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 オレがニセモノだと知るのは、安斎組長以外では、スカウトした古椎さんと白名さんだけなのか。知りはしないが、認識出来ているのがその三人だけであるオレにとって、外の人物はちょっと苦手だ。知られていようがいまいが、自分が取るべき態度はひとつしかないのだが。愛人として評価されるのは、まだ若干の抵抗がある。
 知っているからこその厳しい目が安斎組長らにはあるのだろうが、それでもオレの中にも免罪符が出来るので、彼らと接する方が気持ち的に楽だ。
 だが、だからと言って甘える事は出来ないのだけれど。

「それで、どないなん? 慣れた?」
 挨拶を交わし、落ち着いたところで、キクさんが訊いてきた。一ヵ月半一緒に暮らしていたと言うのに、こうして時間を共にするのは、引っ越してから初めての事だ。根を詰めているオレの気分転換にと、古椎さんが食事の席を用意してくれなければ叶わなかっただろう。
 何だかんだと、オレは毎日を忙しく過ごしている。大半が、今までの生活では関わる事もなかっただろう知識を頭に詰め込む為に時間を割いているが、他にも色んなところに連れて行かれたり、自分を磨く為に時間を使ったり、何かと忙しない。そんなオレの相手をするのは、殆どが古椎さんだ。それまでキクさんに預けて放置状態であったのが嘘のように、ほぼ毎日にマンションに顔を出す。あの無表情にもすっかり慣れた。
 それに加え、白名さんも構ってくれるし、安斎さんとも時々だが会っている。組長と意識する部分があるからか、相変わらず緊張はするが、それにも最近は慣れ始めているように思う。
「そうですね、はい。皆さん良くして下さるので、随分落ち着きました」
 キクさんと離れるのは寂しかったのだがと口にすると、薄情者との声が笑いともに降ってきた。軽口に目を細めながら、冗談ではなくホントなんだと心でオレは感謝する。
 自分勝手にどん底だったオレを救ってくれたのは、間違いなくキクさんだ。手を差し伸べてきたのは、古椎さんだったけど。足を踏み出させたのは、白名さんだったけど。偽装とは言えヤクザの愛人なんていう訳のわからない役割を務める覚悟をオレにつけさせてくれたのは、キクさんだ。離れた時どんなに心許なかったか。ここまでくればしがみ付くしかないと、必死で目の前のものを消化しているけれど。こうしてキクさんを前にして、オレは寂しかったんだと改めて気付く。
 古椎さんとは毎日のように会うけれど。白名さんは楽しませてくれるけれど。安斎さんは優しいけれど、やっぱり何かが違う。当たり前だけど、一線引いている感じだ。仲良くなんてなれないのはわかっているけれど、オレはちょっと、何ていうかその、彼らの態度と現実のギャップが少し寂しい。
 オレって欲張りだ。ある時は気付かなくて、なくした途端、欲しくなる。子供のようだ。
 キクさんの温かさを一気に思い出し、今それが遠いことが悲しくて。持てない自分の現状が虚しくて。はにかむ顔が、少し引きつってしまう。誤魔化すように箸を運ぶが、多分見破られているだろう。まるで頭が上がらない恩師のようだ。
「気張ってるンやね」
「お払い箱にならずにやっていけているのは、キクさんのお陰です」
「違うで、それは。アンタが頑張っているからに決まってるやないの。一生懸命やってるって聞いてるで」
「誰にですか?」
「イヤやわ、そんなの誰でもエエやないの」
 詮索するのは無粋だと言いながらも、微笑むキクさんの顔は、わかる筈だと諭すようなもので。オレは思い当たった人物達に目を丸める。
 当たり前だが、オレが愛人業に励んでいるのを知っているのはあの三人だけだ。その中の誰かが、キクさんに言ったということなのだろう。オレを目に掛ける彼女へだからこその言葉かもしれないが。たとえ嘘であっても、嬉しいと思う。全然まだまだだと判断されているのだとしても、頑張っている事を認識されているかされていないかでは雲泥の差で、努力を把握されているらしい事が単純に嬉しい。
「キクさん。オレ本当は、ヤクザなんて…って思っていました」
