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 運転席に乗り込む古椎さんに倣い、助手席のドアを開けた時だった。何かの感触に足元を見ると、そこにはサッカーボールがあった。考える事もなく反射的に、オレは一歩足を踏み出し腰を曲げながら、それに手を伸ばしつつ顔を上げる。
 オレが目にしたのは子供の姿ではなく、こちらに向かってくる男の姿だった。何だ?と思う間もなく、続いて横から黒い塊が目の前に飛び込んでくる。
「え…?」
 オレが開けたドアから飛び出してきた古椎さんが、立ち上がりその男に向かう一方で、オレの肩を強く押した。その勢いに尻餅をついたオレは、けれども尻の痛みなど気にも出来ないくらいの目前の事態に、ただ驚き座り込んだ状態で固まる。頭も身体も、動かない。
 何がなんだかよくわからないが。古椎さんと知らない男が、腕を振り上げ、足を回し、遣り合っている。
 目の前の光景が、飲み込めない。
 それは数十秒にも満たない時間だったのだろうが、バタンバタンとドアの開閉音が響くまでのその数瞬は、オレにとってはとても長かったような気がする。
「逃がすなッ!」
 低く叫んだその声が古椎さんのものだと気付いた時には、向かってきていた男の姿はもうそこにはなかった。
 後ろから来た黒い塊が通り過ぎていくのを霞む視界で捕らえ、仲間が駆けつけた事をオレは知る。だが、いつの間にか震えだしていた身体が治まることはない。終わって漸く、襲われかけたらしいことに気付く。
「……」
 今のは、何だったんだ…?
「乗れ」
「……ぁっ…」
 車に凭れるようにして地面に座るオレはそう促されたが、情けないことに無理だった。膝が笑って、全くいう事を聞かない。だが、白昼の街中で待ち続ける事は無理だったのだろう。困ったと思った次の瞬間には、有無を言わせぬ力で古椎さんに抱き上げられ、オレは助手席に放り込まれた。
「…………」
 詰まった喉では、スミマセンと謝る言葉さえ出ない。閉められたドアの音さえ遠い。
 何事もなかったように運転席に収まり、古椎さんは車を走らせ始めた。いつもの表情で前を見る男の静かな顔を、オレは不思議な気持ちで凝視する。今見た光景が、まるで夢のように思える。だが、古椎さんの空気はそうであっても、事実は違う。オレの心はまだあの歩道の上で、時間が経つにつれリアルになっていく。
 乾いた目に痛みを覚えながら閉じた瞼の裏に、男が握っていたナイフが踊る。
 目を瞑るのも怖くて、オレは窓の外へと視線を向けた。だが、映像は全く入っていなかったのだろう。
 気付けば、車はマンションの駐車場に停まっていた。低い話し声に首を巡らせると、運転席で古椎さんが携帯電話を使っていた。左腕のスーツが切れている。無意識で伸ばした手は、それに触れる前に捕まった。
「掠っただけだ、問題ない。部屋に戻る、降りろ」
「…………」
「降りろ」
「……傷の手当てを…」
 いつもと変わらず静かな男の態度に眩暈を覚えそうな中、掠れた声で俺は申し出る。降りなければならないのはわかるが、まだ一人になるのは嫌だった。古椎さんの心配ではなく、オレは明らかな甘えを口に乗せた。だが。
「必要ない」
 短くそう言い、古椎さんは車を降りる。パタンと閉められたドアに、俯いた俺の目から溜まっていた雫がシートに落ちた。
 今なお、何がなんだかわからないのに、目の前が暗くなる。
 それでも、ガチャリとドアが開く音に顔を上げると、目の前に、今オレに絶望を叩きつけた男が居た。相変わらずの無表情には、やはり先程の攻防を匂わすものは微塵もないけれど。あの荒げた声さえ、今は聞き間違えのように思えるけど。
「掴まれ」
 古椎さんはオレに腕を伸ばしながら屈み、耳元で、低い声でそう告げる。
 普段ならしないだろうそれに、この男の中でも異常事態が現実であったのを知る。
「…………自分で、歩きます」
 オレはそう言ったが、グズグズもしていられないのだろうか。結局、ありえない事に、オレは抱き抱えられ部屋まで連れて行かれた。
 リビングで下ろされたオレが固まった身体から力を抜いている間に、古椎さんはキッチンで服を脱ぎ、傷の手当てを始めた。救急箱を探る姿に、慌てて立ち上がり、ぎこちない動きながらも傍へ行くと、シャツの用意を頼まれる。
