+ Act.8 +

 何があったのか知らないが、何かがあったようで。
 男が帰らなくなり五日が過ぎた。
 初日に一本、今夜から暫く戻れないとの短い電話があったが、それも僅かな時間を惜しむようなもので。そうかと頷く前に通話は切れた。
 普段の男らしからぬ素っ気無いほどのそれに肩を竦めた時はあった余裕が、いつの間にか消えている。その代わりのように、気付けばやって来ていた不安。付き纏っている孤独。
 もしかしたら俺が知らないだけで、家政婦とは話をしているのかもしれないけれど。彼女は男の事情を知っているのかもしれないけれど。
 俺のところまでは、何も来ない。
 男の気配すら、微塵もない。
「……ニーナ」
 ニーナ、ニーナと、少女を呼ぶ声がここ数日で激増した。
 呼べる者が彼女しかいなくて。彼女と交わせられる言葉はそれしかなくて。
 何となく、呼び。何となく、少女の側で過ごし、俺は家政婦の邪魔をして長い時間を消化する。
 悠然と泳ぐ金魚を眺めても、そそられる事はなく。プールで過ごす時間も激減した。リビングのソファがいつの間にか定位置になっており、だらしなく寝そべり晴れない意識の中でどこまでもたゆたう。
 時折、呆れるように苦笑し。時折、慈しむように微笑み。時折、心底困惑した表情を浮かべる少女の顔も、飽きる程に見慣れてしまった。
 けれど。
 今まで散々あの男に構われ続けた副作用か。それに慣れてしまった俺は、いつまで続くのかわからない独りが寂しくて、人恋しくて堪らない。
 それでも、たぶん昔から、俺はこうなのだろう。根本は、全然変わっていない。ただ、子供の頃はそれを主張するすべを知らなかった。独りなのが当たり前で、孤独以外を知らなかった。けれど、今は違う。
 俺は他人に温もりがある事を知っている。それが気持ちの良いものだと、知ってしまっている。
 名前を呼び、側に行き、少女の顔をまっすぐ見つめながら、躊躇いもなく手を伸ばす。
 未だに接触に慣れない家政婦が掃除の手を止め、眉を下げ俺を見る。困った子供だという風なそれは、けれども多少非難めいてもおり、いい加減にせねば嫌われてしまうのかもしれない。だが、わかっていても、止める気にはなれない。
「ニーナ」
 耳元で名前を呼ぶと、胸を押された。離れた華奢な身体を見つめていると、舌足らずな子供のような慣れない発音で、俺の名前がか細く呼ばれる。一音ずつ確かめながらのソレが、ただ俺の胸を通り過ぎていく。
「…ソファから追い出したのはニーナだろう」
 責任を取って俺を構えよと困り顔に訴えるが、言葉の壁の前ではそんなものは通用しない。弾かれた俺の言葉が、乾いた風に空しくも飛ばされる。
 仕方なく、そこだけの片付けを手伝い、俺は居場所を確保する。直ぐにソファの上へ身体を横たえた俺を家政婦は少しの間見下ろしていたが、構っていては仕事にならないと諦めたのか離れていく。
 去って行く背中を見たくはなくて、俺は静かに目を閉じる。
 楽しいと思った事も、有意義だと感じた事もなかった日々なのに。男が帰らないという些細な事実が、俺の平坦な日常を簡単に蝕む。綻びたそこから、敢えて思い出したくはない過去が顔を覗かせる。
「……」
 不意に思いついたかのように、遠く離れた日本にいるあの男に訳もなく会いたくなった。俺に飢餓感を教えたあの男に。
 今すぐ、会いたい。会いたくて、堪らない。
 会ったからといって、何もないのだけれど。名前も知らない異国でこんな風に独りなのが、堪らなく苦しい。
 今の契約は、あとどれくらい残っているのだろうか。
 その時が来たら帰るだけだと、気にもしていなかったのに。急にそれが知りたくなった。
 だが、聞ける男は、帰って来ない。


