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 自分に望まれている事と、自分が願っている事のギャップに整理がつかない。
 その温度差を当然だと理解しているのは頭だけで、心は相反する思いで無茶苦茶だ。
 何が正しいのか、間違っているのか。答えが出たとしても、それに従う意味はあるのかどうかすらもわからないオレを置き去るように、時だけが過ぎていく。
 辛いのに、か。辛いからこそ、なのか。
 目の前にあるものをそれでも求めそうになるのは、明らかにオレの弱さだ。


 色付いた葉が木から落ちるのを眺めているのにも飽き、問題があればそう言うだろうと判断し、オレは車を降り、車体に凭れて煙草を吸う古椎さんの横に並んだ。強く吹く風の向きを計算しているのか、紫煙も灰も邪魔にならないよう、上手く吸っている。古椎さんの喫煙姿を余り見る事はないので、オレ的には新鮮だ。
 少し距離を開け、並び立ったオレに何も言わない男を暫し眺め、視線を廻らす。歩道を踊る落ち葉が、風で舞い上がり車道まで飛び出していく。縦列駐車の車体の下に潜るのを見送り、流れる車を見て、向かいの歩道に視線を飛ばし、高いビルを沿って、空にまで辿り着く。
 見上げる空は、青空ではないけれど、明るく広い。冬の冷たさが気持ちいい北風に乱される髪をそのままにしていると、横目に立つ男がぽつりと言った。
「崩れるぞ」
「え?」
「髪。絡まる」
「大丈夫です」
 平気なので心配ご無用と言ったつもりだったのだが、反抗と捉えられたのか。古椎さんは少し眉を寄せると煙草を唇で挟み、空いた右手でオレの髪を梳いてきた。指摘通り絡まっていたのか若干の抵抗があったが、指はスルリと抜けていく。やはり、問題はないようだ。だけど、男として絡まるくらい長いのもどんなものなんだろう。
「少し、長いですよね。切りましょうか?」
 切りたいと言えば切れるのだが。誰かに身なりを決められるようになってからは、ほぼそれに従うようにしているので、自分の髪であるのにオレの言葉は提案の域を出ないものだ。おかしな言い方だと思いつつも首を傾げると、古椎さんは口から煙草を摘みながら「さあな」と言った。
「好きにしろ」
「…そう、ですよね」
 興味はないのを隠さない言い方が寂しくもあるがおかしくて、オレは小さく肩を竦める。オレは何を言っているのか、聞いているのか。恥ずかしい。
 気に掛けてもいなかったが、どうやら髪も服装も全て自分の好きにしていいらしい。初めは、安斎さんの好みだとか、出先にあわせて、幾つもの指示を受けていたが。思えば最近は、それがない。細かい面倒をみるのも終わりだと言う事か、それともオレに任せて大丈夫だと判断されたのか。二十歳を過ぎた男がこんな事で寂しさを覚えるのはどうかと思うが、急に心許なくなった。
「悪くはない」
「え…?」
 俯けていた顔を上げると、古椎さんは再び腕を伸ばし、肩に届くくらい長くなったオレの髪を指で摘んだ。軽く引っ張られ、こそばゆさに首を竦める。
「いいんじゃないか」
 何のことだと一瞬わからなかったが、オレの髪のことだと気付き礼を述べる。
「あ、ありがとうございます」
 じゃ、切らないでおきますと応えながら、何だか先程よりももっと恥ずかしくなって。赤くなっているのだろう顔を意識しながら、オレは何でもない風を装い首を巡らした。意味もなく遠くへ視線を飛ばしながら、何故か跳ねる心音を聞く。
 短くはしていないが、セットはしているので変な髪型ではない。古椎さんが評価をくれたとしてもおかしくはない。言うなればこれは、オレの担当をしている美容師への賛辞だろう。
 けれど、そうわかりつつも、初めて褒められたような感覚にオレは酔い痺れてしまう。嬉しくて、恥ずかしくて、何が何だかもうわからない。もしもこれで、明確な言葉で似合っているなどと言われていたならば。オレは、一生この髪型を続けようと思ったかもしれない。それくらいに、古椎さんのこの評価は貴重だ。
 何を考えているのかわからない男のそれに、気付けばオレは笑っていた。この人にもそう言う感覚はあったんだと改めて思うと、オレの方も古椎さんを何だと思っていたんだと可笑しくなる。
 ヤクザなんてやっているのだから真面目じゃないのだろうけど。仕事一筋以上に、硬くて鈍い。案外、無骨。そんな人が、悪くはないというのだから、切るわけにはいかないじゃないか。
 自分が笑われているなんて思ってもいないのだろう古椎さんに、オレは息を整えて再度礼を述べる。
「ありがとうございます」
 これは、髪の事ではなくて。ここでこうしてオレの傍で、相手をしてくれる事への感謝。
 オレはこの人に、支えられている。古椎さんだけではなく、安斎さんにも、白名さんにも。助けられているからこそ、ここに居られているのだ。


