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 三つ子の魂百までというけれど。オレの場合、空腹に対するトラウマが、まさにそれなのだろう。
 両親の記憶は、あまりない。嫌な思い出はないので、多分幸せだったのだろう。だからこそ、時と共に忘れていったのだと思う。オレがはっきりと覚えている最も古い記憶は、空腹を抱えて山を彷徨ったものだ。
 三歳の時、家族三人が乗った車が、山道の崖から転落した。両親は即死に近かったようだが、斜面を滑る途中で車から放り出されたオレは、ほぼ無傷だった。奇跡だと言えるのだろう。だが、あの時のオレにとっては、それこそが悪夢だった。
 オレは何処なのかもわからない山の中で彷徨い続けた。両親を捜し求めて。そして、いつしか何も考えられずに、ただ食べ物を求めて。朦朧としていただろうオレのその記憶が確かなのかどうかは、怪しいものなのだろう。オレ自身、後に耳にした周囲の話から、これが自分の記憶だと思い込んでいるだけなのかもしれないとも思う。だが、どちらであれ、三歳のオレが一人で山を彷徨ったのは事実であるし、勘違いであれ、餓えの恐怖がオレに染み付いているのも確かだ。
 オレが救助されたのは、事故から五日経っての事で。両親の葬儀も終わっていた。
 両親の死が、借金苦からの無理心中だったらしいとオレが知ったのは、何年も後になってからだ。
 そして、もっともっと後になって。
 オレは自分にとって空腹は、罪を犯すほどの恐怖に繋がるのだと知った。


