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 安斎さんは、オレの前では優しいオジサンでしかない。
 それでも、ヤクザだと認識しているからそう見てしまうのか、小さな仕草や雰囲気にそれらしいものを見ることはあるけれど。オレに声を荒げる事はないし、理不尽な命令をする事もないし、何よりそれらしい話題を向けてくる事もない。他愛ない話で食事や時間を共にする事が殆どで、当り障りのないものばかりだ。
 勿論、二人だけで過ごすわけではなく、綺麗な女の人が居る店や会員制のバーやカジノのような店にさえ行く事もある。そこでは、会話に色をつけるような触れ合いを仕掛けてきたり、捉えようによっては際どい言葉を口の乗せ向けてきたりする事もある。俺を連れている以上、食事同様のパフォーマンスなのだろうが。それでも、そう言ったものも、どこまでも紳士的だ。
 時に、何の一報もいれずにマンションに来る事さえあり、オレは朝になって安斎さんの来訪に気付く時があるほどで。急ごしらえの朝食だけで満足し仕事に向かう男に、戸惑う事もしばしばだったりするが。それはそれで、心地良くもある。
 オレは安斎累と接し、男を知るほどに、心を傾けている。相手はヤクザなのだからと、役割の内容は親密でも一線も二線も引いた付き合いをするのだと思っていたのは何処へ行ったのか。大切に想い、誠意を示して尽くせと言われたけれど。言われていなくとも、相手は初めから、そうしたいと思わせる力を持っている。オレのような若造には逆らうことなどできないほどの力だ。
 普通に、当然として、オレはヤクザの組長に好感を抱いている。
 だけど。
 それ以上のものを抱く事は、許されていない。


