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 この歳になって何だが。この生活を始めて、生まれて初めての事が多い。テーブルマナーが必要な食事は勿論、酒を飲む為に出向く場所も、上質なものを楽しむ趣味も、極々庶民的な暮らしをしてきたオレには、縁もゆかりもないものばかり。組長の愛人という立場以上に、オレの場合まずはその雰囲気に馴染む事にてこずっていたりする。
「面白くなかったのか?」
「よくわかりません」
 安斎さんに付き合いオペラ鑑賞をした帰り道、運転席からの古椎さんの質問に、オレは困りながらも素直にそう答えた。事前の勉強というか、慣れる為に色々と知識は入れているが。実際に見た感想はそれに尽きる。
 オーケストラも、クラシックコンサートも何度か行った。目を瞑って聞いている振りをして、ウトウトしていたのを安斎さんに見破られたのはこの前の事だ。なので、今夜はと真剣に舞台を見入っていたが。結論から言えば、オレには向いていないのがよくわかっただけだ。
 だが、わかったからと言って、これからはご遠慮しますとは言えないのだけれど。
「凄いとは思います。素晴らしいとも。ですが、何ていうんでしょう…ボクにはあわないというか…ハマりません」
 とても申し訳ないんですが、のめり込める楽しさは見付けられなかったと、ボソボソ口にしたオレの話を聞き終えた古椎さんは、何も応えずにハンドルを切った。助手席からその動きを眺め、赤信号で止まった横顔に問い掛ける。
「古椎さんは、お好きですか?」
「苦手だ」
 お前と一緒で寝るなと続けられた言葉に、オレは顔に血が上るのを感じながら、ここには居ない安斎さんに心の中で悪態を吐く。オレの失態を喋ったんですか、安斎さん。彼の紳士ぶりから大丈夫かと思ったのだが、口止めが必要だったらしい。しかも、叱責ではなく、からかいですか古椎さん。
 …恥ずかしい。
「……今夜は、寝ていません」
「そのようだな」
「……」
 劇場から出て、直ぐに安斎さんとは別れて帰路についたというのに。オレの鑑賞態度の報告を、短時間の接触の間にしていたような、その言葉。他に喋る事があるのだろうに、あえてそれなのは何なのか。実はオレの愛人ぶりは、思うほども上手くいっておらず、続行か解雇かの審議でもされているのだろうか…?
 だったら、気を引き締めなければ、だ。
「次からは、もっと頑張ります」
「人には得手不得手がある」
 決意するオレをどうしたいのか。古椎さんがそんなことを言う。走り始めた車の振動と同時に、胸がどきりと脈打ったのは仕方がないだろう。
 これは、まさか。じゃ、オレはこれでいいんだと甘えた途端、首切りなんて罠じゃないよな…?
 オレは頑張っているつもりだが、その頑張りが結果に結びつかなければ意味がない立場。そもそも、愛人なんてものは資格試験でもなんでもないので、判定はオレをダミーだと知っている安斎さん達によるもの。音楽ひとつ楽しめないセンスの持ち主は、傍に置くには不合格だとなる可能性もないわけじゃない。
 だけど、オレの役目は安斎さんを大切に思う事で。そう言う意味で、彼に恥をかかせないように色んな事を覚えていて。けれど、結局はダミーで。でも、偽物だからこそ、そこに愛がないからこそ、求められるのは完璧なのか。だとしたら、人目のあるところで眠ったり、退屈したりしているのはかなりな失態。
 考えれば考えるほど、次なんてないんじゃないかと顔を強張らせたところに、横から攻撃が来た。
「イテッ」
 硬い拳に頬を押され、そのまま首を横に曲げてしまい、意味もわからないままオレはガラスに頭をぶつけた。耳元で上がった音にびっくりして、さほど痛くなかったのに、反射的に痛いと訴えてしまう。
「え? あ、…何ですか?」
 去っていく拳を眺め、前を見たままの横顔を眺め、頭を戻す事も忘れて問い掛けると、古椎さんの眼が漸くこちらへと動いた。ほんの少し細められ、何もなく戻ったそれに、オレは何故か気まずさを覚える。攻撃を受けた俺がどうしてこんな気持ちにならねばならないのか解せないが、そんなことは古椎さん相手には通用しない。いや、古椎さんだけではなく、誰にだってそうだ。今の生活に、同等地位にある者はいないのだから。
