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 エレベーターが開き一歩足を出したその時から、自宅の玄関扉に何か張り付いているのに気付いていた。近寄ってみるとそれは一枚の写真で、いつどこから撮ったのかオレの写真だった。
 まるでプロカメラマンの作品のように、オレだけにピントがあっており、他はぼやけている。その中で、フリーハンドで引かれたらしいラインが異様に目立つ。オレの首を二つに分けるように。首から流れ出す血のように。マジックなのだろう、赤い線が記されている。
 気持ち悪いと、反射的に顔を歪めながら口元を隠したオレの後ろから、静かに伸びた手がそれを剥がした。本日のオレの世話役である若い男が、何でもないように一瞥し写真を上着のポケットに仕舞う。
 室内を確認するからと、鍵を開け待つように言われたオレは、数分間彼が異常ないか室内を調べるのを、一人玄関で冷たいドアノブを握ったまま待った。異常があったら知らせるから、その時は逃げるんだと言われたこと自体に畏れが浮かぶ。目の当たりにした、自分に向けられた照準。理屈じゃなく、肌が粟立つ。
 問題はないと男が戻ってきた時は心底ホッとした。彼がそのまま留まってくれたのには感謝した。報告を受けたのだろう白名さんが来た時は、落ち着けていたと思う。だから、彼が大丈夫と言っているのを信じ、オレは嫌な気分を忘れようと決めた。
 だけど。
 記憶なんていい加減なもので、写真は一枚しか見ていないのに、目を閉じれば色んな日常を写したものをオレは瞼の裏に見る。眠りの中での夢はさらに残酷で、映画のワンシーンのように自分の写真が切り刻まれていく。大丈夫なのだと思っているのに、潜在的な部分では参っているのか。弱い自分にオレは溜息をつく数日を過ごした。
 その、気鬱さがいけなかったのだろう。
 アレ?と思った時には、ある筈の床がなかった。