「王手、です」
 パチンとコマを打ち宣言すると、「待った!」が掛かった。盤を見下ろし唸る男に心で苦笑しながら、オレは進めたコマを戻したのだが。
「待った、はナシです組長」
 出掛ける時間だと、白名さんがいつもと違う真面目な声で安斎さんの負けを告げた。もうそんな時間かと顔を上げながら、けれども納得がいかないようで「私が負けてもいいのか、白名」と不服そうに安斎さんは言う。
「残念ながら、勝負は勝負です。諦めて下さい」
「仕方がない。飛成、参った。お前の勝ちだ」
 だが、何か手があるような気がすると、立ち上がった安斎さんはドアの前で立つ古椎さんを手招きで呼び、「続きはお前に譲る」とバトンタッチした。
 安斎さんはこれから外せない会合らしいが、オレの方も重要ではないが予定が入っている。だからこそ、古椎さんだってここに残ったのだろうにと思いながら、組長の命令通り代わりに席についた男にオレは少し呆れた。これは所謂、親が親なら子も子だ、というやつだろうか。
 安斎さんは若く見えるがその歳に似合ってと言うべきか、囲碁や将棋を指すのが趣味だ。オレは養父の付き合いで昔から親しんでいたので、強いわけではないが得意な方であり、時たま勝つ事がある。そして、古椎さんもまた、安斎さんに付き合って少しだが打つ。白名さんも出来るらしいが、相手をして貰った事はない。好きな訳ではないようだ。
 本物の愛人ではないので、安斎さんはこの部屋に来ても、大抵仕事をしているか寝ているかだったのだが。いつだったか、同行していた古椎さんとリビングで将棋を指し始めたのだ。そう言う遊びもするんだなと、食事の用意をしながらオレは少し驚き、少し親しみを増やした。だが、食べられるようになっても打っている二人に誘われ覗きにいき、つい口を出してしまったのは失敗だったのかもしれない。
 それから時々、時間がある時には将棋を共に楽しむようになった。まさかヤクザと一局交えるようになるとは、オレの師匠の養父も夢には思っていなかっただろうが、オレとしては楽しい。けれど、古椎さんや白名さんがいつもいい顔をするわけではないので、仕事の邪魔をしているのかもしれない。
 誰もが優しくて忘れそうになってしまうけれど、オレは誰よりも自分の立場を忘れてはならないのだ。慣れは言い訳にはならない。
「出掛けましょうか」
 動きを見ていなかった古椎さんに挽回は無理だろうと、オレは己の役目を果たすべく気を引き締めそう言ったのだが。相手は返事をしながらも、じっと板を見つめている。
「古椎さん」
「ああ…」
「……」
 考えているのだろう。だが、何ていうか…悪いが、少し笑える。
 上げかけていた腰を、オレはソファへと戻す。普段、相手が安斎さんでも結構言いたい事を言っているような男が、命令されたとはいえゲームでしかない将棋に眉を寄せているのだから、頬が弛むのは仕方ないだろう。
 キャラ的に、さっさと片付け出掛けようとするのは古椎さんの方なのにと。オレは微笑ましくも思いながら、腕を組み悩む男を眺めて、好手が浮かぶのを待つ。行き先は、安斎さんが懇意にしている画廊だ。注文の品を受け取りに行くだけなので、多少遅れようとも問題はないのだろう。
 大きな窓から見える空は、薄い水色だ。都心の空は霞んでいると、綺麗ではないと思っていた。本物はもっと鮮やかだと。実際、修学旅行などで出掛けた場所の空は、青色だった。だが、そんな話をしたオレに、キクさんが大阪の空はもっと汚いのだと教えてくれた。
『東京の空は、可愛いもんよ』
 そんな事はないだろう。極端だ。そう思う心もあったが、可愛いと言って笑う彼女につられ、オレもこの空がいいように思えるようになったのだから、不思議だ。単純すぎる。だが、好きなものが増えるのは、悪いことではない。
 ふと気付けば、取り留めのないことを考えていた。慌てて顔を戻すと、ソファに凭れて座る古椎さんがオレを見ていた。将棋盤の駒は動いていない。諦めたのだろうか…?
「面白いものでもあるのか」
「え?」
「暇があれば見ているな」
 何のことかと首を傾げるオレに答えを示すよう、古椎さんが窓を見た。その視線を追い、今オレが見ていたものを言っているのだと納得する。だが、そう言われるほどに空を良く見ている実感はない。けれど、無意識のうちでそうしているのかもしれない理由はある。
「面白いものはないんですけど」
 この人の前で、そんなに自分はぼんやりしていただろうか。そんな余裕をかましたつもりはないんだけどと苦笑交じりに応えたオレに、古椎さんは促すように視線を戻してきた。腰を上げ出掛ける様子を見せないそれに、観念してオレはつまらない話をする。
「好きとか、嫌いとかではなく。ただ、人は死んだら星になると言うでしょう? だから、ボクは空を見てしまうんだと思います」
 勿論、そんな話を信じているわけではない。ただ、本当に、何となくだと。理由にもならないものを伝え、オレは小さく笑う。子供みたいだとの照れ隠しと、お粗末なオチである謝罪を込めて。だけど、心に漂うのは、哀愁だ。
 人は死んだら星になり、空から大切な人を見守り続けるのだと。そんな話を両親を亡くしたオレにしたのは、星が好きだった養父だ。彼は、老後は田舎で毎夜天体観測をして暮らすのが夢だったらしい。だが、望遠鏡を買うお金は、田舎へ引っ越す計画は、オレの養育費と教育で消えた。第二の人生を、養父母はオレの為に使ったのだ。
 贅沢とは掛け離れた、質素な暮らしだった。だが、今日食べるものがないだとか、明日着ていく服がないだとか、そういう貧しさはなかった。遠くへ遊びに行った記憶は殆どない。時たま養父の趣味に付き合う形で出掛けたのが、天体観測だ。普段はそう喋る方ではない性質の養父だが、星空の下では雄弁だった。
「明るくて見えないだけで、昼間も星はそこにあるんです。それを、ボクは意識していたいと思っているのかもしれません」
 つまり、誰かが自分を見ていてくれるのだと思っていたい、ただの甘えですと。茶化すように笑いながらいい、オレは席を立つ。本当は寂しいのだろうと気付かれそうで、向かい合う勇気はない。古椎さんならば、もっと奥にあるオレの本心を捉えそうで怖い。
 出掛ける準備をしてきますと自室に向かいながら、今のオレは逆だと思う。見られたくはないから、空を見ているのかもしれない。そこに養父母はいないと知りたいから、見ているのだろう。彼らには、今の自分を敢えて見せたくはない。そこにいるのだとしても、どうか横を向いていてくれと、オレに気付くなと思っているのだ。
 この生活を恥じているわけではない。だけど、彼らがもしも目の前にいたら、オレはごめんと口にする。絶対に。
 悪い事をしている意識はないけれど、考えずとも良い事でないのはわかっている。何より、彼らはこんなオレの未来を望んではいなかっただろう。だから、見せたくはない。
 ここに居られることに、オレは感謝しているけれど。亡くなったとはいえ、彼らにそれを押し付けられない。
 この生活に慣れてきたからか。
 押し寄せる現実に、時折オレは立ち竦みそうになっている気がする。

 養父が亡くなって、気付けば一年。
 去年の今頃は、悲しみに暮れていて。けれども、養母を支えねばと自分を奮い立たせていて。仕事と生活に一杯いっぱいだったけれど、生きていた。確かに、生きていた。
 だけど今は。同じく生きているけれど、あの時とは違う。
 オレは、生かされているだけなのかもしれない。

2008/04/11
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