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　――お前、行くところがあるのか？
　無いのなら、俺のところに来いよ。いや、あっても来い。
　それくらい、いいだろう？　マサキ。

　セミの声が熱い空気をさらに上昇させるかのように煩く響く。まるで耳の奥で鳴いているかのようなその声に、眩暈を覚えるのは俺だけではないだろう。
　お前もそうじゃないのか？
　返らない答えにめげることなく、俺は問い掛ける。
　あの部屋はこことは違い静かだぞ、と。
「…それにしても、ホントに暑いな」
　ジリジリと首や顔、シャツを捲り上げた腕の肌が焼かれるのをリアルに感じ、流れ落ちる汗をそのままに俺は堪らずそう呟いた。けれども、この場で「暑い」は禁句だ。その単語は、更に体感温度を高める効果を持っている気がする。
　このままこうしていては、耳鳴りのせいなどではなく、確実に倒れそうだ。
　俺は目の前の墓石から視線を外し、天を仰ぐ。このまま後ろに倒れたとしても誰も驚きはしないだろうと思いながら頭を逸らすと、視界は夏の強い光を浴び、白一色に変わった。思わず反射的に手を翳し、細めた目がとらえたのは、殺人的な熱気に反した清々しい蒼い空。
「……俺はまだ、そっちに行く気はないんだ」
　本当に倒れてしまう前に立ち去らなければと、去りがたい感情を軽い悪態で誤魔化し、俺はひとつ長い息を吐いた。体の熱が抜けていく気がしたが、残念ながら吸い込む空気も負けないくらいに熱いもの。
「――しかも、…時間なんだよな、これが」
　この後会食の予定があるんだ。いやはや全く残念だ。
　墓石に視線を戻し、肩を竦めてそう笑う。そんな俺の姿に呆れた表情を見せるマサキの姿が陽炎の中に見えた気がした。いや、ただ、頭の隅に浮かんだだけなのだろう。この暑さでは、身体が正常に働かなかったとしても不思議ではない。
　しかし、暑さが見せた一瞬の彼の姿に満足し、俺はじゃあな、と身を翻した。
　必ず来いよ、などという強引な約束を残こして。
　いつもここを去る時は、小さなものだが、努力がいる。何度同じ事を繰り返しても、慣れることはない。多分、俺は何処かで不安なのだろう。
　目覚めた時彼が消えていたように、突然この場所も消えてしまいそうな気がしてならない。マサキと会っていると実感出来る場所が、彼本人と同じように、いつか俺の前から無くなってしまうのではないかと不安になる。
　実際にはそう信仰心が厚い訳ではなく、こんな墓地よりもよほどあの俺の部屋や一緒に行った店などの方が、マサキを感じられる。けれど、肉体はなくともこの墓石の下には、確かに彼がいるのも事実。縋るには、充分なものなのだ。
　それをなくしても納得出来る程、平常を保てる程、俺はまだ全てを受け入れたわけでも悟りを開いたわけでもない。この現状があってこそ立っていられているに過ぎないのだ。
　だが、それでも確実に、俺は自分の足で歩き始めている。
　残念ながら、どんな現状でもそれに満足していられる程俺は無欲ではなく、加えて野心的でもあるのだ。そう、動いていなければ気がすまない。ならば、同じ場所で留まるためにまわり続けるよりも、前でも後ろでもとにかく進む方が、状況は変わるというもの。
　堕ちるなら地の底まで、昇るのならお前にとどくぐらいまで。極端だと言うものだろうが、その方がわかりやすいし、気持ちがいいだろう？
　だから、俺は歩き出そうと思ったんだ。お前を忘れるためではなく、覚えておくために。
　墓石の間の狭い通路を歩きながら、俺は喉を鳴らす。
　何度目なのかもう忘れてしまう程の今回の問い掛けも、やはり応えは返らない。けれど、それにさえ俺は満足してしまうのだから、人間の適応能力を少し疑わしく思う。慣れとは怖いものだ。だが、必要なものでもあると知っている。
　通路で家族連れと擦れ違う時に小さく頭を下げると、年配の女性の手の中で向日葵が同じように会釈を返してきた。強い陽射しの中、先を競い元気に走る子供の声は、あんなに鳴り響いていた蝉の声すら簡単に掻き消す。
　彼に会いに来る人物は、果してどれくらいいるのだろうか。ふと、過ぎていく家族の姿を振り返り、俺はそんな事を考えた。どれくらいの者がいるとしても、その中に肉親は一人もいない。
　俺は再び足を進めながら、周りの墓を眺めた。盆に入ったお陰で普段は味気ないこの場所も、様々な花が供えられ、幾分明るい感じがする。故人の好きな花なのだろう、夏の時期には似合わないものまであるそれらに、俺は微かに苦笑を漏らす。
　俺は、マサキが好きな花さえ知らない。
　何だかんだと言っては年に一、二度は連れて行かれる父親の墓には、いつも盛大に花が生けられている。いや、植えているのかと思うほどの派手さだ。悪趣味だから止めておけよと思うが、息子だとはいえ面倒を見ていない俺が口出しするのも何なので、ただ肩を竦めておくだけにしている。はっきり言って、どうでもいい。
　だが、そんな風に息子に嫌われた彼でさえ、その季節には好きな花を供えられるのだ。
　誰でもいい。たった一人でかまわない。
　誰か、彼の好きな花を、彼に供えてやって欲しい。
　それが俺ではないのは、正直悲しく思うところだが、それこそそんな感情などどうでもいいというものだ。
　俺じゃない誰かでも、彼に何かを与えてくれるのなら、俺はそれだけで満足だ。
　不意に無粋な音が上がり、俺は一気に現実に行き戻された。受けた電話で仕事の話を交わしながら駐車場まで辿り着き、見慣れた車に乗り込む。
　車内の冷たい空気に大きく息を吐くと、電話の向こうで堂元が軽く笑った。
　走り始めた車の中で身支度を整え、ネクタイをきちんと締め直す。

　俺は相変わらず仕事に追われているが、周りに恵まれ、好き勝手にやっている毎日だ。
　変わらないよ、あの頃と。
　ただ、お前がいなくなったというだけだ。