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 風邪をひいたのかもしれない。そう気付いたのは、朝起きた時だったけれど。少し前にも一週間ばかり咳が続いたが、熱が出るような事もなく終わったので、喉の違和感は自分の中だけに留めた。
 しかし。半日出歩き、速めの夕食で安斎さんと向かい合い席についた時は、まずかったのかもしれないと気付く。余計な事を気遣わせたくなかっただけなのだが、感染してしまう危惧を考えなかった。風邪はウイルスではないから感染らないと聞いた記憶もあるが、それが正しいのかどうか残念ながら知らない。
 声はあまり変わっていないが、口数の少なさか雰囲気か、目敏く気付いた安斎さんが覗き込むかのように小さく首を傾げる。
「風邪か?」
「少し、喉が痛い程度です」
 すみませんと謝る俺の首に手を伸ばし、熱いなと触診結果を口にする。安斎さんの手が離れた後で自分でも確認してみると、確かに少し腫れていて熱を持っていた。寒さはないが、そう言えば少し身体がダルい。
「熱は?」
「ないと思いますけど…」
「出てくるぞ。帰ったらすぐに休め」
 夜更かしせず大人しく寝るんだぞ、と。そんな言葉だけで、安斎さんはその後の予定をキャンセルした。
 今日のオレの世話と言うか、見張りと言うか、付き添いは古椎さんでも白名さんでもなかったので。予定と違い、食事をしただけで安斎さんと別れても、一切何も聞いてはこなかった。もしもこれが彼らだったら、風邪などひいてと呆れられただろう。そうして、大丈夫かと気にしてくれたのだと思う。
 だから、良かったのだとそう思うのだが。それでも、少し朦朧とする頭は、車内の乾いた空気を虚しく捉える。食事を摂ったからか、熱が上がっているように思う。意識を逸らしたいが、運転席に座る馴染みのない男の存在がオレを若干威圧する。
 部屋に戻った時は、ホッとした。張っていた糸が弛んだからか、完全に熱が出ていることに気付くが、それでもひんやりとした空気の中で落ち着く。痛い喉で息を大きく吸い込みながら、靴も脱がずに壁に凭れる。押し付けた頬が気持ちよく、掌も冷まし喉を包む。いつの間にか喉だけではなく、上顎奥や舌の付け根も痛い。擦り剥けたような感覚で、血のような鉄臭さが纏わりついている。
 靴を脱ぐのも、玄関の段差も億劫だ。自室に入り、ジャケットをどうにかハンガーに掛け、ネクタイを緩めながらベッドへ潜り込む。エアコンのスイッチを入れ忘れたなと気付いたが、動く気にはなれない。寝転がった途端、眠くはなかったはずなのに瞼が落ちる。
 冷たい布団が温まるのを待っているうちに、オレは眠りに落ちた。

 次に気付いた時は、まだ夜中だった。何時なのかわからないが、カーテンを閉め忘れた窓の外は真っ暗で、何も考えずに再び目を閉ざす。だが、静まった部屋に響いた微かな音に、オレは夢に入りかけていた自分を引き上げた。呼吸をするたび痛む喉へと向く意識を宥めながら、誰かが歩く音を拾う。
 安斎さんが来たのだろうか…?
 一瞬そう思ったが、感染するかもしれないのにそれはないかと考えを振り払う。幾らパフォーマンスが必要と言っても、今夜は来ないだろう。今頃はきっと、オレの変わりに共に時間を過ごした相手と一緒のはずだ。彼なら、そう言う相手は事欠かないだろう。
 不意に空いた時間で、本物の恋人に会えていたらいいのだけど、と。そんなことを思いながら、腕をつっぱり体を起こす。
 節々が少し痛い。それ以上に、喉が痛い。唾液を飲むのも一苦労だ。
 試しに声を出してみると、案の定、酷く掠れていた。喉の奥に痰が絡まったような感触に、空咳をする。余りの痛さに、その箇所を捨ててしまいたいとさえ思うが、そんな事は出来ない。起きたついでに薬を飲まねばと、キッチンへ向かう為にドアを開けたのだが、明かりがつく廊下に足を止めてしまう。やはり、誰かが来ているようだ。聞き間違いではなかったらしい。
 歩くたびに足の裏にまで違和感を覚えた。明日まで治るのは無理かもしれない。インフルエンザだったらどうしよう、安斎さんに感染っていないだろうか。
 少しフワフワする頭でそんな事を考えながら、キッチンへと入る。グラスに水を汲み、口内を湿らせたところで、古椎さんが居間の入口から入ってきた。オレの姿を見止め、「寝ていなかったのか?」と眉を寄せる。
「……薬、飲もうと思って…」
 視線に促され見下ろした自分の姿は、間抜けな格好だった。緩めたネクタイが首に掛かっており、スラックスからシャツ裾が半分だけ出ている。だらしなさ全開のそれは、問うた古椎さんにも憶測出来るものであって、このまま寝ていたんですと堂々と口にするのは憚られた。答えになっていない返事をし、オレは眉を下げる。
