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 直接、安斎さんから食事の連絡が来た。いつもは誰かを通してのものなのに珍しいなと気付いたのは、迎えに来た男と一緒に車へ乗り込んでからだ。
 運転手役は、安斎さんの傍に居るのを何度か見たことがある人物だったが、余計な話は一切しない。どうかしましたか?と問えたのは、指定されたホテルの部屋に入ってからだ。だが、オレを迎え入れた安斎さんは笑みを浮かべただけで、明確な答えは口にしなかった。
 促され奥へと進むと、そこには見知らぬ男が居た。会談中だったのか、テーブルに乗る灰皿には短い煙草が数本。そして、中身が減ったワインと、空の皿。
「伊庭飛成だ」
 抱くように肩に手を乗せてきた安斎さんが、ソファに座ったままの男にオレを紹介した。頭を下げて挨拶をするが、相手は名乗らない。だが、無視をしているわけではなく、その顔は微かな笑みを作っている。多分、名乗るつもりがないのは嫌だからではなく、そうするべきだからなのだろう。
 安斎さんと共に腰を下ろすと、ワインを勧められた。少しだけ赤い液体を飲み、グラスをテーブルへ置く。オレの仕草を眺めながら、男は小さく喉を鳴らした。
「安斎さんには参ります」
 四十はまわっているように見えるが、男の声は想像したよりも若さがあった。ハリのあるそれに改めて男を眺め、小奇麗な人だと感じる。どこか業界人のような華やかさえあり、ヤクザには見えない。安斎さんの同業者じゃないのかもしれない。
「それで、どうだ?」
「どう、と言われても。彼は承知でここへ?」
「貴方次第の話だ。まだ言っていない」
 何の事だかサッパリわからないが。男と会話をしながらも、覗き込みオレに笑みを向ける安斎さんに、オレは首を傾げつつも同じように表情を緩める。何も言われないのならば、同じように笑うしかない。
 しかし、実際のところ。和やかな雰囲気とまではいかないでも、静かで落ち着いているのに。どこかで緊張の糸が張っているように感じる。安斎さんはいつも通りで、男も薄く浮かべる笑みを崩さないけれど。その裏では、二人とも何かを考えているようだ。二人の状況がわからないからこそ、オレには見えるその空気がどこか寒い。
「相当入れ込んでいると聞きましたが、ただの噂に過ぎませんでしたかな」
「さて、どうだろうね。ただし、貸すとしても今夜のみだ」
 本気であっても余裕はないと、冗談めかしている安斎さんの目は笑みを作っていても真剣で。オレから視線を外し、男に向かって「決めるのは貴方だ」と、強気なままで言い放つ。だから、一瞬聞き逃してしまいそうになったのだけれど。
 今、確かに、「貸す」と言った。
 貸すって、何だ?
「では、その本気を見せて頂きましょう」
 暫く黙って考えていた男が、一度大きく頷いた。
「私の大切なモノだ。丁重に頼む」
 安斎さんの言葉に、本当に本気でオレを引き渡す気なのだと悟る。
「あの…」
「今夜はこの男と共に過ごせ。飛成、いいな?」
「……はい」
 頷く以外になくて、オレは頭を振ったのだけど。
 男と二人きりになるまでは、全く事態を飲み込めていなかった。

