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 一晩を同じ部屋で過ごした男は、別れ際に名前を告げてきた。
「土佐だ。もしまた会う事があったら、宜しく頼む」
 ニヤリと笑った男を見送り、オレはリビングに戻りソファへ腰を下ろす。結局、男は寝室で眠ったが、オレは一晩ここで過ごした。慣れないところで寝た疲れが体に残っている気がする。
 男は色々と考えたのだろうが、他愛ないオレの話題で酒を飲み、休むと言って一人で寝室に入った。オレに何も請いはしなかった。冗談めかしてそれらしい事を口に乗せもしたが、直ぐに自分で無理だと頭を振っていた。それでも、立場だとか状況とかで、しなければならない事もあっただろうに。口裏を合わせる事もなく去っていった。
 安斎さんはこれを見越して、オレに役目を与えたのだろうか。だが、ひとつ違えば結果は大きく変わっていただろう。安斎さんとて、絶対の確信を持っていたわけではないはずだ。つまり、彼にとってはどちらに転ぼうと良かったのだろう。
 だったら、オレは運が良かったのか。二人がどういう関係かは知らないが、一方は自分と関係を持つ者を相手に差し出し、一方は相手と関係のある者を受け取るのだから、たった一晩でもそこには色んな思惑があるのだろう。そう言う意味で渡されたオレと行為を持たない事で、信用だとか信頼だとかを裏切ったように取られかねない可能性は皆無ではなかったはずだ。
 多分、安斎さんに不快や不信を与えるとか、単純に馬鹿にされるとか何だとか。オレ以上にそんな事をあの男は考えた筈だ。それでも、こうして何もなく一夜を過ごしてくれた事を、オレは感謝する。
 昨夜示された意味での覚悟は、多分俺の中では一生出来ないだろう。安斎さんを想う気持ちとそれは次元が違うので、混ざり合う事もない。
 部屋まで迎えに来た安斎さんは、話をして過ごしただけだというオレの言葉を聞き笑った。
「疲れていらしたのかもしれません。ボクがシャワーから出た時は、寝室で休まれていたので、声は掛けませんでした」
「逃げたな」
「逃げた?」
 思わぬ言葉に復唱したが、口に出して直ぐ、安斎さんは全てをわかっているのだと悟る。男の行動は想定内のものだったというわけだ。多分、オレの行動も。
「あいつは男を抱く趣味はない。だが、お前だったらと思ったが、やはり駄目だったか」
「申し訳ありません」
「いや、お前が悪いわけではないよ。それがあの男の性分だろう。しかし、飛成。あの男が抱けないのなら、お前が抱いてやればよかったんだ」
 だったら面白くなっただろうになと笑う安斎さんに、オレは色々言いたくもなったが、左右に頭を振るとそれは零れ落ちるように直ぐに消えた。残るのは、小さな呆れと、大きな安心だ。読めない事態に張っていた緊張が解れる。
「ボクにも無理だと思います」
「試してみろ」
「本気ですか?」
「ああ。だが、土佐とはもう関わる事はないからな。その辺の奴でも選べ」
「…………」
 選べって、自主的に? それとも、またこういう仕事を与えられるのか? その時は、今回のような事にはなるなと?
 頭の中を、そんな疑問がグルグル浮かぶ中、「古椎や白名はどうだ? 懐いているだろう?」と安斎さんはとんでもない例えを出す。
 オレとしてはもう、言葉も出ない。確かにオレの周りの人間は彼らしかいないけど、具体的に名前を出されると、何とも言い難い気分になる。
「アイツ等が駄目なら、私にするか?」
「え? あ、安斎さん…!」
 口説くように耳元で囁き、安斎さんはオレの髪に唇を落とした。赤くなる頬を意識しつつも、からかわないで下さいとその身体を遠ざけドアに向かう。いつものようにふざける安斎さんにホッとするのは確かだが、遊びすぎだ。オレは昨夜は悩むほどに考え込んだと言うのに、軽すぎる。
 だけど、こんな人だから。オレは仕えているんだろう。
 行きましょうと促すと、安斎さんはオレの言葉にあっさりと従った。
 そして。廊下に出て、エレベーターに乗ったところで、「飛成」と呼びかけられる。
「土佐と何があったか、古椎や白名には話すな。何でもないと言っておけ」
「……お会いした事は?」
「もうバレている」
 フッと笑いながら落とされたそれに、やはり安斎さんは二人に秘密にしていたのだと悟る。
 何もなかったのだと明確に言わないことで何があるのかは知らないけれど、はいと頷きオレはそっと安斎さんの横顔に視線を置いた。この人を信じることに、迷いはない。
 ロビーには、古椎さんが居た。扉が開いた時からその姿を捉えていたらしい安斎さんが、「やはり怒っているな」と喉を鳴らし肩を振るわせる。相変わらずの無表情な彼が、本当にそうなのかオレにはわからなかったけれど。
 一歩ずつ近付きながらも、オレは古椎さんから視線を逸らした。合流しても、何故か顔を向ける気にはならなくて、何もない空を見る。
 無言の車内で、何だったのだろうかとこの一晩を考えるが。
 わかったのは、終わったのではなく、これが始まりなのだろうと言う事で。
 珍しく口を開かない隣の安斎さんを意識しながら、オレは空へと視線を投げた。


 安斎さんの言葉が正しかったと知るのに、日数は全く要らなかった。
 古椎さんだけでなく、白名さんさえどこか不機嫌で。何があったのかと土佐さんとの事を訊ねてきた。どうやら、土佐さんと安斎さんの関係は、余りいいものではないらしい。あの人は何をするつもりだと、安斎さんの思惑までも聞かれるが、オレにわかるわけがない。
「伊庭、お前どこまで行く気だ?」
「行く?」
 お会いしただけです、二人で一晩過ごしてガキみたいなことを言うな、だけど本当にそれだけですからお二人の考えなんてわかりません、口止めされているのか、まさか、されるような事があったんじゃないのか、問題はなかったと思います、結果じゃなく何があったか訊いている、そう言われてもボクにはわかりません、わからないじゃなく言えないんだろう。
 そんな風に、進展しない会話を繰り返しているところへ、良くわからない言葉を古椎さんが落とした。どこまでと言われても、何処かへ出掛ける気はないのだが。
「お前はこっちの人間じゃない」
「そうだ。こんな調子だと深みにハマって抜け出せなくなるぞ」
「え…?」
 ちょっと、待て。行くって、行き着くという意味なのかと気付き、同時に思う。
 それをこの二人が言うのはどうなんだろう、と。
「あの、それをお二人が言うのはおかしいと思うんですけど…?」
 それとも、首を突っ込みすぎだと言われているように思うオレの解釈が間違っているのか?
 今更そんな、意味がわからないぞと疑問符いっぱいのオレに、「お前は予想以上だったんだ」と古椎さんは言った。それに賛同し、白名さんも「そう言う事だ」と頷くけれど。やはりオレにはわからない。
 何がこの二人の想像を越えたというのか。
 わからないけれど、オレの知らないところで、事態はもう随分前から変わっていたのかもしれないと漠然とオレはそう思った。

2008/05/07
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