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 暖冬だとの予想もあったが、今年の冬は雪が多い。他の地域は知らないが、少なくとも東京でひと冬に何度も雪が積もるのは珍しいことだ。
 昨夜から降った雪が、辺り一面を白銀に変えた街。空き地に並んだ雪だるまの姿がニュースで流れている。
「伊庭」
 食後のお茶を飲みながら見ていたテレビから目を離し、呼びかけに応えオレはソファに腰掛ける白名さんに顔を向ける。彼の向こうにある空は明るい。あの雪だるま達はもう融けてしまっているのかもしれない。
「お前、やりたい事はないのか?」
「そうですね。シンクの汚れが少し気になるので磨こうかと思っていましたけど」
 午後からの予定は、予約しているヘアーサロンへ行き、安斎さんの知り合いが経営する店で夕食を摂るだけだ。安斎さん自身と会う予定はなく、仕事らしきものをする予定もない。なので、部屋の掃除でもしようかと思っていたのだが、今日しなければならないことでもない。
 白名さんの物言いに、何か用でも出来たのだろうかと、だったらそれに従うと、そういう意味でオレは言ったのだけど。白名さんの応えは「お前は本当に馬鹿だな」だった。
「誰も、今からの用事は聞いていない」
「では、いつですか?」
「将来、未来だ」
「え?」
「この先の計画だ」
「……」
 この先とはどの先かと聞くほど、オレも疎くはない。どうする気だとの白名さんの言葉に、オレはそう言う意味かと納得しながらも、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。訊かれた意味はわかっても、訊かれる理由がわからない。ずっとこのままだなんてオレだって思ってないけれど、ここではない未来が今は見えない。
「どうと言われても、考えていません」
「考えろ、自分の事だろう」
「そうですね」
「このまま一生ここで居続けられるわけじゃないぞ」
「わかっています」
 白名さんの指摘は尤もで、頷くしかないが。だからと言って、何をしようだとかは思いつかない。ここを出ても、オレには戻る場所がない。それまでの生活は、あの時に途切れた。そうして新しく、ここでの生活を与えられた。この日々が終われば、オレは何もない状態になる。ゼロからの始まりを、オレは思い描けない。
 一ヵ月後、二ヵ月後は、オレはまだここに居ると思う。
 一年後、二年後も、ここに居る事が出来ていたのなら良いけれど。それは少し難しいのかもしれない。
 十年後、二十年後にいたっては、何ひとつ想像出来ない状態だ。生きているのかどうかすらわからない。
 数年前、オレは未来をどんな風に見ていたのだろう。今はそれも思い出せない。
「子供の頃の夢は何だった?」
 白名さんがテレビを消し、ソファから立ち上がる。
「子供の頃ですか?」
「そうだ。流石のお前でも、小学生の頃はなってみたい職業もあっただろう」
「憧れ程度のものなら、色々ありましたよ。野球やサッカーの選手とか、パイロットや電車の運転士とか、定番のものですね」
 流石ってなんだ。そう思いつつも答えたオレのそれに、白名さんは意外に普通のガキじゃないかと笑う。一体、どんな風に想像していたのか。オレはいたって普通だ。だから、その時その時の流行を追いかけるように夢見たそれらは、全くといって良いほど今は心の片隅にも残っていない。幼い時の夢なんてそんなものだろう。逆に、中学や高校の頃に本気で未来を想像したものは、恥ずかしいが大切な思い出で、当時の記憶を残して胸にある。
 日々の延長として将来を見つめたオレは、ただただ早く大人になりたいと願った。自慢出来るようなずば抜けた能力はオレにはなかったので、ちゃんと成長した姿を見せることで養父母に安心を与えたいと思った。その為に、仕事をして自立して、社会的に一人前と認められたかった。
 それは、学校と家庭という小さな世界で暮らしていた子供の、青い夢。
 そして、仕事をして多少の金も稼いだが、結局は叶えられなかった苦い夢。
「白名さんは、何になりたかったですか?」
「俺か? 俺は医者になりたかった。だから、勉強はもの凄くしたぞ。逆に馬鹿になるんじゃないかってくらいに、毎日毎日何時間もな。だが、まあ、事情があって三年の時に高校を中退して、それで終わりだ。子供の頃の夢が叶う奴なんて一握りにも満たない。だから別に、後悔はしていないし、納得している。だけど、時々、もしもと思うこともある」
 眼鏡の奥で細くなった目に、オレは甘酸っぱさを覚える。まるで初恋のようだ。それに掛けた熱意が、少し話を聞いただけで伝わってくる。
「医者ですか。凄いですね」
「なってみたいと思うのは誰だって出来るだろう。凄くない」
「誰もが目指せる訳じゃないと思います。ボクは勉強をするのは好きじゃなかったから、頑張った事があるだけでも凄いと思いますよ」
 それに。多分、白名さんのそれは言葉ほども軽くはない。この人は本気で医者を目指したのだ。その手で掴み取ろうとしたのだ。オレだって本気だったけれど、夢に対する覚悟が違うなと。白名さんのそれに触れ、己の緩さに苦笑が浮かぶ。
 中学も高校も、オレは勉強をした記憶があまりない。授業を聞いているだけで、宿題以上の予習復習を家でする事は殆どなく、学習塾にも通っていなかった。テストは一夜漬けであり、成績は自慢出来るほども良くはなかった。けれど、それでも焦りも劣等感も浮かばず、のんびりとしていた。そんなオレとしては、真剣に取り組んだ白名さんは凄いとしか言いようがない。オレも、もっと努力すべきところが沢山あったのだ。
「勉強、嫌いだったのか? 意外だな。コツコツするタイプだと思っていた」
「そんな風に見えますか?」
「見えるというか、実際そうだろう。仕事と学業じゃ違うかもしれないが、黙々とこなしているじゃないか」
「ボクは多分、点数を付けられないものは嫌いじゃないんです」
「なんだそれは」
 オレの答えに白名さんが笑う。だが、何となくニュアンスが伝わったのか、成る程なと頷きもする。
 数式や歴史の年号など、覚えるのは好きではない。けれど、多少の好みはあっても、基本的に知識を取り込むのは好きだ。それが記憶に残るかどうかは、興味による。なので、学校の勉強は、オレの性格にあっていなかったという事なのだろう。
「だったら今更、大学にいこうとか、資格を取ろうとかは思わないか」
「確かに興味はないですね」
「次に働くのなら、前と同じ職がいいか?」
「知っているからこその安心は多少あるでしょうが、特に拘りはないです」
 仕事は趣味じゃない。与えられたものをこなすのみだろう。そこに、好き嫌いもない。
 だからオレは車の整備士なんてものをしていたのだと思いながら、良くわからない奴だと首を傾げる白名さんを見る。馬鹿な罪を犯したわりには堅実思考だと唸る男は、一体何を考えてこんな話をするのだろう。
 オレは心配されているのだろうか。
 白名さんも古椎さんと同じように、オレの依存振りを危惧し始めたのだろうか。
 こことは違うところへ意識を向けるよう促されているのかと思いながらも、オレは未来ではなく過去へと記憶を戻す。

 一度として、こんな未来をオレは思わなかった。ヤクザと関わり、組長の愛人役を務めるなど、微塵も考えた事はない。けれどそれでも、オレは今、こうして生きている。
 そして、同じように。
 養父母が相次いでこの世を去るなど。その死があんなに早く来るなど、オレは想像していなかった。だけど、彼等が居なくとも、オレはこうして生きている。

 そう、今はここで生きているのだ。
 たとえ、ここに、先はなくとも。

2008/05/12
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