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 何だかいつもと違うと気付いたのは、会って直ぐの事。どうかしたのかと訊ねても、何でもないと応えるので、それ以上は訊けず様子を窺うしかない。硬い表情に疲れているのかと、それとも機嫌が悪いのかと思いもしたが確かめる方法もなく。オレはいつも通りにするしかなかった。
 だから。
 急にホテルに部屋を取ったのも、いつものパフォーマンスだと思ったのだ。寝室の扉を開けたのも、休むのだろうと思ったのだ。いつもの通り、大人しくリビングで時間を過ごそうとしたオレを引っ張ったのも、からかいか何かだと思ったのだ。
 ベッドに押し倒され、上から見下ろされても。全く、事態を飲み込めなかった。
「飛成」
「はい」
 どうかしましたかと、頭を動かしたオレを見る安斎さんの顔が小さく歪んだ。いつも見せる笑いのはずなのに、薄暗い部屋で真上に被さる男のそれは、どこか違和感があって。漸く、何だ?と思う。
「安斎さん?」
「お前は、逃げるか?」
「え?」
 逃げる?何故?そんな必要があるとも思えず、その意味について考え眉を寄せる。だが、わからない。
「…どうしてですか?」
「この状況でそれを訊くか?」
「状況…?」
 いつまでも寝転んでいられないので、鼻から笑い声を漏らした安斎さんの肩に手を伸ばす。そっと押し、退けてもらおうとしたのだが、その手を取られ捻られた。痛いと思う間もなく、手首を庇うため反射的に身体を捻ったオレの肩を、安斎さんが逆の手で押さえる。
 右腕を下敷きに、上半身はうつ伏せの姿勢となったオレは、首を捻り背後につく安斎さんを見上げた。肩も首も痛いが、膝を置かれた腿の方が痛い。驚きの中でも、退けて欲しいとオレは安斎さんを見る。
「だったら、大人しく私に抱かれるか?」
「……え?」
「逃げないのなら、優しくしてやるが。逃げるのなら無理だぞ」
「あ、――うッ!」
 くるりと身体を反転させられた次の瞬間、腹を打たれた。息が止まり、嘔吐感がこみ上げるが、押さえつけられた身体ではどうする事も出来ない。腹から全身へ広がる、疲労に似た抵抗できない痛みに、生理的な涙が浮かぶ。
 全く意味がわからない。
「私を憎めばいい。恨め飛成」
「……安斎さん」
 声が震えるのは、打たれた腹が痛いばかりではない。恐怖ではなく、この急激な事態の変化に付いていけていない自分の愚かさに、眩暈を覚えるからだ。何故、こんな事になるのを気付かなかったのか。思いもしなかった自分が、昨日と同じ今日があるのを疑いもしなかった自分が、一瞬にして信用するに値しないものとなる。
 まるで宥めるよう優しい手つきで、自分が打ったオレの腹を撫でる安斎さんを見上げながら、オレは突如襲ってきた衝撃に肩で息をつく。唐突に向けられた性的欲求など大した事ではないと思えるほどに、この状況になった過程が、ただ苦しい。
「お前は悪くない」
 耳元で囁かれた声は、いつもより低く感じた。甘さなどどこにもない。だから、顎の付け根に吸い付く唇の硬さを感じても、言葉にされたような行為の始まりには思えなかった。初めてキスをされた時の悔しさがゆっくりと蘇る。
 行為を望んでいるわけではない。だけど、強引に進めながらも、自分に非があるという安斎さんに、言葉では言い表せない不満が浮かぶ。オレが悪くないのならば、安斎さんも悪くはない。安斎さんが悪いのならば、オレも悪い。そうであるはずなのに、それを表現出来ない歯痒さが遣る瀬無さを呼ぶ。
「……オレは…」
「ボク、だろう? 飛成」
「ア……」
 薄闇の中、覗き込まれ呼ばれた名前に、思考が麻痺した。まるで媚薬のようにそれは全身を巡り、身体から力を奪う。