 衣裳部屋から戻った時には、リビングに場所を移した古椎さんの腕にはもう包帯が巻かれていた。利き手とは言え、片手でどうやって手当てをしたのか。とても器用だ。
「仕事の都合がつき次第、組長が来る」
 それまでは居るとの言葉に安堵しつつ、「安斎さんが? どうしてですか?」と、オレは震えを抑えるため殊更ゆっくり疑問を紡ぐ。宿に使うにしては、早すぎる時間だ。それに何より、会う予定を変えた事は今まで一度としてなく、次回に会うのは明後日の昼食だと昨日も言っていた。
 イレギュラーな事態にただ驚きそう聞いたオレを、古椎さんはシャツのボタンを掛ける手を止め、じっと見つめてきた。オレは立っていて、古椎さんはソファに座っているので、見上げられている形になる。いつもとは違う目線は、なんだか居心地悪く感じてしまう。
「愛人が襲われたんだ。駆けつけて不思議じゃない」
 言われて、ああそうかと思い当たった。混乱しすぎていて、考えがまわっていなかった。だが、それを言うならば。襲われる危険がある人物のところに来るなんて、安斎さん自身大丈夫なのだろうか。
「でも、ただの愛人です。そんなところへ来て――」
 いいのかと問う言葉は途中で途切れた。オレの言い分を切るように、「お前は『ただ』じゃない」と古椎さんは溜息のように吐き、オレから視線を外す。
「……だけど、そこまでのパフォーマンスが必要なんですか?」
 だって、仕事があるでしょうに。危ないのかもしれないのに。安斎さんも大変だと感想を漏らすと、更に瞼を落とされる。
「組長が来るまで、休む」
 お前は部屋に居ろ。考えるように目を伏せ短い沈黙を作ったが、古椎さんはそう言って話を打ち切りソファに横になった。オレは毛布を取りに行き、使ってくださいと横たわる身体に掛ける。暫しそのまま傍に立ち見下ろしていると、男の目が薄く開いた。
「あの…、オレがここに居ては、気になりますか?」
 ここならば絶対大丈夫だとわかっているが。一人で部屋に居るのは、さっきの今では、ただただ怖い。
「邪魔なら、部屋に居ますけど…」
 出来るのならばここに居たいと、無言で促されて言葉を紡ぐ。子供みたいで恥ずかしく思いつつも、オレは返事もないのに膝を折る。
「好きにしろ」
 瞼を落としてから、古椎さんはそう言った。ありがとうございますと小声で返し、オレはソファの端により床に座る。古椎さんの足元でソファに凭れ、膝を抱え窓の外に目をやる。
 今朝は雪が少し舞っていた。そのまま天気は優れず、昼過ぎには少し雨が落ちた。日中灰色だった空は、今は少し赤味がさしている。雲の切れ間から沈む太陽が覗いているのだろう。
 鎮痛剤でも飲んだのか。暫くすると微かな寝息が耳に届いた。それを聞きながら、オレは目を閉じ腕に顔を埋める。
 いつもと同じ日だった。朝は古椎さんについて、組が関係しているらしいが極普通に見える会社を幾つかまわり、ファーストフードの昼食を摂った。昼からは、組のお抱え医師だと言う七十半ばのお爺さんと世間話をし、安斎さんが頼んでいたという時計を店へ取りに行き、支部のような組事務所へ寄り、それから白名さんに会うため本部事務所へ行く予定だった。小さな事務所を出て、車道に停めた車に乗り込むところで。狭い歩道を横切る、たった数秒の間で。事態は一変した。
 サッカーボールは偶然じゃなく、用意されていたものなのだろう。一体いつから見張られていたのか。狙われたのは、オレなのか。暗い視界の中で、朧な記憶の中で、ナイフが鈍く光る。
 ……危なかった。
 そう、危なかったのだ。なのに、終わったことであるのに、現在進行形のような危なさを覚える。
 目を開け、首を回し、ソファで盛り上がる塊を眺める。毛布から覗いた肩の向こうは黒い髪だけで、顔は全く見えないけれど。眺めていると、落ち着けた。もう大丈夫なのだ。そして、これからもきっと大丈夫なのだ。そう胸中で繰り返すが、大きく打つ鼓動は静まらない。

 ソファで寝転がった古椎さんの足元で、オレは床に座り微かな他人の呼吸音を聞いていた。
 この男も、オレも、生きている。生きているのだ、大丈夫。
 息を吸うたびにそれを確認しながら、安斎さんが訪れて部屋の空気が変わるまで、オレは不思議な現実を漂った。

2008/04/28
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