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 様子見だといって、白名さんは不意にやって来る。オレの世話を焼いている古椎さんと違い、白名さんの訪問は自主的なようで。だからこそ、今のオレには楽しみに分類されていたりする。からかってくる白名さん当人には言わないけれど。

「失礼しても宜しいですか」
 チャイムに呼ばれ玄関を開けると、白名さんがいつもの科白を口にした。エントランスではひとこと名乗り、ここではこうして許可を求め、一見慇懃にしているが。一歩中へ入れば、至って普通だ。どうやら、白名さんは白名さんで、妙なオレの立場をそれなりに楽しんでいるらしい。
「寝不足か? 疲れが顔に出ているぞ」
 靴ベラを渡す一瞬で顔色を診断した白名さんが、「中身も必要だが、外見の方が大事だ。愛人なんていうのはIQよりも愛嬌だ、身体が一番だぞ」と靴を脱ぎながら言う。説教ではなく心配してくれているのだと受け取り、オレは素直に頷くが、クマが出るほどの寝不足ではないはずだと頬を少し擦る。眠そうに見えるのだとしたら、食事を摂った後だからなだけだ。
 まだ昼食を摂っていないと言うので適当に食事を用意すると、白名さんは音も立てず表情だけで笑い、輪島塗の箸を取った。そして、小鉢を片手に妙な事を口にする。
「組長は兎も角。お前、古椎を餌付けしたな?」
「安斎さんは、『兎も角』なんですか?」
 古椎さんの餌付けも気になるが、先にそちらに首を傾げると、そこは訊くなと言うように片手を振られた。
「オレが組長の遣り方に意見出来るか」
「済みません」
「冗談だ」
 お前は簡単に何でも信じるなと、白名さんは苦笑したが。眼鏡の奥の目は全然笑っていなかった。突っ込んではならなかったところかと、一瞬どうしようかと困る。だが、白名さんが直ぐに視線を外し食事を始めてくれたので、オレは内心で息を吐き、蒸した茶を湯飲みに注いだ。ひとつを白名さんへ。もうひとつを、オレは両手で覆い囲う。じわりと掌が熱くなる。
「……」
 沈黙は、嫌いではない。元々、オレは喋る方ではないのだ。黙っている事は、苦ではない。だが、白名さんが居ながら静まり返る空間は、なんだか妙だ。落ち着かない。これが古椎さんならば、無言は当然で、自らオレが喋りかけるほどだけど。安斎さんなら、オレが困ればそれに気付いて何か話してくれるけれど。
 いつも当然のように好き勝手喋る白名さんが口を噤むと、どうすればいいのかと考えてしまう。それくらいに、何が通常で、どんな時が異常なのか。それがわかるくらいに、この生活が、環境が、関係が、日常へとなっている。白名さんが黙っただけで、困ったと思うなんて。以前のオレでは考えられない。
 茶碗が空になったので窺うと、おかわりと言って渡された。ご飯を盛り、テーブルへ置く。
「ま、教えておいてもいいか」
 再び箸を取りながら、白名さんが言った。ずっと考えていたのか、話は先程の続きだ。
「お前も、『愛人』かもしれないがな。組長も、『組長』だと言う事だ。あの人も、自分の役割を演じている。まぁ、誰だって多かれ少なかれそうなんだろうけどな」
 香草焼きの最後の一切れが消えた口で、白名さんが続ける。
「つまり、組長がお前の食事を好んで摂っているのか、必要に応じているだけなのか、それは俺にもお前にも、誰にもわからないって事で。だから、『兎も角』だ」
「はい」
 わかりましたと頷くオレに視線を合わせ、白名さんは箸を置き、軽く目を細めた。
「だが、古椎は違う。あの男はお前の正体を知っているんだ、偽愛人の顔などいちいち立てる必要はない。そうだろう? それでも、お前の作ったものを食べるって事は、食べたいからだな」
 だな、って言われても。果たして、そうだろうか?
「…ですが、白名さんも食べていますよ?」
