| 30 |
何も知らされぬまま古椎さんに連れて来られたのは、意外な事に病院だった。車を降りて後に続き、エレベーターに乗って病棟に足を踏み入れても何も言わない男に、オレは同じく何も言わずに従う。訊ねるタイミングを逃しているというよりも、口を開くのを躊躇っている。
古椎さんとは、相変わらずだ。少し前にぎこちなかったのを思えば、普通といえるくらいに普通で、キスをした事実などどこにもないかのようだ。だが、オレ自身はなかった事には出来なくて、常に頭の隅に記憶が燻っている。意識して緊張なんかをしているわけではないけれど、今までなら踏み出せた一歩を躊躇している。
怯えるのは、相手にではなく自分自身にだ。考えもせず唐突にとった行動が、再び起こることをオレは畏れている。制御できない衝動は、オレの望むものではない。
数十センチの距離で隣に並ぶ男を感じ、安斎さんの愛人役をこなし始めた時の事を思い出す。スキンシップに慣れていない時は、いつその手が伸びてくるのか、嫌ではないのに構えて考えていた。古椎さんの手が触れてくる事はない。けれど、オレはあの時と同じように意識している。
オレは、古椎さんを気にしているのだ。だけど、何を気にしているのかは、正直よくわからない。
馬鹿なことをした自覚はあるけれど、アレで嫌われたとは思わない。古椎さんにとって、触れるだけのキスが何かの原因になっているようには思えない。現に、古椎さん自身には、あの時までとあの時からの違いは見えない。変わっていない男には、何も気にする部分がない。
それなのに、何故か気になる。古椎さんがなかった事にしたのなら、それ以上どうにもならないのに。オレ自身、どうにかしたいわけでもないのに。この事態がしっくりこないと思うのは、どこかに誤差があるからだ。
それは、多分、古椎さんではなく。オレ自身にあるのだろうけれど。
それさえ、オレにはわからない。
どうしてキスなんてしたのか。したいと思ったから以上のものはなく、何故そう思ったのかに理由はない。
だけど、オレはそうであっても。古椎さんはアレをどう処理したのだろう。悪戯だとでも思ったか、考える必要もないと切り捨てたのか。言及されないことをありがたく思っているのに、平然としている男が少し憎くもある。
理性では説明つかないこんな感情がある限り。オレは、前のようには踏み出せない。
見張りの男に目配せだけの挨拶をし、古椎さんはオレを特別室らしき病室の中へと促した。室内の入口にも男が二人立っていて、オレは軽く頭を下げながら見覚えがあるなと記憶を探る。
それもそのはずだろう。ベッドの上に居たのは安斎さんだった。
「来たか、飛成」
「え…? ァ……」
ニヤリといった笑みを向けられたが、心底驚いたオレは喉が詰まって、どうしたんですかとも聞けない。立ち尽くすオレを、安斎さんが手招きで呼ぶ。だけど、肺から空気が抜けて痛むように胸が苦しくて、直ぐには反応出来ない。
病院の閉塞間が、オレ自身をも押し潰すようだ。
「病気でも怪我でもない、パフォーマンスだ」
パフォーマンス…?
「……大丈夫、なんですか?」
「ああ。そんなに驚いてくれるとは、嬉しいねぇ」
笑った安斎さんが、それでも「悪かった」と謝罪を口に乗せるのを噛み砕き、オレは漸く細い息を零す。肩の力が抜ける。
揺れる指に漸く従い、オレはベッドへと近付いた。安斎さんは手を伸ばし、オレの手首を取る。
「脈まで速い」
当たり前だ。心臓が止まるかと思ったのだから。
こんな豪華な部屋でも、ベッドでもなくて。安斎さんと彼らは似ても似つかないのだけれど。オレは病院の雰囲気とあまりの驚きに、頭がこんがらがり、そこに過去を見てしまった。亡くなった養父母を今に映したのだ。脈も速くなる。
病院は、オレにとっては鬼門だ。
「…本当に、何でもないんですか?」
「ああ。少し訳ありでな、ここで軟禁状態だ」
「ビックリしました」
ふぅっと溜息のような大きな息を肩でついたオレを、安斎さんは喉で笑いながらも宥めるように、大きな手でオレの腕を撫でる。その手が後ろに回り、背中を叩いてきたところで、オレは気持ちを整え質問する。
「それで、ボクは何を?」
理由は知らないが、ここに篭っているらしい安斎さんがオレを呼び出したのはどうしてなのか。
引き寄せられそうになるのを、身体の間に腕を入れることで阻止をする。嫌な驚きの余韻がオレの中には残っていて、からかいを受ける余裕はない。だが。
安斎さんの肩に置いた手を簡単に取られ、あっと思う間もなく身体を倒される。ベッドの上で座る安斎さんの上に仰向けに寝転がるように。足は床のままで、背中の下には安斎さんの脚があって、腕は押さえられていて。
「暫く会えそうにない」
覗き込むように見下ろし、オレの髪を梳きながら安斎さんは言う。何て間抜けな格好だと思うが、起き上がるのは難しく、そのままの姿勢でオレは首を傾げる。
「ずっとこちらに?」
「いや、寝てばかりもいられない。ちゃんと仕事をしないとな、私も怒られる」
つまり。忙しくなるのでオレを構う時間がなくなると言う事だ。だけど、そんなこと、わざわざ面と向かって言わずとも電話で良いのに。しかも、こんなところへ呼び出さなくともいいのに。そう思いつつ、オレはおかしな姿勢のまま、安斎さんを見上げ深く頷く。腰が痛いが、我慢だ。多分、抵抗すれば更に遊ばれる。ベッドに入っていても病人ではないので、オレに勝ち目はない。
「わかりました」
「古椎と白名の指示に従え。間違っても、知らない奴には付いていくな。おかしいと思わなくとも、予定通りでない時は二人に確認しろ。寂しかったら、私に電話をかけてもいいぞ?」
「はい」
「お前と一緒に花見へ行こうと思っていたんだがなぁ、残念だ」
姿勢の辛さに気付いたのか、あっさりと抱き上げるようにオレの身体を起こした安斎さんが、本当につまらなさそうな声でそんなことを言う。ヤクザも、桜の木の下で宴会などをしたりするのだろうか。いや、安斎さんならば、料亭の庭からの花見かもしれない。どちらにしろ、期待はおろか想像さえしていなかったのに、行けないと言われてオレもまた残念に思う。
桜前線は今どこまで来ているのか。まだチラホラとしか咲いていない東京の桜を思いながら、オレは立ち上がりジャケットの皺を伸ばした。安斎さんの手が伸びてきて、襟元を正してくれる。
暖かな春の日差しが病室に差し込み、安斎さんとオレを優しく包んでいた。
2008/05/14