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 様子を見る為に一晩入院したが、検査結果のどこにも異常は見当たらず、翌日の昼前には退院した。
 オレを迎えに来たのは白名さんで、昨日の事を詳しく聞いたのか、開口一番バカだと笑った。そして、古椎さんとの事まで知っているらしく、「まあ、気にするな」と慰めてきた。落ち込んでいるように見えたらしい。
「言われた事は気にしてはいません。ただ、ボクは古椎さんの思うようには出来ないかもしれない。それが不甲斐無いだけです」
 自分の我儘を優先している自覚はある。けれど、もしも自分がもっと器用で何でも出来る人間だったのならば。こんなふうに迷惑をかける事はなかっただろう。古椎さんに、心配させる事はなかっただろう。己の力不足で彼を苛立たせてしまう事を、そこまでわかっていて言うことを聞けない事を、ただただオレは申し訳なく思う。
「お前は、あいつが何を考えているのかわかっているのか?」
 ハンドルを切りながら、白名さんが問うてくる。伸ばされた肘を見ながら、もう長い間運転をしていないなと、オレは頭の隅で話には関係のない事を思う。去年更新したばかりの免許証は、もうオレの手元にはない。
「…古椎さんは、ボクに、もっと安斎さんと線を引けと言っているように思うんです」
 免許証だけではなく、養父母の大事な品も、何もかも全て、オレは捨てた。衝動のままに行動し、放り投げて飛び出した。それなのに。
 一年も経っていないというのに、俺はもうあの時の気持ちを忘れている。薄情者だ。
「ボクがこの仕事にのめり込むのを、古椎さんは良く思っていない。ボクの行為はもう、仕事以上のものだと思っている。だから、怒っている。違いますか?」
「なんだ、わかっているンじゃないか」
 オレはまた、お前はもっと頑張らないと役立っていないと勘違いしているのかと思った。そう言う白名さんは、けれども安心した様子などなく、逆に表情を引き締めていく。
「だったら、なあ伊庭。そうわかっていて出来ないのは、つまりはする気がないって事なんじゃないのか?」
「そうかもしれません」
「何故だ?」
「わかりません。初めは確かに、与えられた事をこなすので手一杯で、それだけで良かったんです。でも、安斎さんを支えている白名さんや古椎さんや、他の人達を見て、ボクはもっと同じようにと望んだのかもしれません」
「俺達の忠義に感化された……いや、この場合は洗脳か」
 お前のそれは俺達が刷り込んじまったのかと、白名さんが溜息のような声でポツリと落とす。その言葉に、違うと思う気持ちと同様に、そうなのかもしれないという思いが俺の中に浮かんだ。違えばいいと思うが、否定する材料が自分の中にない気がする。
 だけど。
 それが悪いとは思わない。
「白名さんは、どうして安斎さんに仕えているんですか?」
「どうしてと言われてもなぁ」
「僕が聞くべきことでないのなら、答えなくて良いです。だけど、何かはあるんですよね? ボクもそれと同じです。白名さんが安斎さんに持つ理由と一緒ではないでしょうが、その気持ちというか、思いというか、そういうのは同じだと思うんです。だから、ボクは、古椎さんがボクを危惧していると知っていても、もう自分ではどうにも出来ないんです。ボクは、疎まれているのだとしても、ここに居たいと思っているから…」
「居ればいいだろう。少なくとも、組長はまだお前を必要としているんだ。古椎がどんなに心配しようと、どうにもならない」
 心配との言葉に、一瞬オレは安斎さんを羨ましく思う。危険と認識されている自分を、虚しく思う。
 正直に言えば、オレだって。必要とされて、ここに居たい。安斎さんだけじゃなく、古椎さんにもそうだ。嫌われるのは仕方がないと割り切れても、嫌われていること自体は辛いと思う。
「ボクは、それが歯痒く思います。今まで散々世話になってきたのに、こんな風に迷惑をかけるようになって、申し訳ないと思います」
「それでも、譲れないんだろう? だったら、譲る必要はない」
「……違いますよ。ボクは、譲りたくないだけで、譲れないわけではないと思います」
 だから、これは我儘なんですと。本当は子供の駄々ゴネみたいなものなのだと、オレは正直に告白する。けれど、白名さんはそれをあっさりと流し、「それも悪くはないさ」と目を細めて笑った。
「なあ、伊庭」
「はい」
「古椎は、別にお前を疎ましく思い始めているわけじゃない。お前が組長に傾倒しているのを良く思っていないのは確かだが、それは、あいつのお前に対する優しさだ。あいつは、お前を巻き込んだ責任を背負っている。お前が踏み込みすぎるのを止める義務がある」
「そんな事は…」
「そう、お前にとっては、もう今更だよなぁ。お前だって、組長のところにきた時点である程度覚悟していただろうし、そんな責任持って欲しくないよな」
「ボクは、自分でここに居たいと思っています」
「わかっている。古椎だってわかっている。だから、歯痒い。お前と同じだ」
 同じ? オレが悪いと思うように、古椎さんも、オレに対してそんな風に多少の負い目を感じていると言うのだろうか。
 だったら、もしかして…?
