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 思いもよらない事が起きた。
 何を思ったのか、安斎さんがオレをヤクザ組織の幹部面々に紹介したのだ。
 組事務所には何度か顔を出していたし、存在を見せ付けてもいたので、隠すのも今更だけど。だけど、まさか見破られる可能性があるような、そんな中へ出されるとは思わなかった。何より、そんなことが必要な理由が全くオレにはわからなかった。
 ただただ驚愕するオレを迎えに来た古椎さんは、「いつも通りにしていればいい」と言った。
 大きな屋敷でオレを出迎えた白名さんは、「連中はお前の顔を見て組長をからかいたいだけだから、とりあえず笑っておけ」と言った。
 オレはわかりましたと頷き、安斎さんも居る部屋に入り、本当にただ笑っておいたのだけど。心臓はバクバクを通り越し、勝手に止まってしまいそうだった。離れた場所で見知らぬ男達に囲まれて座る安斎さんと、後ろで控えてくれている古椎さんを支えに頑張ったのだけど。多分、表情は硬かっただろう。
 それでも、どうにか退出を許されて、別室に移動した時は泣きそうになった。緊張が弛んだ途端、自分が関わったものの大きさを思い知り、改めて恐怖が浮かんだ。
 今までは、ヤクザといえどもその殆どが安斎さんのところの組員で、安斎さんに守られているオレにとっては直接的な害を成すものではなかった。だから、そう言う意味での恐れはなかった。だけど、今回は違う。弱肉強食の中で安斎さんがどの位置にいるのかは知らないが、トップではないのは確かだ。そして、オレのような役目を使ってでも、安斎さんはこの中で何かをしようとしている。正しく、この面々は敵ではないのかもしれないが、絶対にオレの味方なんかではない。
 そう思うと、自分は今までぬるま湯につかっていたのだと気付かされ、この異常な空間をただ恐ろしく思った。社会悪とされる集まりに属する面々の中に居るのだと思うと、緊張のあまり吐き気さえ浮かんだ。
 だけど。
 労うようにオレの肩をひとつ叩き、直ぐに戻ると言い置き出て行く古椎さんの姿を見送りながら、自分はもう浸かりきっているのだと思う。裏社会にではない。安斎さんを想う日々に、古椎さんや白名さんに協力する日常に。オレはそれを人生にしていることを、もう何も思っていないのではないかと気付く。
 負い目も迷いもなくなることはないけれど。居るだけの場所ではなく、この場所がオレの居たいところなのだと、気負いもなくそう思える。ヤクザの中に入り込むのは遠慮したいが、これが俺の役目ならば受け入れられる気がする。今日初めて接した恐怖も、支えられて乗り切れたように、これからもやっていけると思える
 本当に今更だけど。オレは無くした何かをとっくに手に入れているように感じて。
 唐突に、知らぬ部屋で緊張の余韻を抱えながらも、散々迷った不安が消滅していく気がした。
 大きく息を吸い、ゆっくりと吐き、肩の力を意識して抜く。
 オレになかったのは、本当の意味での覚悟だったのかもしれない。
 ソファから立ち上がり、小さな窓から外を覗く。庭の裏手に面しているのか、見えるのは少し寂しい木々と、並ぶ車と、高い壁。そして、薄い色をした空。問題は何ひとつ解決していないけど、自分に何が足りないのかわかっただけでも今は充分で、少し心が落ち着く。
 本来なら、こんな対面の後では、自分は何てところに足を踏み入れたのだろうと畏れるべきなのだろうけど。その気持ちも確かにあるけれど、でもそれ以上に。オレは強くならねばと思う。何の役にも立たない男を、安斎さんとてあえてこんな風に晒しはしないだろう。オレにはわからずとも、彼には彼の考えがあって、そこでオレは少しだとしても役立っているのかもしれない。
 見せびらかすように出歩くばかりではなく。こうして一歩何かに近付いた事で、オレの中にほんの少しだが余裕が生まれる。どう考えても、オレ自身の状況としては危険度が増しただけなのだろうけど。そんな事はどうでもよく思う。
 オレは、安斎さんを。古椎さんや白名さんを信頼しているのだ。生まれて最初に見たものを親だと思う雛鳥のように、純真無垢ではないけれど。オレに手を差しのべ、丁寧に接してくれる彼らを、オレは好いている。それだけで、この日々が成り立つくらいに。
 正しく自分は子供なんだと気付けば、口元が弛む事は止められなくて。憑き物が落ちたような表情が、窓ガラスに映る。
