+ Act.5 +
朝早くに揺り起こされ、訳のわからぬままに部屋から連れ出され、気付けば俺は男と二人で乾いた道の上を歩いていた。高台にある屋敷からこうして歩いて外に出るのは、初めてだ。
「……ドコへ、行くんだ?」
「散歩だと言っただろう」
「……手、放して」
「さっきの二の舞になるのは御免だ」
「……さっきって…?」
いつの間に履いたのだろうか。サンダルを纏う己の足を見下ろしながら、俺は何を言っているのかわからないと問い掛けた。引かれていた手が強く握られたので顔をあげると、男は足を止め俺の額に額を重ねる。
必然的に見下ろされる格好。間近にある、強者の眼。けれど、歳には勝てないのか、白目は少し濁っている。
俺を無理やり起こし連れ出したというのに、その本人も疲労を残している。散歩などせず寝ていれば良いものをと思いながら見返す俺に何を感じたのか、男はグイッと額を押してきた。仰け反ったところを、腰に腕を回され支えられる。
「寝ぼけすぎだぞ、いい加減起きろ」
「……意味がわからない」
沈黙ではなくそう言葉にしたのは、疑問の大きさではなく腹立たしさからだ。人がまどろんでいる間にここまで連れて来ておいて、喧嘩を売るのかこの男は。バカらしい。そんな事は、ひとりでやっていろ。
「無自覚は怖いねぇ、ホント」
「……」
「お前、さっきも手を放せと言ったんだぞ?」
「……憶えてない」
「だろうな。放した瞬間、その場に転がり寝ようとした」
「…問題ない、今はちゃんと起きている」
だから放せと男の胸を押しやると、「ならば、おはようのキスだ」と唇を奪われた。男の言うように確かに寝ぼけていたようなので記憶はないが、この買主の性格から考えて、その挨拶はもう既に済ませている筈だ。
「…さっきも、しただろう」
「憶えているのか?」
「勘」
「だったら、それはお前の勘違いだ」
「…こんなところで、こんな事していていいのか?」
唇から顎を伝い首筋を這う舌を感じながら、とりあえず聞いてみる。赴任先まで買った男娼を連れてくる人物が、人目など気にするわけがないのだろうが、俺はする。ここで足を広げろと言われれば反抗せずに従うが、だからといって心まで買主に沿う訳ではなく、嫌なものは嫌だ。避けられるのならば、避けるにこした事はない。
「気になるか?」
「あんたは、しないのか?」
「今更だ」
短い言葉。けれどそこには沢山のものが詰まっているのだろう。今更――何を言ったところで問題はないのか、今更――何を言ってももう遅いのか。どちらなのかはわからないが、男が全てに覚悟をしている事だけは確かなのだろう。
誰に見られようと、何が起ころうと。短い言葉で納得出来ると言うわけだ。――バカらしい。
この男は、間違いなく馬鹿だ。
だが、その馬鹿さはわからないものではない。
「……俺は、そういうのは嫌いじゃない」
「ミナト…?」
俺にだって、覚えがある。男のように覚悟ではなく諦めに似たものであったが、それでも自分の状況を、それこそ命そのものも、短い言葉で納得した。今更だと。
今までも、恵まれていたわけではない。だから、これからどうなろうと、大差はない。
そう思って生きていたのは、忘れられるほど昔の事ではない。
いや、今も変わらず、俺はその方法を活用し自分を納得させている。
今更、俺は変われないと。変わる必要はないと。変わってどうすると。
「でも、それは暗示だ。現実には通用しない。あんたがそうでも周りは気にする」
「させておけばいい。どこの誰とも知らない奴だろう、お前もするなよ」
「それでも、俺はその現実で生きている」
意外だったのか。はっきりと眉を寄せる男の腕の中から抜けだし、俺は歩みを再開させる。
外交官が住む家に続くというのに、舗装もされていない土の道。乾いたその上を動く麻のサンダル。異国の空気に緑の匂いが混じる風。空は青空、昇ったばかりの太陽は早くも熱い光を注ぐ。都会の隅で生きてきた、暗さに慣れた俺には眩しすぎる、夢の中でさえ見た事がない明るい場所。まるで、本当に夢の中のように現実味がない。
だが、これが今の俺の現実だ。
「あんたは俺の買主だ。だけど、全てじゃない。俺は他のものとも繋がっている」
振り返り確認せずとも、男が俺の言葉をきちんと訊いているのはわかった。けれど、この言葉の意味をどこまで理解しているのかはわからない。
買主は、間違いなくこの男だ。だが、それには「今の」が付く。そして、その上にはもうひとりの男が常に存在する。
俺の全てを支配する者が。
俺にとってその都度与えられる買主に従う事は、あの男の命令でしかない。それは、俺をあの男から買った男自身がわかっている筈だ。わかっていなければならない事だ。
外交官とのスキャンダルの傷など、男娼にとっては何て事はないものだろう。だが、あの男の趣味じゃない筈だ。たとえ問題になったとしても笑って俺を許すのだろうが、その相手まではわからない。
契約期間が終われば、俺にはもう関係のない事だが。少なくとも今は、俺は買主の不利になる事は極力しないペットでなければならない。我儘や文句を言っても、基本的には「無害」でなければならない。
商品である以上、それは絶対だ。
「ニーナだぞ、ミナト」
トンと背中に柔らかい衝撃を感じると同時に、耳に囁きかけられる。
背中から抱きしめられながら顔をあげると、緩やかな坂道を登ってくる少女の笑顔に出会う。
俺の頭の上から、男が何かを言った。遠目にも、少女が肩を揺らしながら笑っているのがわかった。
「…何て言ったんだ?」
「ミナトが朝食を待ちきれずに騒ぐから、君を迎えに来たんだ、と」
「……」
黙った俺の髪をかき回しながら、やってきた少女に男はまた言葉をかける。
多分、「ほら、空腹で機嫌が悪い」と俺の事を説明しているに違いない異国語を聞きながら、俺は体重を後ろへかけた。
温かい胸から響く心音が、俺のものと重なる。
意識のないまま男と進んで来た道を、今度は三人で引き返す。
男がわざとしたのだろうか、それとも俺が無意識にしているのだろうか。気付けば二人から離れ、俺の足は完全に止まっていた。数メートル先を行く、背の高い男と小柄な少女の背中をぼんやりと眺める自分は、一体何を考えているのか、感じているのか。俺にもわからない。
ただ。
この光景を、悪くはないと思う。
俺からは離れてはいても、少女が笑うのも、男が笑うのも、悪くはない。
だが、今の現実は。
俺もそこに加わる事が出来るはずのもので。
「……雨宮」
俺は呟くと同時に、足を前に動かした。三歩進んだ所で、男が立ち止まり振り返る。その横で、少女もまた振り返り笑う。
「ミナト、来い。おいて行くぞ!」
笑いを含んだ声。
「あんたは――俺を置いていけるのかよ!」
俺を放っておけるのか。捨てていくのか。
軽口に対する返答ではないとわかりながらも、そんな思いを込めてしまったのは、たぶんきっとあの飼主を思い出したからだ。他意はない。そう、あってはならない事だ。
意味深な言葉に驚いたのか、俺が大きな声をあげた事に驚いたのか。男は目を見張り我に返ると、数十歩の距離を駆けて来た。
俺を抱き上げる為に。
2005/11/09