 気付いた時には家政婦の姿はなく、辺りは闇に包まれていた。それでも動く気になれないのは今までと一緒であるはずなのに、何故か気分は優れない。
 ゆったりとした足音が聞こえたのは、まどろみの中でだ。だが、夢だと流すには、それは求めすぎていたもので。
 身体が勝手に反応し、飛び起きる。そんな自分に一拍遅れて気付き驚きながらも、どうしようかと迷ったのは一瞬で、俺は駆け出していた。
 暗闇に浮かぶ影に、身体が震える。
「どうした?」
「……おかえり」
「ああ。ただいま」
「…………ホンモノ?」
 特に深い意味はなく零れた言葉に、男は軽く目を瞠り、マジメな声で「確かめてみるかい?」と囁いた。そこでいつものようなからかう声音でなかった事が、何故か俺に恥ずかしさを覚えさせもしたが。
「……ァ、ン」
 疑問系であったにもかかわらず、了承をする前に温もりが落ちてくる。
 重なった唇は、思いの外冷たかった。
 もしかしたら、俺の体温が高すぎるのかもしれない。興奮しているのかもしれない自分に気付き、らしくないと反射的に己を非難する。
「俺の夢でも見たのか?」
 笑うように唇に落とされた言葉は、直ぐまた放った本人に吸われてしまう。ゆっくりと食むように合わせていたくちづけは、段々と荒々しさを持っていき、反論の機会を俺は奪われた。肯定になったそれがこそばゆくもあるが、同時に心を冷ましもする。
「……疲れているんだろう」
 長いのか、短いのか。判断出来ないくらいに久し振りのキスを終えて出てきたのは、呆れが混じる面白味のない確認。疲れていないわけがないのに口にしたのは、拒否か、おねだりか。自分でもわからない。
「遠慮するな、餓えていたんだろう?」
「…………もういい」
「そう言わずに、付き合ってくれ」
 俺は我慢なんて出来ないと、暗闇でもわかる疲労の色を顔に浮かべたまま男は笑う。
「例えばこれが最期のひと時であったとしても、俺はこうしていたいんだよ」
 疲れていてもお前が欲しい、それ程に惚れていると囁く男は、けれども抱きしめたまま動きを止める。
「……」
 試されているのかと、暗闇を睨み付けながら俺は思う。
 腕の中で拘束した俺の首筋に頬を押しつけ肩にくちづけたまま動かない、少し丸めた男の背中に手を置くべきなのかどうなのか。掌を緩く握り、開き、肘を曲げ、けれどもそこまでは上がらなくて。
 与えられる熱に、ただ満足で。もう、これで充分だと思う。じんわりと染み込んで来る温もりが、独りの記憶を霞めるが、欲望にまでは辿り着かない。
 ほんの少し体重を預けるよう首を傾け、男の肩に頬を付ける。
 少しだけ手を伸ばし、指先で男の腰に触れる。シャツを摘む。
 餓えていたのは、他人の熱にか。それとも、この男自身になのか。
 本気でわからない。わからないが、今、それを知らねばならない理由はない。
 俺の買主はこの男で間違いないのだから、それだけが確かならば後はもうどうでもいい。
 そう、どうでもいいのに。本当の意味での俺の飼主である男の姿が、身体に伝わる熱に解かされ薄れていく。消えていくそれに、不安さえ浮かばない。それ程に、この温もりに満足している自分は、やはり少し変だ。
「ミナト」
「……」
 くぐもった声で名前を呼ばれただけなのに、何故か身体に力が入る。掴んだシャツを引いてしまった俺を笑うように喉を鳴らした男が、顔を上げ耳朶へと齧り付いてきた。歯を立てられ、引っ張られ、放された次の瞬間には舌を突っ込まれる。
 低く呻いてしまったのは、期待からだろうか。
 顔を上げると、額同士を合わされた。僅かな光を受けた男の目が、獣のように光り俺を射る。
 欲しいと言うように首を伸ばし先に相手に噛み付いたのは、俺の方だった。
 


 喉の乾きに負け、だるい身体を起こし向かったキッチンには、何枚ものメモ書きが残されていた。
 薄明るい早朝の空間で、読めない文字に目を凝らしながら俺は水を飲む。
 これだけあれば、穏やかな家政婦でもグチの一つや二つは書いているのかもしれない。そうであれば面白い。
 雇主が帰らない間に俺が彼女に何をしたのか訴えているのかもしれないメモを手に、俺は寝室への通路をゆっくりと歩く。
 無理に無茶を重ねたせいで、精根尽き死んだように眠りに落ちている男のもとへ、俺はそれを運ぶ。

 雨宮が居る。
 あと数時間もすれば、ニーナがやって来る。
 再び、俺の中で日々が動き出す。

2007/10/01
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