 半年前とは変わってしまった外見。同じところなどない暮らし。けれど、根本であるオレは変わっていない。拾われたのではなく、まして強制されているわけでもなくて。今のオレは自分で選んでここに居るのだ。罪滅ぼしでもない。
「元気だったか、イヌコロ」
 突然の声に振り返ると、いつの間に入ってきたのか、ソファに覚えのある男が座っていた。今さっき会った中には居なかった。確か、出先で会ったことがある男だ。まだ暑い頃の話で記憶は曖昧だが、名前を聞いた覚えはない。
「…お久し振りです」
 ご無沙汰しておりますと頭を下げると、顎で前の席に座るよう示された。腰を下ろし背筋を正すと、踏ん反り返るように背凭れに腕を置きながら、男は斜めの視線でオレを見る。落ち着いたスーツを着ているからかサッパリした感じで、前に覚えたような恐怖は湧かないが、心地良いものではない。
「帰りたいと泣いているのかと思ったが、そうでもないみたいだな」
「ご心配頂き痛み入ります」
「心配はしていない。躾は進んだのか、面を見にきただけだ」
「安斎さんには、変わらず良くして頂いています」
「いいように使われているだけだろう、バカイヌ」
 思わぬ言葉に目を張ると、「お前は策士じゃないだろうからな」と唇を歪めて男は鼻から息を抜いた。笑われたのが、からかいなのか、嫌悪なのか、オレには掴み兼ねる。
 困ったと、どう返事をするべきかと、曖昧な笑みを浮かべ眉を下げると、男は体を起こし組んでいた足を解いた。乗り出すよう、膝に肘を置き顔を近づけてくる。
「痛い目を見る前に、逃げた方がいい」
 出血大サービスの親切による忠告だと、声を潜めて告げた言葉を次の瞬間には茶化すが、男の目は全く笑っていなかった。
「お前が見ている安斎は本当の姿じゃない。あいつは間違っても、人に優しくなんてしない男だ」
「……安斎さんは、ボクには優しいです」
「なら、余計に、お前はアイツの本性を微塵も知らないと言う事だな」
「…そうかもしれません。ですが、ボクはそれでもいいんです」
「惚れているとでも言うのか、青二才」
「安斎さんの真意がどこにあったとしても、ボクにはあの人が必要なんです」
 自分でも馬鹿みたいだと思うけれど。恋は盲目と言うでしょう?なんて。照れ笑いしつつも、オレは真剣に宣言する。安斎さんが本当はどんな人であっても、やっぱり、俺が彼に救われたのは事実で。好意を抱くこの気持ちは偽りではない。だから、個人として必要とされているのかなんていうのは確かに疑問だけど。それでもオレ自身はここに居るのだと、今の場所を選び続けていきたい気持ちは、確かに未来へと繋がっている。
 離れたらボクは生きていけませんと、愛人であるからよりも本心に近い告白をかますオレを、男は笑うだけで何も言わなかった。

 戻ってきた古椎さんは白名さんを連れていて、二人はオレの前に男が居る事に驚いていたけれど。困惑は見せたが、緊張や嫌悪はそこになかったので、多分あの男は敵対している相手とかではないのだろう。
 だからって、男の言葉を鵜呑みには出来ないし。その真偽は、オレだけでは見極められないので。安斎さんと共に屋敷を後にする車中で、彼と交わした話の内容を告げたのだけど。
 安斎さんはただ、笑っているだけだった。古椎さんも、白名さんも何も言わない。
 言わない事が答えなのか、教える必要がないとの判断なのか、オレにはわからない。わかるのは、どちらにせよ、オレがこなす役割は変わらないと言う事だ。たとえ悪魔であるのだとしても、オレは安斎さんを想うのみ。そして、それを罪だとはオレは思わない
「これからは絡んでくる奴も出てくるだろうが、頼むぞ飛成」
「はい」
「古椎や白名の言う事を聞いておけば問題はない」
 心配せずとも大丈夫だと、オレにはわからない根拠があるのだろう、安斎さんは当然のように言い切りオレの頬を手の甲で軽く押した。張り付いたそれが顎まですべり、離れていく。
 いつだったか、白名さんが言っていた。オレが愛人をするように、この人も組長をしているんだと。
 オレの場合、その仮面は外す事が可能なもので。実際、安斎さんや古椎さんや白名さんの前では、オレは素に近い状態だ。だけど、安斎さんは多分、いつでもそれをつけている。外す事なんてないんじゃないだろうか。それこそ、本物の恋人の前に居たとしても、一人で居たとしても。その仮面は、つけたら最後、組長という座を辞する時まで取れないような気がする。
 戻っていく手を見ながら思う。
 頑張っているのは自分だけじゃないのだ、と。

2008/04/28
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