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入浴を済ませリビングへ入ると、古椎さんが新聞を読みながらニュース番組を見ていた。キッチンへ向かいながら、「何か飲みますか?」と訊ねると、短い答えが返ってきた。
「任せる」
「カフェオレにしますね」
宣言に対する否はなかったので、オレは新聞に視線を向けたままの男の姿から目を離し、キッチンへ入る。意外にも、古椎さんが甘いものを好んでいると知ったのはいつだったか。それはまだ、暑さが残る頃のことだったと思う。
牛乳をレンジで温めている間に、コーヒーを作り、自分の分のレモネードを用意する。若干コーヒーを多めにして、少しだけ砂糖を加えて作るカフェオレは、実は古椎さん専用だ。安斎さんも白名さんも甘いものは飲まないし、オレは嫌いではないが他のものを好んで摂っている。
リビングに戻り、古椎さんの分のマグカップはテーブルに置き、もうひとつは持ったままソファに座る。片膝を立て、糸尻まで熱くなった底をそれに載せる。両手の指先でカップを支えながら、中身の表面を吹き冷ましていると、テレビから歓声が上がった。
視線だけを動かし見ると、モーグルの世界大会の様子が映し出されていた。そう高くはない台を飛び、空中で回転する姿に感心する。自分と年の変わらない女の子が、表彰台で笑っている。
「湿っているだろ」
低い声に振り返ると、新聞をたたんだ古椎さんが、カップ片手にオレへと手を伸ばしてきていた。何だ?とそのまま動きを止めていると、骨の形を現す硬そうな指がオレの髪を少し摘む。
「きちんと乾かせ。また風邪をひくぞ」
人差し指が、耳の上辺りをパシッと打つ。音は上がったが、全く痛くはなかった。けれど、考えるよりも早く指でそっとそこを押さえてしまう。触れた髪は、確かに冷たい。
スミマセン気を付けますと頭を下げ、オレはカップを膝から下ろした。もう一度ドライヤーをあててこようかと立ち上がると、顎で隣に座るよう促される。だけど、大柄な男でも二人は余裕で座れるだろう大きさのソファだが、古椎さんが真中に座っているので空いているスペースはそう広くない。
座れといわれているんじゃないのかもと、一瞬躊躇ったオレに焦れたように、古椎さんは再び手を伸ばし俺の腕を取った。あっと思う間もなく、軽く引っ張られると体ごと捻られ、次の瞬間にはストンとオレはそこに収まった。古椎さんの手がオレのカップを取り、クレーンゲーム機のアームのような動きで運んでくる。
「…ありがとうございます」
一体何なのか。髪はもういいのか?とオレの頭は疑問ばかりだけど、古椎さんは気にせずソファに凭れテレビに目をやっている。ニュースはスポーツから、地方の小さな話題へと変わっていた。何処かのお寺で、子供たちが豆を撒いている。
レモネードを半分飲んだ辺りで、この場所だとエアコンの温風が後ろからあたるのだと気付く。だからここかと、漸く納得がいき、オレは首をまわし隣の人物を窺った。
何だと言うように、古椎さんがオレに目をあてる。
「……ァ」
唐突に、何故かドキリと胸が高鳴った。思いがけないそれに、オレは慌てて顔を戻す。
「何だ」
不審な動きに見えたのだろう。古椎さんが背中を起こしながら訊いてきた。腕が延び、カップがテーブルへ置かれるのを視界の端で捕らえながら、オレは努力して意識をテレビへ向ける。カップを持つ両手に力が入る。
「いえ、別に…何でもありません」
真横から、古椎さんの近すぎる視線を痛く思いながら、オレは平常を装いカップに口を付ける。ドキドキと、いま胸が鳴るのは予想外の事態に対する驚きだけど。なんだって、さっき、オレは古椎さんにドキリとしたのか。
やましい事なんてないはずだけどと、意味なく緊張した自分の身体の誤作動を、オレ自身が不審に思う。疲れているのだろうか。風邪をひいたら、また古椎さんの手を煩わせてしまうのだろう。気を付けなければ。
「組長への贈り物は決めたのか?」
チャンネルを変えながら古椎さんが口にしたのは、バレンタインプレゼントの事だ。今日、白名さんと共に買い物へ行ったのを知っていたらしい。
「カフスボタンとネクタイピンにしました」
安斎さんのお金で、安斎さんに贈る物を買うのはおかしいのだけど、渡さないわけにはいかないらしい。当初の予定では、白名さんが選んだものをオレが安斎さんに渡すというだけのものだったのだが。中身も知らないものを手渡すのもどうだろうと、準備をする白名さんに伺いオレも買い物へ同行させてもらったのだ。しかし、ここまで来たのならお前が決めろといわれ、店の中で途方に暮れる事となった。
自ら進んで貴金属を身に付ける習慣のないオレには、当然としてセンスはゼロで。誰かに物を贈るというのにも慣れておらず決めかね、白名さんのアドバイスを経て漸く選んだのは、五十過ぎの年代の男に贈るにしては少し派手なものだ。だけど、安斎さんなら似合うだろう。迷惑をかけたが、首を突っ込めて良かったと思う。
「お前は、何がいい?」
「え? ボクですか?」
「他に誰がいる」
テレビを見たままのそれは、淡々とした事実でしかないようだけど。要は、オレに何かを強請れと言っているようなもので。
「ボクはいいです、要りませんよ。安斎さんにはいつも貰っていますから」
「組長とは言っていない」
「え…? ……古椎さんが、くれるんですか?」
「他に誰がいる」
微動だにせず、同じ言葉を口にした古椎さんだが。呆然とするオレに、目玉だけを向け、口の端をクイッと引き上げた。
「…………」
他も、何も。そもそもが、おかしいだろう。バレンタインに、どうしてオレなんかにプレゼントを贈るというのか。本来ならば、受け取る方だろう。オレが安斎さんに渡すのは、必要だからだけど。古椎さんにその義務はない。
頂けませんと言うオレに、まあ考えておけと古椎さんは言うけれど。考えるも何もない。
「本当に結構です。気持ちだけで充分ですから」
「欲しいものはないのか?」
「……本気ですか?バレンタインですよ?」
「冗談で訊きはしない」
だから、そんな事を言われても。オレとしては冗談にして欲しく、眉を下げるしかない。一体、何を思いついたのだろうか。
漸く身体を捻り顔を向けてきた古椎さんは、数瞬無言でオレを眺め、「わかった」と短い言葉を落として腰を上げた。クシャリとオレの髪をかき回し、乾いた事を確認しリビングから出て行く。
何をどう「わかった」のか、少し不安にも思ったけれど。
ビックリして跳ねる心臓を宥める方が先決で。
オレはソファに突っ伏した。
時々、オレは自分が何であるのか忘れそうになる。
2008/04/30