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 クリスマスも過ぎ、今年もあと数日となった。芝生が伸びた土手に座って夜を明かした初夏がとても昔のように思えるくらい、まだ師走だというのに寒さが厳しい。
 車から降りた瞬間吹きつけられた北風に、オレは首を竦め、思わずコートの前を合わせる。自然に風上へと立った安斎さんに顔を向けると、「やはり車の方が良かったか」と小さく肩を竦めてみせた。
「大丈夫です。行きましょう」
 目的の店がある路地裏は、一方通行が入り組んでいる。数百メートルの距離だからと、表通りで車を降り歩く事にしたのは安斎さんの発案だ。愛人との食事なので私的な時間になるのかもしれないが、当然、護衛は付いている。だから、問題などないのだろうと、何処からも否の声が上がらないのを確認してオレは素直に頷いたのだけど。
 綺麗な女性と出くわしたのは、フランス料理店へ入った時だった。相手が出て行くところへ、丁度オレ達が入店したのだ。もし一分でもずれていたのなら、車で店まで来ていたのなら、きっと会わなかっただろう。正真正銘の、偶然による遭遇。
 だから。下着にすら思える薄い生地を身に纏った女性を見た時は、寒そうだと思っただけで、次の瞬間には目のやり場に困るからと視線を外したのだが。
「累さん」
 安斎さんを呼ぶ彼女の声を聞いた瞬間、どうしてだろうか足元が大きく揺れた気がした。
 女性の呼びかけに答える安斎さんを見ながら、ただ、どうしようかと思った。だが、どうする事も出来なくて、オレは安斎さんの隣で立つだけ。
 二人が交わした言葉は数言だったが、自身にも連れがいるにもかかわらず、彼女が紡ぐ内容はオレへの当てつけのようなものだった。嫉妬か嫌悪かの誹謗中傷はこれまでにも受けた事はある。だが、安斎さんにとって過去とはいえ近しい人物だろうものからのものは初めてで。
 この人は、本物の愛人だったのだと思うと、居た堪れない気持ちが浮かんだ。そしてそれ以上に、綺麗な女性の冷めた目が、オレに現実を突きつけた。安斎さんにオレは似合わないのだと、ただ思い知らされる。
 だが、そんな事はもうとっくにわかっていたので、彼女に対しては何も思わなかった。何故あなたがそこに居るのと不快を見せる女性の視線を流しながら、オレだって同じ事を思っていると心で返す。契約だとか、己の欲だとかを抜きにして。どうして、安斎さんはオレでいいのかと思う。傍に置くのならば、もっと似合う者にすれば良かっただろうに。
 美しいその女性を見て、オレは本当にただただそう思った。
 だから。席についても何も言わない安斎さんに、オレも何も言わないでおこうと思ったのだけど。部下としてはそれが当然でも、愛人としては突っ込むべきなのかもしれない、なんて馬鹿な考えも浮かんでしまって。
 気付けばオレは、口を開いていた。
「ボクは嫉妬をするべきですか?」
 伺った声は、自分が思っていたよりも硬いものだった。これでは、本気で怒っているようだと気付き、慌てて何でもないと首を振るが後の祭り。
「さてねエ、どうだろう」
 ここが店内でなければ爆笑しただろう安斎さんの声音に、「だったら、意地でもしません」とオレは言って、また失態に気付く。今度は、いじけているようだ。正しく嫉妬しているみたいだ。全然、そうではないのに…。
 本当に馬鹿だと赤面するしかないオレは、当然として食事中、安斎さんの苛めを受け続けた。
 そして、そんなこんなで、有耶無耶になってしまったが。
 安斎さんと別れ、古椎さんにマンションへと送って貰う車中で、綺麗な人だったと改めて顔を合わせた女性を思い出す。安斎さんが男女問わず多くと関係を持ってきているらしいことは聞きかじっていたが、実際に元とは言え恋人に会うのは初めてなのだ。考えずに居る事の方が無理だろう。
 二人が並ぶ姿を想像し、思わず嘆息する。オレなんかよりも余程、あの女性の方が安斎さんの傍に相応しい。別れた彼女でなくとも、多分、今いる愛人さんの中でも誰よりも、オレは安斎さんの傍が一番似合わない男なのだろう。不釣合いのひと言でしかない。
「古椎さんは、どうしてボクに決めたんですか…?」
 今更だけど、可笑しな話だ。コンビニで万引き強盗、ついでに放火するような奴を、大事な上司の傍に普通は置かないだろう。使える人物であったのならまだしも、オレは全然そうではなかった。キクさんに預けた時点では、使えそうかどうかもわからなかったはずだ。なのに、根気よくオレを教育し続け、安斎さんの相手に据えた。オレでなければならない事は何ひとつないのに、厄介なオレを選んだのはどうしてなのか。もっと上手に役目をこなせる適任者が居たはずなのに、何故。
