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一ヶ月前、オレは空腹から罪を犯した。それは、ある人に言わせればチンケで、ある人に言わせれば愚かで、ある人に言わせれば意味のないものだったけれど。
オレにとっては、それが間違っている事であっても、やっぱりあの時はあれが全てだったのは確かなのだ。だから、後悔はしていない。深い反省に苛まれると最初からわかっていても、多分同じ事をしたはずだ。
人を傷付ける勇気も覚悟も何もなかったので、自分以外に誰も怪我をしなかっただけで上出来だと言えるだろう。血迷ってナイフ等を手にしていれば、結果は違っていたのかもしれないのだ。オレが愚かであった事は、結果からみればある意味救いでもあった。
ただ。刑務所へ行くという目標は叶わず、事態は思いも寄らなかった方に転がったけれど。
まだ、始まっていないので、いいのかどうかはわからないのだけれど。
それでもこの一ヶ月を、オレはここで過ごせて良かったと思う。これだけで、満足だ。
母親とも言える年齢の女性と、オレはこの一ヶ月を共に暮らしている。人生とは何があるかわからないものだ。
「うん、上出来やわ。かっこええよ、飛成さん」
身なりを整えたオレをキクさんが真正面から見定め、笑顔でそう頷いた。オレは詰めていた息を吐き、小さく笑う。初めて会った時は怖くもあったが、このひと月でオレの中からはすっかりそれもなくなった。厳しいが、それをカバーして余りある愛情をこの女性はオレのようなガキにも惜しみなく与えてくれている。
この人に出会えただけで、生きていて良かったと思える。そんな女性の太鼓判に、このひと月の苦労が報われた気がした。だが、まだ評価を得ねばならない人はキクさん以外にいて。その人の方が、オレにとっては明暗を分けるわけで。
多少の贔屓目があるだろうキクさんの言葉に安心していられないと、オレは上げた口角を下ろし気を引き締めるのだけれど。
「緊張なんてしたらあかん。肩の力抜いて」
「はい」
「でも、気張るんやで」
「はい」
「これでサヨナラはイヤやで」
スーツの上から両腕を撫でてきたキクさんは、そのままオレの手を取り握った。オレも細い指先を握り、はっきりと言葉を口に乗せる。
「オレだって嫌だよ。だから、気に入って貰えるように頑張ります。キクさんがこの一ヶ月教えてくれた事を無駄にしないように」
「大丈夫やよ。安斎さんが気に入るのは間違いなしや。なあ、古椎さん」
「問題ありません」
キクさんの問いに短く答えた男に顔を向けると、視線がばっちり重なった。オレを拾い、その日のうちにキクさんに預けたこの男に会うのは、まだ三度目だ。
一ヶ月前オレをここに連れて来た古椎さんは、オレにひとつの使命を与えた。それは、とても短い言葉であったが、実際にはとても難しい事だった。職も家もなく、食べる事さえ出来ずに生きて行く事の理由を見失っていたオレに男が与えたのは、ひとりのヤクザを大切に想い尽くせと言うものだ。
罪を罪と知って犯したオレだけど、その辺りの同年代よりは常識があるというか、捉われていると言うか、小心者であるので。正直、選ぶ立場にない自分であるとわかっていても、目の前に衣食住という餌をぶら提げられていても、直ぐに頷く事は出来なかった。だからオレは、人を傷付けるような事は出来ないと、ヤクザになる事は無理だと言った。どう考えても、そこでこんなオレが役に立つような事はありそうにないと。
だが、古椎さんがオレに指示したのは、組の構成員になれと、ヤクザになれという事ではなかった。
オレが請われたのは、簡単に言うなら、組長さんの愛人だ。そして、もっと正確に言うならば、ダミーの愛人という事になる。
愛人など、言葉としても馴染みのないオレは、古椎さんの提案に最初はひく事しか出来なかった。嫌ですと断っても、相手がヤクザものであるとわかった時点で、簡単に警察へは引き渡されないのであろうと思ったが。それでも、無理だと、出来ませんと口にしたオレに、古椎さんは何も言わなかった。変わりにオレを説得というか、脅しつつも納得させたのは、同様に事情を知っているらしい眼鏡の男だった。
白名という名のその男は、オレを甘いと評した。ワガママだとも。出来ないばかりのお前は、だったら何が出来ると問うてきた。屁理屈じみていると思いつつも言い返せられないオレを、白名さんはとりあえずやってみろと無理やり気味に頷かせた。
そして。刑務所に行きたいからと万引きするような奴をそのまま使うわけにはいかないと、オレは不安一杯の状態でキクさんのところに放り込まれたのだ。具体的に、古椎さんが話した愛人役がどんなものなのか全くわからずに、だ。これは躾をされているのだと気付いた時には、もう逃げ場を失っていた。
やってみろ、と言うよりも。やるしかなかった。
オレを預けられたキクさんは、何処まで事情を知っているのか知らないが。組長さんの相手を務める為に必要な膨大な知識を、生活を共にしながらオレに指導した。箸の上げ下げや言葉遣いは勿論、精神面をもだ。どうしてこんな事にと嘆いていた最初の数日は勉強に身も入らずひたすら謝罪を口にしていたが、気さくなキクさんのお陰で少しずつ現状を受け入れられるようになり、ヤクザの為にとは思えないが、これが今オレの出来る事なら頑張ろうと思えるようになったのも、キクさんのお陰だろう。
