+ Act.7 +

 熱があっても、仕事は休めないらしい。
 数日前から風邪の兆候があったにも拘らず、用心しなかった当人が悪いわけだが。
 それでも、大変だなと思いながら後を付いていくと、擦れた声で笑われた。
「何だか、あの世へ旅立つみたいだ」
 普段見送らない俺が、今日に限って玄関までついてくる。それに対して、永遠の別れじゃないんだからと、残念だが俺はこの程度ではくたばらないと、飽きれたような顔をして男は頭を振る。
 別に、心配したわけでも、同情したわけでもなく。大変だと思ったのは、ただ実際に大変なのだろうからであって、意味はない。ダルそうな背中を追ったのにも、理由はない。
 ならば、そう。だったら、反論する必要もないのだろう。
 本人がそう言うのならばと、俺は180度ゆっくりと旋回し、リビングへと足を向けた。
 言ってくるよと背中に届いた声には笑いが含まれていたが、いつもの力は無かった。


 小さな器から大きなプールへと放たれた金魚は、初めは戸惑うように身体を振っていたが、その内に慣れ好き勝手に泳ぐ。
 縁に沿い真っ直ぐと泳ぐものから、堂々と真ん中を突っ切るもの。一定の範囲内でたゆたうもの。
 俺はといえば、そんな彼等を羨むように、プールの縁に腰掛け脚だけを水中に浸し赤と黒をぼんやりと眺めている。水面で反射する光りに目を細めながら、散らばる点を見るとはなしに見ている。
 ニーナはきっと屋敷の中で、お預けを喰らった犬のようだと笑っているに違いない。
 だが、実際には、さほど思うところはない。泳げなければ泳げないで問題ない。主人に禁止されれば、それに従う。水は好きだが、俺がここに居る理由はそれではないのだ。男が入るなと言えば、入らない。
 命令を下される事にも、それに従う事にも、不満はない。
 それが、俺の「生」なのだから。

 一人で過ごす夜は長すぎるので、一晩中プールの中に居た。感染ったら困ると言って寝室から俺を追い出した男は、水の中で朝を迎えた俺に溜息を吐き禁止令を出した。
「俺の風邪が治るまで、水遊びは禁止だ」
 何故、と問う事は出来たが、意味の無い事をするのは面倒なので止めた。それならそれで、別に構わないから。
 しかし。構わないが、困るくらいに暇になった。
 昼も夜もする事が無く、一日が更に長くなった。