「安斎さんに、ボクは似合わない」
「余計な事を考えるな」
 予想だにしていなかった、低い声音だった。前を向いたまま静かにそう言った古椎さんの横顔には、苛立ちまでもが浮かんでいるように見える。どうしたのかと考えかけるが、どうもこうも、今のオレの発言を不快に思った以外にないのだろう。
「……」
 安斎さんのように嫉妬だなんて思っていないだろうけど、彼女に対抗してのものとしてオレの発言を捉えたのだろうか。だから、煩い事を言ってくるなと怒っているのかもしれない。だけど。
 確かに、きっかけはあの綺麗な女性だったけど。彼女とは関係なく、オレはもう随分前から疑問に思っているのだ。少しくらい疎まれても簡単には引けないくらいに、それを不可思議に思っている。
 だから、安斎さんのことではなく、貴方があの時オレの手を取った理由を聞いているのだと説明しようとしたのだけど。
「勘違いするな。お前が愛人の立場に居るのは、その役割を与えられているからだ」
 再度釘を刺すように言われた言葉に、喉が詰まる。勝手に歪む顔を車道に向け、オレは声を絞り出す。
「…………わかっています」
 そんな事は改めて言われなくともわかっている。だが、古椎さんの言葉はそれ以上のものを含んでいた。出過ぎた真似をすると後はないぞと言われているような感覚に、胃が小さく痛む。いつだっただろうか、前にもこんな風に釘を刺された事があったのを思い出す。
 表向きは愛人だろうと、本当は全く違うのだ。組員でもない、ただ拾われただけのお前が余計な口を挟むなと。それこそ勘違いからの発言であるのだろうに、言われたその言葉は何よりも真実で、目の前が暗くなる。
 そんな事を聞くつもりはなかったので、不意打ちもいいところ。理由などではなく、役割がそうであるからオレはここに居るのであって、意味などないのだと思い知らされる。古椎さんはあくまでも、オレをダミーとしてしか見ていない。
「……」
 わかっていたし、それでもいいと思っていたはずなのに。自分はそれでも、ここに居る意味を、理由を愚かにも持っていたのか。悲しいくらいに、心が痛む。だけど、辛いといえる立場ではないのだと、唇から零すのは息だけに留める。
 正しいのは、間違いなく古椎さんなのだ。
 安斎さんがオレを大事にしてくれるのは、オレがその役割をこなしているから。そう、表面的にそうしているに過ぎない。調子に乗って彼に踏み込むことも、組のことに首を突っ込むことも、オレには許されていない。どこまでいこうと、「愛人」であり、真実はその前に「偽」がつく。だから、オレが使い物にならなくなったら、役目を簡単に外すだろう。そして、この人達は多分、また別のダミーを用意するのだ。オレは替えが効く存在なのだ。
 安斎さんが愛する人は、別にいる。ホンモノが居るからこそ、ニセモノを必要としたのだろう。だから、態々ここまでして作ったダミーが役に立たなければ、傍に置く意味など微塵もない。勘違いして大きな態度をとるようになった馬鹿など、要らないはずだ。
 だから、古椎さんの指摘は忠告であるのかもしれない。お前は何も気にせずその役目を果たせと、間違っても安斎さんの恋人に嫉妬なんてものを見せるなと、見せたら役目放免になるぞと言ってくれているのかもしれないのだけど。
 だからどうして、オレを選んだんだよと。それがわからないままでは、素直に頷く事も難しくて。オレはもう口には出来ないそれを心の中で繰り返し、両手を握り締める。
 もしも聞けたとして。だからって、オレは一体何を期待しているのか。何て答えて貰いたいのか。…本当に馬鹿だ。
「伊庭」
「…はい」
 マンションに到着し、礼を口に乗せ車を降りかけたところで言葉を投げられた。
「お前は間違っている」
「……」
「お前が本物の愛人になる事は、ない」
 まっすぐと、一メートルもない近さから見据えられる。どんなに努力しようと、例えオレが本気で望もうと、安斎さんがそんな選択をしないだろうことは誰よりもオレ自身がわかっている。だけど、念を押す古椎さんに、オレは何も言う事など出来なくて。
 言外に言われるそれに気付かない振りをして、そうでしょうねと静かに頷くが。俯けた顔は、簡単には上がらない。
「……オヤスミナサイ」
 滑りぬけるように車外へ飛び出し、オレは重いドアを閉める。

 訊きたい事は、ある。オレは知っていると、突きつけたい事実もある。
 だけど、それを口にした瞬間に、全てが終わってしまいそうで。知られているのだろうけど、彼らがオレの愚かさを許す間は甘えさせて欲しいと思うから。
 だから、もう少し、このままで。

2008/04/23
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