+ Act.4 +
カーテンの向こうが白み始めたのを確認し、微かな寝息をたてる男の傍から抜け出した。
眠れなかったのは、ただそのタイミングを逃したからだ。決して、疲れていないわけではない。だが、眠りはしなかったが横になっていたお陰か、身体は思うほども重くはない。
辿り着いたリビングは、大半がガラス張りになっているので、寝室よりもかなり明るかった。もう直ぐ陽が上るのだろうと思いながら、キッチンに入り水を一口飲む。
冷蔵庫に貼り付けられたメモには、俺には文字かどうかさえよくわからないものが記されていた。
何となく、指先でペンの後を辿りながら、何が書かれているのだろうかと考える。
今この時間にここに張られていると言う事は、これを書いたのはベッドで眠る男だ。
通いの家政婦は、毎夕帰り掛けに沢山の言伝をメモに残す。それは今夜の夕食に始まり、日中の俺の様子も入っているらしい。だが、朝には彼女と顔を会わせる男がこうしてメモを張るのは、珍しい事だ。
ならば。今日はいつもと予定が違うのかもしれない。
キッチンを出てリビングを横切りながら、男は休みなのかもしれないなと思いつく。起こさなくて良いとあの紙には書いているのかもしれないと思いながら、俺は窓を開け裸足のまま庭へと降りた。コンクリートが早くも熱を帯びている。
太陽はもう、半分以上顔を出していた。
タオルを忘れたのに気付いたのは、朝陽が照るプールに飛び込んでからだった。
だが、だからといって問題はない。
案の定、いつも通りの時間にやって来た家政婦が、俺がプールに居るのを見つけると直ぐにタオルを用意した。
「オハヨーゴザイマス」
珍しく早起きだと思ったのか、小さく笑いながら口にする日本語は、彼女が聞き覚えたものだ。雇主とは現地語で意思疎通が出来るのだから覚える必要もないのだろうに、この家政婦は俺の言葉を耳を大きくして聞き、意味もわからないだろうによく真似る。その行為は子供のようだが、数日後には間違えずそれを使うようになっているので、多分聞き覚えたものをきちんと雇主に訊ね収得しているのだろう。
この挨拶もそうだ。俺は「おはよう」としか言った事がない。だから、彼女も始めは「オハヨー」だけだった。それがいつの頃からか、その後に「ございます」が付け加えられるようになった。
きっと、俺の買主であり、彼女の雇主である男が、丁寧に教えたのだろう。だが。
余計な装飾が付くのは、俺は余り好きではない。
「……オハヨウ」
何だか少し面白くないと思いながら俺は挨拶に応え、勢いをつけてプールから上がった。
今まで笑顔を見せていた少女が急に顔を真っ赤にして慌てて駆け去って行く後ろ姿を暫く見つめ、自分の格好に問題があった事に気付く。タオルを腰に巻きながら、リビングに戻るのはもう少し時間をおいた方が良いのかどうかを俺は考えた。
俺と雇主の関係はわかっていても、二十歳の少女にこの朱が散る身体は生臭かったのかもしれない。
予想通り、あのメモは仕事に関する事であったようで。
俺が朝食を摂り終っても、男はまだ起きて来なかった。二ーナも起こしに行く様子はないので、本当に休みなのかもしれない。だが。あの男に限って寝坊という事はないだろうが、そちらである方が面白いのになと意味のない事を考えていた俺の耳に、来訪者を告げるベルの音が入り込んできた。
いつの間にか、馬鹿な事を考えつつもまどろみかけていた自分に気付き、ソファの上で斜めになっていた体を起こす。寝るのならば、ここではなく寝室へ行くべきだろう。リビングで眠ってしまっては、起きてきた男に遊ばれ直ぐに起こされてしまう可能性が高い。
漸く襲ってきた睡魔に、ソファから立ち上がりかけた俺の上に影が落ちてきた。
顔をあげると、そこには知らない中年男の姿があった。不躾に見下ろしてくる視線に眉を寄せながら首を巡らすと、少し離れたところにニーナが立っていた。彼女が笑顔を浮かべているという事は、強盗ではないのだろうと結論付け、俺は再びソファに体を沈める。寝室に行くのも面倒になってきた。
現地語らしい言葉で客がニーナに声を掛けながら、テーブルを挟んだ俺の前の一人掛けのソファに腰を降ろす。パタリと扉が静かに閉まる音が聞こえた。ニーナが寝室へ男を呼びに行ったのだろう。
客が家の中まで入って来るのは、珍しい。
そう思いながらも、我慢出来ずに俺はクッションに体重を預けた。客には悪いが、眠いものは眠い。第一、俺の客ではないのだから、相手にする必要もない。客が来たのなら、ここで寝ていても男にやられはしないだろう。そう、ここで寝ても問題はない。なくなった。
いつにもまして働かない頭で考え、その答えに自分で満足した時。声を掛けられた。
「お体の具合でも悪いのですか?」
「……」
閉じていた瞼をあけると、心配げな言葉には合わない、強い眼とぶつかった。侮蔑の色を含んだそれに、どうやら身分を悟られているらしい事に俺は気付く。初対面の人間にあからさまに蔑まれる理由は、俺が男娼であること以外にはないだろう。だが、この場合、買われた俺よりも、買った男にその眼を向けるべきだ。
そう思うので、客のその眼には取り合わず、俺は再び瞼を落とした。
だが、ふとある事に気付き、顔をあげる。
「……あんた、日本人?」
「一等書記官の小森です」
「……」
書記官がどんな仕事なのかは知らないが、公使である男の部下である事は間違いないだろう。
果たしてその部下を自分が覚える必要があるのかどうかを考え、俺は必要はないと記憶に書き込むのを止める。必要ならば、後で男からもう一度名前を告げられるだろう。
