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 行為の後、安斎さんは煙草を一本吸ってから、閉じていた口を開いた。
「男とするのは、初めてだったのか?」
 髪を梳かれながらの問いに頷きだけで答え、これは駄目だとオレは慌てて顔を上げる。けれど、視線を合わせた瞬間、見続けるのは無理だと気付き、結局俯き小さな声を絞り出した。
「はい…」
 上半身を腕で支えるが、それ以上起き上がれそうにない。だが、突っ伏す事も出来ないと、中途半端な体勢を保っていると引き寄せられた。安斎さんの膝を枕にするように寝かされて。一瞬迷ったが、今だけはいいのかもしれないと都合良く解釈しオレは身体から力を抜く。
 まだ、頭に霞みがかかっているような感覚だ。セックスの余韻が抜けていない。
 頭を撫でられる心地良さに目を閉じると、一瞬でまどろみに落ちる。眠っては駄目だと思いながらも、オレはシーツ越しの温もりに頬を押し付けながら、浮遊する感覚の中をたゆとうた。
 眠ったのか、ウトウトしていただけなのか。いつの間にか背中に置かれた手に気付き顔を上げると、安斎さんは目を閉じ穏やかな寝息を立てていた。薄明かりの中間近で眺め、この男と身体を繋げたのだと改めて思うが、気持ちは騒がない。行為は理解している。セックスは凄かった。だけど、何ていうのだろうか。興奮したのは確かなのにこうしていても欲求は起きない。それが、答えな気がする。
 オレは、安斎さんを好きだけれど。大切だと思うけれど。この人との時間を必要とさえしているけれど。
 どうしようとも、愛人にはなれない。
 何より、この人もオレをそう言う意味で抱いたのではないのだろうなと思いながら、顔を戻し、安斎さんの肩に頬を付ける。
 このままでは腕が痺れるだろう。
 だけど、やっぱりそれでも今だけは良いかと、オレは目を閉じた。


