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 都合のいい愛人を置くのだと、ダミーなのだからそれなりの扱いだと思っていたのだけれど。安斎さんのオレの扱いは丁寧で、古椎さんや白名さんの接し方も同様で。遣り過ぎだと思っていたオレは、漸く思い違いをしているのかもしれないと気付く。
 沢山のものを与えられているオレは、結構な立場にいるらしい。


 安斎さんと食事をする為にやって来たホテルのラウンジで、古椎さんと共に彼を待っている時だった。
「伊庭。何を言われても大人しくしていろ」
「え…?」
 突然何だと、隣に座る古椎さんの発言に顔を上げると、「適当に相手をすればいい」と立ち上がりながらまた要領の得ない言葉を落とされた。何の話だと、下からその無表情を見上げ、古椎さんの視線を追って身体を逆へと捻る。
 そこに居たのは、見知らぬ男三人だった。古椎さんの知り合いなのだろう、真っ直ぐこちらへ向かってくる。立つべきなのかと気付いたのは、その人物達が数メートル近くまで来た時だ。
「……あの、ボクはどうしたら…?」
「普通にしていろ」
「……」
 普通と言われても、明らかにヤクザものだと思える相手に、どんな態度を取るのが普通なのかわからない。目の前に迫った面々は、今更だが、安斎さんの同業者らしかった。一番前の男は、これぞ日本産中年親父といった容姿だが、内から滲み出るものはサラリーマンとは全く違う。本物だ。安斎さんよりも、断然それらしい。
「よお、古椎。相変わらず、すました面晒しやがって、胸糞悪い」
「お疲れ様です」
「疲れるほども働いているとは思ってないんだろうに。一人前に厭味を言えるようになったか」
 ハッと短い笑いを零すが、全然眼が笑っていない。濁った声が口調と相乗して、荒げているわけではなく寧ろゆっくりとした喋りなのに、凄みを感じる。普通に怖いと思う人物だ。揃って強面である後ろの二人よりも、その色が濃い。
「っで。これが噂のガキか」
「……ァ、え?」
 ソファの背に腕を置き身体を捻ったままの姿勢で男を見上げていたオレは、突然視線を向けられ間抜けにも呆ける。だが、相手の細まった目に背中が震え、反射的に立ち上がり、「失礼しました」とオレは軽く頭を下げた。
「伊庭です。初めまして」
 目上の者に対する作法だとか何だとか、そう言うのも多少習っているが。この男が誰なのかわからないので、どうするのが一番良いのか、わからない。だが、古椎さんは普通にしていろと言ったので、いつもの彼が知る素のオレで居ていいのだろう。
 食事などで出歩き、人目に晒されてはいるが。こうして、組の関係者と接触するのは初めてだと、緊張しながら短い挨拶をする。一般人に向けるのと、ヤクザに向けるのとでは、オレは所作を変えるべきなのだろうかと今更ながらに思うが、既に遅い。安斎さんが居れば、それに従うのだけれど。例えば、距離を取られたら無言を徹するだとか、手を回されたらしな垂れかかるとか、そんな対処方法も見えるのだろうが。古椎さんは間違っても、そう言う事はしない。先の発言で全てなのだろう。ならば、オレにはこうするしかない。
 バクバクの心臓に頭の中で静まれと願い、オレは戸惑いを消しきれないままであったが、どうにか笑顔を浮かべる。プレッシャーから逃げられないのならば、もう笑うしかない。
「安斎のイロだな」
「安斎さんにはお世話になっています」
 答えない古椎さんに諦めたのか、男はオレに直接訊いた。だが、そのイロ発言にイエスと頷けるほど恥知らずな図太さはないので、無難に答える。オレの場合、愛人であるのを隠す必要はないのだが、これくらいの慎ましさは大人として必要だろう。そんな言い訳で、弱い自分をオレは許す。
 だから何?アンタ誰?と。馬鹿な愛人を演じた方がいいのならば、古椎さんがそう言っているはずだ。そうですと、以後お見知りおきをと開き直る愛人がいいのであっても然り。古椎さんが何も動かないのは問題ない証拠だと、オレは負けそうになる心を勝手な理屈で励ます。
「若いな、幾つだ」
「二十一です」
「学生か?」
「いえ、違います」
「商売人か」
「仕事はしていません」
 どんな噂か知らないが、この男はオレを知っているようだ。ならば、歳も職業もわかっていて訊いているのだろうと思い、オレは下手な嘘は吐かず事実を口にする。全てではないけれど、真実だ。
「身ひとつで拾って貰いました」
 正確には、拾い上げたのは古椎さんで、飼ったのが安斎さんなんだけど。そこまで言う必要はないだろう。
「成る程、犬コロか」
「犬?」
「餌に釣られた野良犬だ」
 男の表情が、嘲った笑いを作る。だが、いつもならば怖く思うのだろうそれも、今は正直むかついた。オレではなく、この男は安斎さんを馬鹿にしている。それが気に食わない。
 言う通り、オレは確かに餌に釣られた野良犬かもしれないが、野良犬にだって意思はある。逃げ出す事をせずにそこで飼われるかどうか、決めるのはその犬自身だ。飼い主を、主人とするかどうかは、オレが決める。
「ただの餌だけならば、腹を満たした時に逃げています。野良犬でも、ボスを決める目は持っているつもりです」
 自分の意志は関係なく、飼うも捨てるも安斎さん次第で、自分は愛玩具に過ぎないのだとわかっている。だから、犬といっても、三日飼われれば一生恩を忘れぬような犬にはなれない。飼われようとも、根本は変わらず、一生野良犬のままだ。だけど、飼われている間は忠義を尽くすくらいのプライドはある。愛人の座に胡座をかくつもりはないが、愛人なりの襟持はあるんだと。オレの何が間違っている?と喧嘩を売るほどではないがやんわりと、オレは慇懃ではなく毅然に、意識してゆっくりとした口調ではっきり述べる。
「必要として頂ける限り、安斎さんの傍に居たいと思っています」
 愛人らしからぬ発言だと笑顔でカバーするが、誤魔化されない男は眉間に皺を寄せる。ホモガキが偉そうな口を叩くと思ったのかもしれない。それとも、違和感に思い当たったとか…?
