上がったのかは頭に届かない。
「……」
 ……作ったのか? 作ったンだよな?
 この男が料理。しかも、ココット。
 ……悪いが似合わない。キャラじゃない。笑えるカモしれない。
「……ぁ」
 ホントに本気で貴方が作ったのか?と問いたくて顔を上げると、水木の方が先にじっとこちらに視線を向けていた。馬鹿にしたのがバレたのかと誤魔化しかけ、見られているのは自分ではない事に気付く。水木の視線を追い、俺は両手で持つ皿を横に避け、真下に居る犬を見下ろした。
 お前ら睨まれているのか? 可哀相に…。
「……戸川か?」
「はい、頂きました」
 本人から聞いていないのか。疑問形で戸川さんの名前を口にした水木に、俺は素直に頷く。違いますと言っても、こんな事をする人物は限られている。まして、居候先で自ら俺が楽しむ為に用意したと思われたくもないので、他に答えようがない。
 だが、水木にはその返答が面白くなかったのか、「気を使って履く必要はない」と眉を寄せられた。気を使うも何も、ただの礼儀だ。努力も苦労も要らずに実行が出来、且つ害もないスリッパひとつに何を言うのか。面白くなさそうにされる意味がわからない。
「無理はするな」
「いや、別に全然、無理なんて」
「そういうのが、好きなのか?」
 ……。……オイ、普通そうくるか?
「あー、別に、好きって訳じゃないけど」
 って。この言い方だと、戸川さんに悪くなるのか…? 無理しているみたい?
「でも、まあ、嫌いでもないし…。……普通に、可愛いでしょ?」
 可愛いって事は、好きって事かと。何だか支離滅裂だなと、しどろもどろに応える自分に内心で突っ込みながら、俺は視線の先の水木を観察する。だからどうして、何故にそんな難しげな表情をするのか。いい加減、睨まないでくれ。犬達を見ているのだろうが、その中に存在するのは俺の足なので、指先がむず痒くなってしまう。本当に、勘弁してくれ…。
「あの、」
「犬は好きか?」
「え? あ、多分」
「多分?」
「いや、だって、飼ったことないし……。…動物は、可愛いと思うけど、実際にはどうなのかな。よく、わかんない…と、思う」
「そうか」
「…えぇ」
 また、可愛いといってしまった。なのに、わからないのかよ、俺。不意打ちの攻撃はもの凄く微妙な質問で、構える暇もなく応えたからか、俺の答えも微妙だ。おかしなやり取りに、恥ずかしさがじんわりと沸き起こってくる。どんな顔をすれば良いのかわからなくなり、深く俯き犬達を見ていると、手の中の皿を奪われた。
「あ…」
 横をすり抜ける水木に、ドキリとする。袖を捲り上げたシャツが俺の腕を掠り、ただそれだけの事なのに、身体が震えた。
「淹れてくれ」
 皿をテーブルに置き、コーヒーカップを示した水木が指示を出してくる。どうしてなのか、情けなくもドギマギする胸を抑え、俺は平然を装いカップに褐色の液体を注いだ。その横で、水木が手際良くテーブルのセッティングをしていく。
 横目で盗み見るように眺めた水木には、姿形だけではないかっこよさが存在していた。


2007/03/18