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 組の事は、殆どオレには伝わらない。当然だろう。表向きは秘書なんて役を頂いてはいるが、実態は無能な愛人でしかないのだから、誰もオレなんかに噂話すらふってこない。そして、オレの正体を知っている面々は、組員ですらない部外者に話を漏らすような事はしない。オレ自身、訊きもしない。
 だが、それでも。何も知らない人や、知っていて面白がっている周囲の人達は、真偽が確かでもない話をわざとオレの耳に入れてくれる事がある。

「安斎さんも、今は色々と大変らしいじゃないか。今までのように構って貰えなくなったら、君も寂しいだろう」
 ヤクザの愛人なんて一時のものだよ、と。私のところに来るのなら一生面倒をみよう、と。スッキリした笑みを保ちつつも、堂々と腕を伸ばしてくる紳士から身体を遠ざけながら、オレは嫌がらせの対処をする。
「折角ですが。ボクではとても貴方のお役に立てそうにありません」
 オレ自身は言えないけれど、きっとこの男も気付いているだろう。オレが秘書なのは嘘っぱちだ。どう転んでも、大企業にスカウトされても何ら役に立つはずがないのだ。何より、寂しかろうが、苦労しようが、ヤクザであろうが。お役ゴメンになるまでは、オレは安斎さんに仕える事は決まっている。そこに、オレの立場だとか感情は関係ない。
 これが親切心での忠告ならば、何が大変なのかを教えて欲しいものだと思いつつも、こちらから訊ねる訳にはいかないので場を辞する。
 華やかな人の間を抜けながら歩いていると、幾人かが視線を向けてくる。いつの間にか、顔見知りが多くなった。上辺の挨拶を交わす程度の知り合いだが、多分、オレの知らない事を皆はどこからか聞き知っているのだろう。
 そう、オレ自身の事を。
 そして、安斎さんの事を。
 本当の秘密などない世界なのだと、ふと思う。だったら、オレだって、安斎さんの「大変」を知ってもおかしくないのだろうかと考えてみるが。
「……オレでは」
 無理だ。
 外へ出ようとするその言葉を口内で転がし、処理した息を吐き出すに止める。自分で踏み入ったわけではなく、ただ今だけここに居るのだというオレでは、何も知ることは出来ないのだろう。オレはここにいるけれど、ここの住人じゃないのだ、と。会場の中央に居るにも関わらず、大きな疎外感を覚える。
 オレが安斎さんを取り巻く事態を理解したところで、何も出来はしない。ダミーは、動かされる人形なのだ。
 今になって、古椎さんや白名さんがオレに何を望んだのか、わからなくなる。安斎さんを想えば想うだけ、オレの存在は矛盾だらけだ。大事にされているのは、オレではなくこの役割だけど。彼らのそれを感じ取っているのはオレ自身であるので、どうしても上手く線を引けない。引かねば迷惑なのだとわかっているが、立場を忘れるわけではないが、目の前の温かさだけを抱えてしまいそうになる。
 養父母を亡くし、仕事をなくし、家をもなくしてしまったあの時よりも。
 恵まれているのに、何故か孤独が隣に居るような気がする。
「伊庭」
 耳に入り込んだ低い声に、反射的に顔を向けると、古椎さんが少し先からオレを見ていた。その向こうには、安斎さんが居て、やっぱりオレを見ている。
「飛成」
 その呼び掛けに、はい、と応えたのだけど。実際には、喉が詰まっていて声は出なかった。唇だけの返答に、失敗を誤魔化すようオレは小さく笑いを浮かべ、いつの間にか止まっていた足を踏み出す。
 迷っているのは、確かでも。
 この人達のところには、オレにも出来る事があるのだ。唯一だとしても、確かにあるのだ。
 そう思えば、オレの不安は、その前だけでは形を崩す。だから、まだ大丈夫だと思う。そう、大丈夫。ただの、不安だ。不具合ではない。現状に関係ない。オレがする事は、何をどう思っていようと、結局はひとつだ。
 進める一歩ごとにそう己を諭し、納得する。思い込む。そうして、安斎さんの傍に立つと、当然のように背中へと手を置かれた。こんなところで迷子にならないでくれよとからかう声が耳に染みる。自然と腰に降りた手に、済みませんの意味を込めてそっと手を重ねると、小さく笑われた。ありがとうございますとの言葉はまた喉で詰まってしまい、オレはただ息を漏らす。
 オレのこれは、想っているからこその不安だ。オレがこの人達の親切に応えきれていないからこその負い目だ。
 だから、本当にするべき事はひとつだと。オレは視線を上げ、安斎さんに笑みを返す。
「車が来ました。行きましょう」
「ああ」
 二人の言葉に帰るのだと理解し身体を離したのだが、直ぐにまた腰を抱かれ、そのまま歩かれた。
「あ、安斎さん…?」
 今したばかりの決心は何処へ行ったのか、情けない声が出てしまったのだが。これは仕方がないだろう。ちょっとくらいのボディタッチは問題なくとも、同性の腰を抱いて退出するのは駄目だと想う。
「あの…」
 もっと際どい行為をした事もあるが、それはそういう店での事だ。今夜の催しは、親しい間柄だけのものではない。何より、人目があり過ぎるし、明る過ぎるし、まだ場はお開きになっていないので参加者が密集しているのだ。悪い意味で目立ち過ぎる。暗い店ならいざ知らず、オレの顔が羞恥に染まっているのはバレバレだろう。だが、こればかりは瞬時に治すことは不可能というもので、ますます困惑が募る。
 安斎さんが考えての行動に、闇雲な拒絶は出来ないが。オレの役目はこれを堂々と受ける事なのだろうが。仮面を被りきれない。普段の比ではない何十人もの目に晒されるのは、恐怖をも伴う。半年近く経っても、オレがこういう愛人役をまだ身に付けられていないのを知っているはずなのに…。
 ……意地悪だ。
「照れる姿が可愛いと言ったら、引っ叩かれそうだな」
 喉を鳴らしながら耳に吹き込まれた言葉に、やっぱり確信犯だと下から睨みつけたのだが。
「伊庭」
 一歩後ろを歩く古椎さんに、低い声で窘められた。
 言われずとも自分が成すべき事はわかっていると、ひとつ息を吐き、赤いのだろう頬を手で抑える。落ち着け、オレ。要求されているのは、安斎さんを想う事だ。止めてくれと手を叩く事は許されていないが、恥ずかしいと小さな抗議の声を上げるのはいいはずだ。オレは、絶対服従な愛人を求められているわけではない。
「…あまりボクをからかわないで下さい」
「つれない事を言わないでくれ」
「……」
 抵抗は、瞬時に蹴散らされた。間近で艶やかな笑顔を拝まされ瞬殺される。そうして、オレにこの人をあしらうのは一生無理だと心で嘆いた次の瞬間には、腰に置く手に力が入り引き寄せられた。まるで今の反撃の罰であるかのようなタイミングに、分不相応な行動をしたと反省し、心でゴメンナサイと詫びる。
 だが。
 不意に真剣な声で、「我慢しろ」と耳に吹き込まれた言葉に驚くよりも早く、オレは髪の上からこめかみにキスされていた。そして、「機嫌を直してくれ」と、今度ははっきりとした声でそう言い、顔を上げたところに唇を落とされる。
 一度離され、甘いなとからかう短い言葉を間に落とされ、もう一度唇が重なった。
 離れていく顔を、オレはただ見る。
「…………」
「組長」
 使い物にならないオレをフォローするように、古椎さんが安斎さんに話を振り、潜めない声で会話を進めながら会場を後にする。オレは促されるままに足を進めつつ、無意識に伸ばした手で唇を覆い、何が起こったのかゆっくりと理解していく。
 頬や手などへの軽いキスは何度かあったが、からかいを含んだものばかりで、こういうのは初めてだ。腰を抱くだけでなく、敢えてここでのこれに何らかの理由があるのだろうと、ホテルを出る頃には漸く頭が周り、そう憶測出来たのだけど。
 それでもオレは車に乗り込んでからも、安斎さんのキスが身体から抜けなかった。
 押し付けられ、食まれたそれは、身体同様に硬く、男を思わせるもので。安斎さんが間で言ったような甘さは、全くなかった。