『パン少年』
「……何ですか、それ?」
 唐突に妙な言葉を通話口に吹き込んだ安斎さんに戸惑いながらも訊ねると、驚くべき事にそれは俺に付けられていた渾名だという。見せられたコンビニの防犯カメラの映像が印象的で私が名付けたと今更ながらに告白されては、オレとしては見えないとわかっていても俯き頭を抱えるしかない。改めて言われると…いや、安斎さんに言われるのは何であれ恥ずかしすぎる。
『実は、ついこの間まで密かにそう呼んでいた』
「……密かを続けて欲しかったです」
『今、ふと言ってみたくなった』
 ならないで欲しかったと、懇願してももう遅い。
 何だこの苛めはと、オレをからかいスッキリしたのか、オヤスミと通話を切られても。直ぐには立ち直る事が出来なかった。まだ数ヶ月前の事だけど、それ以降の日々が濃厚で忘れそうになっていた。それを思い出させるのは、何か訳があるのか。それとも本当に思いつきなのか。
 何にしろ恥ずかしい。
 携帯電話を渡されたのは、マンションに越して間もない頃だったと思う。始めは、古椎さんや、白名さんしか掛かってこなかったのだが。いつからか、安斎さんも掛けてくるようになった。初めて鳴らされた時は、とても驚いたものだ。
 大抵の場合、安斎さんの話は他愛のないものだ。予定の変更等は、古椎さんなどを挟まねば二度手間らしいので、本当に何でもない事ばかり。一言二言、その日の事や、その時の事を話す。時には、挨拶だけで終わる時もある。オヤスミとだけ交わし終えて切れる通話に、まるで小さな子供を相手にする父親みたいだと思ったのは一度や二度ではない。
 本物ではないので恋人のように長電話をする必要はない。だが、本物のように見せかける為に、こんな手間までせねばならないのだろう。ダミー相手にご苦労だ。こんな証拠がどんな風に安斎さんの思惑に乗っているのかオレにはわからないが、本当にマメだと思う。こんな風に、オレで遊んでいるのも含めてだ。
 オレは偽物だと自覚しているのだから、もっといい加減な相手でいいというのに。
「…マメ過ぎる」
 ただのダミーにも丁寧に接してくれる彼に、オレももっと応えねばと思う。
 安斎さんがいなければ、オレは今ここにいない。古椎さんがオレを選んでくれていなければ、ここで生きていない。
 本当に、尽くしたいと思っている。自分が出来る事はしたいと。けれど、その気持ちに比例するように、切迫感も高まるのだ。現実を直視する余裕が出て来たのか、オレの中に、自分が望むそれを受け入れられない部分が存在する。ヤクザになど関わらなかっただろう、罪を犯す前の自分が存在を大きくしている。

 大事にされなければ良かったと思う。
 こんな風に迷うのならば、死に物狂いで必死にしがみついていた頃の方が良かったのかもしれない。

2008/04/11
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