言葉少なにもオレに命じた古椎さんも、挑発するようにオレを仕掛けた白名さんも。あの日以来、一切顔を出さなかったのも、また今となっては良かったのだと思う。二人がオレの前に再び現れたのは、三日前のことだ。ひと月近く放っていた癖に、オレを気にしていたような素振りもなくチラリと眺めただけで、その後はキクさんと喋って帰って行った。白名さんとは挨拶を交わしたが、古椎さんなど一切喋りもしなかった。
二人がヤクザであるのかどうかわからないが。自分をヤクザの元に送ろうとしている男達と和気藹々もおかしいので、談笑しろと言われても困るのだが。教育されているオレとしては当然として、何の評価もない事に悶々ともなった。
だが。
そんな気持ちも、今朝の一報で消えてしまった。キクさんから告げられた言葉は、今夜件の組長さんと会うと言うもので。三日前にそれを決めたのだろう二人に、オレはなんとも言えぬ感想を抱いた。奇しくも、オレはオレの知らないところで二人に評価されていたと言うことだ。
それでも、やはり信じられず不安を抱えていたところの、問題ないと言う古椎さんの言い切るような言葉。正確に読み取れば、褒められたわけでもないのだろうけど。それでも、やはり安心してしまう。単純に、頑張ろうと思ってしまう。
愛人といえども、実際にはダミーでしかなので、当然だが夜のお相手なんて言うものはない。きっとそればかりは請われても、オレには無理だろう。オレがするのは、食事やパーティーなどのお供だ。そう言う意味で、想って尽くせと古椎さんは言ったのだ。組長さんに忠誠を誓う点では、組員と変わらないのかもしれない。だが、役割はまるで違う。
ダミーと言うからには、誰かに見せ誤解されてからこそのもので、見破られるわけにはいかない立場だ。失敗は許されない。何より、表の顔となれというようなもので、中途半端な事も出来ない。
男であるオレに、優雅なんてものは期待していないだろう。そう言った職業のものを仕立てず、オレなんかを選んだ時点で、それは強ち外れている憶測ではないだろうが。だったら、どうして素人で、何の取り得もないようなオレが選ばれたのか。それは、正直、全くわからない。一時のものだからなのか、素人上がりが適任の訳があるのか、目に見えるなり憶測できる危険があるのか。ただの組長さんの好みなのか。予測もつかない。
だけど。
暴力団の中に入るのなんて怖いけれど、毛嫌いする気持ちはない。ヤクザであった夫を亡くしたキクさんと一緒に暮らしたからか、何人かのそれらしき人と少ないながらも接触したからか。抵抗感さえあまりない。寧ろ、このひと月の苦労が報われればいいと、努力を認められたいと今は思う。組長さんに尽くしたいというのとは少し違うけれど。必要としてもらい、それに自分が応えられて暮らせていければいいと思う。
だから、どうしても。今日で終わらせたくはない。弱気は禁物だ。
「気張るんは、アンタのここや」
そっと胸に置かれた手を見下ろし、オレは目の前のキクさんに深く頷きを返す。
「ここまできたんや。胎括って、しっかり自分の役割を果たしなさい」
「はい。行って来ます」
古椎さんの後に続き玄関へ向かうと、白名さんがそこに居た。
「すっかりキク姐さんと打ち解けたようだな」
「…とてもよくして頂いています」
そう答えながらも、迷惑をかけている自覚がある者として自然にオレは顔を俯けたのだが、傍の古椎さんが顎を指で掬うようにして上向かせにきた。何事かと驚く中で、「まだ躾は必要なようだな」と白名さんの声が上がる。
「初々し過ぎる」
「すぐ慣れる。問題ない」
「まあ、たった一ヶ月にしては化けたからな。これからに期待しよう」
ジロジロと間近で見られ評価されているらしい居心地の悪さに、何処を見ればいいのか視線を下げていると、再び顎をすくわれた。今度の指は白名さんのものだ。
「俯くのは、オヤジさんの前で頬を染める時だけだ」
「え…? あ、はい」
一瞬言われた言葉が飲み込めず驚いたが、その意味を悟りオレは神妙に頷く。だが、直ぐに「冗談だ」と白名さんは口の端で笑った。
「女子中高生でもないんだ、そこまで要求しない。だが、自信のない様子は見せるな。キク姐さんの教え通り、毅然としていろ」
「はい。わかりました」
「と言っても、今夜はオヤジとだけの面会だ。見目は合格だからな、あとは笑っておけば上手くいく」
間違っても、食い意地が張っているところを見せるなよと。明らかに一ヶ月前の出来事を指してからかっているのだろう男に、オレは一瞬俯きそうになったがグッと我慢し、「その節は大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と、一礼をもって詫びた。ゆっくりと上げた視線で白名さんの眼を捉え、言われたように笑みを作る。
「上出来だ」
「行くぞ」
白名さんの評価にホッと息を吐いたところへ、車のドアを開けた状態で待っていた古椎さんが俺達を呼んだ。
2008/04/04