 髪を梳き、耳を弄り、首筋を辿り鎖骨へと降りてきた指が、そのまま胸の上へと這い心臓の上で止まった。早鐘を打つ鼓動が、ナイフの切っ先を当てられたかのようにキュッと締まる。その感覚に、オレは反射的に口を開け息を吸い込もうとしたのだけれど。
「……ンッ」
 安斎さんの唇によって口を塞がれたオレは、そのまま考える事を放棄した。
 安斎さんが、何をどう言おうと。これが、オレの役目であるのかどうなのかなど、考えたところでわからない。何より、考えているうちに、事態は進むのだ。考えたとしても、無駄だ。
 抵抗は出来ない。だが、協力も出来ない。
 オレに出来るのは、与えられるものを処理するだけだ。

 覚悟なんて決めたつもりはなく。けれども、流されたわけでもなく。セックスするのだとわかった上で、臨んだ行為。男の相手が務まるかだなんて考えもなく、キスをされれば、キスを返し。性器を握られれば、オレもまた安斎さんのそれに手を伸ばして。ただ、自分が出来る事をした。
 行為は理解しているが、意識は低かったのかもしれない。
 荒い息の中でそう気付いたのは、腸壁を押し入って安斎さんの性器がオレの中に入ってきた時だ。男同士の、セックス。身体を合わせるではなく、身体を繋げる行為。苦痛の中で、考えが足りていなかった自分を認識する。想像が乏しかった過去の己を後悔する気はないが、オレは何においてもこうなのだと改めて気付かされる。
 セックスだけではない。養父母との暮らしも、職場での事も、偽愛人としての暮らしの中でも。いつでもオレは、少し何かが欠けている。示されなければ、気付かない。
「あ、安斎、さ、ん…」
「息をしろ。吸わないと、死ぬぞ?」
 からかう声に瞑っていた目を細く開けると、安斎さんの顔が近付いてくるところだった。目じりにキスをされ、舌で鼻を舐められる。言葉ほども余裕には見えない相手のその表情に、オレは手を伸ばしながら口を開く。肩の力は抜けないが、閉じてしまっていた喉を開け息を吸う。呼吸をするのがこんなに大変だとは思わなかった。吸うだけではなく、吐くのも辛い。
 だけど。いつもは見せない、安斎さんの眉間に浮かぶ皺の方が何だか苦しくて。剥き出された肩に手を置き、大丈夫ですと嘯く。呟いて、苦しいけれど喋る方が息をし易いと気付く。
「慣れて、いなくて…スミマセン……」
「何を言うんだ。知っていて、私は強いているんだが?」
「それでも…、……これじゃ、気晴らしに、ならない」
「気晴らしで抱くなら、お前を相手にしないだろう」
「なら…、どうして…?」
「どうしてだろうな」
 それでは嫌か?と問いながらキスを受ける。
 嫌じゃないと思う。どうしてなのかは、オレ自身わからない。どうして受け入れたのか。オレだって、訊かれてもわからない。だから、安斎さんの答えは何よりも正解なのかもしれない。
「アッ!」
 息が落ち着いてきた辺りで、安斎さんが腰を回した。突然身体の中で動いたものに、オレは驚き声を上げる。
「ヒッ! ア、ン…!」
 あらぬ声に、咄嗟に口を手で覆うと、その指を噛まれた。小指と薬指を口腔で嬲られる。その動きに合わせるように、安斎さんは腰を動かし始める。一部への刺激であるはずなのに、一気に全身が痺れ震える。
 ありえない。
 オレが知っているのは、もっと緩やかな高ぶりだ。
 これは、セックスじゃない。
「アッ、アッ、ァ、……ァン!」
 頭はぼんやりするのに、感覚は敏感で。抜き差しされる安斎さんのものも、擦られる自分の中も、視覚で捉えているようにどんな状態であるのか良くわかる。己を貫く男の性器に嫌悪はなく、ただ快楽だけが真実で、それ以外は全てがどうでもいいと思う。
 気付けば、声を抑える事もなく。オレは安斎さんの首にしがみ付き、快感だけを追っていた。
 それだけが、「今」だった。

2008/05/12
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