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 要求されるのは、知性と教養。それまでの生活では必要とされなかったものだ。何より、上流階級という華やかなところを想像すらせず生きてきた男にとって、どれだけ頭に知識を詰め込もうが補えない部分が多々ある。経験でしか培えないそれらを、オレは少しずつだが確実に、安斎さんをはじめとする面々によって吸収している。
 頻繁に食事やパーティーに出掛け、会話の仕方や酒の飲み方を覚え、安斎さんに仕える事の意味を知った。
 隠しておくのならば、ダミーを作る必要などない。当然だろう。周囲にそうと認識させる為に顔を売るというのは初めから言われていた。だが、相手はヤクザであり、オレは偽物の愛人なのだ。表に出る要因であっても、この立場が必要な時はそうないだろうと思っていた。だが、十日に一回の割合が、一週間に一回となり、数日置きには連れ出されるようになるなんて、思ってもみなかった。
 正直、闇雲に逃げ出したくなった時がある。ただ疲れるまで泣きたくなった時もある。だけど、実際に出来るのは、精神的な圧迫をどうにかやり過ごして、与えられたものをこなすのみだった。一人前にならねばというプレッシャーも当然だが、生理的にあわない苦痛がもたらす疲労は、泣こうが喚こうがどうにかなるものではなかった。
 そんなこんなで。自分を騙すように日々を重ね、気付けば数ヶ月。季節はすっかり秋へと変わり、冬が匂い始めている。
 オレはまだ、安斎さんの愛人役を続け、時たま、それ以外の事もしている。