俺にとっては、久し振りに買主以外の日本人を見たという、ただそれだけの事。
「お名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」
「……」
それも、必要ならばあの男が教えるだろう。俺が自ら口を開くものではない。
「あの、済みません……君っ!」
無視をされる事は日常にはないのだろうか。直ぐに痺れを切らした男が、声を荒げかけた。だが、そこにニーナが戻ってきたので、何やら取り繕うように話し掛ける。テンポよく交される異国語の会話を聞きながら、俺は体から力を抜いていった。
鼻腔をコーヒーの香りが擽る。話の内容はわからずとも、ニーナの声が弾んでいるのがわかる。多分、男はニーナが出したお茶を誉めたのだろう。小さく笑いながら、ニーナが知っている日本語を口にする。
その中で、目を瞑っていても、男の視線が俺に向いたのがわかった。ニーナから、俺の情報でもとっているのか。横たえた体の上を、舐めるように視線が行き来する。
不快だ。
眠りたい時に眠れないのは、精神上良くない。起こされるのは兎も角、睡眠に入るのを邪魔されるのは、俺は嫌いだ。とても。
「……どうしましたか」
体を起こし立ち上がると、訝しげながらも睨みつけるように見上げられた。その視線を無視し、俺は出口に向かう。
扉に辿り着く前に、それは向こう側から開けられた。
「こんなところに居たのか」
優秀な家政婦に聞いていたのだろうに、白々しくも小さく驚く男に俺は眉を寄せる。
「……寝る」
「まだ昼にもなっていないぞ、早いな」
「違う、遅いんだ」
「ん?」
「まだ、寝ていない」
「成る程」
笑いながら引き寄せられ、額に唇を落とされた。わざと音をあげて離れるそれを眺め、今度はキチンとキスをさせる。
「オヤスミ」
眠りの挨拶にしては濃厚な口づけを、男の部下がどう思ったのかには興味はないが。
ニーナの目には、俺も男同様に色惚けした馬鹿な奴に映るのかもしれない可能性に気付き、廊下を歩きながらほんの少しだけ後悔をした。
慣れない事は、しない方がいい。
目が覚めた時、辺りは真っ赤に染まっていた。
朝ではなく夕方だと気付くのに、少し時間が要った。
水を飲みにキッチンへ入ると、冷蔵庫に張られたメモが目に飛び込んできた。いつもより沢山の内容が書かれているようなそれに、俺は軽く眉を寄せる。多分きっと、この中身の大半は俺の事なのだろう。いつもならば昼前に起きる俺が、彼女が来るよりも早くに動き出していたのだから、ニーナにとってはさぞや面白い事だったのだろう。
その興奮を、こうして書面で雇主に知らせるという事は。男はあの後、家政婦と話す間もなく、あの部下と一緒に出掛けたのだろう。そして、まだ帰らない。
どうやら予想は外れていたようだと、休みではなかったらしいと思いながら、そう言えば男が休みであったのはいつだっただろうかと考える。
似たような怠惰な毎日を過ごす俺には、最早、曜日の感覚はない。また、この国の休日が何曜日なのかも知らない。だが、最低でもこの七日間、男が一日中家に居た事はない。というよりも、俺が異国に来たこの数ヶ月の間で、彼がネクタイを絞めずに過ごした日を数える方が早いだろう。それは、片手だけで足る気がするくらいの日数だ。
忙しい男なのだと、改めてそう思う。
それなのに、毎晩帰ってきては、俺とじゃれる。
本当に、訳のわからない馬鹿な男だ。
「……雨」
ふと気付けば、辺りは真っ暗になっていた。暗闇の中、屋根を打つ雨音に気付き、俺はソファから体を起こした。考えるよりも早く、足が向かう。
外に出た途端、体を強い水滴に打たれる。こんな時間に降るとは珍しい。スコールだ。
痛いくらいの雨粒が、心地良い。
地面の上に仰向けに寝転がり、俺は思い切り両手両足を伸ばした。
いつもならば無数の星が広がる空も、流石に今は暗い。だが、その中から落ちてくる水が、煌く星よりも俺を興奮させる。ゲリラ的に降るこの雨は、日本では体験出来ないものだ。この瞬間は、この国に来て良かったと、嬉しいと俺は思う。
雨粒が弱くなり始めた頃、リビングに灯りが点いた。男の帰宅だ。
「わかっていても、心臓に悪い」
「……」
何を言っているのだろうか。軽く眉を寄せると、跪き顔を近づけてきた男が、触れるだけの口づけを落とした。
「起きろ」
「……」
「お姫様は、キスをされたら生き返るのがセオリーだろう」
「……相手による」
「俺は王子様じゃないって言うのかい?」
つれないなと喉を振るわせ笑う男の声を聞きながら、先に言われた言葉の意味を俺は知った。雨の中好き好んで地面に寝転ぶような奴だとわかってはいても、死んでいるのかもしれないと焦ったと言ったのだ。
それはいつものからかいなのか。それとも、何か理由があっての本気の言葉なのか。
俺にはやはり、全くわからない。
「ずぶ濡れだな」
キスの合い間に、男が笑う。
「……あんたも、そうだろう」
「誰のせいだ?」
「俺のせいじゃなっ……ンッ…」
唇を弄りあいながらも体を起こすと、素早く抱き上げられた。いつの間にか、完全に雨は上がっている。
「ミナト」
「…ン、あ、ナニ…?」
「俺は、お前の王子様にはなれないのか?」
「……何だって?」
「俺はなりたいんだ」
「……なりったいって…。あんは、既に俺の主人だろう」
マスターでなければ何なのかと、何を言っているのかと俺が眉を寄せると、何故か男は悔しそうな顔をした。
2005/10/25