+ Act.6 +

 この国に来てどれくらい経っただろうか。
 沢山の人の中に入るのは、本当に久し振りだ。
 毎日毎日屋敷からは出ず、顔を会わせるのは二人だけ。以前海に出かけた時も、殆どコテージに篭っていた。この国の人々の生活にこうも近づくのは、初めての事だ。
「――大丈夫か?」
「…………ナニが…?」
 不意に、隣を歩く男に少し難しげな顔で覗き込まれた。足が止まってしまったのは、意味不明な問いを発した男に対する驚きでも呆れでもなく、ただ前方を塞がれる形で窺われたからに過ぎない。いつもならば横に逃げる事も出来るのだが、人々が賑わう市の真ん中でそんな事をしようものなら、誰かと衝突してしまう。
 例え、ぶつかったところで、怪我など負いはしないだろうが。
 それを予想出来ながらも避けなければいけないわけではないし、避けたいわけでもない。
 さり気なく肩にまわされた手は、街中でも許容範囲内のうちだろう。
 もしも、このままここで犯されるのならば、ペットであれども逃げなければならないが。
 くちづけくらいまでならば、問題はない。
「人に酔ったんじゃないのか?」
「……いや」
「ぼんやりとしている。眠いのか?つまらないか?」
「…そんな事はない」
「そうか、それならいいんだ。だが、無理はするなよ?」
「…………」
 目を細め、唇を歪めて笑った男が、身体を戻し歩みを再開する。俺は敢えて数歩遅れで足を出し、砂が舞う道を歩いた。
 無理をするな? それは、無理やりここに連れ出した人物がいう言葉ではない。
 そう思いつつも言葉を飲み込んだのは、別段来たいわけではなかったこの市が、ツマラナイものではなかったからだ。面白いわけではないが、退屈なわけでもないとそう思えたからだ。
 だが、俺はそうでも。この男は一体何を考えているのか。
 我侭を発揮するように俺を連れ出したのだから、それで満足であるはずなのに。何故、心配そうな悲しそうな不安そうな、可笑しな顔をするのだろう。意味がわからない。
「ミナト」
 少しずつ開いていく互いの距離を笑うように、苦笑を浮かべた男が振り返る。
「ご機嫌はナナメかい?」
「……」
「ずっと家の中だろう。だから、少しでも刺激になればと思っただけだ。気に入らなければ帰りたいと言えばいいんだぞ?」
「…気に入らなくはない」
「俺は、お前が楽しければ何処でもいいんだ。プールよりも、ソファよりも、ベッドよりも。お前が他にも楽しめるところがあるかもしれないと思って、候補のひとつに連れ出しただけだ。俺を気にする事はないぞ?」
 デートに失敗して泣くほど若くはないからなと、目の前まで戻ってきた男はそう言い、犬や猫を撫でるように掌で俺の頬に触れた。
「別に、帰りたいわけじゃない」
「……。…もう少しまわるか」
 ほら、行くぞ。
 頬から離れた手が、俺の手首を取り歩かせる。男のそれは直ぐに滑り、指を絡み合わせてきた。
 眠いわけでも、帰りたいわけでもなく。ただこの喧騒に呑まれ、それに馴染みかけていただけなのに。
 早とちりなのか、ワザとなのか。
 男のズレた指摘に俺は漸く口の端を上げた。


 俺がバカだなと男を笑った後、男は現地人に声を掛けられ立ち話を始めた。暫く留まっていたが、長い会話に仕事関係の人物だと憶測し、俺はその場を離れる。綺麗ではあるが俺には用のない織物の店の前では、時間を潰す手段がない。
 道を挟んだ正面の淡水魚を売る店に行くと、売子の女がペラペラと何かを愉しげに捲し立てた。話は全然わからないが、笑っているので嫌がられてはいないのだろうと、座り込み長居を決め込む。ガラスの器に入れらた魚達が、羨ましい。
 ここは乾燥がとても酷くて。舞い上がる砂埃は、じっとしていては自分も朽ち果ててしてしまいそうなほどきつい。
 足が痺れたところで立ち上がり振り返ると、男はまだ、新たなひとりを加えそこで話をしていた。増えた人物は、以前男の私邸にも来た事がある中年の日本人だ。名前は忘れたが、視線は覚えている。
 俺はその場を離れ、道の両脇に並ぶ店を眺めて歩いた。

