+ Act.3 +
この国では珍しい、ある程度は綺麗に舗装された道路を、俺を乗せた車が走る。
規則正しいリズムとはいかないが、それでも振動というものは眠気を誘うものだ。
聞こえてくるのは、エンジンの音、風の音、タイヤの摩擦音。そして、微かに波の音が耳に届く気がする。
それは多分、風に混じる潮の香りのせいなのだろう。実際には、この辺りの海はそう波は高くないようだから。
俺は、少し興奮しているのかもしれない。
目を閉じて車の揺れに身を任せていても、完全に眠る事が出来ないのは、間違いなくこの香りせいだ。
こんな俺でも、確かに小さな島国の生まれなのだと、こんな時には実感する。あの窓から見続けていた海は、決して綺麗なものではなかったというのに、まるで良い思い出であるかのように脳裏に浮かぶ。
恋しいわけでも、帰りたいわけでもない。だが、それでも何故か少し懐かしく思う。
車がスピードを落とすのを体に感じながら、もう少しこのまま、この感覚を味わっていたいと俺は思った。
だが、そういうわけにはいかないようだ。
「着いたぞ」
ゆっくりと目をあけると同時に、男の髪が目の前に広がっている事に気付き、俺は直ぐに瞼をおろした。耳元で起きろよと囁く声は、笑いを含んでいる。
「起きている」
あんたが邪魔なんだと続けようとした言葉は、男の口に吸われてしまう。結局はこうなるのだとわかりきっている事なので、俺は逆らわずに口を開いた。そもそも抵抗は、俺には与えられていない。
入ってきた男の舌に反応を返すと、満足そうに喉を鳴らし、男はあっさりと体を起こした。
「よく寝ていたな。今夜に備えているのかい?」
眠っていなかった事を知っていてからかっているのか、本気で言っているのか。この男の場合、考えるだけ無駄なのだろう。答えなど初めからないのかもしれない。
男の言葉を無視して車を降りる。俺の目の前には、緑に近い青い海が広がっていた。それは、天高くまで続いている。どこまでも広がる海。
「ほら、来いよ」
海と空の境目がわからないほどの一面の青に目を奪われている俺を、男はまるで犬でも呼ぶようにそう声を掛けてきた。男が進む先には、沖合いに向かって幾つものコテージが並んでいた。
海の上の通路を歩き、最奥の建物の扉を男は開ける。
「どうぞ」
中へ入り、正面の大きな窓を開け、俺は直ぐに外へ出る。
最奥のコテージなので、このテラスからは青しか見えない。傾き始めた太陽はそれでも容赦なく地上を照らしていると言うのに、ゾクゾクと俺の身体は震える。
「そう言う顔も出来るんじゃないか」
背後から近寄ってきた男が、俺を抱きしめながら言った。
「いいね。凄く、イイ」
耳に囁きかけ、甘く俺のそこを噛む。だが、俺は目の前の景色から視線を反らせられない。海面で反射する光が、俺の目を焼こうとする。それでも、青から目を逸らしたくない。
「気に入ったか?」
男の言葉に、俺はただ頷いた。
それに満足したのか、喉を鳴らした男の指が俺の体を這い始め、直ぐにそれは意図を持ってはっきりと動き始めた。
小さな窓に腰掛け、沈みゆく太陽を眺める。下に広がる海は、夕日と同じく真っ赤だ。先程の青は姿を消している。
太陽の下で、その熱さに感化されたかのように、男は俺に熱を与えた。だが、抱きはしなかった。本当にわからない男だ。
そんな男は、今はキッチンに立ち楽しげに料理をしている。全くもってわからない。だが、問題はない。わからないものはわからないままでいい。
それよりも。
男の後ろ姿をチラリと見て、俺は直ぐに窓の外に視線を戻す。
「ミナト。ちょっとおいで」
男が声を掛けてきた。
だが、俺は返事をする代わりに、そのまま凭れていた背中をずらし、窓の外へと身を落とした。
バシャンッ!と弾ける音が、どこか遠くで響いた。身体に受けた衝撃は、甘い疼き程度のもので全く害はなく、反射的に瞑ってしまった目を開く。
服の中の空気が、炭酸のようにシュワーと音が聞こえそうなほど勢いよく水面へと上がるのを、俺は水中から眺めた。赤く染まる海でのそれは、とても綺麗だ。
水面に顔を出すと、男の呆れた声が落ちてきた。
「驚かすなよ、おい。大丈夫か?」
返事をしないでおくと、「ったく…」と今度は溜息を落とす。