「あの二人が、お前を選んだ理由を知っているか?」
 ベッドサイドの時計は五時を示している。起きるには少し早い。けれど、二度寝を決め込むのは無理らしく、目を開けたオレに目敏く気付いた安斎さんがクイズを投げかけてきた。一体いつから起きていたのか。寝起きとは思えないはっきりした声だ。
「……いえ、知りません」
「私の好みじゃないからだ」
「え?」
 まだ眠い。身体が痛い。喉がおかしい。風邪の状態で筋トレをして筋肉痛、そんな感じだろうか。
 セックスしてこんな風にダルくなったのは初めてだと、そんな事を思いながらのろのろ体を起こし答えたオレに、安斎さんがあっさりと正解を口にした。だが、それはあまりにも意外な言葉で。聞き間違ったかと顔を向ける。
 驚くオレと違い、安斎さんは実に楽しそうな顔だ。しかも、いつ着たのかバスローブを羽織っている。シャワーを浴びたのだろうか。そして再び、一度は退けた俺の頭を胸に抱いたのか。本当にマメな人だ。
「…ええっと、あの、ボクは、なら、嫌われていたんですか…?」
「少し掠れているな。喉、痛いか?」
「いえ、大丈夫です」
 オレの答えを嘘だと思ったのか、口の端で軽く笑い、安斎さんが手を伸ばしてくる。指先が喉を撫で、掌で片頬を包まれた。親指の腹が、オレの目の下を擦る。寝不足顔なのかもしれない。
「私は、気の強い美人が好きでね。お前くらいの歳の男ならば、生意気な奴がいい」
 我の強い者を自分に従えさえるのが楽しいんだ、調教は男のロマンだろう?と。よく聞かなくともちょっと酷いその発言に、オレとしては「はぁ…」と生返事をするしかない。オレをからかっての言い方なのだろうけど、嘘だとも言い切れない雰囲気だ。実際、安斎さんは人を傅かせるタイプの人間である。
「古椎も白名も、お前くらいの静かな奴が丁度良いと思ったんだろう。態々置くダミーに、私が本気になっては困るからな。だから、これは二人の失敗だ」
「失敗?」
「私がお前を気に入るとは思っていなかったのだから、そうだろう。しかも、そうなって、漸くそれに思い当たるのだからミスもいいところだ。自分達から与えておいて、お前を構いすぎだと私は何度怒られた事か。生じた誤算の尻拭いも出来ないくせに、嫉妬ばかりする奴もいるしなぁ。あいつ等もまだまだだ」
 安斎さんの笑いながらのその言葉に、オレは色んな事に思い当たる。
 オレ自身も思っていたけれど、やはり安斎さんは必要以上にオレを構っているらしい。そして、そんな風になるとは、古椎さんも白名さんも思っていなかったというわけだ。だったら、愛人のつもりかと、天狗になっているんじゃないかと危惧されるのが当然で。かりそめでしかない癖に身のほど知らずだと、オレの安斎さんへの傾倒を非難するのも当然だ。二人はオレが思う以上に、この状態をよく思っていないのだろう。引っ込みがつかないだけで、もしかしたら今すぐにでも解消したいのかもしれない。
 だけど、古椎さんや白名さんが失敗したと思ったり、嫉妬したりするほども。安斎さんはオレに心を傾けていないと思う。大事にしてくれるのは本当でも、それは多分、誰にでも向けるものと変わらない。事実、この人は今、オレの前では確かに。まだまだだと笑いながらも、あの二人を愛しんでいる。
 本当ならば、嫉妬するのはオレの方だ。
「キスをしてもいいか?」
 今更許可を乞うのかとおかしく思いながら、安斎さんの言葉にオレは瞼を閉じる。啄ばむような口付けを繰り返し、硬い唇は一度強く押し付けて離れていく。
 目を開けると、静かな表情がそこにあった。あまり見ない安斎さんのそれに、この時間はこれで終わりなのだと悟る。
 シャワーを浴び戻ると、既に安斎さんはスーツを身に付けていた。オレもそれに倣い、手早く着替えを済ませる。先日髪を短く切ったお陰で、乾かせるのもセットするのも手間がかからない。
 スイートルームが並ぶ階からエレベーターで上を目指す。地上が一望できるレストランで朝食を摂る。まだ、七時にもなっていないので、客は疎らだ。
「お前は両親を恨んでいるか?」
「恨む? どうしてですか?」
 他愛ない会話を交わしながらの食事中、唐突に安斎さんが問うてきた。状況がいつもと違うからか、昨日の続きなのか。今日の安斎さんも、少しどこかおかしい。オレにこんな問いを向けてくるのは初めてだ。
「一人残されたんだ、苦労していない事はないだろう」
 そう言われ、養父母の事ではなく、三歳の時に別れた親の事だと遅ればせながらにも悟る。今まで一度として言われた事はないが、安斎さんがオレの事を知っているのは当然だ。古椎さん達が話したのだろう。
「両親が死んだ事をよく思っているわけじゃありません。だけど、恨んでなんていません。彼等とボクが一緒に生きていけなかったのは残念ですけれど、両親がいないからといってボクは恵まれていないわけではなかった。ボクは大叔母夫婦に育てて貰ったことを誇りに思っていますよ」
 それを二人に示すことは出来なかったけれど、と。オレはコーヒーを飲む安斎さんを見ながら笑みを作る。上手く言えないこの気持ちが少しでも伝わればいいと思う。
 オレは学習塾や習い事を一切しておらず、兄弟もなく、ゲームやパソコンなどの遊び道具も家には少なく、周りの同級生に比べて融通のきく自由な時間がとても多かったと思う。それでも、暇を持て余した記憶はない。あるのは養父母と接した思い出だ。
 養父母の趣味に付き合うのは、オレにとっても楽しい時間だったと今なら思う。当時は、つまらないだとか、不満に思うことも多少はあったが、嫌ではなかった。基本、オレは人に構われるのが好きだった。けれど、性格的に遊んでくれと強請るような子供でもなかったので、アレはアレで理に叶った結果だったのだろう。
 周りの友達の家庭とは少し違ったが、オレは育った環境に不満を覚えた事はないし、養父母を疎んだ事もない。それでも、思春期特有の反抗を示した事もあり、両親を望んだ事もある。だけど。両親がいれば、もっと裕福であったら、などと。上を見ればきりがないものであり、またそれは下でも同じ。両親が居たとしても、苦労したかもしれない。大叔母に拾われなければ、オレは今生きていないかもしれない。そんな風に、たらればで振り返っても、どうしようもないから。だから、事実だけを考えれば、オレは不幸なわけでも、損をしているわけでもない。両親であれ誰であれ、人を恨む必要は全くない。
 それと同じように。ここでこうしている今が、いつか遠い過去になっても。
 安斎さんと向き合い食事をする楽しさや、言葉を交わす安心感などは変わりはしないのだ。昨夜、この人はオレに恨めと言ったけれど。変わらない限り、恨む理由がオレにはない。
「ボクの今までの人生は、パーフェクトには程遠いのでしょうが。誰にも譲りたくない程には、大切に思っています」
 勿論、貴方に会えたこともですよ。
 付け加えたオレの言葉に、安斎さんは参ったなと口元を手で覆い、目を細めた。

 寒かった二月も終わり、三月に入った。あと数日もすれば、オレは二十二になる。
 優しい男の目を見ながら、自分は大人になれているのだろうかと思う。
 養父母のように、安斎さんのように。オレは誰かを愛しむことが出来るのだろうか。

2008/05/12
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