「そうやろうなァ、それが普通や」
「でも、今は違うなって思っていて――」
「騙されたらあかんよ」
「え…?」
 一線引いているのはオレも同じ。その線を消す事なんて、本当の意味では多分無理なのだろうけど。もっと歩み寄れる部分は沢山あるだろう。張っているのだろう肩の力を抜いて対応しなければ、と。もっとオレも彼らの事を知ろうと、きちんと見ようとの意気込みを新たに仕掛けたところへ、それを挫くようにキクさんが否定を打ってきた。
「騙されたらあかんよ、飛成さん」
「えっと…、どう言う意味ですか…?」
「ヤクザはね、悪い男なんよ。それに変わりはないねんで」
「でも…。安斎さんも古椎さんも白名さんも、いい人ですよ?」
「それでも悪い男なんよ。忘れたらあかん。これを忘れたら、不幸になるで」
「…はい」
 真剣なキクさんの様子に、オレは良くはわからないが頷く。確かに、ヤクザなんてそれだけで悪なのだから、キクさんの言う事は尤もだ。だけど、表面的なものではなく、深いところを指摘して言っているようで。オレには、いまひとつピンとこない。彼らの良い面しか知らない餓鬼の戯言だと、笑われているのなら兎も角。キクさんは明らかに、何かを示唆している。
 だけど。
「でも、それで不幸になるのも、悪くはないのかもしれません」
 オレの言葉に、「アンタ、それはホンマの阿呆の言うことや」とキクさんが溜息交じりに呟く。実際、口にした途端、本物の愛人みたいだと自分でも思ってしまった。まるで、悪い男に惚れて溺れる女のよう。
 だけど、笑って冗談ですと返しながらも、オレはやはり悪くはないと思ってしまう。全然、良くはないけれど。全てを失ってしまうよりも、ひとつだけでも、一人だけでも、信じられるものがあるのは悪くはない。
「キクさん」
 呆れ顔で箸を口に運ぶキクさんに、オレはこれも馬鹿な事だけどと自覚しつつ口にする。
「なんだか、オレ、生きているみたいです」
 ちゃんと自分は生きているのだと実感すると同時に、頭の片隅にしぶとく残っていた霞がスッと晴れていく。
「知っとるよ」
 箸を置き、湯飲みに手を伸ばしながら、「アンタは、古椎さんがウチとこへ連れて来たときから、ちゃんと生きとるわ」とキクさんが言う。
「そう?」
「あのな、飛成さん。この世の中、死んだ人など誰も相手にせえへんで。坊さんも、生きた人相手の商売や」
「はあ」
「まあ、古椎さんなら、頭丸めたら修行僧とか似合いそうやけどね」
 一体何の話なのか。何処へ転がっているんだと思いつつも、古椎さんの坊主発言に、オレは彼の袈裟姿を想像し、遠慮なく笑い声を上げた。精悍な顔付きで無表情、加えて寡黙であるストイックさ。なるほど、似合い過ぎるほど、似合う。キクさん、ナイスだ。
 脇腹が痛むほど、目に涙が浮かぶほど、一人で笑い転げるオレを放置し食事を進めたキクさんが、それでも「いい加減にして、食べよし」と怒るまで。最後にこんな風に馬鹿笑いをしたのはいつだろうと思いながら、オレは肩を振るわせ続けた。
 確かに、改めて確認するほどでもない。オレはこうして生きている。
 きっと古椎さんの手を取る前から。ライターをゴミ箱に投げ入れる前から、オレは生きることを選んでいたのだ。だから、そうである理由を探していたのだろう。

「思いきり笑った事がありますか?」
 キクさんと別れて車に乗り込んだオレは、何でもいいから何か言いたくて、古椎さんに話を振ったのだけれど。
「…さあな」
 全く相手にされなかった。
 だけど、妙な質門を受けても何ら変わらぬ横顔に、キクさんの言葉が蘇り、オレは喉を鳴らしてしまう。ラジオも掛からない静かな車内では、バレバレだ。
「何だ」
「いえ、何でもありません」
 失礼しましたと軽く頭を下げ窺った眼は、ほんの少しだけ不服な色が見える気がした。
 この人も生きているのだと。オレの前にちゃんといるのだと。オレは改めてそんな当たり前な事を思った。

2008/04/04
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