「……スミマセン」
「薬、まだ飲んでいないのか?」
「…はい」
 オレの返事に、古椎さんは手前の椅子をひいた。そこに座れと顎で示され、棚から救急箱を取り出す男の背を見ながら腰を下ろす。座って気付いたのだが、部屋は寒くない。どうやら、古椎さんはオレが気付くよりも前に来ていたようだ。
「何か、ボクに用でしたか…?」
 壁にかかる時計は、午前一時を指している。こんな時間に何なのか、知らされていなかった訪問の理由を問うが、古椎さんは眉を寄せたまま薬箱を漁るだけで何も言わない。だが、言わないそれに、何となくオレの見舞いかとも思いあたり、座面に片足を上げながらオレは言葉を続ける。
「…あの、ボクは大丈夫ですから……寝ていれば治ると思いますし、感染ったら悪いから…」
 もう、帰ってくださいと。掠れる声で告げたのだけど、これにも返るのは無言。差し出された体温計を受け取り、オレは「あの、本当に…」と呼びかける。何か飲むのか。コンロにケトルを乗せた古椎さんは漸く振り返り、オレを見た。
「復活したかと思ったら、今度は風邪か」
「え?」
「お前は忙しい」
 何の事かと首を傾げると、「腐っていただろう」と、何でもないような声で言われた。何が腐っていたのか。纏まらない頭で暫し考え、オレの事だと思い当たる。この人は、先日まで抱えていたオレの不安を感じていたというのだ。
 嬉しいような恥ずかしいような気持ちがじんわりと胸の中に広がって、何を言えばいいのかわからず視線を下げる。
 足を抱えたまま、爪先を両手で握っていると、額に手を置かれた。押すようにして上向かされ、オレは前に立つ古椎さんを見上げる。真夜中だというのに疲れが見えない。オレと違って元気だ。そんな事をぼんやりと思っている間に、掌が離れていく。
「高いな。気分は?」
「…少し、ダルイだけです」
「少しじゃないだろう。潤んでいる」
 言葉と同時に、親指の腹で目の下を擦られた。少し嘘を吐いた後ろめたさが刺激され、思わず視線を逸らす。だが、逃した視界が捉えたのは食器棚に映る室内の光景であり、結局はそこからも目線を下げる羽目になる。
 安斎さんとの接触は大分馴れたけど。意識するのは可笑しいというのに、風邪のせいではなく息が少し上がる。こういう空気は、とても苦手だ。大事にされている事に変わりはないのだけれど、それでもそれがオレ個人へのものなのかどうか、見極めてみたくなる。
「あ、あの…ぅ…ッ!」
 焦って声を出した途端、喉が詰まった。痛みで上手く咳き込めず、えずくように息をつめていると視界が勝手に滲んだ。生理的なそれを指で拭っていると、硬い手で背中を擦られる。顔を向けると、水が入ったコップを差し出された。
 息が落ち着いたところで受け取り、喉を潤す。流れる水は冷たくて気持ちよかったが、それ以上に引き裂かれる痛みに顔が歪む。ドキリとしている場合じゃなく、本気でヤバイのかもしれない。
 ピピピと電子音が上がると同時に、掌を差し出された。体温計を渡すと、今度はカップを持たされる。
「熱いぞ」
 だから、気をつけろと。音にはならなかったけれど、そんな柔らかい声が聞こえたように思うのは、オレの頭が熱に侵されているからか。とろみがついた生姜湯を啜り、オレは古椎さんを見る。
 目が合った途端、「お前は頑張りすぎだ」と言われた。体温計を救急箱へと戻しながら、「座薬にしとくか」と声が続く。
「……えっ…?」
「八度を超えている」
「……」
 だから、座薬かと頭の隅で納得しつつも、反応するまでには至らない。体温よりも、薬の種類よりも。オレは古椎さんのその見解に驚くばかりだ。
「……ボクは、頑張れてなんて、いないです」
「様子見で、錠剤にするか」
 ピンクとオレンジの薬がテーブルに置かれ、かみ合っていない会話に軌道修正しようと礼を述べるが、次にはまた「適当で良いんだ」と話が戻る。熱がある頭では直ぐにはついていけなかった。
「……」
 白名さんに同じ言葉を言われた時は、そんなに気にならなかったけど。古椎さんのそれは重みがあって、今のオレには受け取るのは苦しく感じる。一生懸命やっているつもりだ。だが、結果はついてきていない。それが、事実だ。
 だけど、それでも。
 薬を飲んで、今夜はここに泊まるという古椎さんに挨拶と礼を述べ、自室に戻って着替えてベッドに入って。再び眠気がやってきた中で、掛けられた言葉を繰り返し、オレは余裕がないように見えていたのかと気付く。
 実際、余裕は今なおないのだけれど。
 それでも、適当でいいのだと言った古椎さんのそれは、差し出された薬と同じでオレをひと時癒した。

2008/04/28
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