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 オレはここに居たい。
 初めは確かに、衣食住につられたのかもしれない。生きる意味が出来る事に喜んで、正しくはない選択をしたと言えるのだろう。だけど、オレはそれで救われた。だから、良かったと言える。
 しかし、安斎さんはどうだ?
 好きでもない男の相手をしている暇など、彼にはないだろう。仕事の一環にしては度を越すそれは、彼の大切な時間を奪っているのだろう。そう、オレがもっと器用であったならば、彼がこんなに手間をかけなくて良かった筈だ。その分、本当の恋人と一緒に過ごせただろう。
 そして、それは古椎さんも同じだ。
 こんな風に、一から十までオレの世話をしている彼は、一体何を考えているのか。結果が出ないオレを見限ろうとは思わないのか。たまたま、馬鹿な事をして後がないオレに会って、丁度良いと思ったのかもしれないけれど。使えない奴であるのは、すぐにわかっただろう。なのに、どうして、今なおオレをここに置くのか。
 わからない事が多いのは、それだけこの場所がオレにとって重要になっているからだと思うのだけど。
 それを突き進んでいいと思えるだけの理由が、オレには見付からない。


「たまには息抜きをしたらどうだ」
 脈略もなく白名さんが言ってきた言葉は意外なもので、オレは思わず、「何ですか、ソレ」と訊き返してしまった。あくまでもオレは『どう言う意味ですか』とのつもりで発したのだが、白名さんは『何を妙な事を言っているんだ』との解釈で受け取ったらしく、「冗談じゃないぞ」と小さく息を吐く。
「確かに制限はあるが、やって出来ない事なんていうのもさほどない。お前はもっと、好き勝手に動いてもいいんだ」
 どこへ行っても、基本的に組長が大事にしている愛人である事に変わりはないが、それでも自由にしていいんだぞと白名さんが諭すように口にする。だが、一体何を言われているのか、オレには今ひとつわからない。
「好き勝手と言われても…」
 半年程この生活を続けているが、別段、オレ個人としては今のままで問題ない。愛人役が上手く勤められているかどうかは疑問だし、まだまだ努力するところは山のようにあるのだろうが、そんな不安は今は置いておくとして。白名さんが言うような、プライベート的な部分では、この部屋で生活が出来ているだけで満足だ。
 と、言うか。そもそも、そういう私的な部分をあまり意識した事がない。
「別に、ボクはこれでいいです。充分、好きにしているつもりですけど」
 答えながら、正月くらい養父母の墓参りをするべきかと一瞬思うが、今はしないと速攻で追い払う。それはしないと決めたのだ。今ここで実行したら、まるで縋っているかのよう。不安を抱えるままで、彼等に会うわけにはいかない。
 無意識に窓へと流しかけた視線を戻したオレに、白名さんはコーヒーを啜りながら肩を竦めた。
「どこが好きにしているんだ。出掛けるのは、その役目に関わるところばかりだろう。この半年、買い物ひとつ個人でした事はないんじゃないか? どこへも行っていない」
「スーパーへ行っていますよ」
「馬鹿か、お前は。それも、愛人業のひとつなんだろう。堂々と言うな」
「別に、そんなつもりはありませんけど」
 安斎さんの為に作っている食事ならば、そうだと言えるのだろうけど。料理をするのは、基本、自分が生きていく為にだ。余分に作り振る舞うのは、礼儀と言うか、感謝と言うか、そういうものであって然したる理由はない。こじつけるとするならば、時間があるからもてなす、だ。務めとしてやっている気は更々ない。
「そもそも、オレはきちんと愛人役が務まっているのか…自分ではわかりません」
 出来ていないと言い切るのは、何故か躊躇った。卑屈だと思われたくないのか、何なのか。わからないけれど、それでも不安に押されるよう出した言葉を、けれども白名さんは耳にするだけで何も言わない。カップを置き、足を組替え、オレをじっと眺め、真剣な声音で言う。
「お前、息がつまらないか?」
「……どうしてですか?」
 軽く眉間に縦皺を刻む白名さんの問いに、今度は誤解されないようはっきりとオレは首を傾げる。
「毎日毎日、何も知らないまま連れ出され、好奇の視線に晒され、敵意を向けられ、口を開かず愛想笑い。疲れるだろう?」
 ストレス発散に出歩くわけでもなく、帰ってくればお勉強。その生活のどこに面白味があるのかと、白名さんが真面目な声で語る。だが、その声は少し苛立ちをも含んでいて。
「何故、お前はそんなに頑張っているんだ?」
 向けられたのは質問ではなく、どこか非難めいていた。
 意味がわからない。
「何故と言われても…」
 白名さんの勢いに驚きつつも、オレはそれに応える言葉を探しながら軽く苦笑する。頑張っていてどうして怒られねばならないのか、おかしなものだ。
「駄目ですか?」 「駄目じゃない。だが、少し解せない。半年前まで、お前は極普通に生きてきたんだ。女遊びは流石に駄目だが、他の事なら融通はきく。だったら、普通は遊ぼうと思うものだろう。趣味のひとつやふたつ、あっただろう?」 「遊ぼうだなんて、考えた事もありませんでした」 「それが変だって言うんだ。二十一って言えば、一番遊び呆けている歳だろうに。なんだかお前、隠居した爺さんみたいだぞ」