「……ボクは、嫌われていないんでしょうか?」
「本人に聞いてみろ」
「……無理ですよ」
 そんな事訊ける訳がない。そう思い、同時にどうして訊けないのか疑問が湧く。言葉にはしていないのに、それを的確に白名さんは見抜く。
「嫌いだと言われたくはないか」
「それは…仕方がないと思います。古椎さんがそう思っているのなら、そうなんですから。だけど、嫌われてなければいいと思います」
「そんなところも欲がないんだなお前。まあいい。少なくとも、俺には古椎がお前を嫌っているようには見えない。あいつの苛立ちは風邪みたいなもんだ。そのうち治まる。付き合ってやってくれ」
 白名さんのそれに頷きながら、本当に風邪ならいいのだけれどとオレは思う。ただの偽愛人でも、万引きガキでも、認識は何でもいい。古椎さんのオレに対する主の感情が嫌悪でないのならば、風邪でも何でも、いつまででも付き合う。自分の世話を焼かせた事で、彼が無理をしてきたのでなければいい。
 今まで向けられたものが嘘でなければそれでいいと思い、ナーバスになっている自分に気付く。
 妙な写真を見て、オレは思う以上に応えているらしい。古椎さんが犯人だなんて思ったわけでもないのに、酷く気落ちしている。顔見知りが極端に少ない分、あまりにも日常の身近に、自分の素の部分に触れる近さまでやってきたそれに、オレは周囲に対する信用をどこかで欠いているのかもしれない。
 首を切られた写真。不注意による失態。古椎さんの責め。
 忘れてでも、次へ進まねば。


 何もなかったように数日を過ごしたが、表面的には互いに冷静でも、やはりどこか奥底にある擦れ違い。古椎さんの態度は完璧で、それを感じるわけではないが、それでも覚えてしまうオレには意外と堪えるもので。
 二人きりの車内で、オレは漸く、自分はどうあるべきでなのかと古椎さんに考えを聞いた。視線を合わせて話す意気地はないので選んだ場所だが、ラジオもかかっていない車内は静か過ぎて沈黙が否定にも思える。
 それでも、オレは知らなければいけないし。知っていたいと思う。
「ボクは知らない事や、わかっていない事が沢山あります。迷惑なところがあるのなら言って下さい。直します」
 言われなければわからない。そんな子供のようなことを口にして呆れられるよりも、自分の知らないところで切り捨てられていく方が嫌だ。疎ましいと嫌われているのだとしても、古椎さんはそういうのを仕事に持ち込む人ではない。だからズルくとも、オレにはそこに縋るしかない。
 ただの好き嫌いで、オレはここに居るのではない。必要とされているから、必要としているから居るのだ。だから、役立つ事をする。その為になら、多少の犠牲は払う。狙われているのを覚悟でここに居るのは、居たいからだ。
「古椎さんが言うように、ボクは変わったのかもしれません。初めの頃のように役目だと意識せず、安斎さんと接している自覚はあります。白名さんに甘えていることも、貴方に面倒をかけていることも、わかっています。だから、もっと分相応に一歩引けと言うのなら、そうします」
 だから、見捨てないでくれ。話そうと思った始めはこんなつもりはなかったのに、喋っているうちに思いが高ぶって、馬鹿な気持ちを乗せてしまう。けれど、馬鹿であってもこれは真実だ。オレは自分が思う以上に、先日の古椎さんの叱責に応えていたらしい。白名さんに慰められたけど、自分でも納得したはずなのだけど、それでも疎まれたままは嫌だと思っていたらしい。
「俺が言うのは、ひとつだけだ。伊庭」
「はい」
「無理はするな」
「……」
「その努力をしてくれ」
「…………」
 思った以上に重い言葉に喉を詰まらせたオレに、古椎さんはもう一度同じ言葉を口にした。ヤクザの偽愛人をして、今では危険まで迫っていて、無理をせずにどうしてここで居られるのか。そんな憤りが一瞬浮かぶが、古椎さんが指しているのはそうではない気がする。もっと、オレの意識そのものを見据えているようだ。
 やはり、この人が抱えるのはオレに対する危惧であり、白名さんが言ったような一過性のものではない。
 オレ自身が気付いていない事を、古椎さんは知っている。

2008/05/07
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