 連れられ入った料亭の座敷には、既に二人の男が居た。上座に座って居るのが安斎組長で間違いないのだろう。写真を見せられた事はないが、イイ男と聞いた通りの人物だ。隣の人物も人の良さそうなオジサンだが、ポヨポヨしすぎている。太っちょだとは聞いていないので、やっぱりダンディーな方だろう。
 チラリと目に出来た二人を緊張しつつも窺うオレとは違い、古椎さんの待たせた詫びと席につく許しを乞う声は、どこかおざなりだった。組長さん相手にそれでいいのかと内心驚きつつも、それに倣う訳にもいかないので畳の上で正座し、深く頭を下げる。だが次の瞬間には、オレは我慢出来ずにそのままの姿勢で眉を寄せた。
 古椎さんが、下座に座ったのだ。っという事で、必然的にオレが組長さんの前になる。
 そして、それでいいのかと思った数秒後には、その前にオレは着席を許されないのではないかと気付く。
 何故なら、一向に声が掛からないから。
「……」
 勝手に名乗って……いいわけないよな? これは、放置プレイ?
「いつまでそうさせておくつもりだ、古椎」
 困っているぞとの言葉は完全に、オレの下げた頭の上に落とされていた。安斎組長のものらしいその声は、微かに笑いを含んでいるように聞こえたが。続けられる古椎さんの声は、あくまでも平坦だが低い、責めるようなものにも感じられた。
「今夜は、三人の予定だったはずです」
「私が同行させた」
「そうですか」
「問題があるのか?」
「いえ。それならば、結構です」
 そう答えた古椎さんが、漸く紹介の言葉を述べたので、オレは顔を上げる事が出来た。だが正直、なんだか妙な空気に気圧されたので、あまり振って欲しくなかった。だが、そう言うわけにもいかない。組長さんの同行者を古椎さんが気にする理由を推し量るよりも、オレは自分が今出来る事をしなくてはならない。
 キクさんと約束をしたのだからと、真っ直ぐに男を見つめ姿勢を正す。
 五十を幾つかまわっているらしいが、きちんと眺めても、組長さんはもっと若く感じる男だった。ヤクザには見えない。それどころか、甘いとさえ言えるマスクは、昔はアイドル並みの青年だったに違いない男前。間違っても、男の愛人を持つような男には見えない。
 本当に、オレはこの人の愛人役をするのだろうか…?
「伊庭飛成です」
 名前を口にするだけで、全ての力を使い切ったような感覚に襲われた。席を勧められたので、礼を口にし立ち上がる。上手く歩けているのか不安にもなったが、転ぶ事もよろける事もなく、古椎さんの後ろを通ってオレは安斎組長の前に腰を下ろした。一仕事終えた気分になるのは早すぎるが、薄く開いた唇から深い息をそろりと零してしまう。
 一ヶ月、キクさんの指導を受けながら色々頑張ってきたが、練習と本番はやはり違うものだ。食事を始めて直ぐに、楽にしてくれて構わないと許しを貰ったが、とてもではないがそんな事が出来る余裕もなく、オレは組長さんの言葉にポツポツと応えるのがやっとだった。殆ど喋らない古椎さんに、同席が白名さんならもっと間が持つのだろうになと思ったのは誰にも秘密だ。
 その古椎さんが難色を示した同席者は、安斎組長の顧問弁護士との事だった。体型同様、温和が滲み出た人物で。さほど口を開く事はなかったが、安斎組長の問いに応えるその口調はどこか可愛らしく、気持ちを和ませてくれた。
「好き嫌いは?」
「今のところ、苦手なものにあった事はありません」
「今のところ、か」
「はい。ボクが口にしてきたものは庶民的なものばかりですので。ありません、と言いきることは出来ません」
 机に並ぶ会席を示し、こういう食事も初めてですからと正直に応えると、組長さんは目を細めて笑った。そして、食べる事は好きかと訊いてくる。
「はい」
 嫌いではない。でも、好きだと言うのとは違う気もすると思いつつも。オレが求められるのが食事の相手ならば、それ以外の言葉は必要ないのだと、オレは静かに頷いた。
「では、これから色んな料理を楽しめ。苦手なものにあったら、教えるんだ」
 いいな?と念を押す安斎組長はまるで父親のような表情で、オレは心から笑みを作り、今度は素直に頷く。「これから」という言葉が意味することに直ぐには気付かないほど、オレの胸は緊張とは違う意味でドキドキしていた。
 何故か唐突に、心が満たされる。顔が自然と綻んでしまう。
 親族に拒否され施設送りになるはずだったオレを引き取ったのは、母方の大叔母夫妻だった。遠縁もいいところであったが、子供の居ない養父母達はオレを大事にしてくれた。全てに恵まれているような生活ではなったが、オレは自分を愛してくれる彼らと共に居られるだけで幸せだった。幼くて、時にそれを忘れたりした事もあったが。反抗心が生まれるのもまた家族だからだと、彼らはオレを疎む事無く受け入れてくれた。
 年金暮らしの生活では経済的に進学は無理で、オレは高校卒業後、車の修理工場に就職した。従業員は、社長を含めて計四人の小さな工場だ。仕事は厳しい面もあったが、充実していた。
 オレが二十歳の誕生日を迎える前、養父が病に倒れた。約一年病気と戦い、命を全うした。僅かな保険金は全て医療費で消え、これからはオレが養母を支えなければとなった矢先、今度は彼女の身体を病魔が蝕んだ。仕事を辞める訳にはいかず、看病も満足に出来ないまま、養母は半年も経たずに逝ってしまった。オレに残ったのは、厳しい現実のみだった。
 人の手がなければ金に頼るしかなく、オレの貯蓄は養母の入院と葬儀費用等で底をついた。無一文に近い状態のオレに追いうちを掛けるように、職場の社長が蒸発したのは、祖母の四十九日が過ぎた時だ。当然、あてにしていた給料は手に入らず、職もなくした。家族用のマンションに住み続ける余裕はなく、部屋も出るしかなく住処も失った。
 それでも、生きていく為に働かねばならないのはわかっていたが。俺の中で糸はぷつりと切れており、動く気力も気付けば残っていなかった。全てに近い有り金を菩提寺に納めて二人のこれからの供養を頼んだ俺は、数百円を持って街を彷徨った。夏の近付きを感じる季節のお陰で、外で夜が明けるのを待つのも苦ではなく。堤防の土手で何日も過ごしたり、夢遊病者のように街中を歩き続けたりしながら、生きていくべきなのかどうかを考えた。どうしようという具体的な思考はそこになく、ただ、自分が息をし続ける意味を思っていた。
 そして。その内に、そんな考えを覆す空腹に襲われ、オレは罪を犯したのだ。愚かとしかいえない罪を。
 けれど、後悔はしなかった。出来なかった。だが、今は心にそれが浮かんだ。
 本心のそれかどうかはわからないけれど。前に座る組長さんの笑い顔に、弁護士の柔らかい空気に、黙って場を見守っている古椎さんにオレは満たされて。必要とされる限りはここに居たいと、それが愛人であれ組員であれ構わないと強く思った。


 その後、二週間。合格を貰ったらしいオレは、再びキクさんのところで世話になった。
 そうして、古椎さんに連れられて向かったマンションの一室で、オレは半月振りに安斎組長に会った。今日からここがお前の住処だと言われ、そこで漸く、自分の愛人生活が始まるのだと自覚した。
 その夜、安斎組長もマンションに泊まった。二人きりなので当然部屋は別なのだが、オレは落ち着けず眠れなかった。洒落た部屋が、与えられたとはいえ自室なのだと思うと、オレ自身が異物であるような感じがして寝てなどいられない。ここで暮らしていくのだと、生きていくのだと噛み砕きながら、長い夜を過ごした。
 翌日。早くからやって来た古椎さんは、台所に立つオレを見て、少し呆れた顔を見せたが何も言わなかった。手持ち無沙汰を紛らわす為に作っただけの朝食を、起きてきた安斎組長と古椎さんは、予定していなかっただろうに摂ってくれた。旨いと愛想を振ってくれる安斎組長と、黙々とたいらげる古椎さんを見て、オレは少しやっていけるかなと思うことが出来た。
 現金にも、それで満足したオレは。二人を見送った後、昼食も摂らずに夕方まで睡眠を貪った。
 目が覚めた時は、夕焼けが街を赤く染めていた。それを見ながら、我儘にもオレは願う。
 今はいない養父母に、ここにいる自分を許して欲しいと。オレはそれを心で祈った。

2008/04/04
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