「日が沈むまでだぞ。食事にしよう」
そう念を押し、男は俺が飛び降りた窓から姿を消した。
仰向けに寝転がり、微かな波に身を任せ、瞼を閉じる。だが、それでも瞼は、真っ赤な太陽をちらつかせる。
海はとても温かかった。
星の明かりだけで見ると、眩しい光の中で見るより、男が真面目に見えるから不思議だ。どちらが本物なのか、時々考えてしまう。だが、それは一瞬で、どちらであろうと俺には関係のないことだという答えを導き出す。
結局は、どちらもこの男なのだから。
「あ、んっ……」
丁寧な愛撫にいつの間にか慣れてしまった俺をからかうかのように、男は焦らす。俺の口から漏れた息は、星の囁きよりも熱く、いつもは感じない羞恥心が少し沸き起こる。
海に囲まれていると言う事実が、いつも以上に俺を煽る。
鼻につく塩の匂い、小波の音。触れた海水の温かさが、肌に蘇る。
「珍しい日もあるもんだな」
いつもとは違い敏感すぎる俺に、男は低い笑いを漏らした。その響きにさえも、俺の身体は反応を示す。
それが悔しいのか、無意識に唇を噛み締めていたようで、男の手がそこにあてられた。
「噛むなよ、傷つく」
「ン…」
素直に口を開き、ならばその代わりにとキスを求める。
『本当かどうかは、見た事がないのでわからないが』
男は食事の時、そう前置きをして言った。
『火星では、夕日は青く見えるらしい。赤じゃなく、青に』
『青…?』
『そう、青い夕日。見てみたいか?』
そう訊ねた男だが、俺の答えを聞かなくともわかっていると言うように、返答を待つ事はぜずに続けて言った。
『いつか、見せてやる』
低く笑いながら、男はそう言った。
「なぁ…さっきの……」
「何だ?」
「ぁア…ッ」
膝から脚の付け根へと伸びてきた大きな手に、俺は言いかけた言葉を喉で詰まらす。
男はそれに、子供をあやす様な柔らかな声で問い掛けてきた。
「どうした?」
「…ん、…いや、何でも、ない」
忘れたと返すと、喉を鳴らしながら「思い出して欲しいね」と俺の耳朶を噛んだ。
「ムリ、だ…」
緩い刺激に焦れた俺は、男の手をとり奥へと誘う。
「このままだと、気が狂う」
「それも、いいな。お前が、俺に狂うのは」
「…あんたにとは、限らな…――うあっ!」
いきなり深く侵入してきた指に、思わず腰が浮く。だが、男はそれを制し、楽しげに笑った。
「俺を挑発して、何を期待しているのかな? お前はホント、悪い子だな」
「……」
悪い子。
単なる戯言に過ぎないものだとわかっていても、それは俺に冷や水を浴びせたような衝撃を与えた。多分、海の香りを嗅いでいたからだろう。普段なら、きっと聞き流せたはずなのに。
「ミナト…?」
何かを感じ取ったのか、男が俺の名を呼んだ。
「悪い子、か…」
「……どうした?」
冷めた俺の呟きにおかしいと思ったのだろう、覗きこんできた男の顔は真剣なものだった。
軽く寄せられた眉間の皺に、俺は唇を落とす。
「どうもしない。何でもない」
「……」
「悪いのは、俺にこんな事をしているあんただろ? なあ、男を犯して、楽しいかい? 雨宮公使」
口の端で笑いながら、俺は男を引き寄せる。そして、大きく息を吸う。男の匂いを頭に、心に教え込む。
今、目の前にいるのは、あいつではないのだと。
「ああ、とても楽しいよ」
耳に囁き、頬にくちづけを落としてくる男に、俺は腰を揺らして更なる刺激を強請る。
先程喉元まで上がってきた言葉はもう、俺の心からは消えてしまった。
夢を語るのはもちろんの事、そんな夢を見る事自体、俺には許されていないのだ。その事を、男自身が思い出させた。
第一、この男との未来は、期限がついた短いものでしかない。直ぐそこに終わりがあるのに、夢など馬鹿げているとしか言えない。
潮の香りに、波の音に、少し惑わされただけだ。
そう。男の言う「いつか」を楽しみに出来るほどの時間は、俺達にはないのだから。
少なくとも、俺はそうだ。ただの夢物語だとしても、未来を楽しむ方法なんて知らない。教えられていないし、そんな可能性自体、俺にはない。
満天の星空の下、透き通る綺麗な海の上で、俺は醜く卑しく、男を受け入れる。
そう。
これが唯一の、俺の生きる道なのだ。
2003/05/18