 オレは早速、言い過ぎたかと冷や汗をかく思いをしたのだが。
「まだ調教中か、古椎」
 男が視線を俺に当てたまま横の古椎さんに問う。そして、続いて。
「面白いものを拾ったな、安斎」
 オレから少し視線を動かし、男がそう言った。えっ?と振り返ろうとしたオレの肩に重みが掛かる。
「気に入ったとしても、譲りませんよ」
「要らん」
 男を可愛がる趣味はないと言い切る男の声を聞きながら、オレは横に立った安斎さんに視線を向けた。いつから見ていたのだろうか、オレは不味い事を言わなかっただろうか、と。今になって不安が芽生えたところに、肩から離れた手がオレの髪に絡まる。
 大丈夫だと言うようなそれに、思わずホッと表情を緩め自然に笑みを零したオレを見ていたらしい男が、またガキだの犬だのと評した。そして、「趣味じゃないな」と、安斎さんをわかっているような口調で言い低く笑う。
「お前の相手にしては珍しい毛色だ」
「たまには違うものを喰したくなる年頃でしてね」
 軽い口調で男の言葉を流しながら、安斎さんは指を伸ばし、オレの耳に触れた。髪をかきあげられ、緩く触られるこそばゆさにオレは首を竦める。これはきっと、まさに愛人らしくしろと言われているのだろうけど。相手との距離が近すぎるこの状況で、オレの赤面を無視して話すこの人達との間で、何をどうしろというのか。勘弁してくれと俯き、傍の肩に顔を埋めるしか出来ない。
 晒す横顔を手で覆い隠したいけれど、流石に我慢する。
 次の予定に差し支えるからと、男が去った時には、オレは本気で安斎さんに体重を預けていた。大丈夫かとの問いに頷き身体を離すが、直ぐに引き戻される。
「慣れないな」
「……済みません」
「取って喰いはしない、そう意識するな」
「はい」
 安斎さんに腰を抱かれたまま、エレベーターへと向かう。この人は、オレを喰わないだろうけれど。周りは、オレを完全に喰っている。見知らぬ人達も、さっきの男のような人達も、男同士のそれを、同じ世界の男のそれを、笑ったり顔を顰めたりしているはずだ。改めて、オレは己の立場を意識する。
「初々しいのも自然でいいが。多少の色気は必要だな」
 からかう声だが、本気なのかもしれないそれに、沈黙を続けていた古椎さんが妙な事を言った。
「女でもあてがいますか?」
「は?」
 誰に、何をだって?
「何だ、伊庭。まだ女を知らないのか」
「ええっ!?」
 オレかよっ!?
「そうか、だから色気が出ないのか」
「……いや、あの」
「年上でも年下でも、好きなのを用意してやる。どういうのがタイプだ?」
「……」
「それとも、私が――」
「組長」
 諌める古椎さんの声に、冗談だと安斎さんは笑って返しながら、オレの髪をクシャクシャと掻きまわした。今の会話は何なんだと、本気なのかと驚くオレは、立場だとか役割だとか頭の中から飛んでしまい、その手を両手で下から押し上げるように掴み取る。…右腕一本なのに、遠ざけられない。なんて力だ、クソ。
「とりあえず、まあ名前で呼ぶようにでもするか」
 止めてくれと、逃げ腰ぎみのオレが見えていないのか。安斎さんは場違いにもそう言い、下の名前を訊いてきた。この人は本気で忘れているのかと、ちょっと不満に思いながらも、少し上がった息でオレは答える。
「飛成」
 確かめるように呟いた安斎さんはオレの背中へと手を置き変え、開いた扉の外へと押し出た。古椎さんがすっと前へ出て、予約をしている店へと案内する。息を整えながら、隣に並ぶ安斎さんを俺は意識しつつ視線を落とし、オレに何度も触れたその手を盗み見る。
 名前を呼ばれるのも、触れられるのも。普段は意識しないのに、愛人としてのそれはとても恥ずかしい。
 想像と実践で、こんなにも違うとは。
 今更だがやっていけるのだろうかと、オレは少し思う。

2008/04/08
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