| 31 |

 オレは自惚れていたのかもしれない。愛人という座に、胡座をかいていたのかもしれない。
 安斎さんが治める組織の中で、オレはただその役目に付けられただけであるというのに。どこかで奢っていたのかもしれない。本物の愛人になったつもりは決してなかったが、愛されていると誤解していたのだ。
 突然の解雇に、こんなに動揺してしまうくらいに。

 桜が咲き始めた頃に、暫く会えないと安斎さんに宣言された。その時は、忙しいのだろうと思った程度で、何の疑問も持たなかった。安斎さんと会わなければする事も少なく、好きに出歩いても構わないと言われていたが、部屋でゆったりと時間を過ごした。一週間は、何も考えもせず普通に過ごした。二週間目に、古椎さんも姿を見せない事に気付き、不安を持った。何かあったのだろうかと。そして、三週間目に、その何かに思い当たる。
 自分の想像が正しいと証明されたのは、白名さんが久し振りに訪問してきた時だ。
「伊庭。お前の役割はもう終わりだ」
 今日から晴れて自由の身だぞと、口角を上げた白名さんだが。その目は全然笑ってなどおらず、どちらかといえば冷めたものだった。しかし、それ以上に、俺の顔から血の気が失せる。
 与えられた長い時間で、予感はしていた。だが、実際には想像なんて出来ていなくて、愕然となる。
「どうして…」
 言葉をなくしたオレに、「どうしてもこうしてもないだろう」と白名さんが肩を竦めた。
「必要なくなったから、その任を解くだけだ」
「……だったら、ボクは…?」
「お前はもとから組員じゃないだろう。好きにしろ」
「……」
「それとも、組に入りたいとでも言うのか?」
「…………」
「夜逃げした家族を捕まえて来いと行っても、お前は出来ないだろう? それとも、上納するだけの稼ぎを上げられる才腕がお前にはあるのか?」
「……役には立たないから、出て行けと言う事ですか?」
「出来る事があるのなら、居ても構わないが。今までとは扱いが変わるのを覚悟しておけ」
「…………」
 譲歩するような言葉であるが、白名さんの声は全くオレを認めていなかった。居ても構わないと言いながらも、居る場所は与えないと言っているようなものだ。
 意味がわからない。
 立って居る事が出来なくて、ソファに腰を下ろす。もう二度と立ち上がれないんじゃないかと思うくらいに、身体が沈む。気付けば手が震えていて、抑えるために握り合わせたが、腕も身体も揺れている。深く息を吸い込もうと思うが、上手く出来ない。肩が上がるばかりだ。
「言っていなかったが、お前が襲撃された件のカタは付いている。もう狙われる事はない。だから、安心して出て行けばいいんだ伊庭」
「……」
 安心もなにも。
 安斎さんの愛人だから、オレは注目されたのだ。そうでないのなら、狙われる理由がない。だから、ただそれだけのことじゃないかと考え、だったら今度は誰がターゲットになるのだろうかと思う。安斎さんが本気で大事にしているものが標的になっては拙いだろう。そう、だから。オレのようなダミーが新たに作られているのかもしれないと思い当たる。
 襲われたあの冬の日以降、安斎さんがここで泊まった夜はないんじゃないだろうか。今更ながら、もう随分前から切られようとしていたのだと気付く。オレはとっくに、愛人役を降ろされていたのかもしれない。
「…………オレは、何か失敗をしたんですか…?」
「さあな」
 カチリと上がる小さな音に首を回すと、白名さんが煙草を咥えていた。喫煙しているのを見るのは初めてだ。
 愛人役であったから、安斎さんのものであったから、匂いを移さないようオレの前では吸っていなかったのかもしれない。そして、今はもう、そんな気を回す必要はないと言う事なのだろう。
 白名さんとの距離が急速に遠くなる。漂う紫煙が、つい先程までは確かにあったオレの存在意義を朧にする。
 いつかは、と。オレだって、思っていた。いつまでもここには居られないのだと、わかっていたし、言われてもいた。だけど、こんなにも急に、唐突に切られるなど考えていなかった。考えられなかったのは、オレの甘さもあるだろうけど。誰も、そんな風にオレを扱わなかったからだ。
 段階を踏んで、円満な別れが来るのだとも思っていなかったけれど。
 この一年をなかったかのように捨てられるなんて。
 愛人役を取り払ったただの伊庭飛成には、気を回す必要も何もないと言うことか。
 安斎さんがここに居ない事が、どうしようもないくらいに辛い。
「…上手く、やっていたつもりです」
「悔しがっているようだし、そうなんだろうな。だが、それはお前の感情であって、実際にどうであったのかには関係ない」
「…………」
 白名さんの言う事は尤もだ。
 だが、それでも納得出来ないオレを、彼は慰めてもくれる。けれど、それを今までのように優しさだとは思えない。
「伊庭、お前は良くやった。こっちが戸惑うくらい、予想以上に頑張ってくれた」
「だったら、どうして…」
「どうしてかはわからない。だが、組長がお前を切る理由はわかる気はする」
 俺ならば、もっと早くに切っていただろう。
 キッチンへ向かいながら零された言葉に、オレは背中を丸め頭を抱えた。必要なくなったと言って暇を出す者に、遅すぎる判断だったと言うのは残酷だ。それは、頑張ってはいても役には立っていなかったと言う事じゃないのか。言うのなら、もっと早く修復可能な時に指摘して欲しかった。そのままでは切られるぞと、注意して欲しかった。教えてくれていたのなら、オレはもっと上手くやれたのかもしれないのに。
 いや、そんなのはもうどうだっていいのだろう。オレの優劣はもう関係なく、これは決まった結果なのだ。この結果は、オレが望んだものじゃない。だったら、間違ったのは、失敗したのはオレだ。白名さんが悪いわけではない。勿論、安斎さんや古椎さんが悪いわけでもない。
 悪いのはオレだ。だから、これはオレが甘んじて受けるべき罰だ。あの時犯した罪が、ここに繋がっていたのだ。この苦しさは、辛さは、自業自得だ。
 言い聞かせるように、頭で繰り返す。だけど、叫ぶ心は静まらない。子供のように、オレの全身は嫌だと訴える。
 理屈を並べても、どうにもならないくらいに、ここを出るのは嫌なのだ。
「間違ったのは、俺達だ。お前じゃない」
 いつの間に側に来たのか。声は頭の上から降ってきた。
「……意味が、わかりません」
「それでも、事実はそうだ。だから、お前は俺達を恨めばいい。自分を責める必要は一切ない」
「…………」
 同じ言葉を、いつだったか誰かに言われた。
 散漫する思考で記憶を探り、安斎さんだと思い出す。あの時、安斎さんも同じように、恨めと言った。
 だけど。
「……無理です。そんなの、無理だ…」
 無茶苦茶だと、オレは震える唇を噛み締め嗚咽を漏らす。涙を落としたくはなくて、滲む視界で床を睨む。だが、瞬きせずとも重力に引かれ、それは床へと落ちていく。
 何故自分が泣くのか、正直よくわからなかった。悔しいのか悲しいのか、何もわからない。

 わかるのは、オレはまた居場所を失ったという事だけだ。

2008/05/19
| Novel | Title | Back | Next |