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身体を重ねたからといって、何も変わりはしなかった。あの日からも、あの日までと変わらず、安斎さんは安斎さんである。多少の接触以上の事はしない。あの夜をネタにからかう事もない。オレも、不思議と意識をしない。初めて腰を抱かれた後など、ただ傍に立つだけでいつその腕が延びてくるのかと緊張していたというのに。
全く、変わらなかった。
だが、変わってもいたのだろう。
「組長と何かあったか?」
「何かって、何ですか?」
「だから、それを聞いているんだ」
白名さんに顔を顰められても、とっさには何も浮かばなかった。よく考えてみろと言われて思い当たるのは、幾日も前の夜の事だけなのだけれど。あれから何日も経っていて、その間に安斎さんとは何度も会っていて。今更ながらに指摘されるのはおかしいだろう。
だったら何の事だろうともう一度考えてみるが、やはり思いつかない。
「どうかしたんですか?」
自分は何か失敗をしたのかとオレは問うが、そういうのではないと白名さんは首を振り、眼鏡を外した。レンズを拭きながら「何となく、だ。俺の勘もたまには外れると言う事だ」と苦笑した。だが、その顔は全然納得したようなものではなかった。
誕生祝いということで、一昨日、水族館に連れって貰った。ペンギンの前で立ち止まり続けたオレを安斎さんは笑っていたのだけれど、オレとしてはこんなところで遊んでいて良いのかと疑問ばかりが浮かんだものだ。
直接は言われないけれど、事態は動いているのだと思う。安斎さんが何をしているのかは知らないが、安全な事はしていないのだろう。オレに接する和やかさは嘘には思えないけれど、表面的だと感じてしまう。それは、白名さんも同じ。いつからか、接するほどに、確かにある彼等との距離をオレは頭の片隅で覚えている。
「古椎さんはお元気ですか?」
「ん?」
「最近、お会いしないので」
三日と空けずに顔を合わせていたのに、この十日ほど電話でも話していない。白名さんがオレと安斎さんのことに気を揉む理由が、そこにあるのだろうか。水の中で眠っていたアザラシを指差していた、必要以上にゆったりしていた安斎さんを思い出す。
「ああ、そうだな。バタバタしているな。昨夜戻ってきていたが、明日にはまた出掛けるはずだ。ここには寄れないんじゃないかな」
「お忙しいんですね」
「何だ。もしかして、淋しかったのか?」
「違います」
「だが、気にしていたんだろう? なら、聞けばよかったんだ。変な奴だな」
肩を竦めた白名さんに、オレは小さく笑いを返す。
この人はよく、聞けばいいというけれど。聞けることと聞けないことがある。オレは今が大切だから、自ら壊してしまうかもしれない危険は冒せない。軽はずみには、足を踏み入れられない。それを白名さんもわかっているはずなのに、それでも簡単に言うのはどうしてなのか。言えないことならば絶対に言いはしないだろうに。自分はそのスタンスを崩さないのだろうに。
オレは、教えられない事じゃなく。拒絶される事が嫌なのだ。
だから、本当の意味で。
聞けることなんて殆どない。
話題に上げたからか、その夜に古椎さんがやって来た。既に自室のベッドに潜り込んでいたのだが、オレは物音に起き出し予感と共にリビングへ向かった。忙しいはずなのにと思いつつ、お疲れ様ですと呼び止めるように顔を出す。後何分かで、午前二時。この時間の訪問を考えれば、相手がオレとの遭遇を予想していたとは思えない。
「起こしたか」
「いえ」
「忙しくて遅れたが、渡しておこうと思ってな」
そう言いながら、古椎さんはテーブルに置いていた紙袋を取り、オレへと差し出した。
「何ですか?」
「先月は、お前の意見を訊いた」
「先月?」
「リクエストはなかったから、好きそうなのを選んだ」
「ボクに、ですか?」
「たいしたものじゃないが。誕生日、だっただろう」
笑うでも怒るでもなく、いつもの表情の古椎さんとオレへの誕生日プレゼントらしいモノを交互に眺め、オレは何も考えられないままゆっくりと手を上げそれを両手で受け取った。意外に重く、腕で抱える。
「……ありがとうございます」
喜んでいいところのはずなのに、何故か心は凪いでいて。静かに吐き出すように伝えたそれを、古椎さんは何も言わずに受け取り、「寝ろ」と言って俺を自室へ促した。接見は五分にも満たない。夢より短い。
もう一度礼と休む挨拶を口に乗せ、ベッドに戻って重いそれを抱きしめたまま寝転がり、暫く経って漸く、古椎さんもオレの誕生日を知っていたんだなと思う。だから、バレンタインでは物を贈るのを止めたと言う事か。だけど、そもそもオレなんかに何をしたいのか。おかしなものだと思いながらも、どんどん事態が見えてきて、ドキドキと鼓動が早くなる。
安斎さんにも祝ってもらったけれど、それとこれとはまた違う。
あの古椎さんが、忙しい中わざわざオレへのプレゼントを選んでいたことが。こうして夜中にもかかわらず渡しに来たことが、とても凄いことに思えて、驚きが一気に湧き上がる。何がそうなるのかわからないけれど、とてつもなく恥ずかしい感じで、じっとしていられない。
興奮している自分を持て余し、ベッドでゴロゴロし続け。やっと思い出し、ナイトスタンドを点し袋の中を覗く。
重かったのも納得だ。古椎さんがくれたのは、図鑑のような写真集が三冊。
空と海と星。
開いたページに浮かぶ三日月を中指でゆっくり辿りながら、オレは笑いたいような泣きたいような妙な感覚に襲われる。
眠るなんて、無理だ。
時間が経っても燻り続ける興奮に、睡魔は押しやられてしまった。それでも、窓の外が明るくなりはじめるまでは我慢し、不可思議な感覚に漂い、オレは眠る事は不可能だと見切りをつけベッドを抜け出す。
疲れているのだろうに、古椎さんはリビングのソファで横になっていた。寝室や客間が空いていても、この人はいつもここを使う。多分、休みはしても寝入る気はないのだろう。誰かが来たら直ぐに起きるつもりでここを選んでいるのだ。
キッチンへと向かうつもりで踏み出した足は、何故か数歩も行かないうちに止まる。離れたところから眺めるだけでは満足出来ないと言うように、確かな足取りでオレの身体はソファへ向かった。ゆっくりと近付き膝を折り、眠る男を見下ろす。
唐突に、キスをしたいと、そう思った。その瞬間には、何も考えられなくなっていた。
引き寄せられるようにではなく、オレは自分の意志で。古椎さんの顔を上から覗き込み、気付いた時には唇を重ねていた。
数秒の接触。乾ききっていた唇は、抵抗もなく離れる。
ゆっくりと身体を戻した後で、古椎さんの目が開いていて、真っ直ぐとオレを見ている事に気が付く。
「…………」
沈黙は、暴力のようで。
「…………済みません」
言える言葉など謝罪の他にはなく、もう二度としませんとの誓いと共に頭を下げる。冗談だと、笑える芸当は俺にはなかった。
確かに感じた温もりは、一瞬にしてオレの中から消えた。
2008/05/14