 熱すぎる太陽に疲れを覚えながらも、それでもプールサイドに座っていると、聞こえる筈のない靴音が後ろから迫ってきた。
 真昼間の主人の帰宅。それが意味するところを考える前に小言が降って来る。
「お前はそうやって俺の気を引こうとしているのか?」
 心配ばかりさせるとの愚痴と共に影を落としてきた男が、覆い被さるように俺の背中を抱き、旋毛にキスを落とす。
「せめて日陰に入れ、日射病になるぞ」
「……」
 首を回し男を振り仰ぐと、直ぐに腕が解かれた。ネクタイを掴み、そのまま離れようとした身体を引き寄せる。キスをしようと首を伸ばしたが、大きな手で額を押され、拒絶された。
「…………」
「熱で頭がボケていて、忘れ物をしたんだ。書類を取りに寄っただけで、直ぐに出る」
「……」
 何も、セックスをしようと言っているのではない。俺が求めたのは、ただのくちづけだ。その説明では、避ける理由にはなっていない。
「嫌なのか? なら、もうしない」
「極端な奴だな、嫌とは言っていないだろう。したいさ、キスも、それ以上の事も」
「なら、」
「だが。言っただろう? 感染したくはないんだよ」
「アンタと違って、俺はここに居るだけだ。染っても問題はない」
「ミナト」
 困った奴だと呆れるように、男が疲れた声で俺の名を呼ぶ。
「怒っているのか?」
「……ナニに?」
 男は苦笑しながら、抱き上げるように俺の腕を取り、立ち上るよう促してきた。水中から足を抜き、それに従う。地面の熱に直接触れた足の裏が、一瞬にして乾いた。
「俺が鈍っている時に、もしも何かあったら困るから、まともにフォローが出来ないから、我慢してもらっているだけだ。別に取りあげたわけじゃない。俺が治ったら、また泳げばいい」
「だったら、それこそ。感染してでもいいから、早く治せ」
「無茶を言うなよ」
 甘えるわけではないが、そうであるのかもしれない俺の戯言を一蹴した男は、俺が伸ばした腕を両手で掴み抱きつく事を阻止させる。
「熱があっても、お前は水遊びをするだろう? そんな危険な奴に感染せるかよ」
「……」
 冗談のような言葉。だが、握られる腕は痛い程で、込められる力に不快感を覚える。男の本気が隠れた、風邪とは違うその熱が、重苦しくてイヤだ。
 嫌悪を感じると同時に腕を振り払い、体の向きを変え俺は再び腰を降ろす。そんな俺に、男は溜息を落とす。
「わかった、俺の負けだ。入りたければ入れ」
 俺の機嫌がそこにあると本気で思っているのか、男が唐突に禁止令を解いた。
「ただし、きちんと自制をしろ。それが条件だ。一晩中プールに入っていたと知った時の俺の気持ちを理解してくれよ、ミナト」
「……」
 後ろから、クシャクシャと髪を掻き回された。まるで宥められているようで、何だか解せない。別に俺はプールに入れないと拗ねているわけではないのにと考え、熱で頭がボケていると言った先の言葉を思い出す。
 それが本当ならば、勘違いも納得出来るというものだ。
「金魚」
「ん?」
「見ていただけだ」
「――ああ、放ったのか」
 俺の言葉に数拍の間を置いた男が、それを確認したのか、気の抜けた声で返事をする。
「悪い?」
「いや、悪くはない。アレはお前のものだから、お前の好きにすればいい」
 苦笑交じりにそう言いながら、俺の横に並ぶように男が縁に屈み水中を覗く。その視線を追うと、赤い小さな魚が一匹居た。
 自由に泳ぐサカナ。
「俺は――」
 そう、俺は。
 金魚と、同じ。
「俺はマスターのものだから、あんたの好きにすればいい」
 敢えて男と同じ言い方で、俺はそう言葉を紡ぐ。
「風邪が治るまで、キスはしない。プールには入らない。それで? 他には何だ?」
「……」
「何でも言えばいい。命令しろよ」
「…………ミナト」
「俺はまだ、今はあんたのものだ」
 だから。宥める必要などない。気を使う必要はない。心配する必要はない。
 あんたが一言言うだけで、俺の全てが決まるのだ。理由など、言い訳など、必要ない。
 アンタは買主で、俺はペットだ。
 幾ら熱に侵されようが肝心なそれを忘れるなよ、と。
 片頬を上げ、唇を引き上げ俺が笑うと、男は「…そうだな」と呟き小さく笑った。乾いたそれに、俺は一瞬にして興味をなくす。いつもならば、それでも何だかんだと言い絡みにくるのに。味気ない。
「車を待たせているんだ、いい加減行くとするか」
 ゆっくりと立ち上がった男が、顔に手を翳し、小さく空を見上げる。
 日光浴も程々にしろよと言い置き、男は出掛けて行った。それを見送ってからだろう、暫くして現れた家政婦の手にはパラソルがあった。
「……ニーナ」
 笑顔で何かを言いながら、三脚のそれをプールサイドで開かせる彼女を俺は呼ぶ。日陰になっても熱い空気の中で、俺はそれでも感じる他人の温もりを無理やり腕に抱きとめた。きっと放せと言っているに違いない異国語を聞きながら、細い身体を抱きしめる。
 俺が欲しいのは、実際の水じゃない。潤いだ。身体の中を、心を、乾かせたくはないのだ。
 貪欲に、全てを渇望したあの頃の飢えを繰り返したくはないから。だから、俺はここに居る。今は遠く離れた男の命令に従い、こうして生きている。あの男が居る限り、俺は飢えない。
 そう。そのはずなのに――。
「…なのに、どうして乾いているのかなニーナ」
 干乾びてしまいそうだよと、柔らかい髪に頬を寄せ呟くと、少女は俺の名前を呼んだ。ニーナと呼びかけると、応えるようにミナトと小さく奮えながらも返してくる。
 拘束を解き解放すると、ニーナは泣きそうな困ったような笑うしかないような、可笑しな表情をしていた。ゴメンと謝罪をしながら髪を梳き、コメカミにキスをする。
 本来ならば走って逃げ出すか、一発パンチを喰らわすかをしたいところなのだろうが。俺の様子が可笑しいと思ったのか、プールに入れない事が原因だと解釈し同情でもしたのか。ニーナは暫くその場に佇み、どうするべきなのかと思案に暮れていた。だが、室内に戻るよう身振りで示すと、心配気にしながらもどこか安心したように去って行く。

 一人になって考えるのは、俺を生かす男の事で。

 確実に近付く「今」の終わりを思いながら、俺はひとつ息を吐く。
 深い息を。
 
2006/11/04
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