 たかが、食事だ。確かに、安斎さんの考えなんて何処にあるのかわからないけれど。グルメな彼が、オレの作る簡単な食事を楽しむとは思えないけれど。それでも、一食や二食、どうって事はないだろう。古椎さんも同じで、ただあるから食べているだけではないだろうか。外食するなり何なりよりも楽だからだとか、時間を有効に使う為だとか。理由があるとすればそう言う事で、そもそもこんなものを食べるのに意味なんてないんじゃないかと、オレは空になった食器を眺めながら首を傾げる。
 だが、白名さんはそう考えないらしい。
「俺はいいんだ、性格的にな。だが、古椎は違う。滅多に人と馴れ合わない奴が、どうもお前に傾いている」
 だから先の発言かと理由はわかったが、その内容の真偽はオレにはわからないものだ。まして。餌付けと言い切れるほど、オレに料理の腕はない。傾いているのだとしたら、仕事の内容だろう。だが、色々考えているらしい白名さんの思考に異議を立てるつもりもない。
「どうでしょう、ボクにはわかりません。ですが。もしそれが本当で、気に掛けて貰えているのだとしたら、ボクは嬉しいですが」
 そう言いつつも、そんに甘くはないのだろうとオレは思う。オレの作る食事を好んでくれていたとしても、オレとの関係は別だろう。白名さんはこう言うけれど、ただ安斎さんに倣っているだけなんじゃないだろうか。事実、オレが誘わない限り、古椎さんは自ら食事を強請る事はない。だから、そこに拘りなんて全く見えない。
 気にし過ぎだろう。それに、頻繁に顔を合わせていれば、何らかの馴れ合いも普通に出てくるものだ。だからこそ、オレだってこの人達と上手くやっているのだと思う。
 馬鹿な犬でも、三日も飼えば情くらい沸くものだ。
「もし、もっと頑張ってボクが料理の腕を上げたら、白名さんも餌付いてくれたりしますか?」
「あのなァ、伊庭」
「はい」
「そんな事、面と向かって聞いてくれるな」
 お前は時におかしな事を言うと肩を竦め、白名さんはお茶を啜った。しかし、ふと顔を戻してオレと目を合わせ、ニャリと笑う。
「愛人が廃業になったら、料理番でもするか?」
 雇ってやるぞと、まるで部署を移動させようというかのような発言に、オレは「何ですかソレ」と笑いを零す。だけど。
 愛人の役目を解任されたら、オレがここから出て行くのは決まっていると思っていたけれど。嘘でこんな事は言わないだろうと思える白名さんの発言に、笑いが収まったあとは少し考えてしまう。顔を売っているので、雑用係なんて今更出来ないだろう。他者から見れば間違いなく元愛人のオレが、そんな事になっては安斎さんの立場もないはずだ。ありえない。
 だから、本気で白名さんの言葉を信じたわけではなく。オレは違うところで、未来を思う。この役割が終わったその時、自分は何をしているのだろうと。十年後、二十年後に、オレの隣には誰かいるだろうか。
 安斎さんのように、己を慕ってくれる人が傍に居る人生が。古椎さんや白名さんや、その他の組員さんのように、誰かに従うと、ついていくと決めたその人生が。オレにはないそれらがとても羨ましくて。
 白名さんが帰り、古椎さんが新しいスーツを持ってやって来たのは、もうすっかり外は暗くなった時間だったけれど。
 オレは昼間のそれを少し引き摺っていて、上手く笑えなかった。
「明日、朝来る。適当に食べて寝ろ」
 それだけ言って帰った古椎さんに、オレは失敗したと己の不甲斐無さを悔やむ。白名さんがしてくれた忠告を、全く役立てられなかった自分が、ただ情けない。
 こんな事では、ヤクザの愛人は務まらない。もっと芯を持って、しっかりしなければ。

 慣れるほどに。馴れるほどに。
 難しい事もある。

2008/04/08
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