 異国の小さな市場にも、時間と言う観念はあるらしい。
 次々と店が閉まり始めたのに気付き、俺は仕舞われていく店を眺めながら、もと来た道を戻る事にした。
 人が歩くだけで砂や土が舞う地面に商品を並べるだけで出来上がった店は、瞬く間に片付けられていく。屋台とも言えないような台を持つ店も、商品を大きな籠に収めるとそれで終了だ。台は持ち帰らないらしい。
 騒然としていた通りが、蜘蛛の子を散らすように人々が去り、見る見るうちに寂れていく。
 先程の魚を売る店も、既に姿をなくしていた。だが、あの陽気な女はまだそこで荷物を纏めていた。
 しかし、男の姿は何処にも見当たらない。
 立ち止まり、ぐるりと見回し、どうしようかと少し迷う。
 迷子になったのは、この場合俺の方か…?
「…………」
 男に仕事が入ったのか、それとも俺を探しているのか。彼がここに居ない理由を考えかけた時、腕を取られた。振り向くと、自分よりも頭ひとつ分程低いところに魚売りの女の顔があった。相変わらず、その口はよく動いている。だが、何を言っているのか全くわからない。
 聞き取れない俺に焦れたのか、来いというように腕を引かれた。振り払う事は出来たが、不快はないのでそのままにしておくと、少しずつ引っ張られ歩みを進められた。
 そうして連れて来られたのは、通りからも見えていた簡素な小屋で。食べ物屋なのか何なのか、幾つかのテーブルと椅子が並ぶそこに放り込まれる。
 中には十人ほどの人が居たが、現地人ばかりだ。
 男のところへ連れて行ってくれるのかと少し思っていたのだが、そうではなかったらしい。
 ここに用はないと、顔を顰めると、女は軒下に立ち空を指差した。それと同時に、その手に空からの雫が落ちる。
 濡れた手をどこか誇らしげに目の前に翳しながら、女は満面の笑みを浮かべた。
「雨、か」
 直ぐに雨脚が強くなる空を見上げ、隣に並ぶ女を見る。
 スコールが来るから、市は終わったのだ。それに気付いていないらしい異国人を、親切にもこの女はここまで雨宿りに連れて来てくれたのだろう。
 だが。
「サンキュー」
 短い言葉と頬にキスを贈り、俺は外へと足を踏み出した。歩きながらチラリと後ろを振り返ると、女は呆けたような顔でこちらを見ていた。口の端を上げて笑い、俺は後ろ手に手を上げ別れを告げる。
 顔を打つ雨が気持ち良く天を向くと、自分だけに向かって恵みが降り注いできているような気分になった。
 砂埃が舞っていたのが嘘のように、足元では泥水が撥ねている。

 こうして雨に打たれ、それを身体で感じている俺は。
 狭い水の中で泳いでいたあの魚たちよりも自由なのかもしれない。

「ミナト!」
 雨の中、不意に後ろから抱きすくめられ、耳元で名前を呼ばれた。
 ずぶ濡れの俺にそんな事をしてはあんたも濡れるぞと言おうとしたが、既に相手も濡れ鼠であるのに気付き、ただ厚い胸に背中で凭れる。男の髪が俺の頬に張り付き、雫を混ぜ合わせる。
「……消えたのかと…焦った」
「……」
「この雨で見つけられなかったら、どうしようかと思ったぞ…?」
「あんたは、俺が逃げると思っているのか?」
「逃げはしないだろう。でも、消える事はあるかもしれない。雨に打たれて、とけるかも…」
「とけないよ」
「…だといいがな」
 身体にまわる腕に力が込められた。これではとける前に、砕けてしまうかもしれない。
「――俺の名は、雨宮水穂、だ」
「……ああ」
「俺は、お前の好きな雨も水も持っている。なのに、お前は俺の手から零れ落ちていきそうだ……」
「…………」
 男の後頭部に手を伸ばし、濡れた髪を指に絡める。頭を仰け反らせると、望んだくちづけが落とされた。

 雨宮水穂。
 その名前だったからこそ、俺がここにいるのだという事を。
 苦く呟く本人だけが、知らない。

2006/05/07
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