「少し戻ったか?」
 ワイングラスをテーブルに置いた手が、オレの頬へと伸びてきた。痩せたのを見咎められたのは、先週の事だ。その前に引いた風邪が一番の原因だったが、言い訳にはならない。
「はい、大丈夫です」
 気遣わせて済みませんと視線で詫び、オレは滑る指の感触にネコのように目を閉じる。実を言えば、気を抜けば痩せてしまうのは習慣だ。周りに気付かれ、努力で戻す羽目になるのもいつもの事で、数キロの体重変動はもう馴染みとなっている。大抵、一番に気付き注意を促してくるのは古椎さんだ。安斎さんがオレのそれに触れるのは、最近になってから。
 この関係が安定してきたからか、一時に比べれば接触する日は少なくなったが。その変わり、会った時の親密さは深くなっている。教育ばかりだった頃が嘘のように、半年も経たないうちに打ち溶け合っているような会話を交わすようにまでなった。
 時々、本物の恋人同士であるかのような。そんな錯覚に、陥る事がある。
 離れていく温もりに瞼を上げると、安斎さんは優しい微笑を浮かべていた。一瞬、泣きたくなるような感覚に包まれるのはこういう時だ。恋愛感情が互いにないのは当然として。それでも、情は持って貰えているのではないだろうかと、本気で思ってしまいそうになる。
「そのまま、もう少し太ったらどうだ」
 どうだと言われても、どうなのだろう。
「その方がお好みですか?」
「まあ、抱き心地はいいのだろうね」
「……」
「飛成」
「…必要とあれば、努力しますけれど……」
「けれど、なんだ?」
 楽しげな表情で窺ってくる安斎さんを軽く睨みつけ、オレは小さく肩を竦めた。
「太っては、折角頂いた服が合わなくなります。それに、ボクはそう背が高くありませんし、肉を付ければ見苦しくなりますよ」
 抱くような事にはならない相手に、抱き心地を重視する意味はない。ひ弱だから体力を付けろと言われたのなら、了承して明日からスポーツジムに通うのがオレの務めなのだろうが。言葉遊びを間に受け太っては、見目が悪いと早々にお払い箱だ。安斎さんが良くとも、そんな愛人を周囲は納得しないだろう。するのは、ダミーと認識している幾人かだけだ。
「お前はちょっとくらい肉がついたところで問題ない」
 それよりも、問題なのは私の腹だ。最近、肉付きが良くて困る。歳には勝てないのかと、笑う男に「例えポッコリお腹になっても、貴方は素敵です」とオレが返すと、安斎さんは更に愉快そうな声で笑った。体型で性格が変わるのならば困るが、太ろうがどうしようが、この人がこの人であるのに変わりない。
「ボクはそんなに可笑しな事を言ったのでしょうか?」
 だから、素直に本心を言っただけなのだが。余りにも笑われ居心地が悪くなってきたオレは不安になり、真面目に訊ねるのだが、更に笑われる。お前はイイと安斎さんは合間にそう言うが、その「イイ」はとてもではないが「良い」には聞こえない。
「…わかりました。太ります」
「いや、今のままでいい」
 了承した途端、これだ。
「……社長、私をからかっていますね…?」
「気のせいだよ、秘書殿」
 それはお前の勘違いだと嘯きながら、安斎さんが艶然と微笑んだ。愛人顔負けの男の色気に、思わず視線を逸らせてしまう。部屋に響く笑い声からして、今のは絶対に確信犯なのだろう。ヒヨッコのように遊ばれているのが少々癪だが、何も言えない。
「飛成」
 愛人ならば連れ回すにも限界があるとなり、いつの間にかオレには、組長の私設秘書という大層な役が付随した。なので、表向きの顔は、実はそちらの方だったりする。だが、周知の事実で、やはり立場は愛人でしかない。一部を除いて、安斎組長は男の愛人を傍に置く為に秘書をさせている、と認識されているわけだ。
 敬愛すべき人物がそんな醜聞をくっつけていて良いのかと、その考えが全くわからないオレには心配であるのだが、古椎さんや白名さんは勿論、安斎さん自身問題としていないようだ。逆に、何も知らないだろう組員達の対応を見る限り、どうも疎まれているのはオレばかりであるような気もする。彼らにとっては、図々しく組にまで入り込んできた男娼といったところなのだろうか、安斎さんへの敬意を下げてはいないらしい。
 そういう憎悪じみた感情を向けられるのは、気分がいいものではないが、我慢出来ないものではない。ヤクザ男達の対応はとても怖くもあるが、安斎さんの指導力というか統制力のお陰で、多少の中傷はあっても実際に手を出してくる事はないので、ビビるオレでも虚勢を張る事は出来る。笑って流すのも、冷めた目で不快を示すのも、慣れる事はないが出来るようになってきた。
 だが、正直。安斎さんとじゃれるのは余りまだ慣れていない。頭や顔や身体に手で触れられるのは、いつの間にか心地良くさえなっているが、それ以上の触れ合いは未だにぎこちなかったりする。行き過ぎた事はしないとわかっているのだが、安斎さんの恋人振りが堂に入ったもので、もしかしてと思ってしまうのだ。彼とて、好きでもない男と何かをしようなどと思っておらず、ただ愛人をからかう男を演じているだけなのだろうが、経験値に雲泥の差があるオレは、そうであってもうろたえてしまう。
 それはそれで初々しくていいと、悪くはないと安斎さんは言うけれど。白名さんも、オレのやり方で安斎さんを大切にすればイイのだと言うけれど。古椎さんに至っては、オレが失態したところで高が知れており問題などないと言い切ってくれるが。それでは駄目なんじゃないかとオレは思うわけで。
 ダミーだからこそ、それを疑われないように、オレは完璧な愛人を演じねばならないのだと考えるのだが、思うようには上手くいかない。外見だけでも、安斎さんが惚れているに相応しい人物でなければと思うのだが、理想には遥かに遠い。
 オレは頑張っているけれど。根本的に吊り合う人物ではないので、どちらかと言えばオレを疎む組員の心情の方が同意出来るというもので、これでいいのだと言う面々の言葉を素直に納得出来ない。役割を果たせているのかどうかのラインが俺自身には見えない事が、少し歯痒い。そうく思うくらいに、オレは、この役目に誠意を込めて取り組んでいるつもりだ。だから、もっと、知りたいと思う。
 安斎さんにとって、オレがここに居る意味がどのくらいあるのか。
 古椎さんや、白名さんにとって、それがオレである理由があるのか。
「飛成」
 二度目の呼びかけに観念して顔を上げると、安斎さんは優しい目でオレをまっすぐと見ていた。こういう時、オレはいつも、この人は本当にヤクザなのかと思う。だけど、それと同時に、人の上にて立っているべき人なのだとも思うのだ。
 いつの間にかオレは、与えられた仕事をこなす為ではなく、この人の役に立ちたいと思っている。
 本当に、そう思っている。
 だけど、それ以上に。オレが彼らに心を許しているのと同じだけ、彼らがオレを認識していて欲しいと思っている。欲張りにも、そんな事を願っている。
「お前は私の部下じゃない。だが、私の前に居る時は常に、愛人だ」
「はい」
 軽口の後の沈黙に何を見たのか。安斎さんが表情を引き締め、そんな言葉を口にする。
「私が居ない所でも、お前は忠実にその仮面を外す事はしていない。その点で言えば、お前は良くやっているな」
「ありがとうございます」
「だが、お前の場合はそれだけだ」
 どう言う意味なのか、わからずに。見返すオレに安斎さんは笑顔を向けて「つまらないな」と、そう言った。
 オレは言葉を飲み込むよりも先に、スミマセンと小さく笑ってそれを流したのだけれど。

 今の役目とて、こなせている自信はない筈なのに。それ以上のものはお前には無理だと判断され、分を弁えろと釘を指された事実が、胸にグサリと刺さる。安斎さんはオレの心を全て知っていて、そうしてこんな言葉を言うのかもしれないと思うと、消え入りたくなった。
 オレは、安斎累が気にかけている愛人だけど、それは真実ではない。それを知っていて、自惚れてはならない。奢ってはならない。
 まして、強請ってはならないのだ。

2008/04/11
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