 目を開けると、オフホワイトの天井が広がっていた。知らないところだと思いながら、再び瞼を落とす。
 次に目覚めた時には、傍らに古椎さんが立っていた。
「伊庭」
 静かな呼びかけに口を開くが、声は出なかった。水を飲むかと訊かれ瞼で頷くと、古椎さんはストローが付いたカップを口元に運んでくれた。喉を潤し一息つく。
「階段から落ちたの覚えているか?」
「……はい」
 頷きながら、そうだったなと思い出す。真っ直ぐ歩いていたつもりなのに、通路から外れ階段から落ちたのだ。身体に一度目の衝撃を受けた瞬間には全てが消えて、気付いたのは今。アレからどうなったのか、考えるのも恥ずかしい。誰かに運んでもらったのだろう。騒がした事だろう。申し訳ない。
「ご迷惑をおかけしました。スミマセン」
 両腕を使って上半身を起こし、頭を下げる。少し頭はフラフラするし、身体も腕や足が筋肉痛みたいになっているが、ベッドで寝るほどの事ではない。もう大丈夫だと告げるつもりで、立ったままの古椎さんを見上げたのだが、相手が先に言葉を落とした。
「伊庭。お前は自分の立場を忘れていないか?」
「え?」
 注意不足だと怒られるのかと思いきや、話が大きく飛んだ。
「お前が今いる場所は、用意されたものだ」
「それは、わかっているつもりですが…?」
 あまりにも飛んでいて、答えはするが追いつけない。
「なら、惚れたのか」
「はい?」
 何に惚れると言うのか。
「本物の愛人にでもなったつもりか?」
「…………安斎さん、ですか?」
 突然どうしたのか、わからない。だが、静かな怒りが古椎さんにはあり、意味がわからないと拒否するのは難しかった。何より、たとえそうだとしても、安斎さんに惚れたのだとしても、どうして怒られるのかがわからない。安斎さんを想えと言ったのは、古椎さんだ。オレはその点ではこんな風に責められるほどの失敗はしていないと思う。階段から落ちたのは確かにミスだけど、それに安斎さんは関係ないはずだ。
 そもそも、本物になんて、オレが想っただけでなれるというものではないのに。明らかに古椎さんはそう言う意味で、勘違いするなとオレを責めている。自惚れるなと言っている。そんなつもりはないと言っているのに、重ねてこんな言い方をするなんて。何だか、古椎さんらしくない。
「……ボクは、自分が安斎さんに相応しいだなんて、思っていません」
「ならば、そうありたいと思ったことは?」
 これも、揚足を取るかのような言い方だ。一体、オレに何を認めさせたいのだろう。安斎さんに惚れていて、彼しか見えなくて、気もそぞろで仕事に集中出来ず、階段を落ちたのだと言えばいいのか? 馬鹿馬鹿しい。
「それは、常に思っています。相応しくありたいと。だけど、それがボクの役目でしょう?」
 それをオレに与えたのは、安斎さんではなく、古椎さんだ。
「間違っていますか? それとも、ボクでは駄目だという事ですか?」
「…………」
 オレの問いに、答えは返らなかった。
 何故、古椎さんは不機嫌なのか。それは彼が病室を出て行ってもなお、オレにはわからなかった。
 実を言えば、先日からこんな風に衝突する予感はあったのだ。少し前にオレが土佐という男と会ってから、古椎さんはどこか少し苛立っている。それは多分、オレに対してのものなのだろう。表面上は今まで通りだが、ぎくしゃくしていると接するたびに感じていた。だから、どうしたのかと思っていたのだ。だけど、この事態を避けられなかったという事は、オレは本気で考えていなかったのだろう。古椎さんならそのうち機嫌を直してくれると、どこかで思っていたのかもしれない。
 初めて会った時から表情は乏しかったが、その不機嫌にも見える様子とは違い、細々とした世話を焼き、オレを気遣い続けてくれた。礼を言えば、自分の仕事がこれなだけだと愛想もなく答えるが、オレはそれに好感を抱いた。短いながらも言葉を返し、口を開かない時は視線で語り、無視をするにも態度で示す。無関心であるような印象を覆すそれらを、オレはいつの間にか当然のように受けるようになっていて。古椎さんの丁寧なそれに甘えていたのだろう。
 何を根拠に大丈夫だと思っていたのか。爆発されて、漸く気付く。事態はオレが思ったよりも甘くはない。古椎さんの怒りは本物なのだ。
「…参ったな」
 掠れる声で呟き、オレは片手で顔を覆う。
 面と向かって指摘されても、自分の何がいけないのか、本気でわからない。不甲斐無さで眩暈までしてきそうだ。
 疲れを覚え横になり、ベッドからガラス越しに空を見る。
 以前、頑張りすぎだと言われたことがあったのを思い出す。もっと適当で良いんだと、古椎さんはオレをそう評価していた。アレはつまり、オレは遣り過ぎてから回りしているか、それとも予想以上の成果を上げているかのどちらかであり、簡単に言えば古椎さんはそこまでのオレの働きを望んでいないと言う事だったのだろう。
 あの時と同じように、オレのこの数日の精神状態に気付いていたのならば、オレの様子は古椎さんには鬱陶しかったのかもしれない。だからこそ、オレの努力は、彼にとっては邪なものに見えたのかもしれない。必要以上に張り切り、意地になったように安斎さんに仕えるダミーの姿など、危惧するのは当然か。
 今更だけど。土佐と言う男と一晩を過ごした時に、古椎さんと白名さんが不満げだったのは何故なのか。少しわかった気がする。絶対の上司であろう安斎さんの選択を、それでも非難していたのは、オレの役割以上のことだったからだ。二人は、オレの安斎さんへの傾倒を危ぶんだのかもしれない。
 それは、そうだろう。彼らは、不必要になったらオレを切れば良いけれど。その時、オレがごねるような事になったら面倒以外の何ものでもない。そんな感情が入っていて良いのならば、初めからもっと愛人役に適した人材をそこに据えたのだろう。どちらも割り切れる関係が、彼等には必要だったのだ。
 だから、使い捨て可能な俺が選ばれた。
 それなのに。古椎さんの思惑と違い、オレは随分と入り込んでしまった。オレ自身が、ここに居たいと必死になる自分を自覚しているくらいだから、彼とてそれに気付いていて歯がゆく思っていることだろう。本物になるつもりかと、詰ってきた古椎さんの声が耳奥に蘇る。
 危険だと思われるくらいに、オレは異常なほどにこの場所に依存しているのだと、改めて気付かされる。
 怒って当然だ。
 だけど、オレはまだ、「今」を手放すつもりはない。
 もうこのの状況では、簡単にオレをお役ご免には出来ないのだろう。古椎さんはしたくとも、多分、動き始めているのだろう事態の中でのそれを安斎さんは良しとしない。最低でも、オレを標的にしている相手が見付かるまでは、オレを置く意味はあるはずだ。古椎さんの苛立ちは、だからこそなんじゃないだろうか。
 だから、まだ時間はあると。
 その中で、オレは自分がどうあるべきなのか、早く見つけなければと思う。
 古椎さんの危惧はわからないわけじゃないのだけれど、オレはやはりここにいたい。

 相変わらず、目を瞑れば写真が見えたけれど。
 そこに映るのが、安斎さんでも、古椎さんでも、白名さんでも、他の誰かでもなくて。
 自分である事に、オレは一瞬だけど安心を覚えた。

2008/05/07
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