「女子高生じゃないんだ。二十歳過ぎた男が、キスのひとつで泣くな」
「……泣いていません」
 安斎さんと別れたオレを、マンションまで送り届けてくれた白名さんのからかいに言い返すことが出来たのは、奇跡に近い。
 だが、泣きそうなのは本当だ。
 キスには驚いたが、白名さんの言うように高がそれだ、嫌だと思うほどの事でもない。ただ、「我慢しろ」と態々断られた事が。苦笑しながらも、「悪かったな」と車中で謝られた事が。オレにはとても悔し過ぎるというもので。
 全く役に立っていないのだと、改めて思い知らされる。オレは「愛人」には全然なれてなんかいない。
 だったら。こんなオレがダミーを続ける意味があるのだろうか。必要があるのだろうか。
 何の為に、オレはここに居るのだろう。
 自室のベッドに倒れこみながら、その理由を探る。だが、何も見えてこない。
 目の前に誰かがいれば張っていられる糸も、一人になると直ぐに弛んでしまう。
 眠りにつくたびに、もう無理だと思い始めたのはいつの頃からか。確実に限界に近付いていそうな不安を抱えているのに、けれども朝になればそれを忘れ、オレは起き上がる。古椎さんを見れば、頑張らねばと。安斎さんを見れば、ついて行かねばと。刷り込まれた感覚で一日を終え、また夜になり、いつかくる終わりを予感する。まるで、死に逝くようだ。
 もしかしたら、明日は起きられないかもしれないと思いながら。オレはそれでも、目を閉じた。
 頭を回る安斎さんの謝罪は、まるで別れの言葉のようだった。

2008/04/23
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