 安斎さんが部屋を出てからも、暫しオレを眺めていた男は、徐に立ち上がりスーツの上着を脱いだ。
「いざとなると、緊張するものだな」
 初めてセックスした時の事を思い出したよと喉を鳴らしながら、視線で立つように俺を促す。だが。
「…ぁ」
 男が発した単語に、オレの貸し出しはそう言う意味なのだと今更に悟り、身体がついていかない。立たねばと思うのに、呆然と男を見上げるだけで、力が入らない。そんなオレを怒る事も急かす事もなく、男は小さく顔を歪めて笑いを浮かべる。
「噂ほども美人じゃないが。確かにまあ、いい顔立ちをしているな」
「……」
「だが、男に変わりはない」
「…………」
 よく考えずとも、オレの立場は愛人なのだ。そのオレが貸されるというのだから、つまりはこの男の相手をしろと言う事だろう。少し聞きかじっただけだが、その会話から憶測するに、この男自身が安斎さんの愛人を望んだのではなく、安斎さん自らが自分の愛人を宛がったかのよう。つまり、オレは正しく餌となったのだ。
 だが、だけど。この男は、本当にオレを安斎さんの愛人だと思い、借りたのかもしれないが。安斎さんは、オレがダミーでしかないのを誰よりも知っている。わかった上でのこれは、どう言う意味なのか。オレでも良いと判断した安斎さんに従うべきなのか。建前では愛人であるので、この任務をこなすべきなのか。
 何であっても逃げるなんて事は出来ないが、どうしよう。どうすればいいんだと、男の目に晒されながらオレは眉を寄せる。同時に、迷いながらも、こういう使い道がオレにはあったのかと感心もする。こんな役目は想定していなかったと、オレとしてはただただ驚くばかりだけれど。偽愛人であれば、こういうのもあって当然なのかもしれない。誰だって、本当に好きな人を誰かに貸すだなんてしたくはない。何らかの理由で貸す必要に迫られたら、愛情の薄いそれに適した者を用意するだろう。
 だから、そう言う意味ではまさにオレは適任で、安斎さんに騙されたなんていう思いは浮かんでこない。古椎さんや白名さんを通さなかったのは、だからなのかと気付くだけだ。
 そう、もし彼らが関わっていたら、オレはもしかしたら責任転換するように、後から彼らを詰ったかもしれない。こう言う事もあるなんて一切言わず教えずいたくせに、知っていてオレをここへと連れてきたのかと、そう怒ったかもしれない。だけど、彼らが関わっていなかったら。オレは、どこへもこの捌け口は向けられない。自分から、男に抱かれたなんて絶対にオレには言えないから、隠し通す以外にない。
 上手いものだと思う。そう、これは安斎さんの策略なのだ。
 だけどそれでも、彼はオレを騙したわけではない。オレは常に、彼に愛人だといい続けられていた。安斎さんは、オレを偽物だからとぞんざいに扱う事さえないくらい、その立場を与えてくれている。だから、自分のそれをこうして扱う事は、彼の中では正しい事なのだろう。そして、オレは愛人としてそれに従う役割を持っている。オレ個人的に、伊庭飛成にこんな事を強要したのならば、拒否したけれど。そうではない。愛人として扱えば、オレは拒絶しないと安斎さんは全てを把握しているのだ。
 事実、オレは今、逃げようとは思っていない。ただ、困っているだけだ。
 安斎さんの作戦勝ちだ。だけど、彼はひとつ、一番大切なことを見落としている。
 オレは、男と寝た事はない。
 従う気持ちはあっても、出来るかどうかは自分にもわからないぞと、オレは俯き小さく息を零す。参った。本当に、参った。オレのスキンシップの下手さを知りながら、あの人は本気でオレなんかで相手が務まると思っているのか。それとも、オレは逃げる事を許されているのか?ヘマをしても問題ないのか…?
「気分が乗らないか?」
 笑いを含んだ声に顔を上げると、男が再びソファへと座るところだった。近くなった視線で、「彼に裏切られてショックか?」と胸のうちを探られる。
「裏切られたとは、思っていません」
「お前、わかっていないのか? これから俺に抱かれるんだぞ?」
「そうなのかもしれませんけど…、だからと言って、これが裏切りだとは思いません」
「こうなる事を知っていたのか? 何も話していないと訊いていたが、違ったか」
「いえ、一切、何も知りません。だから…驚いていますし、困っています。あの、貴方は本当にボクなんかでいいんですか?」
 理由は知らないが、訳はあるのだろう。だけど、オレなんかが取引材料であるのはおかしいだろう。安斎さんは兎も角、この男が承知するのは変だ。
 そう言う意味でオレは問うたのだが、わざとか何なのか、男ははぐらかし逆にオレに問い掛けてくる。
「男を抱いた事はない。その気にさせてくれるか?」
 余計な話をする気はないらしい。だが、意外な言葉に、オレは胸中だけで驚く。オレ同様、そういう嗜好はこの男にもないようだ。だったら、異性愛者同士で行為に及ぶのも妙な話というもので。
「……済みません。ボクも、そういうのはしたことがありません」
 正直に、オレは告げる。勿論、真実を隠して、誤解するようにだけれど。
「安斎さんの相手をしているんだろう?」
「あの人は優しいので……ボクは与えられてばかりです」
「…男娼だったんじゃないのか?」
 予期せぬ言葉に瞠目し、オレは慌てて首を振る。
「違います」
「なんだ、そうなのか。オレはてっきり……いや、まあ、違うのならばいいか」
 そうか、そうかと己を納得させるように繰り返していた男が、突然顔を顰めオレを見る。
「いや、素人と言うのは、良くはないな」
「済みません…」
「……これは困ったな」
「……」
「さて。どうするか…」
 男の呟きに、オレも同じ事を考えながら、ふと思い出す。
 安斎さんが今日付けていたカフスとネクタイピンは、俺が選び、先日渡したばかりのものだ。

 オレに、逃げる道はない。

2008/05/07
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