 うちの若い連中達とまるで違うと、白名さんは言う。けれど、オレも接する事がある同年代の組員達も、別段自分と違うようには見えない。きちんと己の役割を全うする為、仕事に勤しんでいる。その意気込みは、オレなんかよりもずっと強いように思う。
 だから、例えば。白名さんが言わんとしているのが、街中ではしゃいでいるよな若者達であるならば。それは確かに違うのかもしれないと、自分でも思う。白名さんが歯がゆく思うのは多分そこなのかもしれないと、思い当たるところがないわけではないのだ。以前と今とでは、遊び云々ではなく、俺の中では確かにモチベーションが大きく変わっているのは事実だろう。
 オレは、ヤクザの組長の愛人というものが本来はどうあるべきなのか、全く知らない。ただの恋人のひとりだとすれば、こんな風に囲われるよう、与えられた一室で暮らしているのは可笑しいのかもしれない。逆に、そのためだけに存在するのならば、オレのように名目上の秘書でしかないが、組の中まで顔を出すのも可笑しいことなのだろう。こうであれと示され、オレはそれに従い務めているけれど。どう動こうとオレは「愛人」としては、異質なのだろう。
 偽物として据えた安斎さんの思惑が何であれ、実際の状況として、何らかの誤算が生まれたのか。それとも、オレとは関係のないところで、何かがあったのか。白名さんの今更ながらの発言に、オレはその可能性を頭の隅に置きながら、表面上は向けられた言葉だけを取り込み、返事をする。
 白名さんがこんな事を言い出した理由がどこにあれ、言わない事までをも聞き出すつもりはない。
「そうですね。ですが、働いていた時も休日に遊びに出掛ける何て事はあまりなかったので、特別抑えているわけではなく、ボクにとってはこれが普通です」
 職場以外で、職場の人達と付き合うほど、オレは器用ではなかった。中高生時代の友人は、殆どが進学していたので、時たま連絡をとる程度だった。何より、養父が倒れてからは誰かと会う暇さえなかった。
 だから。そう言う意味では、今の方が断然、オレは楽しみを得ているのだ。息をつく間がなくても、それを不満には思わない。
「安斎さんが多趣味なお陰で、色々なところに連れて行って頂いたり、色々なものを頂戴したりもしますが。実を言えば、そちらの方がボクらしくないて言うか、何て言うか。それだけで、一杯いっぱいなんです。これ以上、何かをしたいだとか、何処かへ出掛けただとか特に思いません。確かに、仕事といえば仕事ですけど。他で息抜きが必要なのだとしたら、ボクとしてはこうして、白名さん達とゆっくりしているのが一番です」
「それは、どうも」
 遊ぶ必要がないと返したオレに、お前は馬鹿だというのを隠さずに呆れた白名さんは、それでも納得しきれないのか何なのか。だとしても何か考えておけと言った。どこか行きたいところはないのかと。
 一体どうしたのか。今になって、自由などと言い出すのは何なのか。オレは不自由なんて思っていないし、強いられているとも思っていないし、不便でも不憫でもないのだけれど。オレなんかより厳しい立場で働いているのは白名さんの方なのに、どういうつもりなのか。
 おかしなものだと、気に掛けてくれたのだろうけど逆に不安を覚えつつも。  オレは薄情にも、数日でそれを忘れてしまった。本当に、改めてやりたいことなどなかった。
 だから。
 数日後。どこへ行きたい?と古椎さんに訊ねられた時は、失礼にも胡散臭げに彼を見てしまった。
「白名から考えろと言われたはずだ」
「え…?」
 決めていないのかと見下ろしてくる無表情に、オレは瞠目する。本気で、オフを与える気だったのか白名さん。これは、お年玉か? それとも、年末年始は忙しいからと数日会っていない安斎さんの変わりに、上司の愛人をもてなそうというのか? だけど、オレはそんな事はしなくて良い偽物なのだけど…?
 そう考え、これは訳あって必要なパフォーマンスなのかもしれないと、思いつきもするのだが。
「…済みません、考えていませんでした」
「……」
「…………あの、別に、出掛けたいところはありません」
「考えろ」
 いや、突然そう言われても……って。正確には突然じゃないけれど、無理だ。驚きなのか、何なのか。頭が興奮していて、考える事なんて出来ない。逃げ腰のまま、オレは別のところで小さな眩暈を覚える。
 理由はどうであれ。
 こんな事をされると、自分を錯覚してしまいそうだ。


 結局、何も何処も思いつかないオレを、古椎さんは「だったら俺に付き合え」と言って車に乗せた。
 途中で花屋へより着いたのは、オレの養父母が眠る寺だった。
 迷いもせず小さな墓まで歩き、驚き戸惑い立ち尽くすオレの前で、古椎さんは花を供え線香をたてる。
「……」
 何がなんだかわからない光景に覚えるのは畏れだ。突き通している意地が崩れ折れそうな感覚に足が震えそうになる。
「車で待つ」
 折っていた膝を伸ばし、ひとことそう告げ戻っていくその背中を消えた後も見送り、オレは観念して養父母達と向き合ったのだけれど。
「…………」
 オレはまだここへ来てはならなかったんだと。
 唇を噛み締め俯くことしか出来なかった。

2008/04/23
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