「…………済みません」
 何てところに自分は居るのだかと、今更に思う。だけど、これが職場と思えば、以前と何ら変わりはないかとも思う。たった四人の修理工場と、偽愛人まで作らねばならない組長の率いる団体とでは、全然規模は違うけれど同じだと。オレは気付いた瞬間には謝罪を口にしていた。
 約三年勤めた職場でオレが一番学んだのは、相手が誰であれ反論など口にせずに謝れと言う事だ。理不尽は飲み込む為に自分の前に現れるものなのだから、立ち向かってはならないと言う事だ。
 勿論。古椎さんに対して、そんな事は思っていらず。ただ、今までの会話から、働いていた頃の周りとの関係から、経験としてオレの何かが駄目だったのだろうと納得し、その言葉を口にしたのだけれど。
「意味もわからず謝るな」
「あ、はい。済みません」
「……」
「…え?」
「もういい」
 低い声に、切り捨てられたと悟る。何かおかしなことを言ったか、オレは。意味っていうか、理由がわかったから言ったのだけれど、同じ言葉はマズかったのだろうか?
「あの」
 呼びかけるが、返事はない。だけど、この距離で聞こえない事はないので。走行音に負けない程度の声で、オレは別な言葉を口にする。
「…ありがとうございます」
 その言葉にも返事はなかった。だが、オレが満足したからだろうか。車内の空気が少し柔らかくなった気がした。自分ばかりで悪いがそれに安心し、オレは車窓に視線を移した。
 スモークガラスの向こうを流れる街は、明る過ぎるほどで。光の川を走っているようだ。少し上を見上げれば、高いビルに灯る明かりは、星のよう。眩しくて鬱陶しいと思う日もあるけれど、今夜は心地良い。
 いつの間にか眠ってしまったオレは、揺り起こされてマンションに到着した事を知った。途中で寝られては堪らないと考えたのか、部屋の中まで上がってきた古椎さんは、オレが寝室に入るのを見届けてから帰っていった。

 古椎さんが安斎さんに報告したのか。オレの態度がバレバレだったのか。
「私は隣で眠られても気にはしないが。寝顔を晒すのは恥ずかしいだろう?」
 そう言って、安斎さんはオレを音楽関係のコンサートには連れて行かなくなった。変わりに、歌舞伎や狂言、落語や文楽なんて、ますますもって敷居の高いものに連れて行かれたが。養父母と一緒にテレビで見たりもしていたので、そちらの方は単純に面白かった。下準備として勉強していなければちんぷんかんなものもあったが、博識な安斎さんが隣にいて解説してくれたので充分に楽しめる。
 そんなオレと違い、「俺はそれでも寝る」と古椎さんは言った。白名さんは、「そもそも、俺はまず行かない」と言い切った。
 オペラを見た後、不甲斐無い自分に落ち込み、こんなオレはお払い箱かと思ったが。古椎さんと白名さんの様子からして、寝た事など全然大した事ではなかったらしい。安斎さんの言葉も嘘じゃないと安心し、けれど同時に、オレに付き合わせる事で彼の楽しみを減らしたのかもと懸念が浮かんだが。
「オヤジが相手するのは、お前だけじゃないからな」
 白名さんのそんな言葉にオレは安堵する。よくよく考えなくとも、そうだろう。ちゃんと安斎さんには本物の愛人が居るのだろうし、もしその愛人がオレと同じように苦手なのだとしても、彼ほどの男ならば幾らでもクラシックに付き合ってくれる女性が居るだろう。
 何も、無理してオレを付き合わす必要はないのだ。それくらいに、他のところでオレは充分すぎるくらい愛人をアピールしている筈だし。
「それは良かったです」
 笑顔でそう感想を述べると、「お前が心配する必要はない」と古椎さんに怒られた。
 済みませんと言いそうになったのを飲み込み、俺はただハイと深く頷くに留めた。

2008/04/08
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